第53話 帰るまで待てない
水泳勝負が終わったあと、美咲はしばらくプールの壁へ掴まったまま動かなかった。
競争で疲れたからではない。
悠真から頼まれたことを意識してしまい、顔をまともに見られなくなったのだ。
『帰ったら、私からする』
自分で口にした約束が、頭の中で何度も繰り返される。
悠真へキスをする。
それ自体が初めてというわけではなかった。
付き合う前、膝の上で眠っている悠真の額へ、衝動的に唇を触れさせたことがある。
だが、あのとき悠真は眠っていた。
起きている彼へ、自分からキスをするのは初めてになる。
「美咲」
名前を呼ばれ、肩が大きく跳ねる。
「何?」
「そろそろ出る?」
「もう?」
「勝負が終わってから、ずっと黙ってるから」
「少し休んでるだけ」
「息はもう整ってるだろ」
「……悠真くんのせいだよ」
「俺、何かした?」
「お願いしたでしょう?」
美咲は口元まで水へ沈める。
水面に隠れていても、頬が赤いことまでは隠せていなかった。
「帰ってからのこと?」
「言わないで」
「さっきも言ったけど、嫌なら変えていいよ」
「嫌じゃないから困ってるの」
「じゃあ、何が困るんだよ」
「どんなふうにすればいいか分からない」
美咲は水の中で自分の指先を合わせる。
「いつも悠真くんがしてくれるときは、目を閉じて待ってればいいけど。自分からだと、どのタイミングで近づけばいいのかも分からないし」
「俺も最初は分からなかったよ」
「でも悠真くんは上手だった」
「そう?」
「うん」
美咲は小さく頷く。
「優しくしてくれたから、怖くなかった」
その言葉に、悠真の表情が僅かに緩む。
「なら、美咲も普通にすればいい」
「その普通が分からないの」
「顔を近づけて、触れればいいんないだろ」
「説明が簡単すぎるよ」
「実際、それだけだから」
「それだけでも緊張するの」
美咲が困ったように眉尻を下げる。
悠真はその表情を見つめたあと、プールの壁から手を離した。
「じゃあ、今練習する?」
「ここで!?」
美咲が勢いよく顔を上げる。
声が大きくなり、近くを泳いでいた利用者が一瞬こちらを見た。
美咲は慌てて口元を手で隠す。
「む、無理だよ。人がいるでしょう?」
「本当にするんじゃなくて、近づくところまで」
「それも恥ずかしい」
「じゃあ、帰るまで我慢するしかないな」
「……うん」
美咲は納得しながらも、どこか落ち着かない表情だった。
「でも、まだ帰らないよね?」
「せっかく来たんだから、もう少し遊ぼう」
「よかった」
美咲は壁から手を離し、悠真の隣へ寄る。
「次はどこに行く?」
「滑り台は?」
悠真が館内の奥を示す。
曲線を描く二本のウォータースライダーが、二階ほどの高さからプールへ伸びている。
「美咲、苦手?」
「大丈夫だよ。遊園地の絶叫系は少し怖いけど、このくらいなら」
「じゃあ行こう」
悠真が手を差し出す。
美咲は迷わずその手を取った。
◇
ウォータースライダーの入口へ続く階段には、十人ほどの列ができていた。
二人は最後尾へ並ぶ。
濡れた床で滑らないように、美咲は悠真の腕へ手を添えていた。
「一人ずつ滑るんだね」
列の先を見ながら、美咲が呟く。
「二人一緒の方がよかった?」
「その方が、少し安心できたかも」
「この長さならすぐ終わるよ」
「分かってるけど」
美咲は階段の上から、着水地点を見下ろす。
下から見たときより高く感じるのか、表情に少しだけ不安が浮かんでいた。
「やめる?」
「やめない」
「無理しなくてもいいよ」
「悠真くんが下で待っててくれるなら大丈夫」
「分かった。俺が先に滑る」
「うん」
列が少しずつ進む。
やがて悠真の順番が来た。
「先に行ってる」
「ちゃんと出口で待っててね」
「分かってる」
「私が遅くても、どこかへ行かないで」
「行かないよ」
悠真が滑り台へ身体を預ける。
すぐに水の流れへ押され、視界から消えた。
数秒後、着水地点へ飛び込む。
水面へ上がると、係員から先へ進むよう促された。
悠真は出口付近まで移動し、美咲が下りてくるのを待つ。
しばらくして、上から小さな声が聞こえた。
水色の水着が滑り台から飛び出し、水しぶきの中へ消える。
しかし、すぐには顔が上がらなかった。
「美咲?」
悠真が一歩近づく。
次の瞬間、美咲が水面から顔を出した。
目を閉じたまま咳き込んでいる。
「大丈夫?」
悠真はすぐに腕を伸ばし、美咲の身体を支えた。
「少し、水飲んだ……」
「立てる?」
「うん。でも、ちょっと待って」
美咲は悠真の肩へ両腕を回す。
先ほど流れるプールで支えたときより、強く抱きつく形になった。
悠真は片腕を背中へ回し、もう一方の手で水に濡れた髪を顔から払う。
「無理して滑らなくてもよかったのに」
「悠真くんと一緒にやってみたかったから」
「途中で怖くなった?」
「少しだけ。最後に目を閉じたら、着水するところが分からなくなったの」
「怪我してない?」
「してないよ」
「本当に?」
「うん」
美咲の呼吸が落ち着くまで、そのまま身体を支える。
周囲では、次の利用者が次々に滑り下りている。出口に立ち続けていれば邪魔になるため、二人は端へ移動した。
水深は浅く、足は十分に届く。
それでも美咲は、悠真の肩から腕を離さなかった。
「もう立てるだろ」
「あと少し」
「今日はそれが多いな」
「怖かったんだから、これくらいいいでしょう?」
「別に嫌とは言ってない」
悠真が答えると、美咲は顔を上げる。
すぐ近くから、濡れた瞳が悠真を見つめた。
「心配した?」
「当たり前だろ」
「どのくらい?」
「顔が上がってこなかったときは、かなり」
「ごめんね」
「謝らなくていい」
「でも」
「無事なら、それでいいよ」
悠真は美咲の頬へ残っていた水滴を、親指で軽く拭う。
美咲の瞳が僅かに揺れた。
「……優しくされると、したくなる」
「何を?」
「言わない」
「帰ってからの約束?」
美咲は答えず、悠真の胸元へ顔を隠した。
その反応だけで十分だった。
「ここでは駄目だぞ」
「分かってる」
「人も多いし」
「分かってるけど……」
美咲は胸元へ額を預けたまま、小さく息を吐く。
「帰るまで、まだ長いね」
「もう帰る?」
「それは嫌。もっと遊びたい」
「じゃあ我慢」
「悠真くんは平気なの?」
「平気じゃないけど、我慢してる」
「……そっか」
「何で嬉しそうなんだよ」
「私だけじゃないから」
美咲はようやく身体を離した。
頬は赤いが、先ほどまでの不安そうな表情は消えている。
「もう一回滑る?」
悠真が尋ねる。
「今度は悠真くんが後ろから来てくれる?」
「一人ずつしか無理だろ」
「じゃあ、今日はもういい」
「次は?」
「あっちの温かいプールに行きたい」
美咲が指差したのは、館内の端にある温水の休憩スペースだった。
二人は再び手をつなぎ、そちらへ向かった。
◇
温水プールは、外のプールよりも静かだった。
湯気が薄く漂い、水温も高い。
二人は並んで段差へ腰を下ろし、肩まで水へ浸かる。
「お風呂みたい」
美咲が気持ちよさそうに目を細める。
「泳いだあとだから余計に温かく感じるな」
「悠真くん、肩は痛くない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「触ってみる?」
「ここで?」
「動かしても平気だって意味」
「あ……」
美咲は自分が何を想像したのか、少し顔を赤くした。
「どうした?」
「何でもない」
「変なこと考えた?」
「悠真くんに言われたくない」
「俺は何も考えてない」
「今は?」
「今は、少し」
「何を?」
「美咲と一緒に風呂に入ったら、こんな感じなのかなって」
美咲の身体が固まる。
「な、何を考えてるの?」
「美咲が風呂みたいって言ったから」
「それだけ?」
「それ以上は考えないようにしてる」
「考えないで」
「分かってる」
悠真は温水の揺れる表面へ視線を落とす。
「でも、全く意識するなっていうのも無理だろ」
「……うん」
美咲は少し迷い、悠真のすぐ隣へ座り直した。
水の中で肩が触れる。
「私も、少し考えたから」
「一緒に風呂に入ること?」
「声に出さないで」
美咲は周囲を確認し、誰も聞いていないことを確かめる。
「いつか、そういうこともあるのかなって思っただけ」
「いつかって?」
「ずっと先」
「何年後?」
「分からないよ」
美咲は顔を赤くし、両手で水をすくう。
「でも、今は無理」
「俺も今は無理だと思う」
「悠真くんも?」
「理性を保つ自信がない」
「……それ、どういう意味?」
美咲が警戒するように少し離れる。
「言葉どおり」
「何をするつもりなの?」
「何もしないために、一緒に入らない方がいいって話だよ」
「そ、そうだよね」
美咲は安心したような、それでも少し落ち着かないような表情を浮かべる。
「私も、悠真くんのことは信じてる」
「ありがとう」
「でも、高校生の間は別々にしようね」
「当然だろ」
「旅行に行ったとしても」
「旅行の予定あるの?」
「今はないよ。例えばの話」
「美咲の方が先のことを考えてない?」
「違うの!」
美咲は水面を叩き、小さな水しぶきを悠真へ飛ばす。
悠真は避けずに受けると、同じように水を返した。
「ちょっと、顔にかかった!」
「先にやったのは美咲だろ」
「髪が崩れるでしょう?」
「もう濡れてる」
「そういう問題じゃないの」
美咲も負けじと水を飛ばす。
二人は周囲の迷惑にならない程度に水を掛け合い、最後には同時に笑った。
甘い空気は消えていた。
だが、これくらいが今の二人にはちょうどよかった。
◇
昼食は、館内の休憩スペースで食べることになった。
悠真は焼きそば。
美咲は小さなサンドイッチとスープを選んだ。
向かい合って座りながら、美咲は何度も悠真の方を見ている。
「足りる?」
悠真が尋ねる。
「何が?」
「昼食。それだけで」
「大丈夫だよ」
「泳いだから、お腹空かない?」
「少しは空いてるけど」
「なら、焼きそば食べる?」
悠真が容器を差し出す。
美咲は自分の箸を持っていないため、悠真の割り箸へ視線を向けた。
「食べさせてくれる?」
「ここで?」
「恋人らしいこと」
「今日は帰ってから美咲がするんじゃなかった?」
「それとは別です」
「追加?」
「追加はいくらあってもいいって言ったでしょう?」
美咲は少し恥ずかしそうにしながら、口を開ける。
「はい」
「自分で言うんだ」
「早くして。ずっとこのままは恥ずかしいから」
悠真は焼きそばを少量だけ箸で取り、美咲の口元へ運んだ。
美咲はそれを食べ、ゆっくりと噛む。
「美味しい?」
「うん」
「普通の焼きそばだけど」
「悠真くんに食べさせてもらったから」
「味は変わらないだろ」
「変わるよ」
美咲は満足そうに笑う。
「今度は私から」
「何を?」
美咲は自分のサンドイッチを一つ持ち上げ、悠真の口元へ差し出す。
「はい」
「手で?」
「サンドイッチだから仕方ないでしょう?」
悠真は差し出されたものを一口かじる。
その瞬間、美咲の指先が唇へ僅かに触れた。
美咲の肩が小さく跳ねる。
「ご、ごめん」
「別に」
「指、当たった」
「うん」
美咲は自分の指先を見つめる。
次第に頬が赤くなっていく。
「どうした?」
「何でもない」
「また変なこと考えた?」
「悠真くんの唇に触れたなって思っただけ」
「キスしてるのに、今さら?」
「それとこれは違うよ」
「どう違うんだ?」
「不意打ちだったから、びっくりしたの」
美咲は言い訳するように答える。
その指をナプキンで拭こうとし、途中で止めた。
「……美咲」
「何?」
「何で拭かないの?」
「今から拭くよ」
「顔が赤いけど」
「見ないで」
美咲は慌てて指先をナプキンで拭く。
その様子を見ながら、悠真は焼きそばを口へ運んだ。
付き合う前より、触れる機会は増えている。
それでも、ほんの小さな接触に互いが動揺する。
慣れるには、まだ随分と時間がかかりそうだった。
◇
午後はもう一度流れるプールへ入り、そのあと浮き輪を借りてのんびりと過ごした。
美咲は悠真の浮き輪を後ろから押したり、反対に引っ張られて流されたりしながら、何度も楽しそうに笑った。
気づけば、時刻は午後四時を過ぎていた。
「そろそろ帰ろうか」
悠真が言うと、美咲は少し残念そうにプールを眺めた。
「もうそんな時間?」
「朝からいたからな」
「まだいられるけど」
「疲れてるだろ」
「悠真くんは?」
「俺は平気」
「じゃあ、もう一周だけ」
「それで最後な」
「うん」
二人は最後に流れるプールを一周し、更衣室へ向かった。
入口の前で手を離す。
「さっきの約束、覚えてる?」
悠真が尋ねる。
美咲の顔がすぐに赤くなった。
「確認しないでって言ったよね?」
「忘れてないかと思って」
「忘れるわけないよ」
「帰ってから?」
「うん」
「俺の部屋?」
美咲は少し迷い、首を横へ振った。
「今日は、私の部屋に来て」
「美咲の?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
悠真は、美咲の部屋でキスをする場面を想像しかける。
場所が変わるだけ。
それなのに、普段より緊張する気がした。
「どうして美咲の部屋?」
「今日は夕食、私の方で作ろうと思って」
「それだけ?」
「それだけです」
答えながら、美咲は視線を逸らした。
他にも何か考えているように見える。
「悠真くん」
「何?」
「着替え終わっても、先に帰らないでね」
「待ってるよ」
「絶対だからね」
「置いていくわけないだろ」
「うん」
美咲は嬉しそうに微笑み、女性用更衣室へ入った。
悠真も男性用の入口へ向かう。
帰宅すれば、美咲からキスをしてもらう。
その約束を意識しないようにしていたが、結局、更衣室へ入ってからも頭から離れることはなかった。
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