第39話 勝つことよりも
「相沢拓海……」
五組の選手が集まっている一角を見ながら、進藤がその名前を呟いた。
視線の先には、ひときわ背の高い男子生徒がいる。
短く整えられた黒髪。体格は細身だが、肩や腕には無駄なく筋肉がついている。周囲のクラスメイトと話している間も、時折ボールを指先で回していた。
その姿には余裕がある。
大きな声を出しているわけでもないのに、自然と周りの中心になっていた。
「あいつが相沢?」
悠真が尋ねると、進藤は苦い表情で頷いた。
「ああ。中学のとき、地区大会で何度も当たった」
「一度も勝てなかったって?」
「誰から聞いた?」
「さっき、自分で言ってただろ」
「そうだったか」
進藤は後頭部を乱暴に掻く。
いつもの自信に満ちた様子とは違い、横顔には明らかな緊張が浮かんでいた。
「相沢は一年なのに、もうバスケ部のスタメン候補だ。中学では一年からレギュラー。俺がいたチームは、あいつらに三回負けた」
「進藤一人の責任じゃないだろ」
「分かってる。でも、最後の大会は俺のミスで負けた」
進藤の手が強く握られる。
「一点差。残り五秒で俺にフリースローが二本あった。二本とも決めれば逆転だった」
「外したのか」
「一本目をな」
「それなら二本目を決めて同点だろ」
「二本目は、わざと外した。リバウンドを取って逆転を狙ったんだ」
「結果は?」
「相沢に取られた。そのまま終わりだ」
進藤は自嘲するように笑った。
「試合が終わってから、ずっと考えた。普通に一本決めていれば延長だった。格好つけて逆転なんて狙わなければ、まだ勝てる可能性があった」
「でも、その場では逆転できると思ったんだろ」
「ああ。俺が決めて、俺が勝たせるつもりだった」
進藤の言葉が、悠真の胸へ残る。
俺が勝たせる。
昨日までの自分も、同じように考えていた。
誰かに任せることができず、自分がすべてを背負おうとする。
結果を出せば期待され、期待されれば苦しくなる。それでも失敗するのが怖いから、他人には任せられない。
進藤とは理由が違っても、行き着く先は似ていた。
「今日は一人で勝とうとするなよ」
悠真が言うと、進藤は驚いたようにこちらを見る。
「それ、お前に言われるのか」
「だから言えるんだよ」
「昨日まで一人で全部やろうとしてたくせに」
「反省した」
「一ノ瀬のおかげか?」
「……否定はしない」
悠真が答えると、進藤は目を丸くしたあと、小さく笑った。
「少しは素直になったんだな」
「進藤にだけは言われたくない」
そんな会話をしていると、五組の一角から相沢が歩いてきた。
近くで見ると、進藤より数センチ背が高い。
「久しぶり、進藤」
「相沢」
「高校でもバスケを続けてるって聞いてたけど、まさか球技大会で当たるとはな」
相沢は穏やかな口調で話しかける。
挑発するような雰囲気はない。
進藤は少し身構えていたが、相沢の差し出した拳へ自分の拳を合わせた。
「今度は負けねえからな」
「それ、中学でも毎回言ってた」
「今日こそ勝つ」
「楽しみにしてる」
相沢は微笑んだあと、悠真へ顔を向けた。
「君が水瀬?」
「そうだけど」
「昨日の試合、少し見た。さっきの準決勝も最後だけ」
「それはどうも」
「バスケ部じゃないんだよな?」
「帰宅部だよ」
「進藤から教わった?」
「いや。小さい頃に少し遊んでただけ」
昨日から何度も口にしている説明を繰り返す。
相沢は悠真の目をじっと見つめた。
「それだけには見えなかったけどな」
「調子がよかったんじゃない?」
「左手のシュートまで?」
「あれは偶然」
「偶然で、あの場面に決められるものかな」
相沢の視線が、悠真の右肩へ移る。
「それに、肩を痛めてるだろ」
「みんなよく見てるな」
「プレーを見れば分かる。昨日より右腕を使ってなかった」
やはり隠せていない。
相沢は少し考えるように目を細める。
「万全のお前とやってみたかった」
「買い被りすぎだよ」
「そうかもしれない。でも、久しぶりに面白そうな相手が出てきたと思った」
「俺じゃなくて、進藤を見た方がいい」
悠真が隣へ視線を向ける。
「今日の相手は一人じゃないから」
相沢はわずかに目を見開いた。
進藤も驚いたように悠真を見ている。
やがて相沢は口元を緩めた。
「そうだな。悪かった」
進藤へ向き直る。
「決勝、楽しみにしてる」
「絶対に勝つ」
「俺も負けるつもりはない」
相沢はそれだけ言い残し、五組の仲間たちのもとへ戻っていった。
その背中を睨む進藤の顔は、先ほどまでとは変わっている。
緊張は残っているが、そこに闘志が加わっていた。
「水瀬」
「何?」
「今日は、ちゃんと俺にも頼れよ」
「そのつもり」
「肩が駄目なら、俺たちに任せろ」
「……分かった」
すぐには返せなかった。
だが、悠真は最後には頷いた。
◇
決勝戦開始まで、二十分。
悠真たちは体育館の隅で作戦を確認していた。
五組は相沢を中心としたチームだが、他の選手の身体能力も高い。相沢だけを止めても、簡単には勝てない。
「相沢を完全に止めるのは無理だと思う」
悠真はコートを見ながら話す。
「進藤が正面につく。抜かれたら佐野がゴール下へ寄って、他の三人はパスを警戒する」
「二人で相沢を挟まなくていいのか?」
佐野が不安そうに尋ねる。
「相沢なら、二人来た瞬間に空いた相手へパスを出す。無理にボールを奪わなくていい。簡単にシュートを打たせなければ十分」
「水瀬はどうする?」
「最初は進藤の補助。攻撃では、相沢をできるだけ外へ連れ出す」
「相沢がお前につくとは限らないだろ」
「たぶん、ついてくるよ」
先ほどの会話から、相沢は悠真へ興味を持っている。
それを利用すれば、ゴール下から最も厄介な選手を遠ざけられる。
「ただし」
悠真は右肩へ触れる。
「俺は右腕をあまり使えない。得点はみんなに任せる」
「大丈夫だ」
進藤が即座に答えた。
「準決勝だって、全員で勝ったんだからな」
佐野と木村も頷く。
誰も「悠真が決めてくれ」とは言わなかった。
そのことに、悠真は小さな安堵を覚える。
「水瀬くん」
後ろから美咲に呼ばれた。
振り返ると、美咲が心配そうに立っている。
「少しいい?」
「うん」
美咲に連れられ、クラスメイトたちから少し離れた場所へ移動する。
「右肩、痛くなってるでしょう」
人の少ない壁際まで来ると、美咲が小声で尋ねた。
「どうしてそう思う?」
「さっきから何度も触ってるから」
無意識だった。
痛みを確認するように、右肩へ手を置いていたらしい。
「少しだけだよ」
「朝より?」
「……少しだけ強い」
「決勝、出るの?」
「出る」
美咲の眉が寄る。
「無理しないって約束したよね」
「無理はしない。右腕を使わないようにする」
「試合中に、そんなことできる?」
「準決勝でもできた」
「最後に右肩を動かして、顔をしかめてたよ」
「見てたのか」
「ずっと見てたよ」
美咲の声がわずかに震える。
「悠真くんが楽しそうだったから、応援したいって思った。みんなと一緒に頑張ってるのも、すごく嬉しかった。でも、怪我が悪化するのは嫌だよ」
「大丈夫」
「その言葉は信用できません」
はっきりと言われ、悠真は苦笑する。
美咲は怒っているのではない。
不安なのだ。
胸元で重ねた両手が、強く握られている。
「途中で痛みが強くなったら、すぐに交代する」
「本当に?」
「今度は守る」
「今度はって……」
「風邪のときは約束を破ったから」
悠真が言うと、美咲は少しだけ目を伏せた。
「もし破ったら?」
「夕食抜き」
「それだと私も作らなくて済むから、罰にならないよ」
「じゃあ、一週間美咲の言うことを何でも聞く」
「何でも?」
美咲が顔を上げる。
「俺にできる範囲で」
「じゃあ、絶対に覚えておくからね」
「破らない前提だけどな」
悠真は軽く笑い、美咲の頭へ左手を伸ばした。
撫でようとして、途中で止める。
学校で触れるのは、さすがに目立つ。
そう思ったのだが、美咲は悠真の手を見上げたあと、自分からほんの少し頭を近づけた。
悠真の手のひらへ、柔らかな髪が触れる。
「……何してるの?」
「撫でようとしたんじゃないの?」
「そうだけど」
「なら、途中でやめないで」
少し恥ずかしそうにしながら、美咲が言う。
悠真は周囲を確認し、髪を崩さないよう軽く頭を撫でた。
「心配してくれて、ありがとう」
「子ども扱いされてるみたい」
「嫌だった?」
「……嫌じゃない」
美咲が目を細める。
手のひらへ伝わる温かさが心地よく、悠真はすぐに離せなかった。
「水瀬くん」
背後から聞こえた声に、悠真の手が止まる。
二人で振り返る。
少し離れた場所に、昨日の二年生の女子生徒が立っていた。
「あ……」
美咲が悠真から慌てて離れる。
女子生徒は二人を見比べ、楽しそうに微笑んだ。
「やっぱり彼女じゃないの?」
「ち、違います!」
昨日と同じように美咲が否定する。
しかし今日は声が小さく、勢いもなかった。
「そうなんだ?」
「まだ……違います」
「まだ?」
女子生徒が片眉を上げる。
美咲は自分が何を口にしたか気づき、真っ赤になって俯いた。
「な、何でもありません!」
悠真の胸が大きく鳴る。
まだ違う。
それは、いつか変わる可能性があるという意味なのか。
尋ねたかったが、今はその状況ではなかった。
「それで、先輩は何か用ですか?」
悠真が話を切り替えると、女子生徒は表情を改めた。
「ああ、そうだった。思い出したの」
「何を?」
「あなたが誰に似ているのか」
悠真の身体が硬くなる。
女子生徒は悪意のない笑顔を浮かべたまま、口を開いた。
「天宮レイっていう、昔の子役。知ってる?」
予想していた名前。
それでも、実際に耳にした瞬間、体育館の音が遠ざかった。
「……知りません」
「結構有名だったんだよ。私、子どもの頃に好きでさ。ドラマも見てたの」
女子生徒は懐かしそうに目を細める。
「雰囲気は全然違うけど、目元が似てる。あと、笑い方も」
「人違いです」
悠真の返事が、少しだけ硬くなる。
「うん。年齢も、たぶん違うと思う。天宮レイの本名も知らないし」
女子生徒は深く疑っているわけではないらしい。
「でも、水瀬くんも髪を整えたら、かなり似るかもね」
「そうですか」
「変なこと言ってごめん。決勝、頑張って」
手を振り、今度こそ女子生徒は去っていった。
悠真はその場に立ち尽くす。
美咲は天宮レイが初恋だった。
彼女も当然、先輩の言葉を聞いている。
「悠真くん」
美咲が呼ぶ。
悠真は顔を上げられなかった。
「……似てると思う?」
聞くべきではなかった。
それでも、尋ねずにはいられなかった。
美咲は少し黙る。
「うん」
嘘をつかず、静かに答えた。
「似てると思う」
「そう」
「でも、今はそれだけ」
美咲が、悠真の左手をそっと握る。
「私から調べたり、問い詰めたりしない。悠真くんが話してくれるまで待つって決めてるから」
「もし、俺がずっと話さなかったら?」
「それでも待つよ」
「……どうして」
「大切な人だから」
昨日と同じ言葉だった。
悠真は握られた手へ視線を落とす。
美咲の指が、少し震えている。
本当は知りたいはずだ。
幼い頃から憧れ、初恋だった天宮レイ。
その正体がすぐ隣にいるかもしれない。
それでも美咲は、自分の好奇心より悠真の気持ちを優先している。
「決勝が終わったら」
悠真はゆっくり口を開く。
「少しだけ話す」
美咲の目が大きく見開かれた。
「無理しなくてもいいよ」
「無理じゃない。全部は、まだ言えないけど」
「うん」
「それでもいいなら」
「聞かせて」
美咲は手へ少し力を込める。
「悠真くんが話してくれることなら、何でも聞きたい」
決勝戦の集合を知らせる笛が鳴った。
二人は同時にコートを見る。
「行ってくる」
「うん」
美咲は手を離しかける。
しかし、悠真はその指を握り返した。
ほんの数秒だけ、誰にも見えないように。
「約束は守るから」
「……うん。信じてる」
◇
決勝戦が始まった。
開始直後から、五組はこれまでの相手とは別格だった。
相沢を中心に、全員が迷いなく動く。
パスが速い。
一人を止めても、別の選手が空いた場所へ入る。
進藤は必死に相沢へ食らいついていたが、完全には止められない。
「進藤、右!」
悠真が声を飛ばす。
進藤が動くより先に、相沢が左へ切り返した。
そのままシュートを決める。
六対十二。
開始三分で、六点差。
「くそっ……!」
進藤が悔しそうに歯を食いしばる。
「焦るな。まだ前半だ」
「分かってる」
進藤は答えるものの、表情には焦りが浮かんでいた。
相沢に勝ちたい。
過去の敗北を取り返したい。
その気持ちが強すぎるせいで、普段より動きが硬い。
一組の攻撃。
悠真がボールを持つと、予想どおり相沢が前へ立った。
「肩、悪化してるだろ」
「試合中に相手の心配?」
「万全じゃない相手に勝っても、面白くないからな」
「それなら手加減してくれる?」
「それは無理だ」
相沢が低く腰を落とす。
隙がない。
進藤は別の選手に守られ、パスコースも塞がれている。
悠真は左手でドリブルしながら、相沢の重心を読む。
右へ抜ける道が、わずかに空いていた。
誘われている。
右肩を使わせるための罠。
分かっている。
それでも、今はそこしかない。
悠真は右へ踏み込んだ。
相沢がすぐに追う。
一歩だけ前へ出て、急停止。
右手へボールを持ち替え、跳ぶ。
肩甲骨の周辺へ、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
シュートは放った。
だが腕が最後まで伸びず、ボールはリングの手前へ当たった。
相沢がリバウンドを取る。
そのまま五組の速攻。
悠真は戻ろうとしたが、右肩の痛みで一瞬動きが遅れた。
二点を追加される。
六対十四。
「水瀬!」
進藤が駆け寄ってくる。
「今、肩をやっただろ」
「少し痛んだだけ」
「交代しろ」
「まだいける」
「一ノ瀬との約束はどうした!」
「これ以上無理はしない」
「今ので十分無理してるだろ!」
進藤の声が、コートへ響く。
審判役の教師が試合を止め、一組へ選手交代を確認する。
「大丈夫です」
悠真はすぐに答えた。
「続けられます」
教師は怪訝そうな顔をしたが、悠真が腕を動かせるのを見て試合を再開させた。
観客席へ目を向ける。
美咲と目が合った。
彼女は立ち上がり、唇を強く結んでいる。
悲しそうな目だった。
怒っているのではない。
約束を破られたことに傷ついている。
その表情を見た瞬間、悠真の胸に痛みが走った。
次は無理をしない。
そう決めていた。
美咲にも約束した。
それなのに、負けそうになった途端、また一人で背負おうとしている。
五組の攻撃。
相沢のシュートを進藤が弾いた。
ボールが悠真の前へ転がる。
拾えば、速攻へ行ける。
右肩を使わなくても、走ることはできる。
あと少しだけ。
この攻撃だけ。
そう考え、手を伸ばそうとした。
「悠真くん!」
美咲の声が響く。
悠真の動きが止まった。
「大丈夫だから!」
体育館が静まり返る。
大勢の視線が美咲へ集まる。
美咲はそれに気づいても、座らなかった。
胸の前で両手を握り、目に涙を浮かべている。
「……自分を大切にしてよ!」
その言葉が、真っすぐ悠真へ届いた。
過去、何度も言われた。
撮影を続けろ。
結果を出せ。
みんなの期待に応えろ。
多少の熱があっても、身体が痛くても、現場へ立て。
代わりはいない。
お前がやるしかない。
だが、美咲は違う。
勝たなくていいと言った。
期待へ応えることより、悠真自身を大切にしてほしいと願った。
悠真の前へ、進藤が立つ。
「水瀬」
責めるような口調ではなかった。
「任せろ」
「でも、点差が」
「八点だろ。まだ終わってない」
「俺が抜けたら――」
「一人で勝たないって、言ったよな」
進藤はまっすぐ悠真を見る。
「お前がいなくても勝てる、なんて格好いいことは言えない。でも、お前が怪我を悪化させなきゃ勝てないなら、そんな勝ち方は必要ない」
「進藤……」
「ベンチから助けてくれ。それが今、お前にできることだろ」
周りのクラスメイトたちも頷いている。
佐野が悠真の肩へ触れそうになり、右側だと気づいて慌てて左肩へ手を置いた。
「俺たちに任せてくれよ」
「さっき水瀬に決めさせてもらったから、今度は俺たちの番だ」
木村も緊張しながら笑ってみせる。
頼ること。
任せること。
それは逃げではない。
ようやく少しだけ、その意味が分かった気がした。
「……分かった」
悠真は右腕を押さえ、コートの外へ歩き出す。
一組の応援席から拍手が起こった。
誰も、悠真が逃げたとは思っていない。
美咲の前を通ったとき、悠真は足を止める。
「ごめん」
「……うん」
「約束、破った」
「そうだね」
美咲は目元を指で拭う。
怒った顔を作ろうとしているが、唇がわずかに震えていた。
「一週間、私の言うことを何でも聞いてもらうから」
「覚えてたのか」
「当然です」
「怖いな」
「最初の命令は、今すぐ座って休むこと」
「了解」
悠真がベンチへ腰を下ろすと、美咲はようやく安心したように息を吐いた。
「痛い?」
「少し」
「少しじゃ分からない」
「さっきよりは痛い」
「もう……」
美咲の目に、再び涙が浮かぶ。
悠真は左手を伸ばし、その涙を指先で拭った。
人前だということを忘れていた。
触れてから気づいたが、今さら手を引くこともできない。
「泣かないで」
「誰のせいだと思ってるの?」
「俺です」
「分かってるなら、もう無理しないで」
「うん」
素直に頷く。
美咲は悠真の指を自分の手で包み、そのまま頬へ押し当てた。
柔らかな肌と、涙の温かさが指先へ伝わる。
「絶対だからね」
「絶対」
今度こそ、約束する。
二人が周囲の視線に気づいたのは、それから数秒後だった。
菜月も孝太郎も、近くにいたクラスメイトも、驚いた顔でこちらを見ている。
美咲は悠真の手を頬へ当てたまま固まった。
「……美咲」
「何?」
「見られてる」
「え?」
美咲がゆっくり周囲を確認する。
次の瞬間、顔が耳まで赤くなった。
「ち、違うの! これは怪我人を安心させるためで――」
「普通は怪我人の方が慰められるんじゃない?」
菜月が冷静に指摘する。
「そ、そうだった……」
美咲は慌てて悠真の手を離した。
そのまま両手で自分の顔を隠す。
「もう無理……」
「俺の台詞でもあるんだけど」
悠真も顔を逸らした。
恥ずかしさで肩の痛みが少し薄れた気がした。
◇
悠真が抜けたあと、一組は必死に食らいついた。
進藤は相沢を追い続けた。
佐野も木村も、今まで以上に走った。
悠真もベンチから声を出し、相手の動きや空いた場所を伝える。
「進藤、左が空いてる!」
「佐野、戻れ!」
「木村、そのまま打っていい!」
点差は少しずつ縮まった。
前半終了時には、十四対十八。
後半開始三分で、二十対二十二。
残り二分の時点で、二十四対二十五。
ついに一点差まで追いつく。
「いける……」
美咲が胸の前で手を握る。
「ああ」
悠真も身を乗り出す。
右肩は痛む。
それでも、コートへ戻ろうとは思わなかった。
あとは仲間を信じる。
残り三十秒。
進藤が相沢の前でボールを持つ。
「今度こそ、お前に勝つ」
「来い」
進藤が右へ踏み込む。
相沢が追う。
急停止から、進藤はシュートを放つ――と見せかけた。
相沢の腕が上がる。
その下を通し、ゴール下の佐野へパス。
「佐野!」
「任せろ!」
佐野がボールを受け、跳んだ。
二点。
二十六対二十五。
一組が逆転する。
残り十二秒。
「戻れ!」
進藤が叫ぶ。
五組はすぐにボールを運ぶ。
相沢がドリブルでコート中央を突破する。
進藤が正面へ立つ。
残り五秒。
相沢が右へ切り返し、進藤を抜いた。
「まだだ!」
進藤は倒れそうになりながらも、後ろから追う。
相沢がゴール下へ跳ぶ。
同時に、進藤も腕を伸ばした。
ボールが放たれる。
バックボードに当たり、リングへ触れた。
試合終了の笛が鳴る。
ボールはリングの上を一周し――内側へ落ちた。
二十六対二十七。
一点差。
一組の敗北だった。
体育館へ、五組の歓声が響く。
一組の選手たちは、コートの上で動けなかった。
進藤はゴール下に立ち、得点板を見つめている。
また一点差。
また最後に、相沢に決められた。
「進藤……」
悠真は立ち上がり、コートへ向かう。
だが、相沢が先に進藤の前へ立った。
「危なかった」
「……負けた」
「ああ」
「また、お前に」
「でも、前とは違った」
相沢が手を差し出す。
「今日は進藤一人のチームじゃなかった。正直、次にやったらどうなるか分からない」
「慰めか?」
「本気で言ってる」
進藤はしばらく差し出された手を見つめていた。
やがて、その手を強く握る。
「次は絶対に勝つ」
「待ってる」
相沢が笑う。
進藤も悔しそうにしながら、わずかに笑い返した。
悠真が近づくと、進藤は顔を向ける。
「悪い。勝てなかった」
「どうして謝るんだよ」
「お前が無理してつないだ試合だったから」
「無理したのは俺が勝手にしたことだ。それに」
悠真は一組の仲間たちを見る。
誰も責め合っていない。
悔しそうにしながらも、互いの健闘を称えている。
「負けたけど、楽しかった」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
本気で挑み、負けた。
以前の悠真が最も避けていたことだ。
力を見せれば期待される。
それで負ければ、失望される。
だから最初から、本気を出さなければいい。
ずっと、そう考えていた。
しかし今、悔しさはあっても、後悔はなかった。
「俺もだ」
進藤が笑う。
「めちゃくちゃ悔しいけどな」
「次に勝てばいいだろ」
「お前、バスケ部に入る気になった?」
「それは別」
「即答かよ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
コートの外では、美咲が悠真を待っている。
勝つことより、自分を大切にしてほしいと言ってくれた少女。
悠真は右肩を押さえながら、美咲のもとへ歩く。
「お疲れさま」
「うん」
「残念だったね」
「悔しいけど、悪くなかった」
悠真が答えると、美咲は嬉しそうに目を細めた。
「そっか」
「でも、約束は破ったから」
「一週間、覚悟してね」
「何をさせるつもり?」
「まずは今日、病院に行きます」
「そこまでしなくても」
「命令その一です」
美咲はぴしりと人差し指を立てる。
「拒否権はありません」
「……分かりました」
「そのあとは買い物」
「肩が痛いのに?」
「荷物は私が持つよ。冷蔵庫の中身がほとんどないでしょう?」
「昨日、買い忘れたな」
「それから夕食を作って、湿布を貼り直します」
「結局、昨日とあまり変わらない」
「まだあります」
美咲は少し迷い、頬を赤くしながら悠真を見る。
「命令その二」
「何?」
「今日は……私に甘えてください」
「それ、命令なのか?」
「悠真くんは命令しないと甘えてくれないから」
悠真はしばらく美咲を見つめた。
やがて苦笑し、左手を差し出す。
「じゃあ、部屋まで連れて帰って」
「子どもじゃないんだから」
「甘えろって言ったのは美咲だろ」
「そうだけど……」
口では困ったように言いながら、美咲は嬉しそうにその手を握った。
今度は手首ではない。
指と指を重ね、しっかりと手のひらを合わせる。
「仕方ないなあ」
「嫌なら離していいけど」
「離さないよ」
美咲の指へ、少しだけ力がこもる。
「今日は、絶対に離さないから」
その言葉の意味を深く考えた途端、悠真の心臓が速くなる。
だが美咲は自分の発言に気づいていないのか、悠真の肩ばかり気にしていた。
一組は優勝できなかった。
悠真はまた無理をして、美咲との約束も破った。
それでも敗北の先に残ったものは、後悔だけではない。
仲間を信じること。
誰かへ頼ること。
そして、勝てなくても隣にいてくれる人がいること。
それを知れたのなら、この一敗には勝利より大きな意味があったのかもしれなかった。
読んでくださってありがとうございます。
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