第45話 告白の練習なんて、するものじゃない
翌朝、悠真はいつもより十分早く目を覚ました。
枕元に置いたスマートフォンへ手を伸ばし、時刻を確認する。午前六時二十分。アラームが鳴るまで、まだ少し時間がある。
二度寝しようと思えばできた。
けれど、目を閉じた途端、昨日の美咲の顔が浮かんでくる。
『ちゃんと告白して』
唇が触れそうな距離で、頬を赤くしながらそう言った美咲。
あのときの柔らかな息遣いも、逃げるように伏せられた瞳も、妙に鮮明に記憶へ残っていた。
悠真は小さく息を吐き、布団の中で寝返りを打つ。
自分の気持ちは、もう分かっている。
美咲が好きだ。
そばにいてほしい。
自分以外の誰かの隣で笑う姿を見たくない。
触れたいし、触れてほしい。
その気持ちを、恋ではないと否定する方が難しかった。
あとは伝えるだけ。
言葉にすれば済む。
それなのに、その「だけ」が思っていた以上に難しい。
「……好きです。付き合ってください」
試しに、誰もいない部屋で口にする。
声が硬い。
まるで教科書の文章を読んでいるようで、自分の言葉には聞こえなかった。
「美咲のことが好きだ。俺と付き合ってほしい」
先ほどよりは自然だ。
だが今度は、少し上から目線に聞こえる気がする。
「美咲がいないと生きていけない」
これは違う。
生活能力だけを考えれば、あながち嘘ではないところが余計によくなかった。
「これからも毎日、俺に料理を――」
途中で止める。
「作ってもらう前提になってるな」
恋人ではなく、家政婦になってほしいと言っているようにしか聞こえない。
悠真は布団から起き上がると、左手で前髪を掻き上げた。
これまで、数えきれないほどの台詞を覚えてきた。
長い独白も、感情的な告白も、泣きながら別れを告げる場面も演じたことがある。
監督が望む声の震え方や、カメラに最も綺麗に映る顔の角度まで知っている。
けれど、自分の言葉を自分の感情で伝える方法だけは、誰からも教わっていなかった。
演技なら、いくらでも上手くできる。
美咲を見つめ、優しく微笑み、彼女が喜びそうな言葉を並べることもできる。
だが、それでは意味がない。
天宮レイとして培った技術ではなく、水瀬悠真として伝えたかった。
不器用でも、格好悪くても。
自分の本当の言葉で。
ピンポーン。
呼び鈴の音が鳴り、悠真は時計を見る。
六時四十分。
美咲が来る時間だった。
「おはよう、悠真くん」
玄関の扉を開けると、制服姿の美咲が弁当袋を持って立っていた。
「おはよう」
「今日はもう起きてたんだね」
「たまたま早く目が覚めた」
「ちゃんと眠れた?」
「一応」
「肩は?」
「ほとんど痛くない」
「腕、上げてみて」
「ここで?」
「確認するまで信用できません」
美咲は真剣な表情で悠真の右肩を見る。
一週間は自分の命令を聞かせると宣言して以来、毎朝これが習慣になりつつあった。
悠真は右腕をゆっくり上げる。
肩より高い位置まで動かしても、昨日のような痛みはなかった。
「どう?」
「痛くないよ」
「本当に?」
「うん」
「顔をしかめてないね」
美咲は安心したように表情を緩める。
それから湿布の状態を確かめるために手を伸ばし、悠真の部屋着の襟へ指をかけた。
悠真の身体が反射的に強張る。
「自分で見られる」
「昨日もそう言ってたよね」
「もう背中に近いところじゃないから」
「でも、端が剥がれてたら――」
美咲が襟元を少し引く。
細い指が鎖骨の近くへ触れ、悠真は思わず一歩下がった。
「……近い」
「あっ」
美咲も昨日のことを思い出したらしい。
顔を上げたまま動きを止める。
朝の静かな玄関で、二人の距離は互いの呼吸が分かるほど近かった。
美咲の髪から、仄かに甘い香りがする。
制服の襟元から覗く白い首筋と、こちらを見上げる瞳。
視線をどこへ向ければいいのか分からず、悠真は美咲の後ろにある扉へ目を逸らした。
「ご、ごめん」
美咲は慌てて手を離し、後ろへ下がる。
「肩を見ようとしただけで、変な意味じゃないから」
「分かってる」
「本当に?」
「美咲が確認すると言ったんだろ」
「そうだけど……」
美咲は指先を胸元へ引き寄せる。
頬が薄く赤くなっていた。
「もう、自分で確認できるなら任せるね」
「それがいいと思う」
「でも、痛くなったらすぐ言うこと」
「はい」
「今日も体育は見学すること」
「もう大丈夫だって」
「命令です」
「……はい」
悠真が不満を隠さず返事をすると、美咲は満足そうに頷いた。
その後、何かを期待するように、しばらく悠真の顔を見つめる。
「他に何かある?」
「ううん」
「じゃあ、着替えてくる」
「待って」
部屋へ戻ろうとした悠真の袖を、美咲が掴んだ。
「何?」
「昨日の話」
「昨日はいろいろ話したけど」
「その……一週間以内に、ちゃんと言ってくれるっていう話」
「一週間以内とは言ってないよ」
「え?」
美咲の顔から笑みが消える。
「一週間も待たせないとは言ったけど」
「同じじゃない?」
「確かに」
「意地悪しないで」
美咲は少し不満そうに頬を膨らませる。
「ちゃんと考えてくれてる?」
「考えてるよ」
「本当に?」
「今朝も考えてた」
「何を?」
美咲が一歩近づく。
「どこで言うかとか?」
「まあ、それも」
「いつ?」
「秘密」
「今日?」
「言わない」
「放課後?」
「教えない」
「もしかして、今?」
美咲は緊張したように背筋を伸ばす。
弁当袋を持つ手へ力が入り、期待と不安の混じった瞳で悠真を見つめていた。
今ここで伝えることもできる。
いつもの玄関。
二人の関係が始まった場所と言えなくもない。
けれど今、美咲へ告白すれば、朝食を食べ、制服へ着替え、そのまま学校へ行かなければならない。
落ち着いて話す時間もない。
「今じゃない」
悠真が答えると、美咲は分かりやすく肩を落とした。
「そっか」
「そんなに残念そうな顔するなよ」
「してないよ」
「してる」
「期待していいって言ったのは悠真くんでしょう?」
「言ったけど」
「だったら、期待するよ」
美咲は悠真の袖を掴んだまま、少しだけ顔を近づける。
「早く聞きたいって思っても、仕方ないでしょう?」
上目遣いに見つめられ、悠真は返事に詰まった。
美咲が意図してやっているとは思えない。
それでも、こうした仕草を向けられるたびに心臓の鼓動が速くなる。
「……できるだけ早く言う」
「今日?」
「だから秘密」
「じゃあ、明日?」
「美咲、俺が着替えるまで聞き続けるつもり?」
「教えてくれるまで」
「学校に遅れるぞ」
「それは困る」
美咲はようやく袖から手を離した。
「でも、待ってるからね」
「分かってる」
「逃げたら、私から言うから」
「逃げないよ」
悠真が答えると、美咲は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、今朝考えていた台詞がすべて頭から消えた。
結局、どれほど準備をしても、美咲を目の前にすれば予定どおりにはいかないのだろう。
それなら、格好いい言葉を探す必要はないのかもしれない。
◇
「告白する場所?」
昼休み。
孝太郎は購買で買った焼きそばパンを手にしたまま、目を丸くした。
教室には多くの生徒が残っている。
悠真は周囲を確認し、声を抑えた。
「声が大きい」
「悪い。でも、悠真がそんなこと相談してくるとは思わなかった」
「相談する相手を間違えたかも」
「待て待て。俺ほど頼れる男はいないぞ」
「自分で言う人間は信用できない」
「俺が入学初日からどれだけお前を支えたと思ってるんだ」
「主に授業中に話しかけてきただけだろ」
「それも友情だ」
孝太郎は胸を張ったあと、焼きそばパンを一口かじる。
「それで、相手は当然、一ノ瀬さんだよな?」
「……他に誰がいるんだよ」
「確認しただけだ。球技大会から、お前を見てる女子が増えたからな」
「それ、美咲にも言った?」
「言ってない」
「絶対言うなよ」
「一ノ瀬さん、嫉妬するの?」
「するみたい」
「嬉しそうだな」
「そんなことない」
「口元が緩んでるぞ」
悠真は慌てて口元へ手を当てる。
孝太郎がにやにやしながら、その様子を見ていた。
「変わったよな、お前」
「何が?」
「前は何を聞いても興味なさそうな顔してたのに。今は分かりやすい」
「そんなに?」
「一ノ瀬さんが関わると特にな」
孝太郎は焼きそばパンを机へ置き、少し真剣な表情になる。
「いいことだと思うぞ」
「目立つようになったことが?」
「違う。ちゃんと楽しそうにしてることが」
悠真は返事をせず、美咲の席へ視線を向けた。
彼女は菜月と一緒に昼食を食べている。
話の途中で笑い、肩から流れた髪を耳へかける。
以前なら、遠くから眺めるだけで終わっていた。
それが今では、あの笑顔を自分の一番近くで見たいと思っている。
「それで、どこがいいと思う?」
悠真が改めて尋ねると、孝太郎は腕を組んだ。
「放課後の屋上」
「屋上は立ち入り禁止」
「校舎裏」
「呼び出して告白する定番すぎない?」
「夕日の見える海辺」
「この町に海はない」
「夜景の綺麗な高級レストラン」
「高校生がどうやって予約するんだよ」
「注文が多いな」
「もう少し現実的な案はないのか?」
孝太郎はしばらく考え、やがて人差し指を立てた。
「初めて会った場所は?」
「初めて?」
「一ノ瀬さんとちゃんと話した場所。二人の関係が始まったところだよ」
「俺の部屋」
「何があった?」
「学校を休んだ日にプリントを届けに来て、部屋が汚いって怒られた」
「……告白に向いてないな」
「だから困ってる」
「でも、二人らしくはあるんじゃないか?」
孝太郎は笑う。
「無理に綺麗な場所を選ぶより、普段どおりの場所で言う方がお前らしいかもしれないぞ」
「俺らしい?」
「ああ。お前が高級レストランで花束を持って待ってたら、一ノ瀬さんも笑うだろ」
「美咲なら、花より食費に使えって言いそうだな」
「ほら。分かってるじゃん」
確かに、美咲が望んでいるのは派手な演出ではないだろう。
悠真が天宮レイだったことを知っても、サインや過去の作品の話を求めなかった。
昔の自分ではなく、今の自分を選んでくれた。
それなら、水瀬悠真の日常の中で伝えるべきなのかもしれない。
「ただし」
孝太郎が声を潜める。
「自分の部屋で告白したあと、勢いで変なことするなよ」
「変なことって?」
「それを俺に言わせるのか?」
「……しないよ」
悠真が理解して答えると、孝太郎は面白そうに眉を上げた。
「今、少し考えたな」
「考えてない」
「キスくらいはしたい?」
「本人に額へされたことはある」
答えてから、言うべきではなかったと気づいた。
孝太郎の動きが完全に止まる。
「いつ?」
「忘れろ」
「どこで?」
「言わない」
「寝てるとき? 起きてるとき?」
「何でそこまで聞くんだよ」
「お前、それでまだ付き合ってないのか!?」
孝太郎の大声が教室へ響いた。
周囲の会話が止まる。
当然、美咲と菜月もこちらを見た。
「何が、まだ付き合ってないの?」
菜月が席を立ち、近づいてくる。
「いや、何でもない」
悠真は即座に答える。
「佐伯くん?」
美咲も不安そうにやってくる。
「今、何の話をしてたの?」
「それは――」
孝太郎が口を開こうとする。
悠真は左手でその口を塞いだ。
「何でもない」
「むぐっ!」
「本当に?」
「本当」
美咲は疑うように目を細める。
その視線が、悠真と孝太郎の間を往復した。
「もしかして、私に関係あること?」
「ない」
「返事が早すぎるよ」
「気のせいだ」
「最近、それで誤魔化しすぎじゃない?」
美咲は腰に手を当て、悠真を見下ろす。
「一週間は、私の言うことを聞く約束だったよね?」
「今それを使うのか?」
「命令します。何を話していたか教えてください」
「拒否権は?」
「ありません」
悠真は口を塞いだまま、孝太郎を見る。
孝太郎は目だけで「どうする?」と訴えていた。
告白する場所について相談していたなど、本人に言えるはずがない。
「美咲」
「何?」
「別の命令に変えてくれない?」
「どうして?」
「今はまだ言えない」
「私に関係ある?」
「ある」
正直に答えると、美咲の表情が変わった。
さっきまでの疑いが消え、頬が少しずつ赤くなっていく。
「……昨日の続き?」
「たぶん」
「告白のこと?」
周囲に聞こえないほど小さな声だった。
「それ以上は秘密」
「本当に考えてくれてたんだ」
「今朝も言っただろ」
美咲の口元が嬉しそうに緩む。
「じゃあ、教えなくていい」
「命令は?」
「取り消します」
「助かった」
悠真が孝太郎から手を離す。
孝太郎は大きく息を吸ったあと、悠真を睨んだ。
「苦しいだろ!」
「余計なことを言おうとするからだ」
「俺は事実を――」
「もう一度塞ぐぞ」
「分かった。黙る」
孝太郎は口元を押さえ、菜月の方を向く。
「何も聞かないでくれ」
「あとで二人きりで聞くね」
「何で!?」
今度は孝太郎が追及される側になった。
菜月が笑顔のまま彼の肩を掴む。
美咲は二人のやり取りを見ながら、小さく笑った。
その後、悠真の耳元へ顔を寄せる。
「楽しみにしてるね」
吐息が耳へ触れ、悠真の肩がわずかに揺れた。
「……近い」
「昨日、悠真くんもしたでしょう?」
「仕返し?」
「少しだけ」
美咲はいたずらに成功したような笑顔を残し、自分の席へ戻っていく。
その後ろ姿を見送りながら、悠真は無意識に耳へ触れた。
顔が熱い。
「水瀬」
孝太郎が低い声で呼ぶ。
「何?」
「今のお前、すごく幸せそうな顔してるぞ」
「放っておけ」
◇
放課後。
悠真は美咲より先に教室を出た。
今日は一緒に帰らないと伝えてある。
理由を尋ねられたが、「少し寄りたい場所がある」とだけ答えた。
向かったのは、駅前の小さな雑貨店だった。
告白に贈り物が必要なのかは分からない。
大げさなものを渡せば、美咲に気を遣わせるかもしれない。
それでも、言葉だけではなく、何か形に残るものを渡したいと思った。
店内には、小物や文房具、アクセサリーが並んでいる。
こうした店へ一人で入ることはほとんどない。
どの商品が高校生の女子に喜ばれるのかも分からなかった。
悠真は棚の前で、十分以上立ち尽くした。
髪飾り。
ハンカチ。
小さなぬいぐるみ。
どれも美咲に似合いそうだが、決め手に欠ける。
店の奥へ進んだところで、一組の箸が目に入った。
淡い青と桜色。
二膳で一つの商品として、小さな箱に収められている。
派手な装飾はない。
持ち手の先に、それぞれ小さな星が描かれているだけ。
だが、二人で夕食を食べる日常に、自然と馴染む気がした。
恋人同士の贈り物としては、色気がなさすぎるかもしれない。
それでも悠真と美咲の関係は、食卓から始まった。
美咲が初めて作ってくれた料理。
一緒に挑戦した料理。
失敗して笑ったこと。
向かい合って食べながら、少しずつ互いを知った時間。
それらすべてが、今の二人を作っている。
「……これがいいか」
悠真は箱を手に取り、会計へ向かった。
◇
マンションへ戻ったのは、午後六時前だった。
購入したものを自室の引き出しへしまい、制服から部屋着へ着替える。
それからスマートフォンを手に取った。
美咲とのメッセージ画面を開く。
文章を入力しては消す。
『今週の金曜日、空いてる?』
これでは事務的すぎる。
『金曜日、俺の部屋に来てほしい』
普段から毎日のように来ているため、特別感がない。
『大切な話がある』
重すぎて、別れ話のように見える。
「……メッセージ一つで難しすぎるだろ」
悠真が悩んでいると、玄関の呼び鈴が鳴った。
扉を開ける。
そこには、夕食の材料を持った美咲が立っていた。
「ただいま、悠真くん」
「……ただいま?」
「隣から来ただけだけど、何となく」
「おかえり」
悠真が返すと、美咲は嬉しそうに目を細めた。
「今日は何を作るの?」
「豚肉と野菜の炒め物。悠真くんには、お味噌汁をお願いしようかな」
「肩を怪我してるのに?」
「ほとんど治ったって言ってたでしょう?」
「都合のいいときだけ信じるんだな」
「包丁は私が使うから、お鍋を見ていて」
「それならできそう」
美咲が靴を脱ぎ、部屋へ上がろうとする。
「美咲」
悠真はその背中を呼び止めた。
「何?」
「金曜日」
「うん」
「放課後、予定ある?」
美咲の動きが止まる。
ゆっくり振り返った顔に、期待と緊張が同時に浮かんでいた。
「ないよ」
「じゃあ、一度それぞれの部屋に帰って着替えてから、俺の部屋へ来てほしい」
「いつもみたいに?」
「いつもとは少し違う」
美咲は持っていた買い物袋を、胸の前でぎゅっと抱える。
「もしかして……」
「金曜日まで秘密」
「教えてくれないの?」
「うん」
「あと三日もあるよ」
「待てない?」
「……待つ」
美咲は頬を赤くしながら、ゆっくり頷いた。
「でも、何を着てくればいい?」
「普段どおりでいいよ」
「本当に?」
「美咲なら何でも似合う」
「そういうことを急に言うの、やめて」
美咲は顔を伏せる。
しかし嫌がっているのではなく、口元には照れた笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、少しだけおしゃれしてくる」
「少し?」
「悠真くんに可愛いって思ってほしいから」
美咲はそれだけ言うと、逃げるようにキッチンへ向かった。
悠真は玄関に立ったまま、その後ろ姿を見送る。
あと三日。
用意した言葉が、当日そのまま出てくるとは思えない。
贈り物が本当に喜ばれるかも分からない。
それでも、逃げるつもりはなかった。
金曜日。
美咲との日常が始まったこの部屋で。
天宮レイではなく、水瀬悠真として。
今度こそ、自分の気持ちをきちんと伝える。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
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