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【最新作】普通を演じる元天才子役は、隣室の美少女優等生に生活を管理される  作者: 優
第二章 初恋の人を、好きになるまで

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第35話 平凡を捨てる、十分間



 後半開始を告げる笛が、体育館に鋭く響いた。


 得点板に表示されている数字は、二十対七。


 一年一組が十三点差で負けている。


 コートへ足を踏み入れた悠真は、軽く首を回しながら相手チームを見渡した。


 三組にはバスケ部が三人いる。そのうち二人は試合開始からコートに立ち続けており、残る一人は後半に備えて温存されていたらしい。


 悠真が入ったのを見て、その選手もベンチから立ち上がった。


「一年三組、選手交代!」


 教師の声とともに、背の高い男子生徒がコートへ入る。


 進藤が小さく舌打ちした。


「やっぱり出してきたか。あいつ、バスケ部でも一年のレギュラー候補だ」


「そうなんだ」


「……水瀬、お前、本当に緊張しないな」


「緊張してるよ」


「その顔で言われても説得力ねえよ」


 悠真は曖昧に笑い、視線を観客席へ向けた。


 クラスメイトたちが固まっている一角。その最前列に、美咲がいた。


 先ほどまで女子バレーの試合に出ていたため、まだ体操服姿だ。膝の上に両手を置き、祈るように指を組んでいる。


 悠真と目が合った瞬間、美咲は驚いたように目を丸くした。


 しかし、すぐに表情を引き締めると、胸の前で小さく拳を作る。


 頑張って。


 声に出さなくても、その唇がそう動いたのが分かった。


 悠真はほんのわずかに頷き、正面へ向き直った。


 ――一回だけ、本気でやってくれ。


 数日前、進藤に言われた言葉が頭に蘇る。


 本気を出す。


 ただそれだけのことが、悠真にとってはひどく難しかった。


 できることを、できないふりをする。


 気づいても、気づかないふりをする。


 期待されない程度の結果を選び、失望されない代わりに、注目もされない場所にいる。


 そうやって過ごすことに慣れすぎてしまった。


 本気を出せば目立つ。


 目立てば見られる。


 見られれば、期待される。


 その先に待っているものを、悠真は知っていた。


『次はもっとできるよね?』


『君ならできる』


『みんな、悠真に期待しているんだから』


 昔の声が、耳の奥で重なる。


 悠真は息を吐き、指先を一度強く握った。


「水瀬」


 進藤に呼ばれ、顔を上げる。


「最初の一本、任せる」


 進藤の顔に冗談めいた色はなかった。


 本当に悠真を信じて、ボールを預けようとしている。


「……分かった」


 短く答えた、その直後。


 審判役の教師から、進藤へボールが渡された。


「始め!」


 進藤がドリブルを開始する。


 相手はすぐに守備陣形を整えた。点差に余裕があるためか、前半ほどの焦りはない。むしろ、こちらが無理に攻めてくるのを待っているようだった。


 悠真は左側へ移動しながら、相手選手の位置を確認する。


 一人が進藤につき、もう一人がゴール下を固める。残り三人はパスコースを意識しながら、少し距離を取っていた。


 悠真を守る男子は、軽く腰を落としながらも、どこか油断している。


 当然だ。


 前半に出ていなかった、普段から運動が得意とも思われていない生徒。


 警戒する理由などない。


 進藤が右へ仕掛けた。


 相手の守備が一歩寄る。


 その瞬間、悠真は逆方向へ切り返した。


「え――」


 マークについていた男子の声が遅れて聞こえる。


 悠真は空いた場所へ走り込み、進藤からのパスを受けた。


 ゴールまでの距離はある。


 守備が追いつく前に、膝を曲げる。


「水瀬!」


 誰かの声が飛んだ。


 悠真の手から放たれたボールは、綺麗な弧を描く。


 ほとんど音も立てず、リングの中央を通り抜けた。


 三点。


 得点板が、二十対十へ変わる。


 一瞬の沈黙。


 次いで、一組側の応援席から大きな歓声が上がった。


「入ったああっ!」


「水瀬、すげえ!」


「今のスリーポイント!?」


 悠真は反射的に肩を強張らせた。


 一斉に向けられる視線。


 高揚した声。


 何人もの目が、自分だけを見ている。


 照明の熱さが増したような錯覚に襲われる。


 体育館の床が、撮影所のスタジオへ変わっていく。


 眩しいライト。


 カメラの黒いレンズ。


 作り物の笑顔を浮かべる大人たち。


 悠真の呼吸が、わずかに浅くなった。


「水瀬、戻れ!」


 進藤の声で我に返る。


「……ああ」


 悠真は守備へ戻りながら、胸の奥に生じたざわめきを押し込んだ。


 三組の攻撃。


 先ほど交代で入ったバスケ部員が、悠真の前でボールを受ける。


「今の、まぐれじゃなさそうだな」


 相手は楽しそうに口元を上げた。


「どうだろう」


「まだ隠す気かよ」


 言うなり、鋭いドリブルで右へ踏み込んでくる。


 速い。


 少なくとも、普通の生徒なら簡単には止められない。


 悠真は半歩だけ下がり、相手の肩と足元を見る。


 重心が右へ傾いた直後、ボールが左手へ移る。


 切り返し。


 悠真は先に左へ動いていた。


「なっ――」


 相手の手を離れた瞬間を狙い、指先でボールを弾く。


 床を転がったボールを進藤が拾った。


「走れ、水瀬!」


 悠真はすでに駆け出していた。


 誰もいないコートを、一気に駆け抜ける。


 後ろからパスが飛んでくる。


 振り返らずに片手で受け、二歩。


 ゴールが目前へ迫った。


 ここで派手に決める必要はない。


 悠真は静かにボールをリングへ置くように放った。


 二点。


 二十対十二。


「あと八点!」


 応援席の声が、さらに大きくなる。


 進藤が駆け寄り、悠真の背中を強く叩いた。


「できるじゃねえか!」


「痛い」


「それくらい我慢しろ!」


 進藤は嬉しそうに笑っている。


 コートの外では、孝太郎が両手を振り回していた。


「悠真! お前、そんな動けたのかよ!」


 その隣で美咲も立ち上がっていた。


 口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。


 しかし、悠真の表情を見た瞬間、その笑顔がわずかに曇った。


 歓声を受けているはずなのに、悠真の顔が少し青ざめている。


 美咲だけが、その変化に気づいていた。


「悠真……」


 心配そうな呟きは、周囲の声にかき消された。


 試合は続く。


 三組も黙ってはいなかった。


 次の攻撃では、バスケ部員二人が連携し、悠真を避けるようにパスを回す。最後はゴール下から確実に二点を決められた。


 二十二対十二。


 再び十点差。


 残り時間は八分を切っている。


 一組の攻撃で進藤がボールを持つと、相手は悠真への警戒を一気に強めた。先ほどまで一人だったマークが、状況によっては二人になる。


「急に人気者だな」


 進藤が苦笑する。


「嬉しくない人気だ」


「だったら、その人気を利用しろ」


 進藤の言葉に、悠真は視線を巡らせた。


 自分に二人つけば、当然、別の誰かが空く。


「佐野!」


 悠真は右端にいたクラスメイトへ声を飛ばす。


「え、俺!?」


「そのままゴール下へ走って!」


 戸惑いながらも、佐野が走る。


 悠真は進藤からパスを受けると同時に、シュートを打つふりをした。


 二人の守備が跳ぶ。


 だがボールは悠真の手を離れず、その脇を抜けて走り込んできた佐野へ渡った。


「う、うおおっ!」


 佐野は半ば目を閉じながらボールを投げた。


 バックボードに当たったボールが、リングの上を一周する。


 全員が息を呑んで見守る中、ボールは内側へ落ちた。


 二十二対十四。


「入った! 俺が入れた!」


 佐野は自分でも信じられない様子で両手を上げた。


「佐野、戻れ!」


「お、おう!」


 悠真に言われ、慌てて守備へ戻る。


 続く三組の攻撃を進藤が防ぎ、一組は再びボールを奪った。


 今度は悠真がドリブルで運ぶ。


 正面に一人、左側からもう一人。


 二人に挟まれる寸前で、悠真は背後へボールを回した。


「進藤!」


「任せろ!」


 受け取った進藤が、中距離からシュートを放つ。


 それも決まった。


 二十二対十六。


 六点差。


 体育館の空気が変わる。


 前半は一方的だった試合に、誰もが注目し始めていた。


 別のコートで試合を終えた生徒たちまで、周囲へ集まってくる。


「一組、追いつくんじゃない?」


「あの十一番、誰?」


「水瀬ってやつだろ。あんなに上手かったっけ?」


「バスケ部じゃないの?」


 聞きたくない言葉が、耳へ届く。


 悠真の足が一瞬だけ止まった。


 ――やりすぎた。


 視線が集まっている。


 すでに、平均的な生徒の動きではない。


 これ以上続ければ、もっと目立つ。


 手を抜くなら今だ。


 点差は六点。進藤たちが頑張れば、もしかすると追いつけるかもしれない。


 自分が前へ出る必要は――。


「水瀬!」


 鋭い声とともに、ボールが飛んできた。


 反応が遅れた。


 悠真の指先に当たったボールが、コートの外へ転がっていく。


「あ……」


 一組のボールではなくなる。


 進藤は何も責めなかった。


 ただ、何かに気づいたように眉を寄せた。


「水瀬。お前……」


「ごめん。少しぼんやりしてた」


「今さら怖くなったか?」


 核心を突かれ、悠真は黙る。


 進藤は唇を引き結ぶと、それ以上は何も言わなかった。


 三組のスローインから試合が再開される。


 悠真は守備についたが、先ほどまでのようには動けなかった。


 相手の動きは見えている。


 パスを出すタイミングも分かる。


 どちらへ抜こうとしているのかも読める。


 けれど、体が動かない。


 いや――動かそうとしていない。


「もらった!」


 目の前の相手が悠真の脇を抜ける。


 そのまま放たれたシュートが決まり、二十四対十六。


 再び八点差。


「水瀬、どうしたんだよ!」


 クラスメイトの声が聞こえる。


 純粋な疑問だった。


 責めるような声ではなかった。


 それでも悠真の胸は痛んだ。


 期待される。


 応えられなければ、失望される。


 ならば最初から、期待などされない方がいい。


 そう思っていた。


 それなのに、一度応えたせいで、今は期待を裏切ることが苦しく感じる。


「悠真!」


 不意に、聞き慣れた声が響いた。


 悠真が振り返る。


 応援席の前で、美咲が立っていた。


 周囲の生徒たちが、突然名前を呼んだ彼女を驚いたように見ている。


 美咲自身も、その視線に気づいたらしい。頬を赤くし、一瞬だけ唇を噛んだ。


 学校では、水瀬くんと一ノ瀬さん。


 二人きりのときだけ、悠真と美咲。


 そう決めていたはずだった。


 それでも美咲は、引かなかった。


 胸元で両手を握り、まっすぐに悠真を見る。


「大丈夫だから!」


 何が大丈夫なのか。


 きっと、周りの誰にも分からない。


 だが悠真には分かった。


 目立っても。


 上手くできても。


 誰かに期待されても。


 その先で怖くなっても。


 彼女は、悠真を置いていかない。


「……簡単に言うなよ」


 悠真は小さく呟いた。


 けれど、その口元はわずかに緩んでいた。


 撮影所で聞いた「期待している」は、逃げ道を塞ぐ言葉だった。


 失敗を許さず、結果を求める言葉。


 だが今、美咲が向けてくれた「大丈夫」は違う。


 勝てとは言わない。


 上手くやれとも言わない。


 ただ、自分の隣に立っている。


 それだけの言葉だった。


「一ノ瀬さん、今、悠真って言った?」


 近くにいた菜月が目を丸くする。


「えっ」


 美咲はようやく自分が口にした呼び方に気づき、見る見るうちに顔を赤くした。


「ち、違うの。今のは、その……応援に夢中になって!」


「ふーん?」


 菜月は意味ありげに目を細める。


「あとで詳しく聞こうかな」


「今は試合を見て!」


 美咲は慌てて前を向いたものの、赤くなった耳までは隠せなかった。


 コートでは、進藤が悠真の肩を軽く叩く。


「復活したか?」


「別に、最初から落ち込んでない」


「そういうことにしといてやる」


 進藤はにやりと笑い、顎で得点板を示した。


「残り五分。八点差だ」


「なら、間に合う」


「……今のお前が言うと、頼もしいな」


 三組のフリースローが外れ、ボールがリングに弾かれる。


 悠真は落下地点を読んで先に走った。


 自分より背の高い相手の前へ体を入れ、跳ぶ。


 伸ばした右手が、ボールを掴んだ。


 着地と同時に進藤へパス。


 そのまま悠真はコートの端を駆け上がる。


「また速攻だ! 止めろ!」


 三組の選手二人が、悠真の前へ回り込む。


 進藤から返ってきたボールを受け、悠真は速度を落とさないまま一人目の横を抜けた。


 二人目が腕を広げる。


 悠真は右へ踏み込むと見せかけ、背中側へボールを通して左へ切り返した。


「嘘だろ!」


 驚きの声を背後に残し、ゴールへ跳ぶ。


 相手の長い腕が迫る。


 空中で体をひねり、ブロックを避けながらボールを放った。


 バックボードに当たったボールが、リングへ吸い込まれる。


 二十四対十八。


 同時に、笛が鳴った。


「ファウル! バスケットカウント、ワンスロー!」


 着地した悠真は、右腕に残る鈍い痛みを感じながら息を吐いた。


 体育館中が、今までで一番大きく沸いた。


「水瀬えええっ!」


「今の何!?」


「めちゃくちゃ上手いじゃん!」


 もう、平均のふりなどできていない。


 完全にやってしまった。


 悠真は額へ手を当てたくなるのを堪え、フリースローラインへ向かう。


 正面のゴールを見る。


 その向こうに、観客がいる。


 大勢の視線が、自分へ集まっている。


 それでも今度は逃げなかった。


 ボールを一度、二度と床へつく。


 膝を曲げ、息を吐く。


 美咲の声が聞こえた。


「頑張って、悠真!」


 また名前で呼んでいる。


 今度は隠すことすら忘れているらしい。


 悠真は思わず笑ってしまった。


 肩から余計な力が抜ける。


 そして、シュート。


 ボールは綺麗にリングを通過した。


 二十四対十九。


 五点差。


 残り四分二十秒。


 三組はすぐにタイムアウトを取った。


 一組の選手たちが、悠真を囲む。


「水瀬、お前、本当に帰宅部なのか!?」


「今からでもバスケ部に入れよ!」


「勝てる! これ勝てるぞ!」


 興奮した声が、次々に飛んでくる。


 悠真は困ったように目を伏せた。


 まだ怖さが消えたわけではない。


 こうして注目を浴びることも、その力を理由に何かを求められることも、できるなら避けたい。


 けれど、不思議と先ほどほど息苦しくはなかった。


 進藤が悠真とクラスメイトたちの間へ入り、両手を叩く。


「浮かれるのはまだ早い! 五点負けてるんだからな!」


 その声で、全員が静かになる。


 進藤は簡単に作戦を伝えたあと、最後に悠真を見た。


「最後までいけるか?」


 命令ではなかった。


 強制でもない。


 選択を悠真へ委ねる問いだった。


 悠真は応援席を見る。


 美咲は胸の前で手を組み、心配そうな顔をしていた。


 その目は「勝って」と訴えているのではない。


 悠真が無理をしていないか、ただそれだけを気にしている。


 目が合う。


 美咲は何も言わず、小さく頷いた。


 悠真も同じように頷き返した。


「……いける」


 進藤の顔に笑みが戻る。


「よし。じゃあ、逆転するぞ」


 タイムアウトが終わり、両チームがコートへ戻った。


 残り時間は四分二十秒。


 一組の攻撃から再開される。


 相手は完全に悠真を中心として守備を組み直していた。バスケ部員二人が悠真の左右を塞ぎ、ボールを持たせないつもりらしい。


 進藤がスローインの位置で眉をひそめる。


 パスを出す相手が見つからない。


 五秒を数える審判の手が進む。


 悠真はゴール下へ走るふりをし、急停止した。


 追ってきた二人が一瞬だけ重なる。


 すぐさま外側へ切り返す。


「進藤!」


 飛んできたボールを両手で受ける。


 着地したときには、すでに相手二人が迫っていた。


「打たせるな!」


 悠真はシュートの体勢に入る。


 二人の視線が、悠真の手元へ集中した。


 だが、ボールは放たれなかった。


「佐野、今!」


「お、おう!」


 悠真は背を向けたまま、空いていた佐野へボールを渡す。


 佐野は先ほどと同じ位置からシュートを放った。


 リングに当たり、大きく跳ねる。


「外れた!」


 三組の選手がリバウンドを取ろうと跳ぶ。


 その背後から、進藤が腕を伸ばした。


「まだだ!」


 進藤がボールを弾き、落ちた先へ悠真が走り込む。


 悠真はボールを掴み、ゴール下からすぐに放った。


 二点。


 二十四対二十一。


 あと三点。


 一組の応援が、地面を揺らすほどの大きさになる。


 次の三組の攻撃。


 相手のエースが強引に中へ切り込んでくる。


 進藤が正面を塞ぎ、悠真が横から手を伸ばす。


 ボールがこぼれた。


「走れ!」


 悠真が拾い、前を見る。


 三組の選手たちは戻り始めているが、一組の生徒が一人だけ先へ走っている。


 運動が得意とは言えないクラスメイトだった。


 それでも必死に腕を振り、ゴールへ向かっている。


 悠真は長いパスを投げた。


「えっ、俺!?」


「そのまま行け!」


 ボールを受けた男子は、ぎこちないドリブルでゴールへ近づく。


 後ろから相手が追いつく。


 焦った彼が放ったシュートは、バックボードへ強く当たった。


「ああっ!」


 リングから外れたボールが高く跳ねる。


 だが、悠真はすでにそこまで走っていた。


 飛び上がり、空中でボールを掴む。


 そのまま再びリングへ押し込んだ。


 二十四対二十三。


 ついに一点差。


 残り二分。


 体育館にいるほとんどの生徒が、試合を見ていた。


 歓声も視線も、もう避けようがない。


 それでも悠真の目には、先ほどのような怯えはなかった。


 苦しくないわけではない。


 怖くないわけでもない。


 ただ、その怖さよりも。


 勝って美咲の笑顔が見たいという気持ちが、ほんの少しだけ上回っていた。


 三組の攻撃は慎重になっていた。


 時間を使いながら、確実に一点差を守ろうとしている。


 相手のエースがボールを持ち、悠真の前に立つ。


「お前、何者だよ」


 低い声で尋ねられる。


「ただの帰宅部」


「それで納得できるか」


「俺も、今日は自分で納得できてない」


 悠真が苦笑すると、相手は一瞬だけ眉を上げた。


 その隙に、悠真は踏み込む。


 ボールを奪い取るには至らなかったが、相手の体勢が崩れた。


 慌てて出されたパスを、進藤が途中で弾く。


 床を転がるボール。


 悠真と相手選手が、同時に飛び込んだ。


 指先が触れる。


 悠真はボールを自分の胸元へ引き寄せ、床へ肩を打ちつけながら抱え込んだ。


「悠真!」


 美咲の悲鳴に近い声が聞こえる。


 直後、笛が鳴った。


「白ボール!」


 一組のボール。


 残り一分十四秒。


 悠真が立ち上がると、右肩に痛みが走った。


 顔をしかめたのを、美咲は見逃さなかった。


 立ち上がったまま、不安そうに両手を握っている。


 悠真は肩を一度回し、彼女へ向かって小さく手を上げた。


 大丈夫。


 今度は悠真が、言葉を使わずに伝える番だった。


 美咲は唇を結びながら、ゆっくり頷く。


 一組の攻撃。


 残り一分。


 進藤がドリブルで時間を使いながら、悠真の動きを待っている。


 三組はゴール下を固めていた。


 一点差なら、二点で逆転できる。


 当然、悠真が中へ入ることを警戒している。


 残り四十秒。


 悠真は外側へ開く。


 相手が迷った。


 先ほどスリーポイントを決めている以上、放置はできない。


 一人が悠真を追って外へ出る。


 ゴール下に、わずかな隙間ができた。


「進藤!」


 悠真は声を上げながら、さらに外へ走る。


 進藤が悠真へパスを出す。


 相手の守備が、一斉に悠真へ寄った。


 三人。


 ボールを受けた悠真は、ゴールを見た。


 ここから打てば、決められる。


 少なくとも、かなり高い確率で。


 自分が決めれば、注目はさらに集まる。


 英雄のように扱われるかもしれない。


 けれど悠真は、シュートを選ばなかった。


 視界の端に、誰にも守られていない進藤がいた。


 悠真はボールを頭上へ掲げ、そのまま両手で横へ送る。


「行け、進藤!」


「――任せろ!」


 進藤がボールを受け、ゴール下へ踏み込んだ。


 相手が慌てて戻る。


 一歩、二歩。


 進藤は跳んだ。


 伸ばした手から、ボールが離れる。


 バックボードに当たり、リングへ落ちる。


 得点板が変わった。


 二十五対二十四。


 初めて、一組が前へ出た。


「よっしゃあああっ!」


 進藤の叫びと同時に、一組の応援席が爆発したように沸く。


 残り二十二秒。


 三組はすぐにボールを運ぶ。


 最後の攻撃。


 悠真は息を整える暇もなく、相手エースの前へ立った。


「絶対に決める!」


「そう簡単にはさせない」


 残り十秒。


 相手が右へ切り込む。


 悠真は追う。


 残り五秒。


 急停止した相手が、遠い位置からシュートを放った。


 ボールが高く上がる。


 悠真は見上げた。


 誰も声を出さない。


 ボールがリングへ当たり、一度跳ねた。


 もう一度、リングに触れる。


 そして――外側へ落ちた。


 試合終了の笛が鳴る。


 二十五対二十四。


 一組の逆転勝利だった。


「勝ったああっ!」


 クラスメイトたちがコートへなだれ込み、進藤を、佐野を、そして悠真を囲む。


 悠真は何人もの手で背中を叩かれ、戸惑いながら立ち尽くした。


「水瀬のおかげだ!」


「お前、すげえよ!」


「次の試合も頼むぞ!」


 次々と向けられる笑顔。


 かつて撮影所で浴びていた、値踏みするような視線とは違う。


 この場の誰も、悠真に完璧を求めていない。


 ただ、一緒に勝ったことを喜んでいる。


「……こういうのなら」


 悠真は誰にも聞こえない声で呟いた。


「悪くないかもな」


 人の輪の向こうに、美咲の姿を見つける。


 美咲はすぐに駆け寄ろうとしたが、周囲の目を思い出したのか、途中で足を止めた。


 胸の前で両手を重ね、嬉しそうに微笑んでいる。


 その目には、うっすら涙が浮かんでいた。


 悠真が人の輪を抜けて近づくと、美咲は慌てて目元を指で拭った。


「どうして泣いてるんだよ」


「泣いてないよ」


「いや、泣いてるだろ」


「汗です」


「目から?」


 悠真が呆れたように笑う。


 美咲は少し恥ずかしそうに顔を伏せた。


「だって……嬉しかったから」


「勝ったことが?」


「それもあるけど」


 美咲はゆっくり顔を上げた。


 周りには、まだ多くの生徒がいる。


 そのため名前では呼ばず、小さな声で言う。


「水瀬くんが、最後まで逃げなかったことが」


 悠真の胸が、強く鳴った。


 試合の結果ではない。


 何点決めたかでも、どれほど上手かったかでもない。


 美咲が見ていたのは、ずっと悠真自身だった。


「……一ノ瀬さんが、あんなに名前を呼ぶからだろ」


「えっ」


「二人きりのときだけって決めたのに」


 美咲の顔が一気に赤くなる。


「あ、あれは応援に夢中で……!」


「二回呼んだよな」


「二回も!?」


「自覚なかったのか」


 美咲は両手で頬を押さえた。


「ど、どうしよう……。みんなに聞かれたよね?」


「たぶん」


「菜月にも聞かれた……」


「それは、ご愁傷さま」


「他人事みたいに言わないで。悠真くんのことなのに」


 焦りのあまり、また名前で呼んでしまう。


 悠真は一度瞬きをしたあと、声を押し殺して笑った。


「三回目」


「……もう知らない」


 美咲は唇を尖らせ、ぷいっと横を向く。


 だが、耳まで真っ赤になっているせいで、怒っていないことは明らかだった。


「でも、ありがとう」


 悠真が言うと、美咲はそっと振り返った。


「何が?」


「声、聞こえたから」


 悠真は少し迷い、それでも続ける。


「途中で、やめようと思った。これ以上やったら、目立つから」


「うん」


「だけど、美咲が大丈夫って言ってくれたから……最後までできた」


 周囲の歓声はまだ続いている。


 それなのに二人の間だけ、静かな空間ができたようだった。


 美咲は目を見開き、やがて眩しそうに目を細める。


「本当に、大丈夫だよ」


 優しい声だった。


「どんな悠真くんでも、私はちゃんと隣にいるから」


 隣。


 それは偶然、部屋が隣だっただけの関係から始まった言葉だ。


 今では、その意味が少しずつ変わっている。


「……それ、学校で言っていい台詞か?」


 悠真が照れ隠しに尋ねる。


 美咲は意味を理解した瞬間、さらに顔を赤くした。


「そ、そういう意味じゃなくて!」


「じゃあ、どういう意味?」


「それは……」


 美咲が答えに詰まる。


 悠真は困らせすぎたと思い、笑って話を終わらせようとした。


 だが、美咲は逃げなかった。


 体操服の裾を指先で握りながら、悠真の目を見つめる。


「今は、まだ上手く言えないけど」


「うん」


「いつか、ちゃんと言うから」


 小さく震えながらも、まっすぐな声だった。


 悠真の心臓が、試合中よりも速く鳴り始める。


「……待ってる」


 そう答えるだけで精いっぱいだった。


 そこへ、背後から孝太郎の腕が悠真の首へ回された。


「おい悠真! 一ノ瀬さんと二人で何をいい雰囲気になってんだよ!」


「苦しい。離せ」


「しかも名前で呼ばれてただろ! 説明しろ!」


 反対側から菜月も美咲の肩を掴む。


「美咲、あとでじっくり話そうね?」


「菜月、笑顔が怖いよ……」


「大丈夫。別に怒ってないから」


「その言い方が一番怖いの!」


 美咲は助けを求めるように悠真を見る。


 しかし悠真も、孝太郎に首を締められたまま動けない。


 二人は顔を見合わせ――同時に吹き出した。


 目立ちたくない。


 平凡でいたい。


 その気持ちは、今も変わっていない。


 過去が消えたわけでも、怖さを克服したわけでもない。


 それでも。


 誰かと笑うためなら、ほんの少しだけ平凡から外れるのも悪くない。


 悠真はそう思いながら、楽しそうに笑う美咲を見つめていた。


 ただし、この勝利によって、悠真が予想していなかった人物からも注目され始めていることを――。


 このときの彼は、まだ知らなかった。

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