第34話 切り札の出番
球技大会当日の朝。
悠真が玄関の扉を開けると、美咲は体操着姿で隣室の前に立っていた。
長い黒髪は、高い位置で一つに結ばれている。
片手には学校指定の鞄。
もう片方の手には、普段より大きな紙袋を持っていた。
「おはよう、悠真くん」
「おはよう、美咲」
名前を呼ばれ、美咲が嬉しそうに目元を緩める。
「体調は?」
「問題ない」
「熱は?」
「三十六度三分」
「喉は?」
「痛くない」
「咳は?」
「出てない」
「朝ご飯は?」
「食べた」
「何を?」
「昨日の夕食の残り」
悠真が一つずつ答えると、美咲は安心したように息を吐いた。
「大丈夫そうだね」
「風邪を引いたのは、もう一週間以上前だぞ」
「でも、今日は運動するでしょう?」
「必要になったらな」
「無理はしないでね」
「分かってる」
「進藤くんに言われても、本気を出しすぎたら駄目だよ」
「それは状況による」
悠真が答えると、美咲は心配そうに眉を下げた。
「怪我をしたら、また看病するからね」
「怪我で看病は必要ないだろ」
「毎日様子を見に行く」
「今も毎日来てる」
「それもそうだね」
美咲は口元へ手を添え、楽しそうに笑った。
「それ、弁当か?」
悠真は彼女が持つ大きな紙袋を見た。
「うん。今日は二人分を同じ箱に入れたの」
「同じ箱?」
「お昼に一緒に食べようと思って」
美咲は少し恥ずかしそうに紙袋を持ち直した。
「駄目だった?」
「駄目ではない」
「それじゃあ、一緒に食べようね」
「ああ」
「今日は唐揚げも入ってるよ」
「朝から揚げたのか?」
「昨日の夜に下ごしらえをしたから、そんなに時間はかからなかったよ」
「寝不足になってないか?」
「ちゃんと八時間寝ました」
美咲は得意そうに胸を張った。
「ならいい」
「私が寝不足になってないか、毎回確認するようになったね」
「無理をするなと言っただろ」
「悠真くんが心配してくれるなら、少しだけ無理したくなるかも」
「やめろ」
「冗談だよ」
美咲は柔らかく笑った。
エレベーターが来るまでの間、二人は自然に手をつないだ。
今では、周囲に誰もいないときだけ交わす習慣になり始めていた。
◇
学校へ着くと、校内は普段より賑やかだった。
廊下にはクラスカラーの鉢巻きを巻いた生徒が行き交い、体育館やグラウンドからは準備をする声が聞こえてくる。
一年二組の教室でも、生徒たちが試合の話で盛り上がっていた。
「水瀬!」
悠真が席へ着くなり、孝太郎が駆け寄ってくる。
体操着の上から、クラスカラーである青色の鉢巻きを巻いていた。
「今日は絶対に勝つぞ」
「朝から元気だな」
「一年三組に勝てば、次は優勝候補じゃないらしい」
「最初の相手が一番強いのか?」
「たぶん」
孝太郎は拳を握った。
「進藤が作った作戦なら、勝てるかもしれない」
「ああ、あれか」
「何か言ったか?」
「何でもない」
悠真は自分の席へ鞄を置いた。
進藤が作ったことになっている作戦の大部分は、悠真が考えたものだった。
誰がどの位置からシュートを打ちやすいか。
どの組み合わせなら、守備が崩れにくいか。
進藤にボールを集めすぎないため、どう動くべきか。
練習を見ながら気づいた内容を、悠真が紙へまとめた。
進藤はそれを自分の作戦として、チーム全体へ説明した。
悠真の名前を出さなかったのは、本人の希望でもある。
「水瀬」
進藤が教室の前から歩いてくる。
「これを巻け」
青色の鉢巻きを差し出した。
「控えにも必要なのか?」
「同じチームだろ」
「そうだったな」
悠真は鉢巻きを受け取った。
頭へ巻こうとするが、普段使うことがないため上手く結べない。
「後ろ、曲がってるよ」
美咲の声が聞こえた。
振り返ると、彼女が悠真の背後に立っている。
「私が結ぼうか?」
「自分でできる」
「今、結び目が横に来てるよ」
悠真が手で確認する。
確かに、後頭部ではなく右側に結び目があった。
「貸して」
美咲は悠真の手から鉢巻きの端を受け取った。
髪を巻き込まないよう指先で避け、後頭部で丁寧に結び直す。
二人の距離が近い。
美咲の指が耳の近くへ触れるたび、悠真の身体が僅かに強張った。
「きつくない?」
「大丈夫だ」
「苦しかったら言ってね」
「ああ」
「できたよ」
美咲は結び目を確認し、満足そうに頬を緩めた。
「似合ってる」
「鉢巻きが?」
「うん。それから、体操着も」
「毎日見てるだろ」
「今日は、いつもより格好よく見えるの」
美咲は少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「球技大会だからかな」
「気のせいだろ」
「そうかもしれないね」
美咲は再び顔を上げる。
「でも、私には格好よく見えるから、それでいいの」
悠真の耳が僅かに赤くなる。
「美咲」
菜月が少し離れた場所から呼んだ。
「そろそろ体育館へ行くよ」
「あ、うん」
美咲は菜月へ返事をしたあと、悠真へ顔を戻した。
「私たちの試合、見てくれる?」
「ああ」
「最初から?」
「男子の試合より先だからな」
「ちゃんと応援してね」
「声は出さないぞ」
「見てくれるだけでいいよ」
美咲は嬉しそうに微笑んだ。
「悠真く――」
学校であることを思い出し、途中で言葉を止める。
「水瀬くんが見てくれるなら、頑張れるから」
「無理はするなよ」
「分かってる」
美咲は小さく手を振り、菜月たちのもとへ向かった。
その背中を見送っていると、孝太郎が悠真の隣へ並ぶ。
「完全に恋人じゃん」
「違う」
「鉢巻きを結んでもらって、格好いいって言われてたぞ」
「聞いてたのか?」
「近くにいた全員が聞いてたと思う」
悠真が周囲を見る。
何人かの男子生徒が、面白そうにこちらを見ている。
「一ノ瀬さん、水瀬にだけ態度が違うよな」
「弁当も毎日作ってるんだろ?」
「本当に付き合ってないの?」
次々に質問が飛んでくる。
「付き合ってない」
悠真は短く答えた。
以前と変わらない返事。
しかし今度は、胸の奥に僅かな物足りなさが残った。
「今はな」
誰にも聞こえない声で付け足す。
◇
女子バレーボールの第一試合。
一年二組の相手は、一年五組だった。
体育館二階の観客席から、悠真は試合を見ていた。
隣には孝太郎と進藤が座っている。
「一ノ瀬、上手いな」
孝太郎が感心したように言う。
「ああ」
「さっきから一ノ瀬しか見てなくないか?」
「試合全体を見てる」
「今、ボールが反対側にあるのに一ノ瀬を見てたぞ」
「次の動きを見てる」
「便利な言い訳だな」
孝太郎は進藤の言葉を真似るように笑った。
悠真は何も答えず、コートへ視線を戻した。
美咲は後衛に入っている。
相手からのサーブを正確に受け、菜月へつなぐ。
味方が得点を決めると、誰より嬉しそうに拍手をした。
以前の練習試合で見せた迷いはない。
声も、動きも、堂々としていた。
「一ノ瀬!」
相手の強いスパイクが飛んでくる。
美咲はすぐに落下地点へ入った。
両腕で受け止める。
ボールは高く上がり、味方の前へ落ちる。
そこから攻撃へつながり、一年二組が得点した。
「よし!」
孝太郎が観客席から声を上げた。
悠真も無意識に立ち上がっていた。
「美咲!」
名前が、口から出る。
大きな声ではない。
けれど、コートにいた美咲には聞こえたらしい。
彼女が観客席を見上げる。
悠真と目が合うと、驚いたように瞳を大きくした。
次の瞬間、頬を赤くしながら、嬉しそうに笑った。
「今、一ノ瀬って呼ばなかったよな?」
孝太郎が隣で尋ねる。
「聞き間違いだ」
「美咲って聞こえたぞ」
「周りがうるさいからだろ」
「進藤も聞いたよな?」
「俺に聞くな」
進藤は試合だけを見たまま答えた。
しかし、その口元には僅かな笑みが浮かんでいる。
「あとで一ノ瀬に聞こう」
「やめろ」
「やっぱり呼んだんじゃないか」
悠真は孝太郎を無視し、再びコートへ視線を戻した。
◇
女子の試合は、二対一で一年二組が勝利した。
試合終了の笛が鳴る。
美咲たちはコート中央へ並び、相手チームへ頭を下げた。
挨拶を終えると、美咲はすぐに観客席へ視線を向けた。
悠真の姿を見つけ、胸元で小さく手を振る。
悠真も片手を上げて応じた。
「行ってこいよ」
孝太郎が肘で悠真の腕を押す。
「どこに?」
「一ノ瀬のところ」
「すぐに男子の試合が始まる」
「少しくらい時間あるだろ」
悠真は立ち上がらなかった。
すると今度は、美咲のほうから観客席へやってきた。
「水瀬くん」
「お疲れ」
「見ててくれた?」
「ああ」
「さっき、名前で呼んでくれたよね?」
美咲は期待するように顔を覗き込んだ。
「聞き間違いじゃなかったのか?」
「ちゃんと聞こえたよ」
「学校では名字の約束だろ」
「だから、少し驚いた」
美咲は頬を赤くしながら、嬉しそうに笑った。
「でも、すごく嬉しかった」
「思わず出ただけだ」
「もう一回呼んでくれる?」
「ここでは呼ばない」
「私にしか聞こえないように」
美咲は悠真の隣へ座り、少しだけ顔を近づけた。
「お願い」
悠真は周囲を確認した。
孝太郎は興味深そうにこちらを見ている。
進藤は見ていないふりをしながら、明らかに会話を聞いていた。
「あとでな」
「分かった」
美咲は少し残念そうに眉尻を下げた。
「でも、頑張ったご褒美は?」
「今?」
「うん」
悠真は少し考えた。
それから、まだ誰も手をつけていないスポーツドリンクを美咲へ差し出す。
「これでいいか?」
「水瀬くんの分でしょう?」
「もう一本ある」
「ありがとう」
美咲は両手で受け取った。
「それから」
悠真は周囲に聞こえないよう、少しだけ美咲へ顔を寄せた。
「格好よかったぞ、美咲」
美咲の身体が固まった。
数秒遅れて、顔が真っ赤になる。
「か、格好いい?」
「ああ」
「可愛くはなかった?」
「今の動きは格好よかった」
「少しくらい可愛いとも思ってくれた?」
「……思った」
悠真が答える。
美咲はスポーツドリンクを胸元へ抱きしめた。
「もう一回」
「男子の試合が始まる」
「あとで絶対に言ってね」
「覚えてたらな」
「忘れたら、私から聞くから」
美咲は嬉しそうに笑い、女子チームのもとへ戻っていった。
◇
男子バスケットボールの第一試合。
一年二組の相手は、優勝候補の一年三組だった。
三組には、バスケットボール部員が三人いる。
試合開始直後から、実力差は明確だった。
三組は素早いパスで守備を崩し、次々に得点を重ねる。
一方、二組は進藤を中心に攻めようとするが、相手も対策していた。
進藤へ二人がつき、簡単にはボールを持たせない。
「進藤!」
孝太郎がパスを出そうとする。
しかし相手に読まれ、途中で奪われた。
そのまま速攻を決められる。
得点は、十二対四。
「思ったより厳しいな」
控え席で、悠真が呟く。
「まだ前半だ」
隣に座る生徒が言った。
「進藤なら何とかするだろ」
だが、相手は進藤だけを警戒している。
他の選手が得点できなければ、差は広がる一方だ。
悠真はコート全体を見た。
三組の守備は強い。
ただし、進藤へ意識を向けすぎているため、左側に僅かな隙が生まれている。
孝太郎が右側へ移動すれば、相手もそれにつられる。
その瞬間、反対側からゴール下へ入ることができる。
問題は、誰がその動きをするか。
今コートにいるメンバーでは、速さが足りない。
前半終了。
得点は、二十対七まで開いていた。
選手たちがベンチへ戻ってくる。
孝太郎は肩で大きく息をしていた。
「無理だ……速すぎる」
「まだ終わってない」
進藤が全員へ声をかける。
「後半は、守備を変える」
「どうする?」
「進藤」
悠真が呼ぶ。
「何だ?」
「相手は、お前へ二人つけてる」
「ああ」
「そのまま二人を引きつけろ」
「誰が決める?」
「佐伯を右へ置く」
「俺?」
孝太郎が驚いたように顔を上げる。
「でも、右側にも一人いるぞ」
「最初はシュートを打たなくていい。右へ動いて、相手をもう一人引きつけろ」
「それで?」
「左側が空く」
進藤は悠真の意図を理解したらしい。
「お前が入るのか?」
「ああ」
「本気で?」
「最初は普通に動く」
「それでは間に合わない」
進藤は得点板を見る。
「十三点差だ。これ以上開いたら追いつけない」
「まだ後半がある」
「水瀬」
進藤は悠真の目を真っすぐに見た。
「合図を出す」
「今か?」
「ああ」
「早すぎないか?」
「今が必要な場面だ」
進藤は片手を差し出した。
「お前の本気を貸してくれ」
悠真はすぐに答えなかった。
観客席へ視線を向ける。
美咲がこちらを見ていた。
不安そうに両手を胸元で握っている。
目が合う。
美咲は、何かを求めるように小さく頷いた。
無理に本気を出せとは言わない。
自分で決めて。
彼女の表情は、そう伝えていた。
「分かった」
悠真は立ち上がった。
進藤の手を取る。
「一度だけだ」
「ああ」
「それで勝てなくても、文句は言うなよ」
「言わない」
進藤は悠真の背中を軽く叩いた。
「頼む」
後半開始を知らせる笛が鳴る。
悠真はコートへ入った。
これまで、できるだけ目立たないようにしてきた。
勉強も、運動も、すべて平均。
けれど今だけは、自分から本気を出すことを選んだ。
美咲が観客席から見つめる中、悠真は相手チームの正面へ立った。
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