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【最新作】普通を演じる元天才子役は、隣室の美少女優等生に生活を管理される  作者: 優
第二章 初恋の人を、好きになるまで

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第39話 勝つことよりも


「相沢拓海……」


 五組の選手が集まっている一角を見ながら、進藤がその名前を呟いた。


 視線の先には、ひときわ背の高い男子生徒がいる。


 短く整えられた黒髪。体格は細身だが、肩や腕には無駄なく筋肉がついている。周囲のクラスメイトと話している間も、時折ボールを指先で回していた。


 その姿には余裕がある。


 大きな声を出しているわけでもないのに、自然と周りの中心になっていた。


「あいつが相沢?」


 悠真が尋ねると、進藤は苦い表情で頷いた。


「ああ。中学のとき、地区大会で何度も当たった」


「一度も勝てなかったって?」


「誰から聞いた?」


「さっき、自分で言ってただろ」


「そうだったか」


 進藤は後頭部を乱暴に掻く。


 いつもの自信に満ちた様子とは違い、横顔には明らかな緊張が浮かんでいた。


「相沢は一年なのに、もうバスケ部のスタメン候補だ。中学では一年からレギュラー。俺がいたチームは、あいつらに三回負けた」


「進藤一人の責任じゃないだろ」


「分かってる。でも、最後の大会は俺のミスで負けた」


 進藤の手が強く握られる。


「一点差。残り五秒で俺にフリースローが二本あった。二本とも決めれば逆転だった」


「外したのか」


「一本目をな」


「それなら二本目を決めて同点だろ」


「二本目は、わざと外した。リバウンドを取って逆転を狙ったんだ」


「結果は?」


「相沢に取られた。そのまま終わりだ」


 進藤は自嘲するように笑った。


「試合が終わってから、ずっと考えた。普通に一本決めていれば延長だった。格好つけて逆転なんて狙わなければ、まだ勝てる可能性があった」


「でも、その場では逆転できると思ったんだろ」


「ああ。俺が決めて、俺が勝たせるつもりだった」


 進藤の言葉が、悠真の胸へ残る。


 俺が勝たせる。


 昨日までの自分も、同じように考えていた。


 誰かに任せることができず、自分がすべてを背負おうとする。


 結果を出せば期待され、期待されれば苦しくなる。それでも失敗するのが怖いから、他人には任せられない。


 進藤とは理由が違っても、行き着く先は似ていた。


「今日は一人で勝とうとするなよ」


 悠真が言うと、進藤は驚いたようにこちらを見る。


「それ、お前に言われるのか」


「だから言えるんだよ」


「昨日まで一人で全部やろうとしてたくせに」


「反省した」


「一ノ瀬のおかげか?」


「……否定はしない」


 悠真が答えると、進藤は目を丸くしたあと、小さく笑った。


「少しは素直になったんだな」


「進藤にだけは言われたくない」


 そんな会話をしていると、五組の一角から相沢が歩いてきた。


 近くで見ると、進藤より数センチ背が高い。


「久しぶり、進藤」


「相沢」


「高校でもバスケを続けてるって聞いてたけど、まさか球技大会で当たるとはな」


 相沢は穏やかな口調で話しかける。


 挑発するような雰囲気はない。


 進藤は少し身構えていたが、相沢の差し出した拳へ自分の拳を合わせた。


「今度は負けねえからな」


「それ、中学でも毎回言ってた」


「今日こそ勝つ」


「楽しみにしてる」


 相沢は微笑んだあと、悠真へ顔を向けた。


「君が水瀬?」


「そうだけど」


「昨日の試合、少し見た。さっきの準決勝も最後だけ」


「それはどうも」


「バスケ部じゃないんだよな?」


「帰宅部だよ」


「進藤から教わった?」


「いや。小さい頃に少し遊んでただけ」


 昨日から何度も口にしている説明を繰り返す。


 相沢は悠真の目をじっと見つめた。


「それだけには見えなかったけどな」


「調子がよかったんじゃない?」


「左手のシュートまで?」


「あれは偶然」


「偶然で、あの場面に決められるものかな」


 相沢の視線が、悠真の右肩へ移る。


「それに、肩を痛めてるだろ」


「みんなよく見てるな」


「プレーを見れば分かる。昨日より右腕を使ってなかった」


 やはり隠せていない。


 相沢は少し考えるように目を細める。


「万全のお前とやってみたかった」


「買い被りすぎだよ」


「そうかもしれない。でも、久しぶりに面白そうな相手が出てきたと思った」


「俺じゃなくて、進藤を見た方がいい」


 悠真が隣へ視線を向ける。


「今日の相手は一人じゃないから」


 相沢はわずかに目を見開いた。


 進藤も驚いたように悠真を見ている。


 やがて相沢は口元を緩めた。


「そうだな。悪かった」


 進藤へ向き直る。


「決勝、楽しみにしてる」


「絶対に勝つ」


「俺も負けるつもりはない」


 相沢はそれだけ言い残し、五組の仲間たちのもとへ戻っていった。


 その背中を睨む進藤の顔は、先ほどまでとは変わっている。


 緊張は残っているが、そこに闘志が加わっていた。


「水瀬」


「何?」


「今日は、ちゃんと俺にも頼れよ」


「そのつもり」


「肩が駄目なら、俺たちに任せろ」


「……分かった」


 すぐには返せなかった。


 だが、悠真は最後には頷いた。


     ◇


 決勝戦開始まで、二十分。


 悠真たちは体育館の隅で作戦を確認していた。


 五組は相沢を中心としたチームだが、他の選手の身体能力も高い。相沢だけを止めても、簡単には勝てない。


「相沢を完全に止めるのは無理だと思う」


 悠真はコートを見ながら話す。


「進藤が正面につく。抜かれたら佐野がゴール下へ寄って、他の三人はパスを警戒する」


「二人で相沢を挟まなくていいのか?」


 佐野が不安そうに尋ねる。


「相沢なら、二人来た瞬間に空いた相手へパスを出す。無理にボールを奪わなくていい。簡単にシュートを打たせなければ十分」


「水瀬はどうする?」


「最初は進藤の補助。攻撃では、相沢をできるだけ外へ連れ出す」


「相沢がお前につくとは限らないだろ」


「たぶん、ついてくるよ」


 先ほどの会話から、相沢は悠真へ興味を持っている。


 それを利用すれば、ゴール下から最も厄介な選手を遠ざけられる。


「ただし」


 悠真は右肩へ触れる。


「俺は右腕をあまり使えない。得点はみんなに任せる」


「大丈夫だ」


 進藤が即座に答えた。


「準決勝だって、全員で勝ったんだからな」


 佐野と木村も頷く。


 誰も「悠真が決めてくれ」とは言わなかった。


 そのことに、悠真は小さな安堵を覚える。


「水瀬くん」


 後ろから美咲に呼ばれた。


 振り返ると、美咲が心配そうに立っている。


「少しいい?」


「うん」


 美咲に連れられ、クラスメイトたちから少し離れた場所へ移動する。


「右肩、痛くなってるでしょう」


 人の少ない壁際まで来ると、美咲が小声で尋ねた。


「どうしてそう思う?」


「さっきから何度も触ってるから」


 無意識だった。


 痛みを確認するように、右肩へ手を置いていたらしい。


「少しだけだよ」


「朝より?」


「……少しだけ強い」


「決勝、出るの?」


「出る」


 美咲の眉が寄る。


「無理しないって約束したよね」


「無理はしない。右腕を使わないようにする」


「試合中に、そんなことできる?」


「準決勝でもできた」


「最後に右肩を動かして、顔をしかめてたよ」


「見てたのか」


「ずっと見てたよ」


 美咲の声がわずかに震える。


「悠真くんが楽しそうだったから、応援したいって思った。みんなと一緒に頑張ってるのも、すごく嬉しかった。でも、怪我が悪化するのは嫌だよ」


「大丈夫」


「その言葉は信用できません」


 はっきりと言われ、悠真は苦笑する。


 美咲は怒っているのではない。


 不安なのだ。


 胸元で重ねた両手が、強く握られている。


「途中で痛みが強くなったら、すぐに交代する」


「本当に?」


「今度は守る」


「今度はって……」


「風邪のときは約束を破ったから」


 悠真が言うと、美咲は少しだけ目を伏せた。


「もし破ったら?」


「夕食抜き」


「それだと私も作らなくて済むから、罰にならないよ」


「じゃあ、一週間美咲の言うことを何でも聞く」


「何でも?」


 美咲が顔を上げる。


「俺にできる範囲で」


「じゃあ、絶対に覚えておくからね」


「破らない前提だけどな」


 悠真は軽く笑い、美咲の頭へ左手を伸ばした。


 撫でようとして、途中で止める。


 学校で触れるのは、さすがに目立つ。


 そう思ったのだが、美咲は悠真の手を見上げたあと、自分からほんの少し頭を近づけた。


 悠真の手のひらへ、柔らかな髪が触れる。


「……何してるの?」


「撫でようとしたんじゃないの?」


「そうだけど」


「なら、途中でやめないで」


 少し恥ずかしそうにしながら、美咲が言う。


 悠真は周囲を確認し、髪を崩さないよう軽く頭を撫でた。


「心配してくれて、ありがとう」


「子ども扱いされてるみたい」


「嫌だった?」


「……嫌じゃない」


 美咲が目を細める。


 手のひらへ伝わる温かさが心地よく、悠真はすぐに離せなかった。


「水瀬くん」


 背後から聞こえた声に、悠真の手が止まる。


 二人で振り返る。


 少し離れた場所に、昨日の二年生の女子生徒が立っていた。


「あ……」


 美咲が悠真から慌てて離れる。


 女子生徒は二人を見比べ、楽しそうに微笑んだ。


「やっぱり彼女じゃないの?」


「ち、違います!」


 昨日と同じように美咲が否定する。


 しかし今日は声が小さく、勢いもなかった。


「そうなんだ?」


「まだ……違います」


「まだ?」


 女子生徒が片眉を上げる。


 美咲は自分が何を口にしたか気づき、真っ赤になって俯いた。


「な、何でもありません!」


 悠真の胸が大きく鳴る。


 まだ違う。


 それは、いつか変わる可能性があるという意味なのか。


 尋ねたかったが、今はその状況ではなかった。


「それで、先輩は何か用ですか?」


 悠真が話を切り替えると、女子生徒は表情を改めた。


「ああ、そうだった。思い出したの」


「何を?」


「あなたが誰に似ているのか」


 悠真の身体が硬くなる。


 女子生徒は悪意のない笑顔を浮かべたまま、口を開いた。


「天宮レイっていう、昔の子役。知ってる?」


 予想していた名前。


 それでも、実際に耳にした瞬間、体育館の音が遠ざかった。


「……知りません」


「結構有名だったんだよ。私、子どもの頃に好きでさ。ドラマも見てたの」


 女子生徒は懐かしそうに目を細める。


「雰囲気は全然違うけど、目元が似てる。あと、笑い方も」


「人違いです」


 悠真の返事が、少しだけ硬くなる。


「うん。年齢も、たぶん違うと思う。天宮レイの本名も知らないし」


 女子生徒は深く疑っているわけではないらしい。


「でも、水瀬くんも髪を整えたら、かなり似るかもね」


「そうですか」


「変なこと言ってごめん。決勝、頑張って」


 手を振り、今度こそ女子生徒は去っていった。


 悠真はその場に立ち尽くす。


 美咲は天宮レイが初恋だった。


 彼女も当然、先輩の言葉を聞いている。


「悠真くん」


 美咲が呼ぶ。


 悠真は顔を上げられなかった。


「……似てると思う?」


 聞くべきではなかった。


 それでも、尋ねずにはいられなかった。


 美咲は少し黙る。


「うん」


 嘘をつかず、静かに答えた。


「似てると思う」


「そう」


「でも、今はそれだけ」


 美咲が、悠真の左手をそっと握る。


「私から調べたり、問い詰めたりしない。悠真くんが話してくれるまで待つって決めてるから」


「もし、俺がずっと話さなかったら?」


「それでも待つよ」


「……どうして」


「大切な人だから」


 昨日と同じ言葉だった。


 悠真は握られた手へ視線を落とす。


 美咲の指が、少し震えている。


 本当は知りたいはずだ。


 幼い頃から憧れ、初恋だった天宮レイ。


 その正体がすぐ隣にいるかもしれない。


 それでも美咲は、自分の好奇心より悠真の気持ちを優先している。


「決勝が終わったら」


 悠真はゆっくり口を開く。


「少しだけ話す」


 美咲の目が大きく見開かれた。


「無理しなくてもいいよ」


「無理じゃない。全部は、まだ言えないけど」


「うん」


「それでもいいなら」


「聞かせて」


 美咲は手へ少し力を込める。


「悠真くんが話してくれることなら、何でも聞きたい」


 決勝戦の集合を知らせる笛が鳴った。


 二人は同時にコートを見る。


「行ってくる」


「うん」


 美咲は手を離しかける。


 しかし、悠真はその指を握り返した。


 ほんの数秒だけ、誰にも見えないように。


「約束は守るから」


「……うん。信じてる」


     ◇


 決勝戦が始まった。


 開始直後から、五組はこれまでの相手とは別格だった。


 相沢を中心に、全員が迷いなく動く。


 パスが速い。


 一人を止めても、別の選手が空いた場所へ入る。


 進藤は必死に相沢へ食らいついていたが、完全には止められない。


「進藤、右!」


 悠真が声を飛ばす。


 進藤が動くより先に、相沢が左へ切り返した。


 そのままシュートを決める。


 六対十二。


 開始三分で、六点差。


「くそっ……!」


 進藤が悔しそうに歯を食いしばる。


「焦るな。まだ前半だ」


「分かってる」


 進藤は答えるものの、表情には焦りが浮かんでいた。


 相沢に勝ちたい。


 過去の敗北を取り返したい。


 その気持ちが強すぎるせいで、普段より動きが硬い。


 一組の攻撃。


 悠真がボールを持つと、予想どおり相沢が前へ立った。


「肩、悪化してるだろ」


「試合中に相手の心配?」


「万全じゃない相手に勝っても、面白くないからな」


「それなら手加減してくれる?」


「それは無理だ」


 相沢が低く腰を落とす。


 隙がない。


 進藤は別の選手に守られ、パスコースも塞がれている。


 悠真は左手でドリブルしながら、相沢の重心を読む。


 右へ抜ける道が、わずかに空いていた。


 誘われている。


 右肩を使わせるための罠。


 分かっている。


 それでも、今はそこしかない。


 悠真は右へ踏み込んだ。


 相沢がすぐに追う。


 一歩だけ前へ出て、急停止。


 右手へボールを持ち替え、跳ぶ。


 肩甲骨の周辺へ、鋭い痛みが走った。


「っ……!」


 シュートは放った。


 だが腕が最後まで伸びず、ボールはリングの手前へ当たった。


 相沢がリバウンドを取る。


 そのまま五組の速攻。


 悠真は戻ろうとしたが、右肩の痛みで一瞬動きが遅れた。


 二点を追加される。


 六対十四。


「水瀬!」


 進藤が駆け寄ってくる。


「今、肩をやっただろ」


「少し痛んだだけ」


「交代しろ」


「まだいける」


「一ノ瀬との約束はどうした!」


「これ以上無理はしない」


「今ので十分無理してるだろ!」


 進藤の声が、コートへ響く。


 審判役の教師が試合を止め、一組へ選手交代を確認する。


「大丈夫です」


 悠真はすぐに答えた。


「続けられます」


 教師は怪訝そうな顔をしたが、悠真が腕を動かせるのを見て試合を再開させた。


 観客席へ目を向ける。


 美咲と目が合った。


 彼女は立ち上がり、唇を強く結んでいる。


 悲しそうな目だった。


 怒っているのではない。


 約束を破られたことに傷ついている。


 その表情を見た瞬間、悠真の胸に痛みが走った。


 次は無理をしない。


 そう決めていた。


 美咲にも約束した。


 それなのに、負けそうになった途端、また一人で背負おうとしている。


 五組の攻撃。


 相沢のシュートを進藤が弾いた。


 ボールが悠真の前へ転がる。


 拾えば、速攻へ行ける。


 右肩を使わなくても、走ることはできる。


 あと少しだけ。


 この攻撃だけ。


 そう考え、手を伸ばそうとした。


「悠真くん!」


 美咲の声が響く。


 悠真の動きが止まった。


「大丈夫だから!」


 体育館が静まり返る。


 大勢の視線が美咲へ集まる。


 美咲はそれに気づいても、座らなかった。


 胸の前で両手を握り、目に涙を浮かべている。


「……自分を大切にしてよ!」


 その言葉が、真っすぐ悠真へ届いた。


 過去、何度も言われた。


 撮影を続けろ。


 結果を出せ。


 みんなの期待に応えろ。


 多少の熱があっても、身体が痛くても、現場へ立て。


 代わりはいない。


 お前がやるしかない。


 だが、美咲は違う。


 勝たなくていいと言った。


 期待へ応えることより、悠真自身を大切にしてほしいと願った。


 悠真の前へ、進藤が立つ。


「水瀬」


 責めるような口調ではなかった。


「任せろ」


「でも、点差が」


「八点だろ。まだ終わってない」


「俺が抜けたら――」


「一人で勝たないって、言ったよな」


 進藤はまっすぐ悠真を見る。


「お前がいなくても勝てる、なんて格好いいことは言えない。でも、お前が怪我を悪化させなきゃ勝てないなら、そんな勝ち方は必要ない」


「進藤……」


「ベンチから助けてくれ。それが今、お前にできることだろ」


 周りのクラスメイトたちも頷いている。


 佐野が悠真の肩へ触れそうになり、右側だと気づいて慌てて左肩へ手を置いた。


「俺たちに任せてくれよ」


「さっき水瀬に決めさせてもらったから、今度は俺たちの番だ」


 木村も緊張しながら笑ってみせる。


 頼ること。


 任せること。


 それは逃げではない。


 ようやく少しだけ、その意味が分かった気がした。


「……分かった」


 悠真は右腕を押さえ、コートの外へ歩き出す。


 一組の応援席から拍手が起こった。


 誰も、悠真が逃げたとは思っていない。


 美咲の前を通ったとき、悠真は足を止める。


「ごめん」


「……うん」


「約束、破った」


「そうだね」


 美咲は目元を指で拭う。


 怒った顔を作ろうとしているが、唇がわずかに震えていた。


「一週間、私の言うことを何でも聞いてもらうから」


「覚えてたのか」


「当然です」


「怖いな」


「最初の命令は、今すぐ座って休むこと」


「了解」


 悠真がベンチへ腰を下ろすと、美咲はようやく安心したように息を吐いた。


「痛い?」


「少し」


「少しじゃ分からない」


「さっきよりは痛い」


「もう……」


 美咲の目に、再び涙が浮かぶ。


 悠真は左手を伸ばし、その涙を指先で拭った。


 人前だということを忘れていた。


 触れてから気づいたが、今さら手を引くこともできない。


「泣かないで」


「誰のせいだと思ってるの?」


「俺です」


「分かってるなら、もう無理しないで」


「うん」


 素直に頷く。


 美咲は悠真の指を自分の手で包み、そのまま頬へ押し当てた。


 柔らかな肌と、涙の温かさが指先へ伝わる。


「絶対だからね」


「絶対」


 今度こそ、約束する。


 二人が周囲の視線に気づいたのは、それから数秒後だった。


 菜月も孝太郎も、近くにいたクラスメイトも、驚いた顔でこちらを見ている。


 美咲は悠真の手を頬へ当てたまま固まった。


「……美咲」


「何?」


「見られてる」


「え?」


 美咲がゆっくり周囲を確認する。


 次の瞬間、顔が耳まで赤くなった。


「ち、違うの! これは怪我人を安心させるためで――」


「普通は怪我人の方が慰められるんじゃない?」


 菜月が冷静に指摘する。


「そ、そうだった……」


 美咲は慌てて悠真の手を離した。


 そのまま両手で自分の顔を隠す。


「もう無理……」


「俺の台詞でもあるんだけど」


 悠真も顔を逸らした。


 恥ずかしさで肩の痛みが少し薄れた気がした。


     ◇


 悠真が抜けたあと、一組は必死に食らいついた。


 進藤は相沢を追い続けた。


 佐野も木村も、今まで以上に走った。


 悠真もベンチから声を出し、相手の動きや空いた場所を伝える。


「進藤、左が空いてる!」


「佐野、戻れ!」


「木村、そのまま打っていい!」


 点差は少しずつ縮まった。


 前半終了時には、十四対十八。


 後半開始三分で、二十対二十二。


 残り二分の時点で、二十四対二十五。


 ついに一点差まで追いつく。


「いける……」


 美咲が胸の前で手を握る。


「ああ」


 悠真も身を乗り出す。


 右肩は痛む。


 それでも、コートへ戻ろうとは思わなかった。


 あとは仲間を信じる。


 残り三十秒。


 進藤が相沢の前でボールを持つ。


「今度こそ、お前に勝つ」


「来い」


 進藤が右へ踏み込む。


 相沢が追う。


 急停止から、進藤はシュートを放つ――と見せかけた。


 相沢の腕が上がる。


 その下を通し、ゴール下の佐野へパス。


「佐野!」


「任せろ!」


 佐野がボールを受け、跳んだ。


 二点。


 二十六対二十五。


 一組が逆転する。


 残り十二秒。


「戻れ!」


 進藤が叫ぶ。


 五組はすぐにボールを運ぶ。


 相沢がドリブルでコート中央を突破する。


 進藤が正面へ立つ。


 残り五秒。


 相沢が右へ切り返し、進藤を抜いた。


「まだだ!」


 進藤は倒れそうになりながらも、後ろから追う。


 相沢がゴール下へ跳ぶ。


 同時に、進藤も腕を伸ばした。


 ボールが放たれる。


 バックボードに当たり、リングへ触れた。


 試合終了の笛が鳴る。


 ボールはリングの上を一周し――内側へ落ちた。


 二十六対二十七。


 一点差。


 一組の敗北だった。


 体育館へ、五組の歓声が響く。


 一組の選手たちは、コートの上で動けなかった。


 進藤はゴール下に立ち、得点板を見つめている。


 また一点差。


 また最後に、相沢に決められた。


「進藤……」


 悠真は立ち上がり、コートへ向かう。


 だが、相沢が先に進藤の前へ立った。


「危なかった」


「……負けた」


「ああ」


「また、お前に」


「でも、前とは違った」


 相沢が手を差し出す。


「今日は進藤一人のチームじゃなかった。正直、次にやったらどうなるか分からない」


「慰めか?」


「本気で言ってる」


 進藤はしばらく差し出された手を見つめていた。


 やがて、その手を強く握る。


「次は絶対に勝つ」


「待ってる」


 相沢が笑う。


 進藤も悔しそうにしながら、わずかに笑い返した。


 悠真が近づくと、進藤は顔を向ける。


「悪い。勝てなかった」


「どうして謝るんだよ」


「お前が無理してつないだ試合だったから」


「無理したのは俺が勝手にしたことだ。それに」


 悠真は一組の仲間たちを見る。


 誰も責め合っていない。


 悔しそうにしながらも、互いの健闘を称えている。


「負けたけど、楽しかった」


 口にしてから、自分でも少し驚いた。


 本気で挑み、負けた。


 以前の悠真が最も避けていたことだ。


 力を見せれば期待される。


 それで負ければ、失望される。


 だから最初から、本気を出さなければいい。


 ずっと、そう考えていた。


 しかし今、悔しさはあっても、後悔はなかった。


「俺もだ」


 進藤が笑う。


「めちゃくちゃ悔しいけどな」


「次に勝てばいいだろ」


「お前、バスケ部に入る気になった?」


「それは別」


「即答かよ」


 二人は顔を見合わせ、笑った。


 コートの外では、美咲が悠真を待っている。


 勝つことより、自分を大切にしてほしいと言ってくれた少女。


 悠真は右肩を押さえながら、美咲のもとへ歩く。


「お疲れさま」


「うん」


「残念だったね」


「悔しいけど、悪くなかった」


 悠真が答えると、美咲は嬉しそうに目を細めた。


「そっか」


「でも、約束は破ったから」


「一週間、覚悟してね」


「何をさせるつもり?」


「まずは今日、病院に行きます」


「そこまでしなくても」


「命令その一です」


 美咲はぴしりと人差し指を立てる。


「拒否権はありません」


「……分かりました」


「そのあとは買い物」


「肩が痛いのに?」


「荷物は私が持つよ。冷蔵庫の中身がほとんどないでしょう?」


「昨日、買い忘れたな」


「それから夕食を作って、湿布を貼り直します」


「結局、昨日とあまり変わらない」


「まだあります」


 美咲は少し迷い、頬を赤くしながら悠真を見る。


「命令その二」


「何?」


「今日は……私に甘えてください」


「それ、命令なのか?」


「悠真くんは命令しないと甘えてくれないから」


 悠真はしばらく美咲を見つめた。


 やがて苦笑し、左手を差し出す。


「じゃあ、部屋まで連れて帰って」


「子どもじゃないんだから」


「甘えろって言ったのは美咲だろ」


「そうだけど……」


 口では困ったように言いながら、美咲は嬉しそうにその手を握った。


 今度は手首ではない。


 指と指を重ね、しっかりと手のひらを合わせる。


「仕方ないなあ」


「嫌なら離していいけど」


「離さないよ」


 美咲の指へ、少しだけ力がこもる。


「今日は、絶対に離さないから」


 その言葉の意味を深く考えた途端、悠真の心臓が速くなる。


 だが美咲は自分の発言に気づいていないのか、悠真の肩ばかり気にしていた。


 一組は優勝できなかった。


 悠真はまた無理をして、美咲との約束も破った。


 それでも敗北の先に残ったものは、後悔だけではない。


 仲間を信じること。


 誰かへ頼ること。


 そして、勝てなくても隣にいてくれる人がいること。


 それを知れたのなら、この一敗には勝利より大きな意味があったのかもしれなかった。

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