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【最新作】普通を演じる元天才子役は、隣室の美少女優等生に生活を管理される  作者: 優
第二章 初恋の人を、好きになるまで

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第41話 ご褒美の意味


 目を覚ましたとき、最初に見えたのは白い天井だった。


 カーテンの向こうはすでに暗い。


 部屋にはテレビの音もなく、壁時計の秒針だけが一定の間隔で響いている。


 ぼんやりと瞬きをした悠真は、後頭部に触れる柔らかな感触に気づいた。


 枕ではない。


 仄かな体温があり、自分の髪を誰かの指がゆっくりと撫でている。


「起きた?」


 真上から、美咲の声が降ってきた。


 顔を少し動かすと、こちらを覗き込んでいる美咲と目が合う。


「……美咲」


「おはよう。といっても、もう夜だけど」


 悠真は数回瞬きを繰り返した。


 自分が膝枕をしてもらったまま眠っていたことを思い出す。


「俺、どのくらい寝てた?」


「一時間くらい」


「一時間?」


「うん」


「ずっとこのまま?」


「そうだよ」


「足、痺れてない?」


「少しだけ」


「起こせばよかったのに」


「気持ちよさそうに眠ってたから」


 美咲は困ったように笑う。


 悠真は慌てて起きようとした。


 しかし急に身体を動かしたせいで、右肩へ痛みが走る。


「っ……」


「急に起きたら駄目!」


 美咲が咄嗟に悠真の左肩を押さえる。


 起き上がりかけていた身体が再び太腿の上へ戻された。


「ごめん」


「もう。せっかく病院で診てもらったのに、部屋で悪化させないでよ」


「肩じゃなくて、足の方が心配なんだけど」


「私は大丈夫」


「一時間も頭を乗せてたんだろ」


「悠真くんの頭、思っていたより軽かったから」


「中身が入ってないみたいな言い方だな」


「そういう意味じゃないよ」


 美咲がくすくすと笑う。


 そのたびに太腿がわずかに揺れ、悠真の後頭部へ感触が伝わった。


 目を覚ました今となっては、眠る前よりも意識してしまう。


「……そろそろ起きてもいい?」


「もう少し、このままじゃ駄目?」


 美咲の指が、悠真の前髪へ触れる。


 名残惜しそうに髪を梳きながら、少し恥ずかしそうな表情を浮かべていた。


「美咲の足が平気なら」


「うん。平気」


「じゃあ、あと少しだけ」


 目を閉じようとしたところで、眠りに落ちる直前の記憶が蘇った。


 額へ触れた、指とは違う柔らかな感触。


 夢だったのかもしれない。


 けれど、妙に鮮明に残っている。


「美咲」


「何?」


「俺が寝る前に、何かした?」


 髪を撫でていた指が止まった。


「な、何かって?」


「額に何か触れた気がする」


 美咲の身体が目に見えて強張る。


 真上にある顔が、少しずつ赤くなった。


「指じゃなかったと思うんだけど」


「……夢じゃない?」


「前にも同じことを言われたな」


「前?」


「俺が熱を出したとき」


 悠真が美咲の「好き」という声を聞いた、あの夜だ。


 あのときも美咲は、熱で見た夢だと言った。


 今回も同じように誤魔化そうとしている。


「今回は熱もないよ」


「眠ってたから、夢を見たんだよ」


「じゃあ、美咲は何もしてない?」


「してません」


「こっち見て言って」


「今も見てるでしょう?」


「目が泳いでる」


 美咲の視線は、悠真の顔と窓の間を落ち着きなく行き来していた。


「……本当に、何もしてない?」


 もう一度尋ねる。


 美咲は唇をきゅっと結び、黙り込んだ。


 やがて諦めたように、小さく息を吐く。


「少しだけ」


「何を?」


「分かってるくせに」


「確認したい」


「意地悪」


 美咲の頬がさらに赤くなる。


 悠真から顔を隠すように横を向き、消え入りそうな声で答えた。


「おでこに……しただけ」


「キス?」


「言わないで!」


 美咲の両手が悠真の目を覆う。


 突然視界を塞がれ、悠真は瞬きをした。


 柔らかな手のひらが、瞼と頬へ触れている。


「どうして隠すんだよ」


「今、顔を見られたら無理だから!」


「何が?」


「恥ずかしくて死ぬ!」


「それは困るな」


「誰のせいだと思ってるの?」


「勝手にしたのは美咲だろ」


「そうだけど……!」


 反論できず、美咲の声が小さくなる。


「悠真くんが、すごく安心した顔で眠ってたから」


「それでキスするの?」


「したくなったの!」


 美咲が思わず声を上げる。


 言った直後、部屋が静かになった。


 悠真の目を覆う手のひらまで熱くなった気がした。


「……今の忘れて」


「無理だと思う」


「忘れてください」


「命令?」


「命令です」


「一週間は言うことを聞く約束だったな」


 悠真は少し考える。


「でも、忘れたふりしかできない」


「それでいいから」


「分かった。美咲は何もしてない」


「そういう言い方をされると、余計に恥ずかしいよ……」


 美咲はようやく手を離した。


 悠真の視界に、真っ赤になった顔が戻る。


 目元は潤み、今にも泣きそうに見えるほどだった。


 悠真はしばらくその顔を見つめる。


「嫌だった?」


 美咲が恐る恐る尋ねた。


「何が?」


「その……勝手にキスしたこと」


「嫌じゃない」


 迷わず答えた。


「むしろ、嬉しかった」


 美咲の目が大きく開かれる。


 次の瞬間、耳まで赤く染まった。


「そういうことを平然と言うの、ずるい」


「平然としてないよ」


「嘘」


「心臓、かなり速いから」


「……私も」


 二人の視線が重なる。


 悠真は美咲の太腿へ頭を預けたまま。


 美咲はその髪へ片手を添えたまま。


 どちらもすぐには動けなかった。


「じゃあ」


 美咲が迷いながら口を開く。


「今度は、眠ってないときにしても……嫌じゃない?」


 悠真の呼吸が止まる。


 額へのキス。


 それだけだと分かっていても、意識せずにはいられない。


「嫌じゃないけど」


「けど?」


「今?」


「……今は無理」


 美咲はすぐに首を振った。


「自分から言っておいて?」


「心の準備ができてないの!」


「寝てる相手にはできたのに」


「寝てたからできたんだよ」


「じゃあ、目を閉じようか?」


「それも駄目」


「難しいな」


「悠真くんが意地悪になった」


 美咲は頬を膨らませ、悠真の前髪を少し乱す。


 だが本気で怒ってはいない。


 その指はすぐに髪を整えるような優しい動きへ戻った。


「いつか、ちゃんとするから」


「いつ?」


「分からない」


「待ってればいい?」


「待ってて」


 美咲が小さく微笑む。


「その代わり、急かさないでね」


「分かった」


「約束だよ」


「うん」


 これで二人の関係が何かに変わったわけではない。


 告白をしたわけでも、恋人になったわけでもない。


 それでも、互いを意識していることを隠す理由が、少しずつ減っている。


 美咲の言う「いつか」が、悠真は楽しみになっていた。


     ◇


 翌日は土曜日だった。


 球技大会後の休日ということもあり、悠真は昼近くまで眠るつもりでいた。


 しかし午前八時、玄関の呼び鈴で起こされた。


「おはよう、悠真くん」


 扉を開けると、普段着姿の美咲が立っていた。


 白いブラウスに、膝下まである淡い色のスカート。肩には小さな鞄を掛け、手には買い物袋を持っている。


「……早くない?」


「もう八時だよ」


「休日の八時は早朝だろ」


「普通の人は起きる時間です」


「眠い」


「顔を洗って着替えてきて」


「どうして?」


「命令その四です」


 美咲は人差し指を立てる。


「今日は二人で、球技大会の打ち上げをします」


「昨日うどんを食べただろ」


「あれは打ち上げじゃなくて、怪我人用の夕食」


「同じじゃない?」


「違います」


 美咲は靴を脱ぎ、悠真の返事を待たずに部屋へ上がった。


「今から一緒に料理を作るの。肩に負担がかからない範囲で、悠真くんにも手伝ってもらいます」


「昨日は何もするなって言ったのに」


「昨日より痛みはどう?」


「少し楽」


「腕は?」


 悠真が右腕を肩の高さまで上げてみせる。


 昨日より痛みは少なく、眉をひそめることもなかった。


「これくらいなら平気」


「じゃあ、混ぜる作業くらいはできそうだね」


「何を作る気?」


「オムライスと、ハンバーグ」


「重くない?」


「ご褒美だから」


「誰の?」


「悠真くんと、私の」


 美咲が楽しそうに微笑む。


「私も女子バレーで頑張ったからね」


「そういえば、女子の結果をちゃんと聞いてなかった」


「ひどい」


「俺の試合が始まったから仕方ないだろ」


「三位でした」


「おめでとう」


「もっと気持ちを込めて」


「どうやって?」


「頭を撫でるとか」


「美咲、それ好きなの?」


「嫌いじゃないよ」


 昨日、自分から悠真の手へ頭を寄せたことを思い出したのか、美咲は少し照れくさそうに目を伏せる。


 悠真は左手を伸ばし、髪を崩さないように頭を撫でた。


「三位、おめでとう。頑張ったな」


「……うん」


 美咲は嬉しそうに目を細める。


 その表情が思っていた以上に可愛らしく、悠真は手を離すタイミングを失った。


「いつまで撫でるの?」


「嫌ならやめる」


「嫌じゃない」


「なら、もう少し」


 玄関に立ったまま、静かな時間が流れる。


 美咲は目を閉じ、悠真の手のひらへ少し頭を預けた。


 自分から望んだくせに、頬が薄く赤くなっている。


「……ずっとやってたら料理できないよ」


 やがて美咲が小さく呟く。


「じゃあ、終わり」


「あっ」


 悠真が手を離すと、美咲の口から残念そうな声が漏れた。


「何?」


「何でもない」


「もっとしてほしかった?」


「知りません。早く着替えてきて」


「命令?」


「命令です」


 美咲は背を向け、買い物袋を持ってキッチンへ向かった。


 その耳が赤いのを見ながら、悠真は小さく笑った。


     ◇


「玉ねぎをみじん切りにします」


「俺が?」


「私が」


「だよな」


「悠真くんに包丁を持たせたら、ご褒美が流血事件になるから」


「さすがに玉ねぎくらい切れる」


「前に長ねぎと間違えて、全部輪切りにした人が?」


「似たようなものだろ」


「全然違います」


 美咲が呆れたように息を吐く。


 二人は並んでキッチンに立っていた。


 悠真の役目は、ボウルへ入れた挽き肉と材料を混ぜること。


 肩に負担をかけないよう左手を中心に使っているため、なかなか上手くまとまらない。


「これ、本当に素手で混ぜるの?」


「その方が均等になるよ」


「冷たい」


「頑張って」


「美咲もやってよ」


「私は玉ねぎを切ってるでしょう?」


「命令ばかりじゃなく、手伝ってくれてもいいと思う」


「仕方ないなあ」


 美咲は玉ねぎを切り終えると、手を洗って悠真の隣へ戻った。


 同じボウルへ右手を入れる。


「こうやって、下から持ち上げるように混ぜるの」


「狭くない?」


「悠真くんの手が大きいから」


 ボウルの中で、二人の指が何度も触れ合う。


 冷たい挽き肉を混ぜているだけなのに、指先が触れるたび悠真は意識してしまった。


「悠真くん、手が止まってる」


「美咲の指が当たるから」


「仕方ないでしょう。同じところを混ぜてるんだから」


「昨日から思ってたけど、美咲って距離が近いよな」


「誰にでも近いわけじゃないよ」


 美咲が小さな声で答える。


「悠真くんだから、近くても平気なの」


「昨日は恥ずかしがってたけど」


「平気なのと恥ずかしいのは別です」


「難しい」


「私だって自分で分からないよ」


 美咲が顔を上げる。


 近い距離で目が合う。


 二人の手は、まだ同じボウルの中にある。


「悠真くんに触れるのは嫌じゃない。むしろ、もっと近くにいたいって思うときもある」


「……うん」


「でも、本当に近くなると恥ずかしくて、逃げたくなるの」


「昨日みたいに?」


「昨日は悠真くんの背中が思ってたより……」


 美咲は言葉を止める。


「何?」


「何でもない」


「そこまで言ったら気になる」


「少し筋肉がついてたから、驚いただけ!」


 勢いよく言い切ると、美咲は顔を赤くして俯いた。


「鍛えてないって言ってたのに」


「昔、仕事で身体を動かすこともあったから」


「撮影の仕事?」


「うん」


 何気なく答えてから、悠真の手が止まる。


 決勝が終わったら、過去について少し話す。


 そう約束していた。


 美咲も思い出したらしい。


 表情から羞恥が薄れ、真剣な眼差しへ変わる。


「その話、今日聞いてもいい?」


「……料理が終わったら」


「無理しなくていいよ」


「俺から話すって言ったから」


 悠真はボウルの中の材料へ視線を落とす。


「全部は、まだ話せないと思う。でも、知っておいてほしいことがある」


「分かった」


 美咲はそれ以上尋ねず、再び肉を混ぜ始めた。


 指が触れる。


 今度は二人とも手を引かなかった。


     ◇


 完成した昼食は、想像していた以上に豪華になった。


 チキンライスを薄い卵で包んだオムライス。


 小さめのハンバーグ。


 サラダとスープ。


 美咲の皿にはケチャップで花が描かれ、悠真の皿には大きく『準優勝』と書かれていた。


「優勝じゃないのが微妙だな」


「準優勝だって立派だよ」


「せめて『お疲れ』とかでよかったんじゃない?」


「文字数が多いから、途中で失敗しそうだったの」


「準優勝も四文字だけど」


「細かいことは気にしない」


 二人は向かい合って座り、手を合わせる。


「いただきます」


 オムライスを一口食べる。


 卵は柔らかく、中のチキンライスもほどよい味つけだった。


「美味しい」


「本当?」


「うん」


「ハンバーグは悠真くんも混ぜたんだから、自分で作ったことになるね」


「混ぜただけだろ」


「立派な一歩です」


 美咲は嬉しそうにハンバーグを切り、口へ運ぶ。


「うん。こっちも美味しい」


「自分で食べたら分かる」


「味見する?」


「今食べたばかりだろ」


「そうじゃなくて」


 美咲は自分のハンバーグを小さく切り、フォークに刺した。


 そのまま悠真の方へ差し出す。


「はい」


「……同じものだろ」


「私の方が少し小さいから、焼け具合が違うかも」


「本当に?」


「たぶん」


 美咲は少し恥ずかしそうにしながらも、フォークを引かない。


 悠真は数秒迷い、差し出されたハンバーグを口へ入れた。


「どう?」


「俺のより柔らかい気がする」


「でしょう?」


 美咲は満足そうに笑い、そのまま同じフォークで自分のハンバーグを食べる。


 悠真はその動きを見てしまった。


「何?」


「いや……同じフォーク使うんだなって」


 美咲の口が止まる。


 自分の手にあるフォークを見下ろし、何をしたのか理解したらしい。


「こ、これは……」


「美咲からやったんだからな」


「今のは忘れて」


「昨日から忘れることが多すぎない?」


「一週間は命令を聞く約束です」


「便利な使い方を覚えたな」


 美咲は顔を赤くしながら、フォークを皿へ置く。


 少し迷ったあと、悠真を上目遣いで見た。


「……嫌だった?」


「嫌じゃない」


「じゃあ、忘れなくてもいいよ」


「命令を撤回するの?」


「うん」


「分かった」


 悠真はわざと美咲のフォークを見つめる。


「美咲と間接キスしたこと、覚えておく」


「言わなくていいの!」


 美咲の抗議する声が、部屋へ響く。


 顔を真っ赤にしているが、怒りよりも嬉しさを隠そうとしているように見えた。


 食事を終え、二人で食器を片づける。


 いつもと変わらない時間。


 それでも今日は、このあと話さなければならないことがある。


 悠真はソファへ座り、自分の前で両手を組んだ。


 美咲も隣へ腰を下ろす。


 先ほどまでの楽しそうな表情を収め、何も言わず悠真が話し始めるのを待っている。


「前に、撮影の仕事をしてたって話したよな」


「うん」


「子どもの頃から、ドラマやCMに出てた」


 美咲の指が、膝の上でわずかに動く。


 それでも口を挟まない。


「本名は出してなかった。芸名を使ってたから、今の俺を知ってる人はほとんどいない」


 そこまで話すと、喉が詰まるような感覚があった。


 次の名前を口にすれば、もう戻れない。


 美咲はおそらく、すでに気づいている。


 だが、予想と本人の告白は違う。


 悠真は自分の過去を、美咲へ預けようとしている。


「その芸名は――」


 声が震えそうになる。


 すると、隣にあった美咲の手が、悠真の左手へ重ねられた。


「急がなくていいよ」


「……うん」


「ちゃんとここにいるから」


 温かい手。


 悠真はその手を握り返す。


「天宮レイ」


 ついに、その名前を口にした。


「それが、昔の俺の名前だった」


 美咲は驚かなかった。


 ただ静かに目を閉じ、何かを受け止めるように息を吐いた。


「やっぱり、そうだったんだね」


「いつから気づいてた?」


「少し前から。でも、悠真くんが話してくれるのを待ってた」


「初恋だったんだろ。天宮レイが」


「うん」


「……今、どんな気持ち?」


 聞くのが怖かった。


 美咲がそばにいたのは、水瀬悠真が天宮レイだったからなのか。


 現在の自分ではなく、昔の自分を見ていたのではないか。


 そんな疑いが、心の奥に生まれてしまう。


 美咲は悠真の手を握ったまま、身体を向ける。


「嬉しいよ」


「やっぱり」


「違う」


 美咲はすぐに首を振った。


「天宮レイが隣にいたから嬉しいんじゃない」


「じゃあ、何が?」


「悠真くんが、秘密を話してくれたことが嬉しい」


 まっすぐな眼差しだった。


「天宮レイは、小さい頃の私にとって憧れだった。テレビの向こうにいた、初恋の人」


「うん」


「でも今、私が大切にしたいのは――」


 美咲の唇が、次の言葉を形作ろうとする。


 悠真は息を止め、その続きを待った。


 しかし美咲は、あと一歩のところで顔を赤くして俯いた。


「今、隣にいる人だよ」


 直接的な言葉ではない。


 それでも、意味は十分に伝わった。


 美咲が見ているのは、天宮レイではない。


 料理も洗濯もできず、学校を気分で休み、平凡なふりをしている水瀬悠真。


「……そっか」


 それ以上の言葉が出なかった。


 胸の奥に溜まっていた重いものが、少しずつ解けていく。


「話してくれてありがとう」


 美咲は握った手を、自分の胸元へ引き寄せた。


 悠真の指先へ、美咲の鼓動が伝わる。


 速い。


 自分と同じくらい、彼女も緊張している。


「これからも、悠真くんって呼んでいい?」


「急にレイって呼ばれるのかと思った」


「呼んでほしい?」


「嫌だ」


「なら呼ばない」


 美咲は柔らかく微笑む。


「私が好きになったのは、今ここにいる悠真くんだから」


 あまりに自然に告げられた言葉。


 美咲は数秒後、自分が何を言ったのか気づいた。


「あ……」


 顔が一気に赤くなる。


「今、好きって」


「違うの!」


「何が?」


「違わないけど、今のは、その……!」


 美咲は悠真の手を離し、両手で顔を隠した。


「なし! 今のなし!」


「無理だと思う」


「一週間は私の命令を――」


「これは忘れたふりもできない」


「どうして?」


「嬉しかったから」


 悠真が答えると、美咲は指の隙間からこちらを見る。


「……本当に?」


「うん」


「じゃあ、忘れないで」


「どっちなんだよ」


「今、変えたの」


 美咲は顔を隠したまま、消え入りそうな声で続ける。


「でも、ちゃんと伝えるのは、もう少し待って」


「分かった」


「それまで、今の関係でいてくれる?」


 悠真は少し考え、美咲の両手首を優しく掴んだ。


 顔を隠していた手を、ゆっくり下ろす。


 真っ赤になった美咲の顔が現れる。


「俺も、自分の気持ちをちゃんと考えたい」


「うん」


「だから待つ」


「ありがとう」


 美咲の目元が柔らかくなる。


 二人はしばらく見つめ合った。


 どちらからともなく顔が近づきかける。


 あと少し。


 互いの呼吸が分かるほどの距離。


 美咲の瞼が、ゆっくりと閉じかけた。


 その瞬間。


 ぐうううう、と静かな部屋に大きな音が響いた。


 二人の動きが止まる。


「……今の、美咲?」


「ち、違うよ!」


「じゃあ俺か」


「さっき食べたばかりでしょう?」


「昼食から二時間くらい経ってるから」


「二時間でお腹が鳴るの?」


「成長期だから」


 二人は顔を見合わせる。


 そして同時に吹き出した。


 甘い雰囲気は消えてしまった。


 けれど、悠真はなぜか残念には思わなかった。


 急がなくていい。


 過去を明かした今日、二人の距離は確かに一歩近づいたのだから。


 ただ一つ、悠真はまだ話していない。


 天宮レイが、なぜ突然芸能界を去ったのか。


 そして「期待」という言葉を恐れるようになった、本当の理由を。


 それを伝えるには、もう少しだけ時間が必要だった。

読んでくださってありがとうございます。

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