第46話 運命の金曜日
金曜日の放課後。
悠真は帰りのホームルームが終わると同時に、教科書を鞄へ詰め込んだ。
普段なら、孝太郎と話しながらゆっくり教室を出る。美咲と一緒に帰る日は、彼女の支度が終わるのを待つことも多い。
しかし今日は違った。
「先に帰る」
鞄を左肩へ掛けながら立ち上がる。
右肩の痛みは、もうほとんどない。それでも美咲に見つかれば、完全に治るまでは左側で持てと言われるため、今週はこの形が習慣になっていた。
「いよいよ今日か?」
孝太郎が声を潜める。
「何のこと?」
「今さら誤魔化すなよ。告白するんだろ?」
「……たぶん」
「たぶんって何だよ」
「するつもりではいる」
「逃げる可能性が残ってるじゃねえか」
孝太郎は呆れたように眉を寄せた。
その視線が、教室の反対側へ向かう。
美咲は菜月と話しながら、教科書を鞄へ入れていた。
いつもと変わらないように見える。
けれど、その手元は落ち着かない。
同じ教科書を一度鞄へ入れ、なぜか取り出し、もう一度入れ直している。
今日、悠真から告白される。
明言したわけではないが、美咲もそれを予想しているのだろう。
「一ノ瀬さんも朝からずっと緊張してたぞ」
「分かるの?」
「一時間目に違う教科書を出してた」
「珍しいな」
「昼休みには、お前の方を何度も見てたし」
「それはいつもじゃない?」
「自然にのろけるのやめてくれない?」
孝太郎が嫌そうな顔をする。
「のろけてない」
「付き合う前からこれなら、付き合ったあとが心配だな」
「まだ付き合えると決まったわけじゃないだろ」
「本気で言ってるのか?」
「本人の返事を聞くまでは分からない」
「お前、一ノ瀬さんからほとんど告白されてるよな?」
「ほとんどであって、正式にはされてない」
「額にキスまでされたのに?」
「声が大きい」
悠真は周囲を確認する。
幸い、今の言葉を聞いたのは近くにいた数人だけらしい。
ただし、その中に菜月がいた。
「今、キスって聞こえたんだけど」
菜月が笑顔で近づいてくる。
その後ろには、顔を赤くした美咲もいた。
「悠真くん」
美咲が低い声で名前を呼ぶ。
「どうして佐伯くんが知ってるの?」
「少し口が滑った」
「少し?」
「事故みたいなものだよ」
「その事故で、私の秘密が知られたの?」
「ごめん」
悠真が素直に頭を下げる。
今はまだ、美咲の命令を聞くと約束した一週間の途中だ。逃げたり誤魔化したりすれば、余計に怒らせるだけだと分かっている。
美咲は頬を赤くしたまま、孝太郎を見る。
「佐伯くん」
「はい」
「忘れてください」
「水瀬にも同じことを言ってたらしいな」
「どうしてそれまで話したの!?」
美咲が悠真を振り返る。
「そこは俺じゃない。孝太郎の推測」
「当たったの?」
「……たぶん」
菜月が口元へ手を当て、肩を震わせる。
「美咲、寝てる水瀬くんにキスしたんだ?」
「おでこに少しだけ!」
美咲が反射的に答える。
言った直後、周囲にまだ何人も残っていることを思い出したらしい。
教室が静かになる。
「一ノ瀬さんから?」
「大胆だな……」
「それで付き合ってないの?」
小さなざわめきが広がった。
美咲の顔が一気に赤くなる。
「違うの! 怪我をして疲れて眠ってたから、その……お疲れさまの意味で!」
「普通は額にキスしないと思う」
菜月が冷静に指摘する。
「菜月の味方はしてくれないの!?」
「応援はしてるよ」
「今助けてほしいの!」
美咲は恥ずかしさに耐えられなくなったのか、両手で顔を覆った。
悠真は小さく息を吐くと、美咲と菜月の間へ入る。
「もう、その辺にしてやって」
「水瀬くんが原因なんだけど?」
「それは反省してる」
「じゃあ、今日ちゃんと責任を取らないとね」
菜月が意味ありげに笑う。
悠真は一瞬答えに詰まったが、今度は逃げなかった。
「そのつもり」
美咲がゆっくり顔を上げる。
指の隙間から覗く瞳が、驚いたように見開かれていた。
「それって……」
「午後六時。忘れるなよ」
「う、うん」
「少し遅れても大丈夫だから」
「遅れない。絶対に行く」
美咲は両手を下ろすと、頬を赤くしたまま頷いた。
その表情からは、先ほどまでの羞恥より、これから訪れる時間への期待が強く感じられた。
「じゃあ、先に帰る」
悠真は三人へ背を向け、教室の出口へ向かう。
「水瀬!」
孝太郎の声に呼び止められ、振り返る。
孝太郎は片手の親指を立てていた。
「頑張れよ」
「……うん」
短く答える。
教室を出る直前、美咲ともう一度目が合った。
彼女は何も言わず、胸の前で小さく拳を握ってみせる。
球技大会のときと同じ仕草。
あの日は美咲に背中を押してもらった。
今日も、その小さな応援が悠真の迷いを少しだけ消してくれた。
◇
マンションへ戻った悠真は、すぐに制服から部屋着へ着替えた。
告白するだけなら、六時まで待つ必要はない。
それでも時間を指定したのは、美咲へ夕食を作りたかったからだ。
もっと正確に言えば、美咲が来る前に一人で完成させる必要があった。
「まず、玉ねぎ……」
キッチンの作業台には、必要な材料が並べられている。
挽き肉、玉ねぎ、卵、牛乳、パン粉。
作るのはハンバーグ。
先週、美咲と一緒に作ったものと同じ料理だった。
一人で作ることに不安がなかったわけではない。むしろ、不安しかなかった。
料理に関して、悠真は自分の能力をまったく信用していない。
だから昨日のうちに美咲から借りた料理本を読み込み、手順を自分なりに紙へまとめておいた。
玉ねぎを半分に切る。
皮を剥く。
細かく刻む。
文章にすれば簡単だ。
しかし実際に包丁を持つと、玉ねぎは思いどおりの大きさにはならない。みじん切りと呼ぶには大きすぎる欠片が、まな板の上へ不揃いに散らばっていく。
「……食べられればいいか」
以前なら、そこで諦めていた。
適当に炒め、火が通っていなくても気にせず食べる。あるいはすべてを捨て、コンビニへ行っていただろう。
けれど今日は、美咲に食べてもらう。
自分のためではなく、彼女のために作る料理だ。
悠真は大きな欠片を集め、もう一度包丁を入れた。
フライパンで玉ねぎを炒める。
少し焦げた。
それでも食べられないほどではない。
粗熱を取っている間に、挽き肉と他の材料をボウルへ入れる。
右肩はほとんど治っているが、力を入れすぎないよう注意しながら混ぜた。
形を整え、空気を抜く。
美咲が以前見せてくれた動きを思い出す。
『こうして、両手の間で投げるようにするの』
手のひらから手のひらへ、肉を移動させる。
1回目は力が強すぎて形が崩れた。
2回目は弱すぎて、空気が抜けた気がしない。
3回目の挑戦で、ようやくそれらしい形になった。
フライパンへ並べる。
肉が焼ける音とともに、香ばしい匂いがキッチンへ広がった。
「今のところは、成功か」
問題は中まで火が通るかどうかだ。
火が強すぎれば外側だけ焦げる。
弱すぎれば六時に間に合わない。
悠真は何度も料理本と時計を見比べながら、火加減を調整した。
付け合わせのサラダは、袋に入ったカット野菜。
スープは市販の粉末。
すべてを手作りする技術はない。
それでも、今の自分にできる範囲で用意した。
五時四十五分。
ハンバーグへ竹串を刺す。
出てきた肉汁は赤くない。
「……できた」
皿へ盛りつけ、ソースをかける。
美咲の料理ほど綺麗ではない。
大きさは揃っていないし、一つは端が少し焦げている。
それでも、初めて一人で作った料理としては悪くないように思えた。
テーブルへ二人分の料理を並べる。
中央には、帰りがけに買った小さな花を飾った。
高価なものではない。
白と淡い桃色の花が数本入った、小さな花束。
告白するために花を買うなど、自分でも少し気恥ずかしかった。
だが、美咲の喜ぶ顔を想像すると、買わずにはいられなかった。
用意した二膳の箸は、まだ箱の中にある。
それは告白のあとで渡す。
もし断られたら。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
美咲の気持ちは、ほとんど分かっている。
それでも、絶対はない。
彼女の「好き」が、恋人になりたいという意味とは限らない。悠真の過去を知ったことで、気持ちが揺らいでいる可能性もある。
不安を並べ始めれば、いくらでも見つかる。
悠真はテーブルの前に立ち、両手を握った。
期待して傷つくことが怖かった。
だから何にも期待しないふりをしてきた。
けれど今日だけは、美咲が同じ気持ちでいてくれることを信じたかった。
時計の針が六時を指す。
ほとんど同時に、玄関の呼び鈴が鳴った。
◇
「お邪魔します」
扉を開けた悠真は、しばらく言葉を失った。
美咲は普段より少しだけおしゃれをしていた。
淡い水色のワンピース。膝下まである柔らかな生地が、動くたびに静かに揺れる。
肩まで伸びた髪は、片側だけを小さな飾りのついたピンで留めていた。唇にも薄く色がのっている。
派手ではない。
いつもの美咲らしい、清楚で落ち着いた格好。
だからこそ、普段とは違う特別さがはっきりと伝わってきた。
「……変かな?」
悠真が何も言わないため、美咲が不安そうに自分の服を見下ろす。
「いつもより頑張ってみたんだけど」
「変じゃない」
「本当?」
「うん」
「似合ってる?」
「似合ってる」
「……それだけ?」
美咲は少し不満そうに見上げる。
何を求められているのかは分かった。
悠真は一度息を吸う。
「すごく可愛い」
美咲の頬が赤く染まる。
「ありがとう」
「もう一回言った方がいい?」
「今は無理。これ以上言われたら入れなくなる」
「じゃあ、中へどうぞ」
悠真が身体を横へずらす。
美咲は玄関へ入り、靴を脱いだ。
顔を上げた瞬間、部屋に漂っている匂いへ気づく。
「何か作ったの?」
「夕食」
「悠真くんが?」
「一応」
リビングへ入った美咲は、テーブルを見て足を止めた。
二人分のハンバーグ。
小さな花。
普段より丁寧に片づけられた部屋。
一つ一つを確かめるように眺め、最後に悠真を振り返る。
「これ、全部一人で?」
「サラダとスープは市販品。ハンバーグは作った」
「肩は?」
「もう痛くない。無理もしてない」
「本当に?」
「今日くらいは信用して」
悠真が苦笑する。
美咲は何かを言おうとしたが、口を閉じた。
その目元には、薄く涙が浮かんでいる。
「どうして泣くんだよ」
「泣いてない」
「最近、そればかりだな」
「悠真くんのせいだよ」
美咲は指先で目元を拭う。
「嬉しいの。初めてプリントを届けに来たときは、お部屋も冷蔵庫の中も大変なことになってたのに」
「それは忘れてほしい」
「今は一人で、こんなに作れるようになったんだね」
「美咲に教えてもらったから」
「私、あまり教えてないよ」
「毎日見てた」
美咲が料理を作る背中。
包丁の持ち方。
火加減を確かめる横顔。
味見をしたときの表情。
いつも近くで見ていた。
「美咲が来なかったら、料理を覚えようとも思わなかった」
「そっか」
美咲は涙を拭い、柔らかく微笑む。
「それなら、先生として採点しないとね」
「厳しくしないで」
「焦げてたら減点します」
「一つだけ少し焦げた」
「正直でよろしい」
二人は向かい合って座り、手を合わせた。
「いただきます」
美咲がハンバーグへ箸を入れる。
断面を慎重に確認し、口へ運んだ。
悠真は自分の料理へ手をつけず、その様子を見つめていた。
美咲が何度か噛む。
表情だけでは、美味しいのか分からない。
「どう?」
「まだ飲み込んでないよ」
「失敗してる?」
「静かに待ってて」
美咲はゆっくり飲み込み、もう一口食べる。
それから悠真の顔を見て、嬉しそうに笑った。
「美味しい」
「本当に?」
「うん。玉ねぎは少し大きいし、ちょっと焦げてるけど」
「やっぱり減点?」
「でも、今まで食べたハンバーグで一番嬉しい味がする」
「味の感想になってない」
「いいの」
美咲は大切そうに、もう一口食べる。
「悠真くんが私のために作ってくれたから、美味しい」
悠真も自分のハンバーグを口へ運ぶ。
美咲が作ったものより少し硬い。玉ねぎにも僅かに食感が残っている。
完璧とは言えない。
それでも一人で食べていた頃の適当な食事とは、まるで違う味がした。
食事中、美咲は普段よりよく喋った。
ハンバーグの作り方。
次に作るなら何がいいか。
花が綺麗だということ。
ただし、二人とも今夜の本当の目的には触れなかった。
話が途切れるたび、少し緊張した沈黙が落ちる。
そのたびにどちらかが別の話題を探し、何でもない会話を再開する。
告白は食事のあと。
言葉にせずとも、二人の間には共通した理解があった。
◇
食器を片づけ終えると、部屋は急に静かになった。
美咲をソファへ座らせ、悠真も隣へ腰を下ろす。
二人の間には、一人分ほどの隙間がある。
普段なら、もっと近くに座っている。
しかし今日は、近づけば緊張が伝わってしまいそうで、どちらもその距離を埋められなかった。
「美咲」
「はい」
返事が硬い。
美咲は膝の上で両手を握り、真っすぐ前を向いている。
「そんなに緊張しなくていいよ」
「悠真くんも緊張してるでしょう?」
「してる」
「じゃあ、仕方ないよ」
「そうだな」
また沈黙が落ちる。
テーブルに飾った花が、エアコンの風を受けて微かに揺れている。
窓の外からは、遠くを走る車の音が聞こえた。
「少し、昔の話をしていい?」
悠真が尋ねる。
「うん」
「天宮レイだった頃、告白する場面を何度か演じたことがある」
「覚えてる」
「やっぱり見てたんだ」
「出演していた作品は、ほとんど全部」
「恥ずかしいな」
「すごく格好よかったよ」
「台本があったから」
悠真は自分の両手を見る。
「言うことも、動きも、表情も全部決められてた。監督から言われたとおりにすれば、失敗しなかった」
「うん」
「でも、今は何を言えば正解なのか分からない」
「正解なんてなくていいよ」
美咲が身体を悠真の方へ向ける。
「悠真くんが思ってることを、そのまま言って」
「格好悪くても?」
「うん」
「途中で言葉に詰まっても?」
「待ってる」
「……そっか」
悠真は小さく息を吐いた。
台本はない。
カメラも、監督もいない。
失敗した場面を撮り直すこともできない。
それでも目の前には、どんな言葉でも受け取ると言ってくれる少女がいる。
「最初に美咲が来たとき、正直、迷惑だと思った」
「告白の最初にそれを言うの?」
「思ったことをそのまま言えって言っただろ」
「言ったけど……」
美咲は少し不満そうに頬を膨らませる。
その反応で緊張が僅かに和らぎ、悠真は小さく笑った。
「知らない人に生活へ入ってこられるのが嫌だった。部屋が汚いことも、料理ができないことも知られたくなかった」
「すぐに全部知られちゃったね」
「うん。最悪だった」
「そこまで言う?」
「でも、美咲が来るのが当たり前になった」
美咲の表情が静かになる。
「一緒に食べるご飯が美味しいと思った。一人でいるより、美咲と話してる方が楽しいと思った。美咲が他の男と話してると、嫌だと思うようになった」
悠真は一つずつ、胸の内側にあったものを言葉へ変えていく。
「風邪を引いたとき、美咲がいてくれて安心した。球技大会では、美咲の声があったから逃げなかった。過去を話すことができたのも、美咲だったからだ」
「悠真くん……」
「ずっと、誰にも期待されたくないと思ってた」
期待は、悠真を縛るものだった。
応え続けなければ価値がなくなる。
失敗すれば失望される。
そんな恐怖を運んでくる言葉だった。
「でも、美咲にだけは期待してほしいと思った」
悠真は美咲を見る。
「明日も来てくれるって。これからも隣にいてくれるって。俺のことを好きでいてくれるって」
美咲の目から、一筋の涙がこぼれる。
「それは、ずっと期待していいよ」
震える声で答えた。
「何があっても、私は悠真くんの隣にいる」
「うん」
「天宮レイだからじゃない。何でもできるからでもない」
美咲は泣きながら微笑む。
「私が好きなのは、今、目の前にいる悠真くんだから」
その言葉を聞いた瞬間、最後に残っていた迷いが消えた。
悠真は美咲との間にあった隙間を埋める。
すぐ隣へ座り直し、彼女の左手を取った。
「美咲」
「うん」
「好きです」
短い言葉だった。
朝から何度も考えた台詞より、ずっと簡単なもの。
それでも、これ以上に自分の気持ちを表す言葉はなかった。
「俺と付き合ってください」
美咲の唇が震える。
すぐに答えようとしているのに、声が出てこないようだった。
何度も頷き、目元から新しい涙をこぼす。
「……はい」
ようやく届いた返事は、消えてしまいそうに小さかった。
「私でよかったら」
「美咲がいい」
「本当に?」
「うん」
「私、世話焼きだし、怒ると怖いよ?」
「知ってる」
「悠真くんが無理したら、これからも止めるよ」
「止めてほしい」
「ご飯も、嫌いな野菜を入れるからね」
「それは少し大目に見てほしい」
「そこは受け入れてよ」
美咲が涙を拭いながら笑う。
「それでも、私でいい?」
「それでもじゃない」
悠真は美咲の手を両手で包む。
「そういう美咲がいい」
「……うん」
美咲はもう一度頷いた。
そのまま身体を寄せ、悠真の胸へ額を預ける。
「美咲?」
「少しだけ、このままでいさせて」
「分かった」
悠真は右肩へ負担をかけないよう注意しながら、美咲の背中へ腕を回した。
細い身体が、腕の中へ収まる。
髪から、いつもの甘い香りがした。
美咲も悠真の服を掴み、少しずつ抱き締める力を強くする。
「悠真くんの心臓、速いね」
「美咲もだろ」
「聞こえる?」
「近いから」
二人の身体が触れている。
互いの温度も、呼吸の揺れも、鼓動も分かるほど近い。
これまでも抱き締めたことはあった。
美咲を慰めるため。
熱を出した悠真を支えるため。
けれど今は、どちらにも理由がない。
ただ好きだから、離れたくない。
それだけで抱き合っている。
「ねえ、悠真くん」
胸元から、美咲の小さな声がする。
「何?」
「今からは、恋人なんだよね?」
「美咲が嫌じゃなければ」
「嫌じゃない」
美咲は顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、すぐ近くから悠真を見つめていた。
「ずっと、こうなりたかった」
「待たせてごめん」
「ううん。ちゃんと言ってくれて、嬉しかった」
美咲の視線が、悠真の目から少し下へ移る。
唇を見ている。
それに気づいた途端、悠真の呼吸が浅くなった。
昨日、美咲は告白の前にキスをするのは順番がおかしいと言った。
告白は終わった。
もう、その理由はなくなっている。
「美咲」
「……うん」
「昨日の続き、していい?」
直接言わなくても、意味は伝わった。
美咲の顔が赤く染まる。
逃げるように視線を落としたが、悠真の服を掴む手は離れなかった。
「目、閉じた方がいい?」
「それ、俺に聞く?」
「初めてだから分からないの」
「俺も分からない」
「ドラマではしたことあるでしょう?」
「あれは角度でそう見せてただけ。それに、今は天宮レイじゃない」
「そっか」
美咲は安心したように、ほんの少し微笑んだ。
「じゃあ、悠真くんも初めて?」
「うん」
「私と同じなんだね」
「嫌?」
「嬉しい」
美咲は一度深く息を吸うと、ゆっくり瞼を閉じた。
長い睫毛が微かに震えている。
頬は赤く、唇は緊張したように固く結ばれていた。
悠真は左手で、美咲の頬へ触れる。
柔らかな肌。
指先が触れただけで、美咲の肩が小さく揺れた。
顔を近づける。
互いの息が重なる。
あと少しで触れる距離まで来たところで、悠真は動きを止めた。
「……怖い?」
美咲が目を閉じたまま尋ねる。
「怖いというか、緊張してる」
「私も」
「美咲からしてくれてもいいけど」
「それはずるいよ」
美咲が薄く目を開ける。
「今度は悠真くんからして」
「分かった」
今度こそ、逃げない。
悠真は再び顔を近づける。
そして、二人の唇が触れた。
ほんの一瞬。
触れたという事実を確かめるだけの、不器用で短いキスだった。
離れたあとも、二人はすぐに目を開けられなかった。
柔らかな感触が、唇へ残っている。
美咲が恐る恐る目を開き、自分の唇へ指を触れた。
「……したね」
「したな」
「何か、もっと違う感じだと思ってた」
「どんな?」
「分からないけど……ドラマみたいに」
「初めてで上手くできるわけないだろ」
「悠真くん、演技は上手だったのに」
「今は演技じゃないから」
悠真が答えると、美咲は数秒黙った。
やがて、嬉しそうに目元を緩める。
「うん。演技じゃない方がいい」
「俺も」
二人は顔を見合わせる。
恥ずかしさに耐えられず、どちらからともなく笑い出した。
「もう一回してみる?」
美咲が小さな声で尋ねる。
「いいの?」
「一回目は、短すぎてよく分からなかったから」
「美咲、意外と積極的だな」
「恋人になったら、してみたかったの」
正直に言ったあとで、美咲はまた顔を赤くする。
「やっぱり今の忘れて」
「嫌だ」
「一週間は私の命令を聞く約束でしょう?」
「その約束は、今日で終わりにしない?」
「まだ三日くらい残ってるよ」
「じゃあ、忘れたふりだけ」
「またそれ?」
美咲は困ったように笑う。
悠真はその頬へ、もう一度手を添えた。
「今度は、もう少しだけ長くてもいい?」
「……うん」
美咲が目を閉じる。
二度目のキスは、一度目よりもゆっくりだった。
唇が重なり、すぐには離れない。
腕の中にいる美咲の身体が、最初だけ小さく強張る。
しかし数秒後には力が抜け、悠真の胸へ身を預けてきた。
吐息が触れる。
美咲の指が、悠真の服を少し強く掴む。
それだけで胸の奥が熱くなり、もっと近づきたいという気持ちが生まれる。
けれど、今はこれで十分だった。
悠真がゆっくり顔を離すと、美咲はしばらく目を閉じたままだった。
「美咲?」
「……顔、見ないで」
「どうして?」
「絶対、真っ赤だから」
「さっきからずっと赤いよ」
「分かってても言わないで」
美咲は悠真の胸へ顔を隠す。
その仕草が愛おしく、悠真は背中へ腕を回した。
「これからも、毎日来てくれる?」
「うん」
「夕食も一緒に食べる?」
「そのつもり」
「手もつないでいい?」
「学校では、あまり見られないようにね」
「二人きりなら?」
「……いくらでも」
美咲の声は小さい。
けれど、その言葉と同時に、悠真の背中へ回された腕へ力がこもった。
「キスは?」
「それも聞くの?」
「確認」
「今みたいなのなら」
「今みたいなの?」
「優しいの」
「それ以外を知らないけど」
「私も知らないよ」
二人はまた顔を見合わせ、笑う。
悠真はテーブルの下へ置いていた小さな箱を手に取った。
「これ、美咲に」
「何?」
「開けてみて」
美咲は悠真の腕から離れ、箱を受け取る。
リボンを解き、蓋を開けた。
中に収められた二膳の箸を見て、目を丸くする。
「お箸?」
「食事から始まった関係だから」
悠真は少し照れくさくなり、視線を逸らす。
「これからも一緒に食べたいっていう意味」
「……うん」
美咲の目に、また涙が浮かぶ。
「泣きすぎじゃない?」
「今日は仕方ないの」
「気に入らなかった?」
「逆だよ」
美咲は箱を胸元へ抱える。
「どんなアクセサリーより嬉しい」
「それは言いすぎじゃない?」
「言いすぎじゃないよ」
美咲は桜色の箸を取り出し、その先に描かれた小さな星を指で撫でる。
「こっちが私?」
「一応」
「青い方が悠真くん?」
「うん」
「じゃあ、毎日使おうね」
「毎日?」
「これを使うためには、毎日一緒に食べないといけないでしょう?」
「美咲の部屋にも帰れなくなるぞ」
「隣だから大丈夫」
「そのまま泊まったりしない?」
軽い冗談のつもりだった。
美咲の手が止まる。
頬から耳まで、一瞬で赤く染まった。
「と、泊まるのはまだ早いよ!」
「冗談だって」
「そういう冗談は、付き合った初日に言わないで!」
「ごめん」
「心の準備が全然できてないんだから……」
美咲は俯き、箱で口元を隠す。
「心の準備ができたらいいの?」
「悠真くん!」
「ごめんって」
美咲は恥ずかしそうに悠真の左肩を軽く叩いた。
そのあと、二人で新しい箸を洗った。
今日の食事はすでに終わっている。
それでも美咲が使ってみたいと言うため、冷蔵庫に残っていた小さなプリンを二人で分けることになった。
「箸でプリンは食べづらくない?」
「最初に使うことが大切なの」
「スプーンの方がいいと思うけど」
「雰囲気を壊さないで」
向かい合って座り、同じプリンを少しずつ食べる。
箸では上手く掴めず、何度も崩れた。
そのたびに二人で笑った。
完璧な告白ではなかった。
用意した料理には焦げた部分があり、言葉にも何度か詰まった。
最初のキスも、不器用で短かった。
けれど悠真にとっては、それでよかった。
決められた台本のように美しくなくても。
失敗を撮り直せなくても。
今日、美咲へ伝えた言葉も、触れた唇の温かさも、すべてが本物だった。
そしてこの日。
平凡を演じていた元天才子役と、その初恋に背中を押されて変わった少女は――ようやく恋人になった。
読んでくださってありがとうございます。
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