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【最新作】普通を演じる元天才子役は、隣室の美少女優等生に生活を管理される  作者: 優
第二章 初恋の人を、好きになるまで

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第46話 運命の金曜日



 金曜日の放課後。


 悠真は帰りのホームルームが終わると同時に、教科書を鞄へ詰め込んだ。


 普段なら、孝太郎と話しながらゆっくり教室を出る。美咲と一緒に帰る日は、彼女の支度が終わるのを待つことも多い。


 しかし今日は違った。


「先に帰る」


 鞄を左肩へ掛けながら立ち上がる。


 右肩の痛みは、もうほとんどない。それでも美咲に見つかれば、完全に治るまでは左側で持てと言われるため、今週はこの形が習慣になっていた。


「いよいよ今日か?」


 孝太郎が声を潜める。


「何のこと?」


「今さら誤魔化すなよ。告白するんだろ?」


「……たぶん」


「たぶんって何だよ」


「するつもりではいる」


「逃げる可能性が残ってるじゃねえか」


 孝太郎は呆れたように眉を寄せた。


 その視線が、教室の反対側へ向かう。


 美咲は菜月と話しながら、教科書を鞄へ入れていた。


 いつもと変わらないように見える。


 けれど、その手元は落ち着かない。


 同じ教科書を一度鞄へ入れ、なぜか取り出し、もう一度入れ直している。


 今日、悠真から告白される。


 明言したわけではないが、美咲もそれを予想しているのだろう。


「一ノ瀬さんも朝からずっと緊張してたぞ」


「分かるの?」


「一時間目に違う教科書を出してた」


「珍しいな」


「昼休みには、お前の方を何度も見てたし」


「それはいつもじゃない?」


「自然にのろけるのやめてくれない?」


 孝太郎が嫌そうな顔をする。


「のろけてない」


「付き合う前からこれなら、付き合ったあとが心配だな」


「まだ付き合えると決まったわけじゃないだろ」


「本気で言ってるのか?」


「本人の返事を聞くまでは分からない」


「お前、一ノ瀬さんからほとんど告白されてるよな?」


「ほとんどであって、正式にはされてない」


「額にキスまでされたのに?」


「声が大きい」


 悠真は周囲を確認する。


 幸い、今の言葉を聞いたのは近くにいた数人だけらしい。


 ただし、その中に菜月がいた。


「今、キスって聞こえたんだけど」


 菜月が笑顔で近づいてくる。


 その後ろには、顔を赤くした美咲もいた。


「悠真くん」


 美咲が低い声で名前を呼ぶ。


「どうして佐伯くんが知ってるの?」


「少し口が滑った」


「少し?」


「事故みたいなものだよ」


「その事故で、私の秘密が知られたの?」


「ごめん」


 悠真が素直に頭を下げる。


 今はまだ、美咲の命令を聞くと約束した一週間の途中だ。逃げたり誤魔化したりすれば、余計に怒らせるだけだと分かっている。


 美咲は頬を赤くしたまま、孝太郎を見る。


「佐伯くん」


「はい」


「忘れてください」


「水瀬にも同じことを言ってたらしいな」


「どうしてそれまで話したの!?」


 美咲が悠真を振り返る。


「そこは俺じゃない。孝太郎の推測」


「当たったの?」


「……たぶん」


 菜月が口元へ手を当て、肩を震わせる。


「美咲、寝てる水瀬くんにキスしたんだ?」


「おでこに少しだけ!」


 美咲が反射的に答える。


 言った直後、周囲にまだ何人も残っていることを思い出したらしい。


 教室が静かになる。


「一ノ瀬さんから?」


「大胆だな……」


「それで付き合ってないの?」


 小さなざわめきが広がった。


 美咲の顔が一気に赤くなる。


「違うの! 怪我をして疲れて眠ってたから、その……お疲れさまの意味で!」


「普通は額にキスしないと思う」


 菜月が冷静に指摘する。


「菜月の味方はしてくれないの!?」


「応援はしてるよ」


「今助けてほしいの!」


 美咲は恥ずかしさに耐えられなくなったのか、両手で顔を覆った。


 悠真は小さく息を吐くと、美咲と菜月の間へ入る。


「もう、その辺にしてやって」


「水瀬くんが原因なんだけど?」


「それは反省してる」


「じゃあ、今日ちゃんと責任を取らないとね」


 菜月が意味ありげに笑う。


 悠真は一瞬答えに詰まったが、今度は逃げなかった。


「そのつもり」


 美咲がゆっくり顔を上げる。


 指の隙間から覗く瞳が、驚いたように見開かれていた。


「それって……」


「午後六時。忘れるなよ」


「う、うん」


「少し遅れても大丈夫だから」


「遅れない。絶対に行く」


 美咲は両手を下ろすと、頬を赤くしたまま頷いた。


 その表情からは、先ほどまでの羞恥より、これから訪れる時間への期待が強く感じられた。


「じゃあ、先に帰る」


 悠真は三人へ背を向け、教室の出口へ向かう。


「水瀬!」


 孝太郎の声に呼び止められ、振り返る。


 孝太郎は片手の親指を立てていた。


「頑張れよ」


「……うん」


 短く答える。


 教室を出る直前、美咲ともう一度目が合った。


 彼女は何も言わず、胸の前で小さく拳を握ってみせる。


 球技大会のときと同じ仕草。


 あの日は美咲に背中を押してもらった。


 今日も、その小さな応援が悠真の迷いを少しだけ消してくれた。


     ◇


 マンションへ戻った悠真は、すぐに制服から部屋着へ着替えた。


 告白するだけなら、六時まで待つ必要はない。


 それでも時間を指定したのは、美咲へ夕食を作りたかったからだ。


 もっと正確に言えば、美咲が来る前に一人で完成させる必要があった。


「まず、玉ねぎ……」


 キッチンの作業台には、必要な材料が並べられている。


 挽き肉、玉ねぎ、卵、牛乳、パン粉。


 作るのはハンバーグ。


 先週、美咲と一緒に作ったものと同じ料理だった。


 一人で作ることに不安がなかったわけではない。むしろ、不安しかなかった。


 料理に関して、悠真は自分の能力をまったく信用していない。


 だから昨日のうちに美咲から借りた料理本を読み込み、手順を自分なりに紙へまとめておいた。


 玉ねぎを半分に切る。


 皮を剥く。


 細かく刻む。


 文章にすれば簡単だ。


 しかし実際に包丁を持つと、玉ねぎは思いどおりの大きさにはならない。みじん切りと呼ぶには大きすぎる欠片が、まな板の上へ不揃いに散らばっていく。


「……食べられればいいか」


 以前なら、そこで諦めていた。


 適当に炒め、火が通っていなくても気にせず食べる。あるいはすべてを捨て、コンビニへ行っていただろう。


 けれど今日は、美咲に食べてもらう。


 自分のためではなく、彼女のために作る料理だ。


 悠真は大きな欠片を集め、もう一度包丁を入れた。


 フライパンで玉ねぎを炒める。


 少し焦げた。


 それでも食べられないほどではない。


 粗熱を取っている間に、挽き肉と他の材料をボウルへ入れる。


 右肩はほとんど治っているが、力を入れすぎないよう注意しながら混ぜた。


 形を整え、空気を抜く。


 美咲が以前見せてくれた動きを思い出す。


『こうして、両手の間で投げるようにするの』


 手のひらから手のひらへ、肉を移動させる。


 1回目は力が強すぎて形が崩れた。


 2回目は弱すぎて、空気が抜けた気がしない。


 3回目の挑戦で、ようやくそれらしい形になった。


 フライパンへ並べる。


 肉が焼ける音とともに、香ばしい匂いがキッチンへ広がった。


「今のところは、成功か」


 問題は中まで火が通るかどうかだ。


 火が強すぎれば外側だけ焦げる。


 弱すぎれば六時に間に合わない。


 悠真は何度も料理本と時計を見比べながら、火加減を調整した。


 付け合わせのサラダは、袋に入ったカット野菜。


 スープは市販の粉末。


 すべてを手作りする技術はない。


 それでも、今の自分にできる範囲で用意した。


 五時四十五分。


 ハンバーグへ竹串を刺す。


 出てきた肉汁は赤くない。


「……できた」


 皿へ盛りつけ、ソースをかける。


 美咲の料理ほど綺麗ではない。


 大きさは揃っていないし、一つは端が少し焦げている。


 それでも、初めて一人で作った料理としては悪くないように思えた。


 テーブルへ二人分の料理を並べる。


 中央には、帰りがけに買った小さな花を飾った。


 高価なものではない。


 白と淡い桃色の花が数本入った、小さな花束。


 告白するために花を買うなど、自分でも少し気恥ずかしかった。


 だが、美咲の喜ぶ顔を想像すると、買わずにはいられなかった。


 用意した二膳の箸は、まだ箱の中にある。


 それは告白のあとで渡す。


 もし断られたら。


 そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。


 美咲の気持ちは、ほとんど分かっている。


 それでも、絶対はない。


 彼女の「好き」が、恋人になりたいという意味とは限らない。悠真の過去を知ったことで、気持ちが揺らいでいる可能性もある。


 不安を並べ始めれば、いくらでも見つかる。


 悠真はテーブルの前に立ち、両手を握った。


 期待して傷つくことが怖かった。


 だから何にも期待しないふりをしてきた。


 けれど今日だけは、美咲が同じ気持ちでいてくれることを信じたかった。


 時計の針が六時を指す。


 ほとんど同時に、玄関の呼び鈴が鳴った。


     ◇


「お邪魔します」


 扉を開けた悠真は、しばらく言葉を失った。


 美咲は普段より少しだけおしゃれをしていた。


 淡い水色のワンピース。膝下まである柔らかな生地が、動くたびに静かに揺れる。


 肩まで伸びた髪は、片側だけを小さな飾りのついたピンで留めていた。唇にも薄く色がのっている。


 派手ではない。


 いつもの美咲らしい、清楚で落ち着いた格好。


 だからこそ、普段とは違う特別さがはっきりと伝わってきた。


「……変かな?」


 悠真が何も言わないため、美咲が不安そうに自分の服を見下ろす。


「いつもより頑張ってみたんだけど」


「変じゃない」


「本当?」


「うん」


「似合ってる?」


「似合ってる」


「……それだけ?」


 美咲は少し不満そうに見上げる。


 何を求められているのかは分かった。


 悠真は一度息を吸う。


「すごく可愛い」


 美咲の頬が赤く染まる。


「ありがとう」


「もう一回言った方がいい?」


「今は無理。これ以上言われたら入れなくなる」


「じゃあ、中へどうぞ」


 悠真が身体を横へずらす。


 美咲は玄関へ入り、靴を脱いだ。


 顔を上げた瞬間、部屋に漂っている匂いへ気づく。


「何か作ったの?」


「夕食」


「悠真くんが?」


「一応」


 リビングへ入った美咲は、テーブルを見て足を止めた。


 二人分のハンバーグ。


 小さな花。


 普段より丁寧に片づけられた部屋。


 一つ一つを確かめるように眺め、最後に悠真を振り返る。


「これ、全部一人で?」


「サラダとスープは市販品。ハンバーグは作った」


「肩は?」


「もう痛くない。無理もしてない」


「本当に?」


「今日くらいは信用して」


 悠真が苦笑する。


 美咲は何かを言おうとしたが、口を閉じた。


 その目元には、薄く涙が浮かんでいる。


「どうして泣くんだよ」


「泣いてない」


「最近、そればかりだな」


「悠真くんのせいだよ」


 美咲は指先で目元を拭う。


「嬉しいの。初めてプリントを届けに来たときは、お部屋も冷蔵庫の中も大変なことになってたのに」


「それは忘れてほしい」


「今は一人で、こんなに作れるようになったんだね」


「美咲に教えてもらったから」


「私、あまり教えてないよ」


「毎日見てた」


 美咲が料理を作る背中。


 包丁の持ち方。


 火加減を確かめる横顔。


 味見をしたときの表情。


 いつも近くで見ていた。


「美咲が来なかったら、料理を覚えようとも思わなかった」


「そっか」


 美咲は涙を拭い、柔らかく微笑む。


「それなら、先生として採点しないとね」


「厳しくしないで」


「焦げてたら減点します」


「一つだけ少し焦げた」


「正直でよろしい」


 二人は向かい合って座り、手を合わせた。


「いただきます」


 美咲がハンバーグへ箸を入れる。


 断面を慎重に確認し、口へ運んだ。


 悠真は自分の料理へ手をつけず、その様子を見つめていた。


 美咲が何度か噛む。


 表情だけでは、美味しいのか分からない。


「どう?」


「まだ飲み込んでないよ」


「失敗してる?」


「静かに待ってて」


 美咲はゆっくり飲み込み、もう一口食べる。


 それから悠真の顔を見て、嬉しそうに笑った。


「美味しい」


「本当に?」


「うん。玉ねぎは少し大きいし、ちょっと焦げてるけど」


「やっぱり減点?」


「でも、今まで食べたハンバーグで一番嬉しい味がする」


「味の感想になってない」


「いいの」


 美咲は大切そうに、もう一口食べる。


「悠真くんが私のために作ってくれたから、美味しい」


 悠真も自分のハンバーグを口へ運ぶ。


 美咲が作ったものより少し硬い。玉ねぎにも僅かに食感が残っている。


 完璧とは言えない。


 それでも一人で食べていた頃の適当な食事とは、まるで違う味がした。


 食事中、美咲は普段よりよく喋った。


 ハンバーグの作り方。


 次に作るなら何がいいか。


 花が綺麗だということ。


 ただし、二人とも今夜の本当の目的には触れなかった。


 話が途切れるたび、少し緊張した沈黙が落ちる。


 そのたびにどちらかが別の話題を探し、何でもない会話を再開する。


 告白は食事のあと。


 言葉にせずとも、二人の間には共通した理解があった。


     ◇


 食器を片づけ終えると、部屋は急に静かになった。


 美咲をソファへ座らせ、悠真も隣へ腰を下ろす。


 二人の間には、一人分ほどの隙間がある。


 普段なら、もっと近くに座っている。


 しかし今日は、近づけば緊張が伝わってしまいそうで、どちらもその距離を埋められなかった。


「美咲」


「はい」


 返事が硬い。


 美咲は膝の上で両手を握り、真っすぐ前を向いている。


「そんなに緊張しなくていいよ」


「悠真くんも緊張してるでしょう?」


「してる」


「じゃあ、仕方ないよ」


「そうだな」


 また沈黙が落ちる。


 テーブルに飾った花が、エアコンの風を受けて微かに揺れている。


 窓の外からは、遠くを走る車の音が聞こえた。


「少し、昔の話をしていい?」


 悠真が尋ねる。


「うん」


「天宮レイだった頃、告白する場面を何度か演じたことがある」


「覚えてる」


「やっぱり見てたんだ」


「出演していた作品は、ほとんど全部」


「恥ずかしいな」


「すごく格好よかったよ」


「台本があったから」


 悠真は自分の両手を見る。


「言うことも、動きも、表情も全部決められてた。監督から言われたとおりにすれば、失敗しなかった」


「うん」


「でも、今は何を言えば正解なのか分からない」


「正解なんてなくていいよ」


 美咲が身体を悠真の方へ向ける。


「悠真くんが思ってることを、そのまま言って」


「格好悪くても?」


「うん」


「途中で言葉に詰まっても?」


「待ってる」


「……そっか」


 悠真は小さく息を吐いた。


 台本はない。


 カメラも、監督もいない。


 失敗した場面を撮り直すこともできない。


 それでも目の前には、どんな言葉でも受け取ると言ってくれる少女がいる。


「最初に美咲が来たとき、正直、迷惑だと思った」


「告白の最初にそれを言うの?」


「思ったことをそのまま言えって言っただろ」


「言ったけど……」


 美咲は少し不満そうに頬を膨らませる。


 その反応で緊張が僅かに和らぎ、悠真は小さく笑った。


「知らない人に生活へ入ってこられるのが嫌だった。部屋が汚いことも、料理ができないことも知られたくなかった」


「すぐに全部知られちゃったね」


「うん。最悪だった」


「そこまで言う?」


「でも、美咲が来るのが当たり前になった」


 美咲の表情が静かになる。


「一緒に食べるご飯が美味しいと思った。一人でいるより、美咲と話してる方が楽しいと思った。美咲が他の男と話してると、嫌だと思うようになった」


 悠真は一つずつ、胸の内側にあったものを言葉へ変えていく。


「風邪を引いたとき、美咲がいてくれて安心した。球技大会では、美咲の声があったから逃げなかった。過去を話すことができたのも、美咲だったからだ」


「悠真くん……」


「ずっと、誰にも期待されたくないと思ってた」


 期待は、悠真を縛るものだった。


 応え続けなければ価値がなくなる。


 失敗すれば失望される。


 そんな恐怖を運んでくる言葉だった。


「でも、美咲にだけは期待してほしいと思った」


 悠真は美咲を見る。


「明日も来てくれるって。これからも隣にいてくれるって。俺のことを好きでいてくれるって」


 美咲の目から、一筋の涙がこぼれる。


「それは、ずっと期待していいよ」


 震える声で答えた。


「何があっても、私は悠真くんの隣にいる」


「うん」


「天宮レイだからじゃない。何でもできるからでもない」


 美咲は泣きながら微笑む。


「私が好きなのは、今、目の前にいる悠真くんだから」


 その言葉を聞いた瞬間、最後に残っていた迷いが消えた。


 悠真は美咲との間にあった隙間を埋める。


 すぐ隣へ座り直し、彼女の左手を取った。


「美咲」


「うん」


「好きです」


 短い言葉だった。


 朝から何度も考えた台詞より、ずっと簡単なもの。


 それでも、これ以上に自分の気持ちを表す言葉はなかった。


「俺と付き合ってください」


 美咲の唇が震える。


 すぐに答えようとしているのに、声が出てこないようだった。


 何度も頷き、目元から新しい涙をこぼす。


「……はい」


 ようやく届いた返事は、消えてしまいそうに小さかった。


「私でよかったら」


「美咲がいい」


「本当に?」


「うん」


「私、世話焼きだし、怒ると怖いよ?」


「知ってる」


「悠真くんが無理したら、これからも止めるよ」


「止めてほしい」


「ご飯も、嫌いな野菜を入れるからね」


「それは少し大目に見てほしい」


「そこは受け入れてよ」


 美咲が涙を拭いながら笑う。


「それでも、私でいい?」


「それでもじゃない」


 悠真は美咲の手を両手で包む。


「そういう美咲がいい」


「……うん」


 美咲はもう一度頷いた。


 そのまま身体を寄せ、悠真の胸へ額を預ける。


「美咲?」


「少しだけ、このままでいさせて」


「分かった」


 悠真は右肩へ負担をかけないよう注意しながら、美咲の背中へ腕を回した。


 細い身体が、腕の中へ収まる。


 髪から、いつもの甘い香りがした。


 美咲も悠真の服を掴み、少しずつ抱き締める力を強くする。


「悠真くんの心臓、速いね」


「美咲もだろ」


「聞こえる?」


「近いから」


 二人の身体が触れている。


 互いの温度も、呼吸の揺れも、鼓動も分かるほど近い。


 これまでも抱き締めたことはあった。


 美咲を慰めるため。


 熱を出した悠真を支えるため。


 けれど今は、どちらにも理由がない。


 ただ好きだから、離れたくない。


 それだけで抱き合っている。


「ねえ、悠真くん」


 胸元から、美咲の小さな声がする。


「何?」


「今からは、恋人なんだよね?」


「美咲が嫌じゃなければ」


「嫌じゃない」


 美咲は顔を上げる。


 涙で濡れた瞳が、すぐ近くから悠真を見つめていた。


「ずっと、こうなりたかった」


「待たせてごめん」


「ううん。ちゃんと言ってくれて、嬉しかった」


 美咲の視線が、悠真の目から少し下へ移る。


 唇を見ている。


 それに気づいた途端、悠真の呼吸が浅くなった。


 昨日、美咲は告白の前にキスをするのは順番がおかしいと言った。


 告白は終わった。


 もう、その理由はなくなっている。


「美咲」


「……うん」


「昨日の続き、していい?」


 直接言わなくても、意味は伝わった。


 美咲の顔が赤く染まる。


 逃げるように視線を落としたが、悠真の服を掴む手は離れなかった。


「目、閉じた方がいい?」


「それ、俺に聞く?」


「初めてだから分からないの」


「俺も分からない」


「ドラマではしたことあるでしょう?」


「あれは角度でそう見せてただけ。それに、今は天宮レイじゃない」


「そっか」


 美咲は安心したように、ほんの少し微笑んだ。


「じゃあ、悠真くんも初めて?」


「うん」


「私と同じなんだね」


「嫌?」


「嬉しい」


 美咲は一度深く息を吸うと、ゆっくり瞼を閉じた。


 長い睫毛が微かに震えている。


 頬は赤く、唇は緊張したように固く結ばれていた。


 悠真は左手で、美咲の頬へ触れる。


 柔らかな肌。


 指先が触れただけで、美咲の肩が小さく揺れた。


 顔を近づける。


 互いの息が重なる。


 あと少しで触れる距離まで来たところで、悠真は動きを止めた。


「……怖い?」


 美咲が目を閉じたまま尋ねる。


「怖いというか、緊張してる」


「私も」


「美咲からしてくれてもいいけど」


「それはずるいよ」


 美咲が薄く目を開ける。


「今度は悠真くんからして」


「分かった」


 今度こそ、逃げない。


 悠真は再び顔を近づける。


 そして、二人の唇が触れた。


 ほんの一瞬。


 触れたという事実を確かめるだけの、不器用で短いキスだった。


 離れたあとも、二人はすぐに目を開けられなかった。


 柔らかな感触が、唇へ残っている。


 美咲が恐る恐る目を開き、自分の唇へ指を触れた。


「……したね」


「したな」


「何か、もっと違う感じだと思ってた」


「どんな?」


「分からないけど……ドラマみたいに」


「初めてで上手くできるわけないだろ」


「悠真くん、演技は上手だったのに」


「今は演技じゃないから」


 悠真が答えると、美咲は数秒黙った。


 やがて、嬉しそうに目元を緩める。


「うん。演技じゃない方がいい」


「俺も」


 二人は顔を見合わせる。


 恥ずかしさに耐えられず、どちらからともなく笑い出した。


「もう一回してみる?」


 美咲が小さな声で尋ねる。


「いいの?」


「一回目は、短すぎてよく分からなかったから」


「美咲、意外と積極的だな」


「恋人になったら、してみたかったの」


 正直に言ったあとで、美咲はまた顔を赤くする。


「やっぱり今の忘れて」


「嫌だ」


「一週間は私の命令を聞く約束でしょう?」


「その約束は、今日で終わりにしない?」


「まだ三日くらい残ってるよ」


「じゃあ、忘れたふりだけ」


「またそれ?」


 美咲は困ったように笑う。


 悠真はその頬へ、もう一度手を添えた。


「今度は、もう少しだけ長くてもいい?」


「……うん」


 美咲が目を閉じる。


 二度目のキスは、一度目よりもゆっくりだった。


 唇が重なり、すぐには離れない。


 腕の中にいる美咲の身体が、最初だけ小さく強張る。


 しかし数秒後には力が抜け、悠真の胸へ身を預けてきた。


 吐息が触れる。


 美咲の指が、悠真の服を少し強く掴む。


 それだけで胸の奥が熱くなり、もっと近づきたいという気持ちが生まれる。


 けれど、今はこれで十分だった。


 悠真がゆっくり顔を離すと、美咲はしばらく目を閉じたままだった。


「美咲?」


「……顔、見ないで」


「どうして?」


「絶対、真っ赤だから」


「さっきからずっと赤いよ」


「分かってても言わないで」


 美咲は悠真の胸へ顔を隠す。


 その仕草が愛おしく、悠真は背中へ腕を回した。


「これからも、毎日来てくれる?」


「うん」


「夕食も一緒に食べる?」


「そのつもり」


「手もつないでいい?」


「学校では、あまり見られないようにね」


「二人きりなら?」


「……いくらでも」


 美咲の声は小さい。


 けれど、その言葉と同時に、悠真の背中へ回された腕へ力がこもった。


「キスは?」


「それも聞くの?」


「確認」


「今みたいなのなら」


「今みたいなの?」


「優しいの」


「それ以外を知らないけど」


「私も知らないよ」


 二人はまた顔を見合わせ、笑う。


 悠真はテーブルの下へ置いていた小さな箱を手に取った。


「これ、美咲に」


「何?」


「開けてみて」


 美咲は悠真の腕から離れ、箱を受け取る。


 リボンを解き、蓋を開けた。


 中に収められた二膳の箸を見て、目を丸くする。


「お箸?」


「食事から始まった関係だから」


 悠真は少し照れくさくなり、視線を逸らす。


「これからも一緒に食べたいっていう意味」


「……うん」


 美咲の目に、また涙が浮かぶ。


「泣きすぎじゃない?」


「今日は仕方ないの」


「気に入らなかった?」


「逆だよ」


 美咲は箱を胸元へ抱える。


「どんなアクセサリーより嬉しい」


「それは言いすぎじゃない?」


「言いすぎじゃないよ」


 美咲は桜色の箸を取り出し、その先に描かれた小さな星を指で撫でる。


「こっちが私?」


「一応」


「青い方が悠真くん?」


「うん」


「じゃあ、毎日使おうね」


「毎日?」


「これを使うためには、毎日一緒に食べないといけないでしょう?」


「美咲の部屋にも帰れなくなるぞ」


「隣だから大丈夫」


「そのまま泊まったりしない?」


 軽い冗談のつもりだった。


 美咲の手が止まる。


 頬から耳まで、一瞬で赤く染まった。


「と、泊まるのはまだ早いよ!」


「冗談だって」


「そういう冗談は、付き合った初日に言わないで!」


「ごめん」


「心の準備が全然できてないんだから……」


 美咲は俯き、箱で口元を隠す。


「心の準備ができたらいいの?」


「悠真くん!」


「ごめんって」


 美咲は恥ずかしそうに悠真の左肩を軽く叩いた。


 そのあと、二人で新しい箸を洗った。


 今日の食事はすでに終わっている。


 それでも美咲が使ってみたいと言うため、冷蔵庫に残っていた小さなプリンを二人で分けることになった。


「箸でプリンは食べづらくない?」


「最初に使うことが大切なの」


「スプーンの方がいいと思うけど」


「雰囲気を壊さないで」


 向かい合って座り、同じプリンを少しずつ食べる。


 箸では上手く掴めず、何度も崩れた。


 そのたびに二人で笑った。


 完璧な告白ではなかった。


 用意した料理には焦げた部分があり、言葉にも何度か詰まった。


 最初のキスも、不器用で短かった。


 けれど悠真にとっては、それでよかった。


 決められた台本のように美しくなくても。


 失敗を撮り直せなくても。


 今日、美咲へ伝えた言葉も、触れた唇の温かさも、すべてが本物だった。


 そしてこの日。


 平凡を演じていた元天才子役と、その初恋に背中を押されて変わった少女は――ようやく恋人になった。

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