第35話 平凡を捨てる、十分間
後半開始を告げる笛が、体育館に鋭く響いた。
得点板に表示されている数字は、二十対七。
一年一組が十三点差で負けている。
コートへ足を踏み入れた悠真は、軽く首を回しながら相手チームを見渡した。
三組にはバスケ部が三人いる。そのうち二人は試合開始からコートに立ち続けており、残る一人は後半に備えて温存されていたらしい。
悠真が入ったのを見て、その選手もベンチから立ち上がった。
「一年三組、選手交代!」
教師の声とともに、背の高い男子生徒がコートへ入る。
進藤が小さく舌打ちした。
「やっぱり出してきたか。あいつ、バスケ部でも一年のレギュラー候補だ」
「そうなんだ」
「……水瀬、お前、本当に緊張しないな」
「緊張してるよ」
「その顔で言われても説得力ねえよ」
悠真は曖昧に笑い、視線を観客席へ向けた。
クラスメイトたちが固まっている一角。その最前列に、美咲がいた。
先ほどまで女子バレーの試合に出ていたため、まだ体操服姿だ。膝の上に両手を置き、祈るように指を組んでいる。
悠真と目が合った瞬間、美咲は驚いたように目を丸くした。
しかし、すぐに表情を引き締めると、胸の前で小さく拳を作る。
頑張って。
声に出さなくても、その唇がそう動いたのが分かった。
悠真はほんのわずかに頷き、正面へ向き直った。
――一回だけ、本気でやってくれ。
数日前、進藤に言われた言葉が頭に蘇る。
本気を出す。
ただそれだけのことが、悠真にとってはひどく難しかった。
できることを、できないふりをする。
気づいても、気づかないふりをする。
期待されない程度の結果を選び、失望されない代わりに、注目もされない場所にいる。
そうやって過ごすことに慣れすぎてしまった。
本気を出せば目立つ。
目立てば見られる。
見られれば、期待される。
その先に待っているものを、悠真は知っていた。
『次はもっとできるよね?』
『君ならできる』
『みんな、悠真に期待しているんだから』
昔の声が、耳の奥で重なる。
悠真は息を吐き、指先を一度強く握った。
「水瀬」
進藤に呼ばれ、顔を上げる。
「最初の一本、任せる」
進藤の顔に冗談めいた色はなかった。
本当に悠真を信じて、ボールを預けようとしている。
「……分かった」
短く答えた、その直後。
審判役の教師から、進藤へボールが渡された。
「始め!」
進藤がドリブルを開始する。
相手はすぐに守備陣形を整えた。点差に余裕があるためか、前半ほどの焦りはない。むしろ、こちらが無理に攻めてくるのを待っているようだった。
悠真は左側へ移動しながら、相手選手の位置を確認する。
一人が進藤につき、もう一人がゴール下を固める。残り三人はパスコースを意識しながら、少し距離を取っていた。
悠真を守る男子は、軽く腰を落としながらも、どこか油断している。
当然だ。
前半に出ていなかった、普段から運動が得意とも思われていない生徒。
警戒する理由などない。
進藤が右へ仕掛けた。
相手の守備が一歩寄る。
その瞬間、悠真は逆方向へ切り返した。
「え――」
マークについていた男子の声が遅れて聞こえる。
悠真は空いた場所へ走り込み、進藤からのパスを受けた。
ゴールまでの距離はある。
守備が追いつく前に、膝を曲げる。
「水瀬!」
誰かの声が飛んだ。
悠真の手から放たれたボールは、綺麗な弧を描く。
ほとんど音も立てず、リングの中央を通り抜けた。
三点。
得点板が、二十対十へ変わる。
一瞬の沈黙。
次いで、一組側の応援席から大きな歓声が上がった。
「入ったああっ!」
「水瀬、すげえ!」
「今のスリーポイント!?」
悠真は反射的に肩を強張らせた。
一斉に向けられる視線。
高揚した声。
何人もの目が、自分だけを見ている。
照明の熱さが増したような錯覚に襲われる。
体育館の床が、撮影所のスタジオへ変わっていく。
眩しいライト。
カメラの黒いレンズ。
作り物の笑顔を浮かべる大人たち。
悠真の呼吸が、わずかに浅くなった。
「水瀬、戻れ!」
進藤の声で我に返る。
「……ああ」
悠真は守備へ戻りながら、胸の奥に生じたざわめきを押し込んだ。
三組の攻撃。
先ほど交代で入ったバスケ部員が、悠真の前でボールを受ける。
「今の、まぐれじゃなさそうだな」
相手は楽しそうに口元を上げた。
「どうだろう」
「まだ隠す気かよ」
言うなり、鋭いドリブルで右へ踏み込んでくる。
速い。
少なくとも、普通の生徒なら簡単には止められない。
悠真は半歩だけ下がり、相手の肩と足元を見る。
重心が右へ傾いた直後、ボールが左手へ移る。
切り返し。
悠真は先に左へ動いていた。
「なっ――」
相手の手を離れた瞬間を狙い、指先でボールを弾く。
床を転がったボールを進藤が拾った。
「走れ、水瀬!」
悠真はすでに駆け出していた。
誰もいないコートを、一気に駆け抜ける。
後ろからパスが飛んでくる。
振り返らずに片手で受け、二歩。
ゴールが目前へ迫った。
ここで派手に決める必要はない。
悠真は静かにボールをリングへ置くように放った。
二点。
二十対十二。
「あと八点!」
応援席の声が、さらに大きくなる。
進藤が駆け寄り、悠真の背中を強く叩いた。
「できるじゃねえか!」
「痛い」
「それくらい我慢しろ!」
進藤は嬉しそうに笑っている。
コートの外では、孝太郎が両手を振り回していた。
「悠真! お前、そんな動けたのかよ!」
その隣で美咲も立ち上がっていた。
口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
しかし、悠真の表情を見た瞬間、その笑顔がわずかに曇った。
歓声を受けているはずなのに、悠真の顔が少し青ざめている。
美咲だけが、その変化に気づいていた。
「悠真……」
心配そうな呟きは、周囲の声にかき消された。
試合は続く。
三組も黙ってはいなかった。
次の攻撃では、バスケ部員二人が連携し、悠真を避けるようにパスを回す。最後はゴール下から確実に二点を決められた。
二十二対十二。
再び十点差。
残り時間は八分を切っている。
一組の攻撃で進藤がボールを持つと、相手は悠真への警戒を一気に強めた。先ほどまで一人だったマークが、状況によっては二人になる。
「急に人気者だな」
進藤が苦笑する。
「嬉しくない人気だ」
「だったら、その人気を利用しろ」
進藤の言葉に、悠真は視線を巡らせた。
自分に二人つけば、当然、別の誰かが空く。
「佐野!」
悠真は右端にいたクラスメイトへ声を飛ばす。
「え、俺!?」
「そのままゴール下へ走って!」
戸惑いながらも、佐野が走る。
悠真は進藤からパスを受けると同時に、シュートを打つふりをした。
二人の守備が跳ぶ。
だがボールは悠真の手を離れず、その脇を抜けて走り込んできた佐野へ渡った。
「う、うおおっ!」
佐野は半ば目を閉じながらボールを投げた。
バックボードに当たったボールが、リングの上を一周する。
全員が息を呑んで見守る中、ボールは内側へ落ちた。
二十二対十四。
「入った! 俺が入れた!」
佐野は自分でも信じられない様子で両手を上げた。
「佐野、戻れ!」
「お、おう!」
悠真に言われ、慌てて守備へ戻る。
続く三組の攻撃を進藤が防ぎ、一組は再びボールを奪った。
今度は悠真がドリブルで運ぶ。
正面に一人、左側からもう一人。
二人に挟まれる寸前で、悠真は背後へボールを回した。
「進藤!」
「任せろ!」
受け取った進藤が、中距離からシュートを放つ。
それも決まった。
二十二対十六。
六点差。
体育館の空気が変わる。
前半は一方的だった試合に、誰もが注目し始めていた。
別のコートで試合を終えた生徒たちまで、周囲へ集まってくる。
「一組、追いつくんじゃない?」
「あの十一番、誰?」
「水瀬ってやつだろ。あんなに上手かったっけ?」
「バスケ部じゃないの?」
聞きたくない言葉が、耳へ届く。
悠真の足が一瞬だけ止まった。
――やりすぎた。
視線が集まっている。
すでに、平均的な生徒の動きではない。
これ以上続ければ、もっと目立つ。
手を抜くなら今だ。
点差は六点。進藤たちが頑張れば、もしかすると追いつけるかもしれない。
自分が前へ出る必要は――。
「水瀬!」
鋭い声とともに、ボールが飛んできた。
反応が遅れた。
悠真の指先に当たったボールが、コートの外へ転がっていく。
「あ……」
一組のボールではなくなる。
進藤は何も責めなかった。
ただ、何かに気づいたように眉を寄せた。
「水瀬。お前……」
「ごめん。少しぼんやりしてた」
「今さら怖くなったか?」
核心を突かれ、悠真は黙る。
進藤は唇を引き結ぶと、それ以上は何も言わなかった。
三組のスローインから試合が再開される。
悠真は守備についたが、先ほどまでのようには動けなかった。
相手の動きは見えている。
パスを出すタイミングも分かる。
どちらへ抜こうとしているのかも読める。
けれど、体が動かない。
いや――動かそうとしていない。
「もらった!」
目の前の相手が悠真の脇を抜ける。
そのまま放たれたシュートが決まり、二十四対十六。
再び八点差。
「水瀬、どうしたんだよ!」
クラスメイトの声が聞こえる。
純粋な疑問だった。
責めるような声ではなかった。
それでも悠真の胸は痛んだ。
期待される。
応えられなければ、失望される。
ならば最初から、期待などされない方がいい。
そう思っていた。
それなのに、一度応えたせいで、今は期待を裏切ることが苦しく感じる。
「悠真!」
不意に、聞き慣れた声が響いた。
悠真が振り返る。
応援席の前で、美咲が立っていた。
周囲の生徒たちが、突然名前を呼んだ彼女を驚いたように見ている。
美咲自身も、その視線に気づいたらしい。頬を赤くし、一瞬だけ唇を噛んだ。
学校では、水瀬くんと一ノ瀬さん。
二人きりのときだけ、悠真と美咲。
そう決めていたはずだった。
それでも美咲は、引かなかった。
胸元で両手を握り、まっすぐに悠真を見る。
「大丈夫だから!」
何が大丈夫なのか。
きっと、周りの誰にも分からない。
だが悠真には分かった。
目立っても。
上手くできても。
誰かに期待されても。
その先で怖くなっても。
彼女は、悠真を置いていかない。
「……簡単に言うなよ」
悠真は小さく呟いた。
けれど、その口元はわずかに緩んでいた。
撮影所で聞いた「期待している」は、逃げ道を塞ぐ言葉だった。
失敗を許さず、結果を求める言葉。
だが今、美咲が向けてくれた「大丈夫」は違う。
勝てとは言わない。
上手くやれとも言わない。
ただ、自分の隣に立っている。
それだけの言葉だった。
「一ノ瀬さん、今、悠真って言った?」
近くにいた菜月が目を丸くする。
「えっ」
美咲はようやく自分が口にした呼び方に気づき、見る見るうちに顔を赤くした。
「ち、違うの。今のは、その……応援に夢中になって!」
「ふーん?」
菜月は意味ありげに目を細める。
「あとで詳しく聞こうかな」
「今は試合を見て!」
美咲は慌てて前を向いたものの、赤くなった耳までは隠せなかった。
コートでは、進藤が悠真の肩を軽く叩く。
「復活したか?」
「別に、最初から落ち込んでない」
「そういうことにしといてやる」
進藤はにやりと笑い、顎で得点板を示した。
「残り五分。八点差だ」
「なら、間に合う」
「……今のお前が言うと、頼もしいな」
三組のフリースローが外れ、ボールがリングに弾かれる。
悠真は落下地点を読んで先に走った。
自分より背の高い相手の前へ体を入れ、跳ぶ。
伸ばした右手が、ボールを掴んだ。
着地と同時に進藤へパス。
そのまま悠真はコートの端を駆け上がる。
「また速攻だ! 止めろ!」
三組の選手二人が、悠真の前へ回り込む。
進藤から返ってきたボールを受け、悠真は速度を落とさないまま一人目の横を抜けた。
二人目が腕を広げる。
悠真は右へ踏み込むと見せかけ、背中側へボールを通して左へ切り返した。
「嘘だろ!」
驚きの声を背後に残し、ゴールへ跳ぶ。
相手の長い腕が迫る。
空中で体をひねり、ブロックを避けながらボールを放った。
バックボードに当たったボールが、リングへ吸い込まれる。
二十四対十八。
同時に、笛が鳴った。
「ファウル! バスケットカウント、ワンスロー!」
着地した悠真は、右腕に残る鈍い痛みを感じながら息を吐いた。
体育館中が、今までで一番大きく沸いた。
「水瀬えええっ!」
「今の何!?」
「めちゃくちゃ上手いじゃん!」
もう、平均のふりなどできていない。
完全にやってしまった。
悠真は額へ手を当てたくなるのを堪え、フリースローラインへ向かう。
正面のゴールを見る。
その向こうに、観客がいる。
大勢の視線が、自分へ集まっている。
それでも今度は逃げなかった。
ボールを一度、二度と床へつく。
膝を曲げ、息を吐く。
美咲の声が聞こえた。
「頑張って、悠真!」
また名前で呼んでいる。
今度は隠すことすら忘れているらしい。
悠真は思わず笑ってしまった。
肩から余計な力が抜ける。
そして、シュート。
ボールは綺麗にリングを通過した。
二十四対十九。
五点差。
残り四分二十秒。
三組はすぐにタイムアウトを取った。
一組の選手たちが、悠真を囲む。
「水瀬、お前、本当に帰宅部なのか!?」
「今からでもバスケ部に入れよ!」
「勝てる! これ勝てるぞ!」
興奮した声が、次々に飛んでくる。
悠真は困ったように目を伏せた。
まだ怖さが消えたわけではない。
こうして注目を浴びることも、その力を理由に何かを求められることも、できるなら避けたい。
けれど、不思議と先ほどほど息苦しくはなかった。
進藤が悠真とクラスメイトたちの間へ入り、両手を叩く。
「浮かれるのはまだ早い! 五点負けてるんだからな!」
その声で、全員が静かになる。
進藤は簡単に作戦を伝えたあと、最後に悠真を見た。
「最後までいけるか?」
命令ではなかった。
強制でもない。
選択を悠真へ委ねる問いだった。
悠真は応援席を見る。
美咲は胸の前で手を組み、心配そうな顔をしていた。
その目は「勝って」と訴えているのではない。
悠真が無理をしていないか、ただそれだけを気にしている。
目が合う。
美咲は何も言わず、小さく頷いた。
悠真も同じように頷き返した。
「……いける」
進藤の顔に笑みが戻る。
「よし。じゃあ、逆転するぞ」
タイムアウトが終わり、両チームがコートへ戻った。
残り時間は四分二十秒。
一組の攻撃から再開される。
相手は完全に悠真を中心として守備を組み直していた。バスケ部員二人が悠真の左右を塞ぎ、ボールを持たせないつもりらしい。
進藤がスローインの位置で眉をひそめる。
パスを出す相手が見つからない。
五秒を数える審判の手が進む。
悠真はゴール下へ走るふりをし、急停止した。
追ってきた二人が一瞬だけ重なる。
すぐさま外側へ切り返す。
「進藤!」
飛んできたボールを両手で受ける。
着地したときには、すでに相手二人が迫っていた。
「打たせるな!」
悠真はシュートの体勢に入る。
二人の視線が、悠真の手元へ集中した。
だが、ボールは放たれなかった。
「佐野、今!」
「お、おう!」
悠真は背を向けたまま、空いていた佐野へボールを渡す。
佐野は先ほどと同じ位置からシュートを放った。
リングに当たり、大きく跳ねる。
「外れた!」
三組の選手がリバウンドを取ろうと跳ぶ。
その背後から、進藤が腕を伸ばした。
「まだだ!」
進藤がボールを弾き、落ちた先へ悠真が走り込む。
悠真はボールを掴み、ゴール下からすぐに放った。
二点。
二十四対二十一。
あと三点。
一組の応援が、地面を揺らすほどの大きさになる。
次の三組の攻撃。
相手のエースが強引に中へ切り込んでくる。
進藤が正面を塞ぎ、悠真が横から手を伸ばす。
ボールがこぼれた。
「走れ!」
悠真が拾い、前を見る。
三組の選手たちは戻り始めているが、一組の生徒が一人だけ先へ走っている。
運動が得意とは言えないクラスメイトだった。
それでも必死に腕を振り、ゴールへ向かっている。
悠真は長いパスを投げた。
「えっ、俺!?」
「そのまま行け!」
ボールを受けた男子は、ぎこちないドリブルでゴールへ近づく。
後ろから相手が追いつく。
焦った彼が放ったシュートは、バックボードへ強く当たった。
「ああっ!」
リングから外れたボールが高く跳ねる。
だが、悠真はすでにそこまで走っていた。
飛び上がり、空中でボールを掴む。
そのまま再びリングへ押し込んだ。
二十四対二十三。
ついに一点差。
残り二分。
体育館にいるほとんどの生徒が、試合を見ていた。
歓声も視線も、もう避けようがない。
それでも悠真の目には、先ほどのような怯えはなかった。
苦しくないわけではない。
怖くないわけでもない。
ただ、その怖さよりも。
勝って美咲の笑顔が見たいという気持ちが、ほんの少しだけ上回っていた。
三組の攻撃は慎重になっていた。
時間を使いながら、確実に一点差を守ろうとしている。
相手のエースがボールを持ち、悠真の前に立つ。
「お前、何者だよ」
低い声で尋ねられる。
「ただの帰宅部」
「それで納得できるか」
「俺も、今日は自分で納得できてない」
悠真が苦笑すると、相手は一瞬だけ眉を上げた。
その隙に、悠真は踏み込む。
ボールを奪い取るには至らなかったが、相手の体勢が崩れた。
慌てて出されたパスを、進藤が途中で弾く。
床を転がるボール。
悠真と相手選手が、同時に飛び込んだ。
指先が触れる。
悠真はボールを自分の胸元へ引き寄せ、床へ肩を打ちつけながら抱え込んだ。
「悠真!」
美咲の悲鳴に近い声が聞こえる。
直後、笛が鳴った。
「白ボール!」
一組のボール。
残り一分十四秒。
悠真が立ち上がると、右肩に痛みが走った。
顔をしかめたのを、美咲は見逃さなかった。
立ち上がったまま、不安そうに両手を握っている。
悠真は肩を一度回し、彼女へ向かって小さく手を上げた。
大丈夫。
今度は悠真が、言葉を使わずに伝える番だった。
美咲は唇を結びながら、ゆっくり頷く。
一組の攻撃。
残り一分。
進藤がドリブルで時間を使いながら、悠真の動きを待っている。
三組はゴール下を固めていた。
一点差なら、二点で逆転できる。
当然、悠真が中へ入ることを警戒している。
残り四十秒。
悠真は外側へ開く。
相手が迷った。
先ほどスリーポイントを決めている以上、放置はできない。
一人が悠真を追って外へ出る。
ゴール下に、わずかな隙間ができた。
「進藤!」
悠真は声を上げながら、さらに外へ走る。
進藤が悠真へパスを出す。
相手の守備が、一斉に悠真へ寄った。
三人。
ボールを受けた悠真は、ゴールを見た。
ここから打てば、決められる。
少なくとも、かなり高い確率で。
自分が決めれば、注目はさらに集まる。
英雄のように扱われるかもしれない。
けれど悠真は、シュートを選ばなかった。
視界の端に、誰にも守られていない進藤がいた。
悠真はボールを頭上へ掲げ、そのまま両手で横へ送る。
「行け、進藤!」
「――任せろ!」
進藤がボールを受け、ゴール下へ踏み込んだ。
相手が慌てて戻る。
一歩、二歩。
進藤は跳んだ。
伸ばした手から、ボールが離れる。
バックボードに当たり、リングへ落ちる。
得点板が変わった。
二十五対二十四。
初めて、一組が前へ出た。
「よっしゃあああっ!」
進藤の叫びと同時に、一組の応援席が爆発したように沸く。
残り二十二秒。
三組はすぐにボールを運ぶ。
最後の攻撃。
悠真は息を整える暇もなく、相手エースの前へ立った。
「絶対に決める!」
「そう簡単にはさせない」
残り十秒。
相手が右へ切り込む。
悠真は追う。
残り五秒。
急停止した相手が、遠い位置からシュートを放った。
ボールが高く上がる。
悠真は見上げた。
誰も声を出さない。
ボールがリングへ当たり、一度跳ねた。
もう一度、リングに触れる。
そして――外側へ落ちた。
試合終了の笛が鳴る。
二十五対二十四。
一組の逆転勝利だった。
「勝ったああっ!」
クラスメイトたちがコートへなだれ込み、進藤を、佐野を、そして悠真を囲む。
悠真は何人もの手で背中を叩かれ、戸惑いながら立ち尽くした。
「水瀬のおかげだ!」
「お前、すげえよ!」
「次の試合も頼むぞ!」
次々と向けられる笑顔。
かつて撮影所で浴びていた、値踏みするような視線とは違う。
この場の誰も、悠真に完璧を求めていない。
ただ、一緒に勝ったことを喜んでいる。
「……こういうのなら」
悠真は誰にも聞こえない声で呟いた。
「悪くないかもな」
人の輪の向こうに、美咲の姿を見つける。
美咲はすぐに駆け寄ろうとしたが、周囲の目を思い出したのか、途中で足を止めた。
胸の前で両手を重ね、嬉しそうに微笑んでいる。
その目には、うっすら涙が浮かんでいた。
悠真が人の輪を抜けて近づくと、美咲は慌てて目元を指で拭った。
「どうして泣いてるんだよ」
「泣いてないよ」
「いや、泣いてるだろ」
「汗です」
「目から?」
悠真が呆れたように笑う。
美咲は少し恥ずかしそうに顔を伏せた。
「だって……嬉しかったから」
「勝ったことが?」
「それもあるけど」
美咲はゆっくり顔を上げた。
周りには、まだ多くの生徒がいる。
そのため名前では呼ばず、小さな声で言う。
「水瀬くんが、最後まで逃げなかったことが」
悠真の胸が、強く鳴った。
試合の結果ではない。
何点決めたかでも、どれほど上手かったかでもない。
美咲が見ていたのは、ずっと悠真自身だった。
「……一ノ瀬さんが、あんなに名前を呼ぶからだろ」
「えっ」
「二人きりのときだけって決めたのに」
美咲の顔が一気に赤くなる。
「あ、あれは応援に夢中で……!」
「二回呼んだよな」
「二回も!?」
「自覚なかったのか」
美咲は両手で頬を押さえた。
「ど、どうしよう……。みんなに聞かれたよね?」
「たぶん」
「菜月にも聞かれた……」
「それは、ご愁傷さま」
「他人事みたいに言わないで。悠真くんのことなのに」
焦りのあまり、また名前で呼んでしまう。
悠真は一度瞬きをしたあと、声を押し殺して笑った。
「三回目」
「……もう知らない」
美咲は唇を尖らせ、ぷいっと横を向く。
だが、耳まで真っ赤になっているせいで、怒っていないことは明らかだった。
「でも、ありがとう」
悠真が言うと、美咲はそっと振り返った。
「何が?」
「声、聞こえたから」
悠真は少し迷い、それでも続ける。
「途中で、やめようと思った。これ以上やったら、目立つから」
「うん」
「だけど、美咲が大丈夫って言ってくれたから……最後までできた」
周囲の歓声はまだ続いている。
それなのに二人の間だけ、静かな空間ができたようだった。
美咲は目を見開き、やがて眩しそうに目を細める。
「本当に、大丈夫だよ」
優しい声だった。
「どんな悠真くんでも、私はちゃんと隣にいるから」
隣。
それは偶然、部屋が隣だっただけの関係から始まった言葉だ。
今では、その意味が少しずつ変わっている。
「……それ、学校で言っていい台詞か?」
悠真が照れ隠しに尋ねる。
美咲は意味を理解した瞬間、さらに顔を赤くした。
「そ、そういう意味じゃなくて!」
「じゃあ、どういう意味?」
「それは……」
美咲が答えに詰まる。
悠真は困らせすぎたと思い、笑って話を終わらせようとした。
だが、美咲は逃げなかった。
体操服の裾を指先で握りながら、悠真の目を見つめる。
「今は、まだ上手く言えないけど」
「うん」
「いつか、ちゃんと言うから」
小さく震えながらも、まっすぐな声だった。
悠真の心臓が、試合中よりも速く鳴り始める。
「……待ってる」
そう答えるだけで精いっぱいだった。
そこへ、背後から孝太郎の腕が悠真の首へ回された。
「おい悠真! 一ノ瀬さんと二人で何をいい雰囲気になってんだよ!」
「苦しい。離せ」
「しかも名前で呼ばれてただろ! 説明しろ!」
反対側から菜月も美咲の肩を掴む。
「美咲、あとでじっくり話そうね?」
「菜月、笑顔が怖いよ……」
「大丈夫。別に怒ってないから」
「その言い方が一番怖いの!」
美咲は助けを求めるように悠真を見る。
しかし悠真も、孝太郎に首を締められたまま動けない。
二人は顔を見合わせ――同時に吹き出した。
目立ちたくない。
平凡でいたい。
その気持ちは、今も変わっていない。
過去が消えたわけでも、怖さを克服したわけでもない。
それでも。
誰かと笑うためなら、ほんの少しだけ平凡から外れるのも悪くない。
悠真はそう思いながら、楽しそうに笑う美咲を見つめていた。
ただし、この勝利によって、悠真が予想していなかった人物からも注目され始めていることを――。
このときの彼は、まだ知らなかった。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
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