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【最新作】普通を演じる元天才子役は、隣室の美少女優等生に生活を管理される  作者: 優
第二章 初恋の人を、好きになるまで

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第28話 弱った彼が呼んだ名前



 美咲は悠真の身体を支えながら、どうにかベッドまで連れていった。


「ゆっくり座って」


「ああ……」


 悠真はベッドの端へ腰を下ろす。


 美咲が腕を離した瞬間、身体が僅かに傾いた。


「危ない」


 美咲は慌てて肩を支える。


「大丈夫だ」


「もう、その言葉は禁止」


「何が?」


「今日の水瀬くんが言う『大丈夫』は、全部嘘だから」


 美咲は少し怒ったように眉を寄せた。


 けれど、その瞳には怒り以上の心配が浮かんでいる。


「横になって」


「制服が……」


「着替えたほうがいいよね」


 美咲の動きが止まった。


 悠真も、ゆっくりと彼女を見る。


 二人の間に、何とも言えない沈黙が流れた。


「一人で着替えられる?」


 美咲が恐る恐る尋ねる。


「それくらいはできる」


「本当に?」


「ああ」


 悠真は制服の上着へ手をかけた。


 しかし指に上手く力が入らず、ボタンを一つ外したところで動きが止まる。


 美咲は不安そうに、その手元を見つめた。


「やっぱり、手伝おうか?」


「それは……いい」


 悠真はすぐに答えた。


「でも、そのまま寝たら苦しいよ」


「時間をかければできる」


「私は向こうを向いてるから」


 美咲は顔を真っ赤にし、勢いよく背中を向けた。


「本当に見ないからね」


「ああ」


「終わったら言って」


 背後から衣擦れの音が聞こえる。


 美咲は両手で顔を覆った。


 見ていないのに、悠真が制服を脱いでいると考えただけで心臓が速くなる。


 けれど、今は恥ずかしがっている場合ではない。


「……水瀬くん?」


 途中から音が聞こえなくなった。


 返事もない。


「大丈夫?」


 反応がなかった。


 美咲は迷った末、恐る恐る振り返る。


 悠真は上着を脱いだ状態で、ベッドへ倒れ込むように横になっていた。シャツのボタンは上から二つだけ外れている。


「水瀬くん!」


 美咲はすぐに駆け寄った。


「起きてる?」


「ああ」


 悠真は薄く目を開けた。


「少し、休んでただけだ」


「やっぱり一人では無理だよ」


「でも……」


「分かった。シャツはそのままでいいから、ネクタイだけ外すね」


 美咲は悠真の身体を起こし、首元のネクタイへ手を伸ばした。


 指が震える。


 結び目を緩めようとしても、緊張のせいで上手く動かせない。


「一ノ瀬さん」


「何?」


「手が震えてる」


「水瀬くんが近いから」


「さっきまで支えてただろ」


「そのときは必死だったの」


 美咲は頬を赤くしたまま、何とかネクタイを外した。


 次にシャツの首元を少し緩める。


 間近にある悠真の顔は、普段より赤い。額には薄く汗が浮かび、呼吸も少し速かった。


「やっぱり熱が上がってる」


 美咲は自分の額を、悠真の額へ近づけた。


「手でいいだろ」


「私の手、冷たいから分かりにくいかもしれないの」


「体温計を使えばいい」


「それもそうだね」


 額が触れる直前、美咲は動きを止めた。


 自分が何をしようとしていたのか気づき、頬が一気に熱くなる。


「ご、ごめん」


 慌てて身体を離す。


「何もしてないだろ」


「そうだけど……」


 美咲は誤魔化すように立ち上がった。


「体温計、どこ?」


「洗面所の棚にあると思う」


「取ってくるね」


 ◇


 体温計が示した数字は、三十八度九分。


「上がってる……」


 美咲の表情が強張った。


「病院へ行こう?」


「そこまでじゃない」


「もうすぐ三十九度だよ」


「風邪なら、寝てれば治る」


「でも――」


「感染症なら、今から病院へ行っても薬は変わらない」


 熱があっても、悠真の言っていることは理にかなっていた。


「水分を取って寝る。明日も下がらなければ病院へ行く」


「本当に行く?」


「ああ」


「約束できる?」


「できる」


 美咲は不安そうに悠真を見つめた。


 けれど、無理に連れ出すほうが身体へ負担をかけると考えたのだろう。


「分かった」


 小さく頷き、布団を悠真の肩までかけた。


「家に薬はある?」


「洗面所の棚」


「さっき見たけど、なかったよ」


「なら、切れてる」


「たぶんあるって言ってたよね?」


「あると思ってた」


「やっぱり、私が一緒に帰ってきてよかった」


 美咲は腰へ手を当て、僅かに頬を膨らませた。


「一人だったら、どうするつもりだったの?」


「寝る」


「ご飯は?」


「食べなくても一日くらいなら問題ない」


「水は?」


「キッチンにある」


「冷蔵庫、空だったよ?」


「水道がある」


「水瀬くん」


 美咲の声が低くなる。


「何だ?」


「今から私が必要なものを買ってくるから、そのまま寝てて」


「一ノ瀬さんは学校へ戻れ」


「戻らない」


「午後の授業がある」


「水瀬くんが一人になっちゃう」


「寝てるだけだ」


「途中でもっと熱が上がったら?」


「大丈夫だ」


「その言葉は禁止って言ったでしょう?」


 美咲はベッドの横へ腰を下ろした。


 汗で額へ張りついていた悠真の前髪を、そっと指で払う。


「学校より、水瀬くんのほうが大事」


「学年一位が言う言葉じゃないな」


「一日休んだくらいで順位は下がらないよ」


「俺は休ませるつもりで言ったんじゃない」


「分かってる」


 美咲は柔らかく微笑んだ。


「心配してくれて、ありがとう」


 悠真は何か言おうとしたが、再び小さく咳き込んだ。


 美咲の笑顔がすぐに消える。


「水、持ってくるね」


 ◇


 水と体温計を枕元へ置き、美咲は買い物へ出た。


 薬。


 経口補水液。


 冷却シート。


 ゼリー飲料。


 おかゆの材料。


 必要になりそうなものを、思いつく限り買い物かごへ入れていく。


 会計を終える頃には、大きな袋が二つになっていた。


「買いすぎたかな……」


 けれど、足りないよりはいい。


 急いでマンションへ戻る。


 悠真から預かった鍵で部屋へ入り、静かに寝室を覗いた。


 悠真は眠っていた。


 呼吸は浅く、眉間には僅かな皺が寄っている。


「苦しそう……」


 美咲はベッドの横へ座り、冷却シートを額へ貼った。


 触れられたことで、悠真の瞼が僅かに動く。


「一ノ瀬さん……?」


「ごめんね。起こしちゃった?」


「学校は?」


「今日は休むって連絡したよ」


「戻れと言っただろ」


「聞こえなかったことにしたの」


 美咲は少しだけ頬を膨らませた。


「水瀬くんも私との約束を破ったから、お互いさま」


「それは……悪かった」


「本当に反省してる?」


「ああ」


「それなら、次からはちゃんと言ってね」


「分かった」


 悠真は素直に頷いた。


 熱のせいで、普段のように反論する力が残っていないらしい。


「薬を買ってきたけど、何か食べないと飲めないから」


「食欲はない」


「少しだけでいいよ。おかゆを作るから」


「無理に食べなくても――」


「今日は、私の言うことを聞いて」


 美咲は悠真の手を取った。


 熱い。


 普段なら美咲の手のほうが温かいのに、今は悠真の体温が指先から伝わってくる。


「お願い」


「……分かった」


「すぐ作ってくるね」


 美咲が手を離そうとした。


 しかし悠真の指が、美咲の手を僅かに握る。


「水瀬くん?」


「いや……」


 悠真は自分でも無意識だったらしく、すぐに手を離した。


「何でもない」


「ここにいたほうがいい?」


「おかゆを作るんだろ」


「うん」


「なら、行っていい」


 美咲は少し迷った。


 悠真の指が、何かを求めるように動いたことが気になった。


「すぐ戻ってくるからね」


「ああ」


「呼んだら、聞こえるところにいるから」


「分かった」


 美咲は立ち上がり、寝室を出た。


 ◇


 おかゆができるまでの間、美咲は何度も悠真の様子を確認した。


 眠っていることを確かめてはキッチンへ戻る。


 数分後には、また寝室を覗く。


 三度目に戻ったとき、悠真の呼吸が先ほどより速くなっていた。


「水瀬くん?」


 呼びかけても、返事はない。


 眠っている。


 しかし眉間へ深く皺を寄せ、何かを呟いていた。


「……ごめんなさい」


 掠れた声だった。


「水瀬くん?」


「もう……無理です」


 悠真の手が、布団を強く握る。


「できません……もう、撮れない……」


 美咲の動きが止まった。


 撮れない。


 その言葉が、胸に引っかかる。


「期待しないで……」


 悠真の表情が苦しそうに歪んだ。


「俺は……レイじゃ……」


 言葉は最後まで続かなかった。


 美咲の心臓が、大きく鳴る。


 レイ。


 偶然かもしれない。


 別の意味かもしれない。


 しかし、美咲の脳裏には一人の名前が浮かんでいた。


 天宮レイ。


 幼い頃、美咲が憧れた天才子役。


 演技。


 撮影。


 突然の引退。


 悠真の笑顔と似た面影。


 芸能事務所の人間へ声をかけられたときの、怯えるような反応。


 これまで別々だった違和感が、一つにつながりかける。


「水瀬くん……」


 美咲は震える手を、悠真の頬へ添えた。


 悠真が何を隠しているのか。


 その答えに、手を伸ばせば届くかもしれない。


 けれど、今の言葉は悠真が自分から話したものではない。


 熱に浮かされ、意識のない状態で漏れた言葉だ。


 本人が隠したいと願っている過去を、勝手に暴いてはいけない。


「大丈夫だよ」


 美咲は秘密について考えることをやめ、悠真の手を握った。


「もう、何もしなくていいよ」


 苦しそうに布団を握っていた指を、一本ずつ解いていく。


「誰かの期待に応えなくてもいい」


 代わりに、美咲の指を絡めた。


「私は、何もできない水瀬くんでも嫌いにならないから」


 悠真の眉間に寄っていた皺が、僅かに緩む。


「ここには、私しかいないよ」


 美咲は彼の手を両手で包み込んだ。


「だから、もう演じなくていい」


 それは、悠真がずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。


 荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。


 美咲は手を離さず、しばらくベッドの横へ座っていた。


 ◇


 おかゆが完成し、美咲は悠真の身体を起こした。


「一人で座れる?」


「ああ」


 まだ意識はぼんやりしているようだった。


 背中へ枕を置き、身体を預けさせる。


 美咲はおかゆの入った器を持ち、スプーンですくった。


「熱いから、少し待ってね」


 息を吹きかけて冷ます。


 悠真の前へ差し出すと、彼はスプーンと美咲を交互に見た。


「自分で食べられる」


「さっき、着替えも途中で止まってたでしょう?」


「食べるくらいはできる」


「手が震えてるよ」


 見ると、悠真の指先は僅かに震えていた。


「今日は私に任せて」


 美咲はもう一度スプーンを差し出した。


「口、開けて」


「子供じゃない」


「病人です」


「高校生だ」


「高校生の病人です」


 悠真はしばらく美咲を見つめた。


 断っても引かないと理解したらしく、諦めたように口を開く。


 美咲が、おかゆを食べさせる。


「熱くない?」


「大丈夫」


「その大丈夫は本当?」


「ああ。美味い」


 美咲は安心したように微笑んだ。


「よかった」


「一ノ瀬さん」


「何?」


「こういうの、恥ずかしくないのか?」


 悠真の問いに、美咲の頬が赤くなる。


「すごく恥ずかしいよ」


「なら、やめればいい」


「でも、水瀬くんに食べてもらいたいから」


 美咲は次のおかゆをすくう。


「今は恥ずかしいより、心配のほうが大きいの」


「そうか」


「元気になったら、今日のことを思い出して恥ずかしくなると思う」


「忘れたほうがいいか?」


「忘れないで」


 美咲はすぐに答えた。


 そのあと、照れくさそうに目元を緩める。


「私が看病したこと、覚えていてほしい」


「分かった」


 悠真は素直に頷いた。


「忘れない」


 ◇


 薬を飲むと、悠真は再び眠り始めた。


 美咲はベッドの横に座り、濡らしたタオルで汗を拭く。


 夕方になっても、熱はほとんど下がらなかった。


 一度自分の部屋へ戻り、着替えと充電器を持ってくる。


 今日は隣人の看病をするため、夜までそばにいたい。


念のため母にも連絡した。


 母は少し心配していたが、相手が以前通話した悠真だと知ると、最後には許してくれた。


「美咲……」


 ベッドから声が聞こえた。


 美咲は動きを止めた。


 悠真は目を閉じている。


 眠ったまま、誰かを探すように手を動かしていた。


「水瀬くん?」


「どこ……」


 掠れた声。


 美咲はその手を取った。


「ここにいるよ」


 悠真の指が、美咲の手を強く握る。


「行かないで……」


 美咲の胸が、強く締めつけられた。


 普段の悠真なら、絶対に口にしない言葉だった。


 一人で大丈夫だと言う。


 誰かに頼る必要はないと言う。


 けれど今は、熱に浮かされながら美咲を求めている。


「行かないよ」


 美咲はベッドの横へ膝をつき、悠真の手を両手で包んだ。


「ずっと、ここにいる」


「本当に……?」


「うん」


 美咲は空いた手で、悠真の髪を優しく撫でた。


「水瀬くんが眠るまで、手を握ってる」


「……美咲」


 もう一度、名前を呼ばれる。


 一ノ瀬さんではない。


 初めて呼ばれた、自分の名前。


 美咲の目元が熱くなる。


「うん。美咲だよ」


 涙を堪えながら、柔らかく微笑んだ。


「私はここにいるよ、悠真くん」


 美咲も初めて、彼を名前で呼んだ。


 悠真は目を覚まさない。


 それでも、安心したように指から力を抜いた。


 美咲はその手を握ったまま、彼の寝顔を見つめ続けた。


 熱が下がってほしい。


 早く元気になってほしい。


 けれど同時に、今だけは自分を求めてくれたことが嬉しかった。


「好きだよ、悠真くん」


 眠っている彼にだけ届くほど、小さな声で告げる。


「元気になったら、また一緒にご飯を食べようね」


 返事はなかった。


 ただ、握られた悠真の指が、ほんの僅かに動いた気がした。

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