第29話 名前で呼ぶ朝
悠真が目を覚ましたとき、部屋の中は薄暗かった。
カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。
頭はまだ重い。
喉にも痛みが残っていた。
それでも、昨日よりは楽になっている。
額へ貼られた冷却シートが、すでに温くなっていた。
「……朝か」
小さく呟き、身体を起こそうとする。
そのとき、右手に温かな感触があることに気づいた。
顔を向ける。
ベッドの横に、美咲がいた。
椅子へ座ったまま、上半身をベッドへ預けるようにして眠っている。
両手で悠真の右手を包み、頬をその近くへ寄せていた。
長い黒髪が肩から流れ、シーツの上へ広がっている。
「一ノ瀬さん……?」
呼びかけても、美咲は起きなかった。
規則正しい寝息が聞こえる。
昨夜、ずっと看病してくれていたのだろう。
枕元には、体温計、飲みかけの水、薬、交換用の冷却シートが並んでいた。
机の上には、使い終えたタオルと洗面器。
美咲は何度もタオルを替え、悠真の汗を拭き、熱を測ってくれたらしい。
「本当に、ずっといたのか」
悠真は眠っている美咲を見つめた。
普段より幼く見える寝顔。
疲れているのか、目元には僅かに隈がある。
昨日、学校を休んでまで看病してくれた。
夜も自分の部屋へ戻らず、ベッドの横へ座っていた。
美咲の手を離そうと、悠真は指を僅かに動かした。
「……行かないで」
美咲が眠ったまま呟く。
握る手に、少しだけ力が入った。
悠真の胸が僅かに鳴る。
「行かないのは、そっちだろ」
誰にも聞こえない声で答える。
無理に離す気にはなれなかった。
空いている左手を伸ばし、美咲の頭へ触れる。
柔らかな髪を、指先でそっと撫でた。
昨夜の記憶は途切れている。
美咲に支えられながら帰宅したこと。
おかゆを食べさせてもらったこと。
手を握られたこと。
そこまでは覚えていた。
そのあとは、夢と現実が混ざり合っている。
白い照明。
撮影用のカメラ。
自分を責める大人たちの声。
その中で、美咲が名前を呼んでくれた気がした。
『私はここにいるよ、悠真くん』
聞いたことのない呼び方。
けれど、とても安心した。
さらにもう一つ。
『好きだよ』
そんな言葉を聞いた気がする。
夢だったのか。
本当に美咲が言ったのか。
確かめる勇気はなかった。
「ん……」
美咲の睫毛が僅かに動いた。
悠真は慌てて、頭を撫でていた左手を引こうとする。
しかし、間に合わなかった。
美咲がゆっくり目を開ける。
「……悠真くん?」
寝ぼけた声で名前を呼ぶ。
二人の視線が重なった。
美咲は悠真の左手が自分の髪へ触れていることに気づく。
「おはよう」
悠真は手を離しながら言った。
美咲は何度か瞬きをした。
次の瞬間、勢いよく身体を起こす。
「み、水瀬くん!」
「急に動くと危ないぞ」
「今、私……」
「寝てたな」
「そうじゃなくて」
美咲は両手で赤くなった頬を覆った。
「名前で呼んでた?」
「ああ」
「忘れて」
「もう覚えた」
「寝ぼけてたの」
「そうみたいだな」
美咲は顔を覆ったまま、僅かに俯いた。
「昨日、水瀬くんも私のことを名前で呼んだから」
「俺が?」
「うん」
美咲は指の隙間から、悠真の様子を窺う。
「覚えてない?」
「何となくは」
「熱が高かったから、覚えてないと思ってた」
「どんな状況だった?」
「それは……」
美咲は顔から手を離し、膝の上へ視線を落とした。
「水瀬くんが、私を探してたの」
「一ノ瀬さんを?」
「美咲って呼んで、行かないでって」
美咲は恥ずかしそうに両手を握った。
「だから、ここにいるよって答えたの」
「悪かった」
「どうして謝るの?」
「困らせただろ」
「全然」
美咲はすぐに首を横へ振った。
「嬉しかった」
「俺が弱ってたのが?」
「違うよ」
美咲は少し怒ったように頬を膨らませた。
「頼ってくれたことが嬉しかったの」
「覚えてない状態で、だけどな」
「それでもいいの」
美咲は悠真の右手を、もう一度握った。
「水瀬くんが一人にしてほしくないとき、そばにいられたから」
握られた手は温かい。
悠真は振り払わなかった。
「それで、体調は?」
「昨日よりはいい」
「それは本当の大丈夫?」
「ああ」
美咲は空いた手で、悠真の額へ触れた。
悠真は今度こそ避けなかった。
「昨日よりは下がってる気がする」
「そうだろ」
「でも、まだ少し熱いよ」
美咲は心配そうに眉尻を下げた。
「体温を測ろう?」
枕元の体温計を取り、悠真へ渡す。
測定結果は、三十七度六分。
「まだ熱がある」
「三十八度以下なら問題ない」
「問題あるよ」
「昨日より一度以上下がった」
「学校へ行こうとしたら駄目だからね」
「今日は休む」
悠真が素直に答える。
美咲は驚いたように目を丸くした。
「本当に?」
「ああ」
「熱があるのに、また行くって言うかと思ってた」
「昨日のことで懲りた」
「私の言うことを聞いてくれる?」
「今日だけは」
「明日からも聞いてほしいな」
「内容による」
美咲は安心したように笑った。
「それじゃあ、朝ご飯を作るね」
「一ノ瀬さんは?」
「私?」
「昨日、ほとんど寝てないだろ」
「少しは寝たよ」
「椅子で?」
「……うん」
「ベッドを使えばよかったのに」
「水瀬くんが寝てたでしょう?」
「ソファがある」
「手を離したら、水瀬くんが不安そうにしたから」
美咲はつないだ手へ視線を落とした。
「何度か離そうとしたんだけど、そのたびに握られたの」
「俺が?」
「うん」
「全然覚えてない」
「私だけが覚えてるから大丈夫」
美咲は柔らかく微笑んだ。
「でも、今日は自分の部屋で少し寝る」
「そうしてくれ」
「水瀬くんの朝ご飯を作って、薬を飲むのを見てからね」
「一人でできる」
「昨日は、一人でできなかったでしょう?」
「今日はできる」
「それでも見てる」
美咲は譲らない。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「心配しすぎだ」
「好きな人だから、仕方ないの」
美咲は自然に答えた。
数秒後、自分の言葉を理解したらしい。
身体が固まる。
悠真も彼女を見た。
「今――」
「大切な人!」
美咲は大きな声で言い直した。
「水瀬くんは大切な友達だから、心配するの!」
「昨日も同じことを言ってなかったか?」
「言ってないよ」
「保健室で、好きな人が苦しそうにしてると」
「聞き間違い」
「二回も?」
「二回とも!」
美咲の顔は真っ赤だった。
悠真はじっと彼女を見る。
「目が泳いでる」
「寝不足だから」
「関係あるのか?」
「あるの」
「そうか」
悠真はそれ以上追及しなかった。
美咲は胸を撫で下ろす。
しかし、僅かに残念そうでもあった。
否定したかったわけではない。
むしろ、いつかは伝えたいと思っている。
ただ、今ではない。
「じゃあ、おかゆを温めてくるね」
美咲が立ち上がろうとする。
悠真の右手を握ったままなので、途中で動きが止まった。
「……手、離していい?」
美咲が少し名残惜しそうに尋ねる。
「ああ」
「本当に?」
「料理できないだろ」
「それもそうだね」
美咲はゆっくり手を離した。
「すぐ戻るから」
「分かった」
「寂しくない?」
「数分だろ」
「昨日は、行かないでって言ったのに」
「それは忘れろ」
「無理だよ」
美咲は楽しそうに笑った。
「一度聞いたことは忘れないんでしょう?」
「俺の言葉を使うな」
「ずっと覚えておくね」
美咲は嬉しそうな表情で、寝室を出ていった。
◇
美咲がおかゆを温めている間、悠真はベッドの上で昨夜の記憶を辿っていた。
苦しい夢を見た。
撮影現場にいた。
監督やスタッフに囲まれ、期待しないでくれと叫んでいた。
そして――。
『俺は、レイじゃ……』
そこまで口にした気がする。
悠真の表情が強張った。
自分は、どこまで話したのか。
寝室の扉が開き、美咲が盆を持って戻ってくる。
「お待たせ」
おかゆと水。
小さな器には、すりおろしたリンゴも入っている。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「昨日、俺は寝ながら何か言ってたか?」
美咲の足が僅かに止まった。
ほんの一瞬。
けれど悠真は、その変化を見逃さなかった。
「少しだけ」
美咲はベッドの横へ盆を置いた。
「何を?」
「期待しないで、とか。もう無理だとか」
「他には?」
「……よく聞き取れなかった」
美咲は僅かに視線を逸らした。
嘘だ。
悠真には分かった。
美咲は、聞いた。
おそらく、レイという名前まで。
「そうか」
悠真はそれ以上尋ねなかった。
美咲が驚いたように顔を上げる。
「聞かないの?」
「ああ」
「私が嘘をついてるかもしれないよ?」
「ついてるだろ」
美咲の瞳が大きくなる。
「分かってたの?」
「一ノ瀬さんは、嘘をつくと目を逸らす」
「水瀬くんと同じだね」
「俺は、必要なら目を逸らさずに嘘をつける」
「それは威張ることじゃないよ」
美咲は困ったように眉を下げた。
「どうして、聞かないの?」
「話さないのは、理由があるからだろ」
「あの言葉は、水瀬くんが自分で話してくれたものじゃないから」
美咲は膝の上で両手を組んだ。
「熱があって、意識がはっきりしないときに聞いただけ。だから、水瀬くんが話したくなるまで知らないことにする」
「気にならないのか?」
「すごく気になる」
美咲は正直に答えた。
「でも、勝手に答えを探したくない」
「どうして?」
「水瀬くんの口から聞きたいから」
美咲は柔らかく微笑んだ。
「いつか、自分から話したいと思ってくれたときに」
悠真は何も言えなかった。
美咲は天宮レイと悠真の関係へ、かなり近づいている。
その気になれば、昨夜聞いた言葉を手がかりに調べることもできるだろう。
けれど彼女は、それをしないと言っている。
「ありがとう」
悠真は小さく答えた。
「うん」
美咲は安心したように頬を緩めた。
◇
美咲は、おかゆをスプーンですくった。
息を吹きかけ、悠真の口元へ運ぶ。
「自分で食べられる」
「手、出してみて」
悠真が片手を出す。
昨日ほどではないが、まだ僅かに震えている。
「駄目」
美咲は首を横へ振った。
「今日は私が食べさせる」
「一人でも食べられる」
「こぼしたら、シーツを洗うことになるよ」
「洗濯の仕方は覚えた」
「病気のときに洗濯しないで」
美咲はスプーンを悠真の前へ差し出した。
「口を開けて」
「……分かった」
悠真は諦めて口を開いた。
温かいおかゆが口へ入る。
「どう?」
「美味い」
「昨日と同じだけどね」
「昨日は味がよく分からなかった」
「今日は分かる?」
「ああ。一ノ瀬さんが作った味がする」
美咲の手が止まった。
「それ、どんな味?」
「安心する味」
悠真は熱のせいか、普段より素直になっていた。
美咲の目元が僅かに潤む。
「もう一回、言ってくれる?」
「一ノ瀬さんの料理を食べると、安心する」
「……ありがとう」
美咲は嬉しそうに、けれど泣きそうな顔で笑った。
「これからも作るね」
「ああ」
「毎日でもいい?」
「無理をしないなら」
「うん。約束する」
美咲は次のおかゆをすくう。
悠真が口を開く。
一口ずつ、ゆっくりと食べさせた。
◇
薬を飲み終えると、美咲は立ち上がった。
「一度、自分の部屋へ戻るね」
「ああ。少し寝てくれ」
「二時間くらいしたら戻ってくる」
「夕方まで寝ていい」
「でも、水瀬くんが心配だから」
「何かあったら連絡する」
「本当に?」
「ああ」
「一人で我慢しない?」
「しない」
「約束?」
美咲が小指を差し出す。
悠真は、その指へ自分の小指を絡めた。
「約束する」
「今度は破ったら駄目だよ」
「ああ」
指切りを終えても、美咲はすぐには手を離さなかった。
「一ノ瀬さん?」
「もう一つ、お願いしていい?」
「何だ?」
美咲は頬を赤くし、僅かに視線を落とした。
「二人でいるときだけ、名前で呼んでもいい?」
悠真は少し驚いた。
「俺を?」
「うん。昨日みたいに、悠真くんって」
「どうして?」
「……水瀬くんより、近くなれた気がするから」
美咲は不安そうに顔を上げた。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ、呼んでみてもいい?」
「今?」
「うん」
美咲は一度深呼吸した。
「悠真くん」
小さく、丁寧に名前を呼ぶ。
呼んだ本人のほうが、恥ずかしそうに頬を染めていた。
「何だ?」
「呼んでみただけ」
「そうか」
「悠真くんも」
「俺も?」
「二人のときは、美咲って呼んでほしい」
悠真は僅かに迷った。
昨夜、無意識には呼んだらしい。
けれど意識して口にするとなると、妙に気恥ずかしい。
「……美咲」
名前を呼ぶ。
美咲の瞳が大きくなった。
そのあと、頬が一気に赤くなる。
「もう一回」
「一度で十分だろ」
「お願い」
「美咲」
悠真がもう一度呼ぶ。
美咲は胸元で両手を握り、嬉しそうに笑った。
「うん」
目元には、薄く涙が浮かんでいた。
「何で泣く?」
「嬉しいから」
「名前を呼んだだけだぞ」
「それでも嬉しいの」
美咲は目元を指で拭った。
「学校では、今までどおり一ノ瀬さんでいいからね」
「分かった」
「二人のときだけ」
「ああ」
「二人だけの、もう一つの秘密」
美咲は柔らかく微笑んだ。
「それじゃあ、少し寝てくるね」
「おやすみ、美咲」
悠真が自然に名前を呼ぶ。
美咲は扉へ向かおうとして、危うく足をもつれさせた。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫」
壁へ手をつき、顔を真っ赤にしている。
「急に名前を呼ばれると、まだ慣れないね」
「言い出したのは美咲だろ」
「そうだけど」
美咲は胸元を押さえた。
「嬉しくて、心臓が追いつかないの」
悠真は僅かに口元を緩めた。
「早く寝ろ」
「うん」
美咲も笑顔を返した。
「おやすみ、悠真くん」
寝室の扉が閉まる。
一人になった悠真は、もう一度目を閉じた。
額にはまだ熱が残っている。
それでも胸の奥は、昨日よりずっと穏やかだった。
「美咲、か」
誰にも聞こえない声で名前を呼ぶ。
その響きが、妙に心地よく感じられた。
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