第40話 負けた日の帰り道
閉会式が始まる頃には、悠真の右肩はじっとしていても痛むようになっていた。
試合直後より熱を持ち、体操服が擦れるだけでも鈍い痛みが走る。
美咲には気づかれないよう、できるだけ普段どおりにしていたつもりだった。
「悠真くん」
「……何?」
「今、また肩を押さえたよね」
「気のせいじゃない?」
「今日だけで四回目の気のせいだね」
隣に立つ美咲は、呆れたように眉尻を下げた。
全校生徒が体育館へ集まっているため、二人は列の後方に並んでいる。前にはクラスメイトが大勢いるが、閉会式のざわめきに紛れ、美咲の小さな声まで聞いている者はいない。
「そんなに数えてたの?」
「見てたら分かるよ」
「ずっと俺を見てたんだ」
何気なく言うと、美咲の肩が小さく揺れた。
「そ、それは怪我が心配だったから」
「試合中も?」
「試合中は当然でしょう?」
「俺がベンチに下がったあとも?」
「それは……」
美咲は言葉に詰まり、正面へ顔を向ける。
横から見える頬が、少しずつ赤くなっていった。
「進藤くんたちを応援しながら、悠真くんも見てただけです」
「やっぱり見てたんだ」
「もう、今は肩の話をしてるの!」
美咲が頬を膨らませる。
強引に話を戻したいらしい。
悠真は小さく笑ったが、その振動で肩に痛みが走り、わずかに顔をしかめた。
「ほら、やっぱり痛いんでしょう」
「笑ったら響いただけ」
「それを痛いって言うんだよ」
美咲は悠真の右腕へ手を伸ばしかけ、周囲の目に気づいて途中で止めた。
心配そうな指先が行き場を失い、胸元で握られる。
「閉会式が終わったら、すぐ病院へ行こうね」
「命令その一、だっけ」
「うん。拒否は認めません」
「今日の美咲、厳しいな」
「誰のせいだと思ってるの?」
「俺です」
「分かってるなら、ちゃんと言うことを聞いてください」
「はい」
悠真が素直に返事をすると、美咲は少し驚いたように瞬きをした。
「どうしたの?」
「いや。もっと嫌がると思ってた」
「一週間は美咲の言うことを聞くって約束したから」
「本当に何でも聞いてくれるの?」
「俺にできることなら」
「じゃあ……」
美咲は何かを言いかけて、口を閉じる。
「何?」
「あとで考える」
「今、変な命令を考えなかった?」
「考えてないよ」
「顔が怪しい」
「怪しくありません」
美咲は正面を向いたまま、唇をきゅっと結んだ。
だが、耳が赤い。
いったい何をさせるつもりなのか。
少し不安ではあるが、美咲が本当に困るようなことを命じるとも思えなかった。
やがて、壇上へ生徒会長が上がり、閉会式が始まった。
各競技の結果が発表されていく。
男子バスケットボールは五組が優勝、一組が準優勝。
クラス名が呼ばれると、一組の列から拍手と歓声が上がった。
「惜しかったな」
「でも準優勝だぞ!」
「最初の試合、あそこから逆転したのすごかったよな」
クラスメイトたちの声が聞こえる。
そして当然のように、何人かが悠真を振り返った。
「水瀬のおかげだ!」
「進藤もな!」
「佐野のシュートもよかった!」
「俺も決めたぞ!」
木村が自分を指差し、周囲から笑いが起こる。
閉会式中のため担任に静かにするよう注意されたが、全員の表情は明るかった。
優勝できなかった悔しさはある。
それでも誰か一人を責める者はいない。
悠真が怪我で途中交代したことも、決勝で負けたことも、失望の理由にはなっていなかった。
「不思議そうな顔してるね」
美咲が小声で言う。
「そう?」
「うん。褒められると思ってなかったみたい」
「最後まで出られなかったから」
「それでも、悠真くんが頑張ったことは変わらないよ」
「負けたのに?」
「負けたら全部なくなるの?」
美咲は穏やかに尋ねる。
「勝つために練習したことも、みんなで協力したことも、試合が楽しかったことも。負けたら意味がなくなる?」
「……ならないと思う」
「それなら、ちゃんと受け取っていいんだよ」
「何を?」
「みんなの『ありがとう』を」
悠真は前に並ぶクラスメイトたちの背中を見る。
子役だった頃、結果がよければ褒められた。
視聴率が上がれば、笑顔で肩を叩かれた。
だが、その言葉のあとには必ず次があった。
次も頼む。
次はもっと上手くやれ。
期待している。
褒め言葉は、首へ掛けられる新しい鎖と同じだった。
けれど、今の「ありがとう」は違うのかもしれない。
「……そうだな」
悠真は小さく頷く。
「あとで俺からも言っておく」
「何を?」
「一緒にやってくれて、ありがとうって」
美咲は目を細め、嬉しそうに微笑んだ。
「うん。その方がいいと思う」
◇
閉会式のあと、教室へ戻ると担任から結果について簡単な話があった。
「優勝を逃した競技も多かったが、総合順位では一年一組が二位だ。よく頑張ったな」
担任が黒板の前で拍手すると、教室中から声が上がる。
悠真も自分の席で小さく手を叩いた。
以前なら、こうした行事にはできるだけ関わらないようにしていただろう。
負けても悔しくない程度に手を抜き、勝っても自分のおかげだと思われない場所にいる。
それが一番安全だった。
だが今回は、少し違った。
目立った。
期待された。
負けて悔しいとも思った。
それでも、参加しなければよかったとは思わない。
「それから水瀬」
突然名前を呼ばれ、悠真は顔を上げた。
「はい」
「肩を痛めたと聞いた。大丈夫か?」
「少し打っただけです」
「保健の先生からも、きちんと病院で診てもらうよう言われている。今日は寄り道せず――」
「先生、大丈夫です」
美咲が席から立ち上がった。
「私が連れていきます」
教室が静かになる。
担任だけでなく、全員が美咲を見た。
「一ノ瀬が?」
「あっ……」
美咲は周囲の反応を見て、ようやく自分の発言に気づいたらしい。
「その、家が近所なので。水瀬くんが一人で帰るより安全ですし……」
「近所っていうか、隣だもんな」
孝太郎が余計な一言を加える。
「そういえば、一緒に夕食も食べてるんだろ?」
別の男子が続いた。
「弁当も一ノ瀬さんが作ったって聞いた」
「試合中は名前で呼んでたよね?」
「手もつないでたような……」
次々と上がる声に、美咲の顔が赤くなっていく。
「どうしてみんな知ってるの!?」
「球技大会で隠す気なかっただろ」
孝太郎が笑う。
菜月は頬杖をつきながら、楽しそうに二人を眺めていた。
「美咲、もう付き合ってるって認めたら?」
「付き合ってないよ!」
美咲が反射的に否定する。
その直後、悠真の方をちらりと見た。
「……まだ」
最後の一言は、教室の騒ぎに紛れるほど小さかった。
だが、隣の席にいる悠真には聞こえてしまった。
胸が大きく鳴る。
昨日、二年生の先輩へ言った言葉と同じだ。
まだ違う。
今は付き合っていない。
それは、いつか付き合いたいという意味なのか。
美咲の顔を見ると、目が合った。
彼女は慌てて視線を逸らし、俯いてしまう。
机の下で両手を握り、恥ずかしそうに指を動かしていた。
「静かにしろ」
担任が黒板を軽く叩く。
教室の声が落ち着くと、担任は美咲へ向き直った。
「一ノ瀬が付き添うなら安心だが、無理はするなよ」
「はい」
「水瀬も、嫌がらずに行け」
「……分かりました」
これで逃げ道はなくなった。
もともと美咲との約束を破るつもりはなかったが、教室全員に見送られて病院へ行くことになるとは思わなかった。
◇
学校から徒歩で十五分ほどの場所に、小さな整形外科があった。
診察と検査の結果、骨には異常なし。
軽い打撲と筋肉の炎症で、一週間ほど激しい運動を控えれば問題ないとのことだった。
「だから大丈夫って言っただろ」
病院を出た悠真が言うと、美咲は隣で頬を膨らませた。
「大丈夫だって確認するために病院へ来たの」
「結果的には来なくても平気だった」
「違うよ。来たから安心できたの」
美咲は処方された湿布が入った袋を、自分の鞄へ大切そうにしまう。
「それ、俺が持つよ」
「駄目。右肩を休ませて」
「左手で持つ」
「それなら、私の手を持ってて」
「……え?」
悠真が聞き返すと、美咲は自分の発言に遅れて気づいた。
「ち、違うの。手持ち無沙汰ならって意味で……」
「手持ち無沙汰だから手を持つのか」
「上手いこと言わなくていいから!」
「別に上手くないけど」
美咲は恥ずかしそうに目を伏せる。
しかし、差し出しかけた左手は引っ込めなかった。
悠真はその手を見下ろす。
学校から離れた住宅街。
周囲に同じ制服の生徒はいない。
昨日も今日も、何度か手をつないでいる。
今さら躊躇う理由などないはずなのに、意識すると指先が動かなくなる。
「嫌なら、いいよ」
美咲が寂しそうに手を下ろしかける。
悠真は咄嗟に、その手を掴んだ。
「嫌じゃない」
「……うん」
手のひらを重ねる。
美咲の手は小さく、少し冷たかった。
悠真が指の位置を直すと、美咲の指がそっと隙間へ入ってくる。
指と指を絡める形。
昨日は途中で諦めたつなぎ方だった。
「これでいい?」
美咲が恐る恐る尋ねる。
「美咲が嫌じゃなければ」
「嫌じゃないよ」
「なら、このままで」
二人は手をつないだまま歩き出す。
腕を振るたび、重ねた手のひらが僅かに擦れた。
体温だけでなく、美咲の指の細さや、緊張から少し汗ばんでいることまで伝わる。
悠真も同じだった。
黙って歩いていると、意識がすべて左手へ集まってしまう。
「さっきから静かだね」
美咲が横目で見る。
「美咲もだろ」
「私は……緊張してるから」
「正直だな」
「悠真くんは?」
「同じ」
美咲が驚いたように目を丸くする。
その後、嬉しそうに指へ力を込めた。
「昨日の背中のときもそうだったけど」
「その話、する?」
「少しだけ」
美咲は前を向いたまま、赤くなった頬を髪で隠そうとする。
「悠真くんが私を意識してくれるの、嬉しい」
「……俺だけ恥ずかしいことを言わされてない?」
「私も恥ずかしいよ」
「そう見えない」
「顔、見て」
言われて横を見る。
美咲の頬は赤く、耳まで染まっていた。
目が合うとさらに恥ずかしくなったのか、唇をきゅっと結ぶ。
「ね?」
「確かに赤いな」
「あまり見ないで」
「見ろって言ったのは美咲だろ」
「確認したら、もう前を向いて」
「注文が多い」
「一週間は私の命令を聞く約束です」
「それに使うのか?」
悠真が笑う。
美咲も恥ずかしそうにしながら、少しだけ笑った。
恋人ではない。
けれど、ただの隣人とも言いにくい。
指を絡めて歩くこの距離に、何と名前をつければいいのだろう。
悠真にはまだ分からなかった。
◇
買い物を終え、マンションへ戻った頃には午後六時を過ぎていた。
美咲は自分の部屋で着替えてから、食材と救急箱を持って悠真の部屋へ来た。
白い半袖の部屋着に、柔らかな素材の短いパンツ。
健康的な範囲ではあるが、学校の制服より脚が大きく見えている。
「お邪魔します」
「……どうぞ」
悠真は美咲の足元を見てしまい、慌てて顔を上げた。
普段は膝丈のスカートや長めの部屋着が多い。
今日は病院や買い物で歩き疲れたため、楽な格好を選んだのだろう。
ただの部屋着だ。
何もおかしくない。
そう思っているのに、視線の置き場所に困る。
「どうしたの?」
「何でもない」
「また?」
「何でもないって」
美咲は首を傾げたあと、自分の服装へ視線を落とす。
悠真がどこを見ていたのか察したらしく、頬が赤くなった。
「……変?」
「変じゃない」
「じゃあ、見すぎ」
「見てない」
「見てたよ」
「少しだけ」
「正直に言えばいいわけじゃないの!」
美咲は持っていた買い物袋で脚を隠そうとする。
だが両手が塞がって歩きづらそうだった。
「嫌なら着替えてくれば?」
「嫌というか……悠真くんに見られると恥ずかしいだけ」
「それなら、見ないようにする」
「それはそれで嫌かも」
「どうしろっていうんだよ」
悠真が困って尋ねると、美咲は自分でも答えが分からないのか、口を閉じた。
数秒後、恥ずかしそうに小さく呟く。
「普通にしてて」
「それが一番難しい」
「頑張ってください」
「命令?」
「命令です」
美咲は顔を赤くしたまま、キッチンへ向かった。
悠真はソファへ座り、料理を始めようとする美咲の背中を見る。
「手伝わなくていい?」
「今日は駄目」
「左手だけなら」
「命令その三。ソファで休んでいてください」
「暇なんだけど」
「テレビでも見てて」
「美咲が料理してるのを見てる」
美咲の手が止まる。
「……どうして?」
「テレビより見てて飽きないから」
「そういうこと、急に言わないで」
「変な意味じゃないよ」
「分かってるけど、それでも恥ずかしいの」
美咲は俯きながら、鶏肉の入ったパックを冷蔵庫へ入れる。
耳がまた赤くなっていた。
今日の夕食は、肩を動かさずに食べやすいものとして、野菜を多めに入れたうどんになった。
食後、美咲は薬と水を用意し、空いた食器をすべて洗う。
悠真が手を出そうとすると、そのたびにソファへ戻された。
「本当に何もしなくていいの?」
「今日は甘える日でしょう?」
「命令その二か」
「うん」
片づけを終えた美咲が、悠真の隣へ腰を下ろす。
ソファがわずかに沈み、二人の肩が近づいた。
「じゃあ、甘えてみて」
「急に言われても」
「してほしいことはない?」
「湿布を貼ってもらう」
「それは最初からするつもりだよ」
「他には思いつかない」
「……もっと、あるでしょう?」
美咲が期待するように、ちらりと悠真を見る。
「例えば?」
「それを私に言わせるの?」
「美咲が命令したんだろ」
「そうだけど……」
美咲は膝の上で指を組み、落ち着かなそうに何度も組み直した。
「膝枕、とか」
消え入りそうな声だった。
「……美咲がしてくれるの?」
「悠真くんがしてほしいなら」
「嫌じゃない?」
「嫌なら言わないよ」
美咲は少し身体をずらし、ソファへ座り直す。
露出した太腿の上を両手で軽く整え、恥ずかしそうに悠真を見る。
「どうする?」
悠真は返事に困った。
美咲の脚を意識しないようにしていたのに、その上へ頭を乗せるのは難易度が高すぎる。
「やっぱり恥ずかしいからやめる?」
美咲の声に、少しだけ寂しさが混ざる。
「いや」
悠真は観念し、ソファへ身体を横たえた。
「お願いします」
「う、うん」
ゆっくりと頭を下ろす。
後頭部へ、美咲の太腿の柔らかさと温かさが伝わった。
「……重くない?」
「大丈夫」
「痛くない?」
「大丈夫だよ」
「緊張してない?」
「してる」
「俺も」
「こういうときまで正直に言わなくていいよ」
美咲の手が、恐る恐る悠真の髪へ触れる。
指先が前髪から頭頂部へ、ゆっくりと動く。
撫でられるたび、肩の痛みだけでなく、全身の力まで抜けていくようだった。
「どう?」
「……思ったより落ち着く」
「よかった」
「でも、顔をどこに向ければいいか分からない」
悠真が正面を見ると、美咲の顔が真上にある。
下を向けば別の意味で気まずい。
「天井を見てて」
「美咲の顔が視界に入る」
「見ないで」
「じゃあ目を閉じる」
「それならいいよ」
悠真は言われたとおり、目を閉じた。
視界がなくなると、美咲の指の感触や体温が、より鮮明になる。
髪を撫でる手つきは優しく、子どもを寝かしつけるようだった。
「眠ってもいい?」
「いいよ」
「その間に変なことするなよ」
「しないよ!」
美咲の指が少し強く頭を押す。
「痛い」
「自業自得です」
言葉とは裏腹に、すぐに撫で方が優しく戻った。
しばらくすると、悠真の呼吸がゆっくりになっていく。
「美咲」
「何?」
「今日、止めてくれてありがとう」
目を閉じたまま言う。
「あのまま続けてたら、もっと悪化してたと思う」
「うん」
「負けたけど、前みたいに逃げたいとは思わなかった」
「うん」
「たぶん、美咲がいたからだ」
髪を撫でていた手が止まる。
数秒後、今まで以上に優しく指が動き始めた。
「私も、悠真くんが頑張ってるところを見られて嬉しかったよ」
「途中でやめたのに?」
「やめられたことも、頑張ったことだと思う」
「そういう考え方もあるんだな」
「あるよ」
美咲は少し笑った。
「だから今日は、何も考えないで甘えてください」
「じゃあ、もう一つ」
「何?」
「しばらく、このままでいて」
言葉にしたあと、少し恥ずかしくなる。
だが美咲は笑わなかった。
「分かった」
悠真の額へ、柔らかな指先が触れる。
「眠るまで、こうしてるね」
「うん」
美咲の声が近い。
触れる太腿の温かさも、髪を撫でる手も、あまりに心地よかった。
誰かへ甘えることを、悠真はずっと忘れていた。
弱いところを見せれば利用される。
休めば誰かに役目を奪われる。
そんな環境に長くいたせいで、誰かへ身体を預けることすらできなくなっていた。
しかし、美咲なら大丈夫だと思える。
「美咲」
「今度は何?」
「一週間と言わず、もう少し長くてもいいかも」
「何が?」
「美咲の言うことを聞く期間」
美咲は一瞬黙り、やがて小さく笑った。
「じゃあ、ずっとにする?」
冗談のような声だった。
それでも、どこか本気の響きがあった。
「それは……考えておく」
「そこは、うんって言ってほしかったな」
「今すぐ決めたら、美咲に一生管理されそうだから」
「悠真くんには、それくらいがちょうどいいと思う」
「否定できない」
二人の笑い声が重なる。
悠真が眠りに落ちる直前。
額へ、指とは違う柔らかな感触が一瞬だけ触れた気がした。
けれど、目を開けることはできなかった。
夢だったのか。
それとも、美咲が何かをしたのか。
確かめる前に、悠真の意識は穏やかな眠りへ沈んでいった。
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