第27話 大丈夫という嘘
雨の中を二人で帰った日の翌日。
水瀬悠真は、いつもより少し遅い時間に目を覚ました。
枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
画面に表示された時刻は、午前七時二十八分。
普段より二十分近く遅い。
「……寝すぎたな」
身体を起こそうとした瞬間、頭の奥に鈍い痛みが走った。
喉も僅かに痛む。
飲み込むと、乾いた違和感が残った。
身体全体が重い。
まだ眠気が残っているだけだと思い、悠真はベッドから降りた。
立ち上がった瞬間、足元が僅かに揺れる。
壁へ手をつき、数秒だけ動きを止めた。
「寝起きだからだろ」
誰もいない部屋で、自分へ言い聞かせる。
洗面所へ向かい、顔を洗う。
冷たい水へ触れても、頭の重さは消えなかった。
鏡に映る自分は、普段より顔色が悪い。
目元にも薄い疲労が浮かんでいる。
風邪を引いた。
認めるしかなかった。
昨日、雨の中を美咲と帰ったせいだろうか。
傘を彼女の側へ傾けていたため、右肩はかなり濡れていた。帰宅後すぐ着替えたが、身体が少し冷えていたことは覚えている。
「この程度なら、学校には行ける」
悠真は制服へ着替えた。
熱があるかもしれない。
けれど、体温計を使わなければ熱があるとは確定しない。
知らなければ、普段どおり過ごせる。
乱暴な理屈だと、自分でも分かっていた。
それでも、一ノ瀬美咲に知られるわけにはいかなかった。
『風邪を引いたら、隠さずに言うこと』
親子丼を作った日に交わした約束。
悠真も小指を絡め、分かったと答えた。
けれど、実際に体調を崩してみると、話す気にはなれなかった。
美咲は心配する。
食事を作り、薬を買い、学校まで休んで看病しようとするかもしれない。
そこまで迷惑をかけるつもりはなかった。
今日一日を普通に過ごし、早く眠れば治る。
「大丈夫だ」
悠真は鏡の中の自分へ向け、そう呟いた。
◇
玄関の扉を開ける。
隣室の前には、美咲が立っていた。
「おはよう、水瀬くん」
悠真の姿を見ると、安心したように表情を緩める。
「今日は遅かったね」
「少し寝坊した」
「珍しいね。いつもは私と同じくらいの時間に出るのに」
美咲は小さな紙袋を差し出した。
「今日のお弁当」
「ありがとう」
悠真は受け取ろうと手を伸ばした。
美咲の指と触れる。
その瞬間、彼女の表情が僅かに変わった。
「水瀬くん」
「何だ?」
「手、熱くない?」
「朝だからだろ」
「昨日は、こんなに熱くなかったよ」
「気温が違う」
悠真は紙袋を受け取り、先にエレベーターへ向かおうとした。
けれど、美咲はその場を動かなかった。
「一ノ瀬さん?」
振り返る。
美咲は悠真の顔をじっと見つめていた。
「顔色も悪いよ」
「寝起きだからだ」
「目も少し赤い」
「眠いだけだ」
「喉は?」
「何ともない」
答えた直後、喉の奥が刺激された。
悠真は咳を堪えようとした。
しかし完全には抑えられず、口元へ手を当てて小さく咳き込む。
「水瀬くん」
美咲の眉が下がる。
「風邪、引いたの?」
「引いてない」
「今、咳をしたよね?」
「少し喉が乾いただけだ」
美咲は悠真の前まで歩いてきた。
その目には、はっきりと心配が浮かんでいる。
「熱は測った?」
「測ってない」
「どうして?」
「測る必要がないから」
「あるよ」
美咲は悠真の額へ手を伸ばした。
触れられる直前、悠真は反射的に半歩下がる。
美咲の手が空中で止まった。
「触らなくていい」
「熱があるか確認するだけだよ」
「ない」
「測ってないのに、どうして分かるの?」
「感覚で分かる」
「水瀬くん」
美咲の声が少し低くなる。
怒っているというより、傷ついているようだった。
「約束したよね?」
「何を?」
「風邪を引いたら、隠さずに言うって」
「風邪ではない」
「本当に?」
「ああ」
悠真は美咲の目を見て答えた。
表情も声も整えている。
昔なら、大人たちの目さえ簡単に欺けた演技。
しかし、美咲はすぐに信じなかった。
「嘘」
「どうして?」
「今の水瀬くん、学校にいるときの顔をしてるから」
悠真の指が僅かに動く。
「何の話だ?」
「何も感じてないみたいな顔を、わざと作ってる」
美咲は胸元で手を握った。
「私と二人のときは、そんな顔をしなくなったのに」
「考えすぎだ」
「じゃあ、額を触らせて」
「必要ない」
「やっぱり熱があるんでしょう?」
「遅刻するぞ」
悠真は話を終わらせるように、エレベーターのボタンを押した。
美咲はその横顔を不安そうに見つめていた。
◇
通学電車の中。
悠真はドアの近くへ立っていた。
普段なら揺れに合わせて自然に重心を移せる。
今日は足に力が入りにくく、電車が揺れるたびに吊り革を強く握らなければならなかった。
「座ろう?」
美咲が尋ねる。
「席は空いてない」
「次の駅で降りる人がいるかもしれないから」
「学校まで二駅だ。立ったままでいい」
「辛くない?」
「問題ない」
美咲の眉が、さらに下がる。
彼女は悠真の隣へ立ち、顔を覗き込もうとした。
悠真は窓の外へ視線を向ける。
「どうして、こっちを見ないの?」
「外を見てるだけだ」
「私の目を見たら、嘘だって分かるから?」
「何も隠してない」
「水瀬くん」
美咲の声が僅かに震えた。
「私に心配されたくない?」
「そういうわけじゃない」
「それなら、どうして頼ってくれないの?」
悠真は答えなかった。
美咲の優しさは知っている。
頼れば、必ず助けてくれることも分かっている。
だからこそ、頼れなかった。
「一人で何とかできる」
悠真は小さな声で答えた。
「これくらいなら、寝れば治る」
「やっぱり、具合が悪いんだ」
美咲の瞳が揺れる。
自分で認めてしまったことに気づいたが、もう遅かった。
「今日は帰ろう?」
「学校には行く」
「どうして?」
「この前、理由もなく休んだだろ」
「それと今日は違うよ」
「あの日に休んで、今度は風邪で休んだら、教師に何か言われる」
「体調が悪いんだから仕方ないでしょう?」
「学校へ行ける程度だ」
「でも――」
「一ノ瀬さん」
悠真は美咲の言葉を遮った。
「本当に大丈夫だ」
強い口調になってしまった。
美咲の肩が小さく跳ねる。
「……分かった」
彼女は俯いた。
それ以上、帰れとは言わなかった。
ただ、学校へ着くまで悠真のすぐ隣を離れなかった。
◇
一時間目の授業。
悠真は黒板を見ていたが、教師の声はほとんど頭へ入ってこなかった。
頭痛が、朝より強くなっている。
身体も熱い。
けれど指先だけは冷たかった。
ノートへ文字を書こうとすると、僅かに手が震える。
「水瀬、大丈夫か?」
前の席から、孝太郎が小声で尋ねた。
「何が?」
「顔、白いぞ」
「寝不足だ」
「珍しいな」
「ああ」
短く答え、ノートへ視線を落とす。
斜め前からも、美咲がこちらを見ていた。
教師が黒板へ向くたびに振り返っている。
目が合う。
美咲は心配そうに眉尻を下げた。
口の動きだけで伝えてくる。
――保健室へ行こう?
悠真は小さく首を横へ振った。
美咲の表情が、さらに曇る。
◇
二時間目が終わる。
悠真が席を立とうとすると、足元がふらついた。
机へ手をつき、何とか身体を支える。
「水瀬くん!」
美咲がすぐに駆け寄ってきた。
悠真の腕を両手で支える。
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないよ」
美咲は悠真の額へ手を伸ばした。
今度は避ける余裕がなかった。
柔らかな掌が、額へ触れる。
「熱い……」
美咲の顔から血の気が引く。
「絶対に熱があるよ」
「少しだけだ」
「保健室へ行こう」
「必要ない」
「まだ大丈夫って言うの?」
美咲の声が僅かに大きくなる。
周囲の生徒たちが、二人へ視線を向けた。
「水瀬くんは、大丈夫じゃないよ」
美咲の瞳が、僅かに潤んでいる。
「どうして、そこまで我慢するの?」
「大げさだ」
「大げさじゃない」
美咲は悠真の腕を離さなかった。
「一人で立てないでしょう?」
「今、少しふらついただけだ」
「じゃあ、私の手を離して歩いてみて」
悠真は何も答えられなかった。
実際、美咲に支えられていなければ、もう一度ふらつく可能性がある。
「水瀬くん」
美咲は声を少し弱めた。
「お願いだから、今だけは強がらないで」
悠真の腕を支える手に、僅かに力が入る。
「私を頼って」
悠真は彼女の表情を見た。
本気で心配している。
怒っているように見えたのも、不安を隠すためだったのだろう。
「……分かった」
悠真は小さく答えた。
「保健室へ行く」
美咲の肩から力が抜ける。
「うん」
彼女は安心したように息を吐いた。
「私も一緒に行くね」
◇
保健室で測った体温は、三十八度一分だった。
「これは帰ったほうがいいわね」
養護教諭が体温計を見ながら言う。
「ご家族に連絡できる?」
「両親は近くにいません。一人で帰れます」
「でも、その状態で一人は心配ね」
「私が送ります」
美咲がすぐに答えた。
「一ノ瀬さんは授業があるだろ」
「水瀬くんを一人で帰らせられないよ」
「タクシーを呼べばいい」
「部屋に着いたあと、一人になるでしょう?」
「寝るだけだ」
「食事は?」
「必要ない」
「薬は?」
「家にある」
「本当に?」
「……たぶん」
美咲は唇を引き結んだ。
「先生、私が送ります」
「そうね。そのほうが安心かしら」
養護教諭は美咲へ視線を向ける。
「担任には私から話しておくわ。一ノ瀬さんも、学校へ戻れそうなら午後から戻ってきてね」
「はい」
「一ノ瀬さん」
悠真が抗議しようとする。
美咲はベッドの横へしゃがみ込み、悠真の目を真っすぐに見た。
「今度は私の言うことを聞いて」
いつもの柔らかな声だった。
けれど、断らせない強さがあった。
「約束を破ったんだから、それくらい聞いてくれてもいいでしょう?」
「なんのことだ」
「風邪を引いたら、隠さずに言うって約束」
美咲の眉尻が下がる。
しらばっくれるのは無理なようだ。
「どうして、言ってくれなかったの?」
「迷惑をかけたくなかった」
「迷惑かどうかは、私が決めることだよ」
「同じことを前にも言われたな」
「水瀬くんが、同じことをするから」
美咲は僅かに頬を膨らませた。
しかし、すぐに心配そうな表情へ戻る。
「怒ってる?」
悠真が尋ねる。
「少し」
「悪かった」
「でも、それ以上に心配してる」
美咲はベッドの上に置かれた悠真の手へ、そっと自分の手を重ねた。
「帰ったら、ちゃんと看病するからね」
「学校へ戻れ」
「嫌」
「即答か」
「水瀬くんを一人にしたくないから」
「うつるぞ」
「マスクをする」
「そこまでして残る必要はない」
「私にはあるの」
美咲は悠真の手を握った。
「好きな人が苦しそうにしてるのに、放っておけないから」
悠真の瞳が僅かに大きくなる。
美咲も、自分が何を口にしたのか理解したらしい。
顔が一気に赤くなった。
「今、何て――」
「何でもない!」
美咲は慌てて悠真の手を離した。
「クラスメイト! 大切なクラスメイトが苦しそうだから!」
「好きな人と聞こえたけど」
「熱のせいだよ」
「耳は正常だ」
「正常じゃないの。熱があるから、聞き間違えたの」
美咲は両手で赤くなった顔を覆った。
悠真は何かを尋ねようとした。
けれど、頭痛が強くなり、目を閉じる。
「水瀬くん?」
すぐに美咲の手が額へ触れた。
「今は寝てて」
「さっきの話は……」
「忘れて」
「一度聞いたことは忘れない」
「今日だけは忘れて」
美咲は困ったように眉尻を下げた。
その目には、恥ずかしさと心配が入り混じっている。
「お願いだから、今は休んで」
「……分かった」
悠真は追及を諦め、目を閉じた。
◇
マンションへ戻った頃には、悠真の熱はさらに上がっていた。
美咲に支えられながら、どうにか自分の部屋の前へ辿り着く。
「鍵は?」
「鞄の中」
美咲が鞄から鍵を取り出し、扉を開けた。
「歩ける?」
「ああ」
悠真は一歩進む。
しかし、足に上手く力が入らなかった。
視界が傾く。
「水瀬くん!」
美咲が正面から悠真の身体を受け止めた。
悠真の額が、美咲の肩へ落ちる。
二人の身体が密着した。
「悪い……」
「謝らなくていいよ」
美咲は悠真の背中へ両腕を回した。
体温の高さに驚き、表情を強張らせる。
「こんなに熱いのに、どうして学校へ来たの?」
「この前は、気が乗らないだけで休んだからな」
「今日はちゃんと休む理由があるよ」
「そうだな……」
悠真の声には、もう普段の力がなかった。
「ベッドまで行こう」
「ああ」
「私につかまって」
美咲が悠真の腕を自分の肩へ回す。
悠真は抵抗しなかった。
今はもう、一人で歩けそうにない。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「悪い」
「だから、謝らなくていいよ」
「頼ってもいいか?」
弱々しい声だった。
美咲の瞳が僅かに揺れる。
「うん」
彼女は悠真の身体を支える腕へ、強く力を込めた。
「今日は、いくらでも頼って」
美咲は悠真を一人にしないと決めた。
そして悠真も初めて、自分から彼女へ助けを求めた。
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