第42話 初恋と、今の恋
自分の部屋へ戻った美咲は、玄関の扉を閉めたまま動けなくなった。
背中を扉へ預け、両手で熱くなった頬を押さえる。
「……言っちゃった」
誰もいない部屋に、小さな声が響く。
『私が好きになったのは、今ここにいる悠真くんだから』
あの瞬間は、ほとんど無意識だった。
天宮レイではなく、水瀬悠真を見ている。
そのことだけは誤解されたくなくて、気づけば「好き」という言葉を口にしていた。
告白ではない。
少なくとも、ちゃんとした告白ではないつもりだった。
けれど、悠真には確実に聞かれている。
そして悠真は――。
『嬉しかったから』
「もう……」
思い出した途端、美咲は顔を覆ったまましゃがみ込んだ。
心臓が落ち着かない。
今もまだ、身体の内側で大きな音を立てている。
悠真は嫌がらなかった。
迷惑だとも言わなかった。
むしろ嬉しいと言ってくれた。
それだけではない。
膝枕をしている間、額へキスをしたことまで気づかれていた。
「どうして聞いちゃうの……」
寝ていると思っていたからできた。
悠真の穏やかな寝顔を見ていたら、胸の奥が愛おしさでいっぱいになって。
気づいたときには、顔を近づけていた。
額に触れるだけの短いキス。
けれど美咲にとっては、これまでの人生で一番勇気の必要な行動だった。
もう少し長く触れていたい。
そんな気持ちが浮かんだ瞬間、自分で驚いて離れた。
忘れてほしいと思ったのも本当。
嬉しかったと言われて、忘れないでほしくなったのも本当。
自分の感情なのに、まるで整理できない。
「……好きになるって、こんなに大変なんだ」
以前は、もっと単純だった。
テレビに映る天宮レイを見て胸を高鳴らせ、次の出演を楽しみにする。
彼が笑えば嬉しくなり、物語の中で傷つけば心配する。
その頃の恋は、安全だった。
テレビの向こうにいる相手から、自分を見られることはない。
気持ちを知られることも、拒絶されることもない。
けれど、今の恋は違う。
悠真はすぐ隣にいる。
触れれば温かい。
名前を呼べば、こちらを見る。
美咲の言葉に笑い、ときには困った顔をして、照れることもある。
自分が何かをするたびに、悠真の心も動く。
だから嬉しくて、同じくらい怖かった。
美咲はゆっくり立ち上がり、リビングへ向かう。
ソファの前まで来ると、ローテーブルの上に置かれた小さな鍵を手に取った。
それはテレビ台の下、一番奥にある引き出しの鍵だった。
鍵穴へ差し込み、回す。
引き出しの中には、古いDVDや雑誌の切り抜き、何冊かのノートが大切にしまわれている。
どれも、天宮レイが出演していた作品に関するものだった。
美咲はその中から、一枚のDVDを取り出す。
天宮レイが初めて主演を務めたドラマ。
十二歳の少年が、家族を亡くして親戚の家へ引き取られ、新しい居場所を見つけていく物語だ。
ケースの表紙には、当時の天宮レイが映っている。
整えられた黒髪。
少し大人びた表情。
光を映しながらも、どこか寂しそうな瞳。
「悠真くん……」
今なら、はっきり分かる。
輪郭も髪形も、今とは違う。
けれど、目元は同じだった。
微笑む直前に、ほんの少しだけ伏せられる視線。
考え込んだときに親指を握る癖。
何より、ふとした瞬間に見せる、誰にも助けを求められない子どものような表情。
どうして今まで確信できなかったのだろう。
いや。
もしかすると、最初から気づきたくなかったのかもしれない。
大好きだった天宮レイと、今好きな水瀬悠真。
二人が同じ人物なら、自分の気持ちは昔の憧れの続きにすぎないのではないか。
そんな不安が、美咲の中にもあった。
美咲はDVDケースを胸へ抱える。
◇
初めて天宮レイを見たのは、小学三年生の頃だった。
当時の美咲は、人と話すことが苦手だった。
教室ではいつも一人で本を読んでいた。
休み時間に遊びへ誘われても、何を話せばいいのか分からず、曖昧に首を振る。
断り続けるうちに、誰からも声をかけられなくなった。
それでいいと思っていた。
一人でいれば、失敗しない。
変なことを言って笑われることもない。
そうやって自分を納得させていた。
けれど本当は、寂しかった。
友達同士で笑い合う子たちが羨ましかった。
輪の中へ入りたくても、一歩目の踏み出し方が分からなかった。
そんなある日、学校を休んだ美咲は、母が録画していたドラマを一人で見た。
そこで天宮レイが演じていた少年も、一人だった。
親戚の家で気を遣い、学校では周囲に馴染めず、誰にも本音を言えない。
けれど物語の終盤。
少年は震えながら、同級生へ声をかけた。
『僕も、一緒に帰っていい?』
たった一言だった。
大きな事件が起きたわけでもない。
それでも、美咲はテレビの前で泣いた。
怖いはずなのに、少年は自分から一歩を踏み出した。
それが演技だということも、台本に書かれた言葉だということも分かっていた。
それでも美咲には、画面の中の天宮レイが「君も大丈夫だ」と言ってくれたように感じられた。
翌日。
美咲は休み時間に、近くの席にいた女子へ自分から声をかけた。
『その本、私も好き』
声は震えた。
女子は少し驚いたあと、笑顔で本を見せてくれた。
そこから何もかも上手くいったわけではない。
会話が続かず、気まずくなったこともある。
勇気を出して発表したのに、間違えて笑われたこともあった。
それでも美咲は、少しずつ努力した。
人の目を見て話す練習をした。
勉強も運動も頑張った。
髪形や服装を調べ、鏡の前で笑う練習までした。
天宮レイの隣に並んでも恥ずかしくない女の子になりたい。
子どもらしい、叶うはずのない夢だった。
その夢を抱いていたから、努力できた。
だから天宮レイは、美咲にとって特別だった。
初めて好きになった人。
変わるきっかけをくれた人。
けれど――。
「今の気持ちは、あの頃とは違う」
美咲はDVDケースを見つめながら呟く。
天宮レイが料理をできないことは知らなかった。
洗濯物を適当に干し、部屋を散らかし、気分が乗らないという理由で学校を休む人だとも思っていなかった。
難しい問題を簡単に解き、本当は運動も得意なのに、それを隠していることも。
期待されることを怖がり、助けを求められず、無理をして体調を崩すことも知らなかった。
今、美咲が好きなのは、画面の中で完璧に役を演じていた少年ではない。
料理に失敗して落ち込み、美咲の料理を食べて安心したように笑う悠真。
風邪を引いた夜、離れないでほしいと服を掴んだ悠真。
球技大会で怖がりながらも一歩を踏み出し、最後には仲間へ頼ることができた悠真。
そんな、不器用な一人の少年だった。
美咲はDVDケースを引き出しへ戻す。
以前は宝物だった。
今も大切な思い出ではある。
けれど、胸の奥にある気持ちは、もう画面の中の少年へ向けられたものではなかった。
鍵を閉める。
それは過去を捨てるためではない。
初恋を、初恋のまま大切にしまっておくためだった。
◇
スマートフォンが震えた。
画面を見ると、菜月からメッセージが届いている。
『今日は水瀬くんの看病?』
続けて、笑顔の絵文字。
美咲は少し悩み、返信する。
『看病じゃなくて、怪我のお手伝い。もう自分の部屋に戻ったよ』
すぐに既読がついた。
『二人で何してたの?』
『ご飯を食べて、少し話しただけ』
『本当にそれだけ?』
美咲の頭に、膝枕や額へのキスが浮かぶ。
さらに、ハンバーグを食べさせたことまで思い出した。
顔が一気に熱くなる。
これを菜月に話したら、明日の朝まで質問攻めに遭うだろう。
『それだけです』
『敬語になると怪しいよ』
菜月は鋭い。
美咲が返信に困っていると、着信画面へ変わった。
「……出たくない」
そう呟きながらも、無視するわけにはいかない。
覚悟を決め、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『遅い』
「ごめん。少し考え事してた」
『水瀬くんのこと?』
「どうして決めつけるの?」
『当たってるから』
電話の向こうで、菜月が楽しそうに笑う。
『それで、進展は?』
「進展って……」
『名前呼びが学校でも解禁されたとか、手をつないで帰ったとか』
「見てたの?」
『手をつないで学校を出たって、クラスの子が言ってた』
「そんなところまで見られてたんだ……」
美咲は片手で額を押さえる。
今さら、二人の関係を普通の隣人として通すのは難しいかもしれない。
『付き合ってないんだよね?』
「うん」
『じゃあ、何で告白しないの?』
「それは……」
美咲はすぐに答えられなかった。
以前は、関係が変わることが怖かった。
告白して拒絶されれば、今のように一緒に食事をすることも、隣で笑うこともできなくなるかもしれない。
今も怖さが消えたわけではない。
だが、悠真は美咲を意識していると認めてくれた。
「好き」と口にしたことも、嬉しいと言ってくれた。
以前よりも、ずっと近い場所にいる。
「まだ、悠真くんに考える時間が必要だから」
『考える時間?』
「私の気持ちは、少し伝わったと思う」
『少し? あれだけ試合中に名前を叫んで、手をつないで、怪我の付き添いまでして?』
「それとこれは別だよ」
『美咲以外は全員気づいてると思うけど』
「私だって分かってるよ」
美咲は頬を膨らませる。
「でも、悠真くんにはいろいろあるの」
『いろいろって?』
「それは言えない」
即座に答えた。
悠真の秘密を、本人の許可なく誰かへ話すつもりはない。
たとえ相手が菜月でも、それだけは守らなければならなかった。
『水瀬くんの秘密?』
「聞かないで」
少し強い声になった。
電話の向こうで、菜月が黙る。
「ごめん。でも、私からは話せないことだから」
『ううん。こっちこそごめん』
菜月の声から、からかうような調子が消える。
『話せないなら、もう聞かない。水瀬くんが美咲を傷つけてるわけじゃないんだよね?』
「違うよ。むしろ、私が待ちたいの」
『そっか』
菜月はそれ以上踏み込まなかった。
『じゃあ、一つだけ教えて』
「何?」
『美咲は今、幸せ?』
美咲は自分の胸元へ手を当てる。
不安はある。
悠真の過去について、まだ知らないことも多い。
引退の理由。
「期待」という言葉を恐れるようになった原因。
それでも、悠真は自分から大切な秘密を話してくれた。
「うん」
美咲は自然と微笑んでいた。
「すごく幸せ」
『じゃあいいや』
菜月も笑ったようだった。
『告白するときは応援するからね』
「その前に相談するかもしれない」
『任せて。でも、あまり待たせすぎない方がいいと思うよ』
「どうして?」
『水瀬くん、球技大会で女子からかなり注目されてたから』
美咲の笑顔が固まる。
「……かなり?」
『うん。バスケ部じゃないのに格好よかったって。顔もよく見ると整ってるって話になってた』
「そうなんだ」
『声が低くなったね』
「なってないよ」
『嫉妬してる?』
「してません」
『美咲も敬語になってる』
「もう切るね」
『待って待って、怒らないで』
菜月の笑い声が聞こえる。
美咲は唇を尖らせながらも、通話を切ることはできなかった。
悠真が注目されることは分かっていた。
今までは目立たないように髪を整えず、能力も隠していた。
それでも、よく見れば整った顔立ちをしている。
球技大会で活躍し、周囲と話す機会も増えた。
女子生徒が興味を持っても不思議ではない。
「……早く告白した方がいいのかな」
無意識に漏れた言葉を、菜月は聞き逃さなかった。
『私はそう思う』
「今のは独り言!」
『善は急げだよ、美咲』
「でも、悠真くんも気持ちを考えたいって言ってたから」
『それって、脈なしの言い方じゃないよね?』
「うん。たぶん」
『なら大丈夫。明日告白しよう』
「急すぎるよ!」
『じゃあ月曜日』
「ほとんど変わってない!」
美咲は電話越しに抗議する。
だが、胸の奥には別の感情が生まれていた。
悠真が誰かに取られる。
そう想像するだけで、落ち着かない。
今までの美咲なら、それでも焦らずに待っていただろう。
悠真が心を開いてくれるまで。
自分の気持ちを受け入れる余裕ができるまで。
だが悠真は今日、自分から一歩を踏み出した。
なら、次は美咲の番かもしれない。
◇
菜月との通話を終えた直後。
ピンポーン、と玄関の呼び鈴が鳴った。
「こんな時間に誰だろう」
時刻は午後八時前。
恐る恐る扉を開けると、そこには悠真が立っていた。
「悠真くん?」
「ごめん。もう寝るところだった?」
「まだ八時だよ」
「だよな」
悠真の左手には、空になった保存容器がある。
「これ、返そうと思って」
「今日使ったもの?」
「うん。洗っておいた」
「明日でよかったのに」
「それと……」
悠真は少し言いづらそうに視線を逸らす。
「湿布、貼り直してほしい」
「え?」
「一人だと、やっぱり上手く貼れそうにない」
美咲は目を見開いた。
これまでの悠真なら、絶対に自分で何とかしようとしたはずだ。
助けてほしい。
彼が自分からそう頼んでいる。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「もちろん」
美咲は扉を大きく開ける。
「入って」
「お邪魔します」
悠真が部屋へ入ってくる。
初めてではない。
それでも、自分の部屋に好きな人がいるというだけで緊張する。
「ソファに座ってて。救急箱を取ってくるね」
「うん」
美咲は棚から救急箱を取り出しながら、深呼吸を繰り返した。
昨日と同じように、服を脱いだ悠真の背中へ触れることになる。
その事実を考えただけで、指先まで熱くなる。
けれど今夜は、それ以上に嬉しかった。
天宮レイではなく、悠真が自分を頼ってくれた。
美咲は救急箱を抱え、ソファへ戻る。
「悠真くん」
「何?」
「頼ってくれてありがとう」
「湿布を貼ってもらうだけだろ」
「それでも」
美咲は悠真の隣へ腰を下ろし、微笑んだ。
「私には、大切なことだから」
初恋の人と、今好きな人。
かつては別々だった二人が、今日、一人の少年としてつながった。
それでも、美咲の恋が過去へ戻ることはない。
天宮レイは、彼女が変わるきっかけをくれた初恋。
水瀬悠真は――。
今、触れたいと願い。
隣にいたいと願い。
いつか同じ気持ちを返してほしいと願う、現在の恋だった。
読んでくださってありがとうございます。
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