第26話 雨の日の距離
球技大会まで、残り十日。
放課後の体育館では、男子バスケットボールと女子バレーボールの練習が同時に行われていた。
コート中央を仕切るネットの片側を男子が使い、反対側で女子が練習している。
「今日は本番のメンバーを決める」
進藤は参加者たちを集め、紙に書いた名前を確認した。
「最初に出る五人と、交代で入る三人。それぞれの役割も決めたい」
「水瀬は最初から出すのか?」
一人の男子が尋ねる。
進藤は悠真へ視線を向けた。
「いや。水瀬は控えだ」
「本人が言うのも何だけど、それでいいのか?」
悠真が聞き返す。
「ああ」
「前は実力を確認したいと言ってただろ」
「確認したから控えにする」
進藤は迷いなく答えた。
悠真と一対一をした結果は、他の参加者へ話していない。
進藤が三対一で負けたことも。
悠真が授業程度の経験しかないように振る舞いながら、バスケ部員以上の動きを見せたことも。
今のところ、知っているのは悠真、進藤、美咲の三人だけだった。
「どういうことだ?」
孝太郎が不思議そうに首を傾げる。
「水瀬は、この前そこそこ動けてただろ」
「最初から出せば、相手に動きを見られる」
進藤は紙へ視線を落としたまま答えた。
「体力を残して、必要な場面で入れる」
「切り札みたいな言い方だな」
「人数合わせよりは役に立つ」
「褒められてる気がしない」
悠真が言う。
進藤は口元を僅かに緩めた。
「試合に負けそうになったとき、合図を出す」
「本当に必要ならな」
「分かってる」
「それまでは、普通に動く」
「ああ。それでいい」
二人の会話を、孝太郎が疑わしそうに聞いていた。
「何か、俺の知らないところで話が進んでないか?」
「気のせいだ」
悠真は平然と答える。
「進藤も、水瀬が控えで本当にいいのか? 俺よりは動けるぞ」
「佐伯には、最初から出てもらう」
「それ、俺のほうが上手いから?」
「違う」
「即答するなよ」
進藤は孝太郎へポジションと動き方を説明し始めた。
◇
練習が始まる。
悠真は控え組として、コートの端から最初のメンバーの動きを確認していた。
進藤を中心にしたチームは、前回より連携が取れている。
問題は、全員が進藤へボールを集めすぎていることだった。
進藤が止められれば、攻撃が続かない。
相手もすぐに気づくだろう。
「水瀬」
進藤が休憩のため、コートの端へ来た。
「何か気づいたか?」
「どうして俺に聞く?」
「お前はずっと全体を見てた」
進藤は額の汗をタオルで拭く。
「言いたいことがある顔をしてる」
「顔に出てたか?」
「一ノ瀬ほどは分からない」
「一ノ瀬さんと比べるな」
「やっぱり、何かあるんだな」
進藤が僅かに目を細める。
悠真はコートへ視線を戻した。
「進藤に集めすぎだ」
「ボールを?」
「ああ。進藤が一人抜くことを前提にしてる。このままだと、本番は二人で守られるぞ」
「俺もそう思っていた」
「なら、他のやつにシュートを打たせろ」
「入らない」
「練習なら外してもいいだろ」
悠真はコートへ戻った孝太郎を指さした。
「佐伯は右側からなら、さっき三本続けて入れてた」
「偶然じゃないのか?」
「左からは一本も入ってない。右のほうが踏み切りやすいんだろ」
次に、別の生徒へ視線を向ける。
「あいつはシュートよりパスのほうが正確だ。ボールを運ばせればいい」
「短い時間で、そこまで見てたのか?」
「見ていれば分かる」
進藤はしばらく悠真の顔を見つめた。
「お前、選手より監督のほうが向いてるんじゃないか?」
「どちらもやるつもりはない」
「なら、球技大会だけ手伝え」
「考えておく」
「そこは分かったと言え」
進藤は小さく息を吐いた。
それでも悠真の意見を取り入れ、メンバーへ新しい動きを指示した。
再開後、攻撃の形は少しずつ変化した。
孝太郎が右側からシュートを放つ。
一本目は外れた。
二本目はリングに当たり、三本目が入る。
「入った!」
孝太郎が両手を上げる。
進藤はすぐに次の攻撃へ切り替えるよう指示した。
悠真はコートの端で、その様子を静かに眺めた。
「楽しそうだね」
突然隣から声が聞こえ、悠真は顔を向けた。
いつの間にか、美咲が立っていた。
女子のバレーボール練習中らしく、体操着姿だった。長い黒髪を高い位置で一つに結び、額には薄く汗が滲んでいる。
「休憩か?」
「うん」
美咲は胸元でボールを抱えながら、悠真の隣へ座った。
「さっき、少し笑ってたよ」
「俺が?」
「佐伯くんのシュートが入ったとき」
「気のせいだ」
「ううん。笑ってた」
美咲は楽しそうに目元を細める。
「自分が教えたことを、佐伯くんができるようになったから嬉しかった?」
「少しは」
「やっぱり、教えるのが好きなんだね」
「好きというほどじゃない」
「でも、試験前も丁寧に教えてたでしょう?」
「聞かれたから答えただけだ」
「水瀬くんは、誰かが困ってると放っておけないんだね」
美咲は柔らかく笑った。
「自分では、興味がないような顔をしてるけど」
「一ノ瀬さんに言われたくないな」
「どうして?」
「俺が部屋へ入れるなと言っても、夕食を持って入ってきただろ」
「あれは、水瀬くんの生活が危険だったから」
美咲は少し頬を膨らませた。
「放っておいたら、本当に倒れてたかもしれないよ」
「そこまでひどくない」
「賞味期限の切れた牛乳を飲もうとしてた人が言っても、説得力がないよ」
「飲む前に捨てた」
「私が確認するって言ったからでしょう?」
「……そうだったな」
美咲は勝ち誇ったように微笑んだ。
「だから、私が放っておけないのは仕方ないの」
「俺も?」
悠真が尋ねる。
美咲の頬が僅かに赤くなった。
「水瀬くんは、特に放っておけない」
「なぜ?」
「それは……」
美咲は視線を膝の上へ落とした。
好きだから。
答えは分かっている。
けれど、それを口にする勇気はまだなかった。
「秘密」
「最近、そればかりだな」
「水瀬くんの秘密よりは少ないよ」
「それは否定できない」
悠真が僅かに笑う。
美咲の表情も自然に緩んだ。
「今の顔、好き」
考えるより先に言葉が出た。
美咲は自分の口元を両手で押さえる。
悠真も目を僅かに開いていた。
「顔が?」
「えっと……笑った顔が」
美咲は慌てて説明する。
「天宮レイくんに似てるから?」
悠真の問いに、美咲は首を横へ振った。
「前は、そう思ったけど」
「今は違うのか?」
「うん」
美咲は胸元へ手を添えた。
「今は、水瀬くんの笑顔だから好き」
言い終えると、美咲は恥ずかしさに耐えられなくなったように俯いた。
耳まで赤く染まっている。
「……そうか」
悠真も僅かに視線を逸らした。
「それは、少し嬉しい」
美咲が勢いよく顔を上げる。
「本当?」
「ああ」
「もう一回笑ってくれる?」
「それは嫌だ」
「どうして?」
「理由もないのに笑えるか」
「私が面白い話をする」
「前にも聞いたな」
「今度はちゃんと考えてきたよ」
美咲はボールを抱き直し、真剣な表情で話し始めようとした。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「休憩は終わらないのか?」
「あっ」
女子側のコートを見る。
他の生徒たちは、すでに練習を再開するため集まっていた。
「戻らないと」
美咲は立ち上がる。
「水瀬くん」
「何だ?」
「私の練習も見ていてね」
「ああ」
「ちゃんと見てて」
「分かった」
美咲は嬉しそうに笑い、女子側のコートへ走っていった。
◇
美咲は、運動も得意だった。
ボールの落下地点へ素早く入り、正確に味方へ返す。
相手からの強いボールも怖がらず、身体を低くして受け止める。
それでも、最初からすべてできたわけではないことは、動きを見れば分かった。
足を動かす順番。
腕の角度。
ボールを受ける姿勢。
一つ一つ確認するように動いている。
才能に頼っているのではなく、何度も反復して身体へ覚えさせた動きだった。
「一ノ瀬、上手いよな」
休憩中の孝太郎が、悠真の隣へ来た。
「ああ」
「学年一位で、料理もできて、運動もできる。完璧じゃん」
「努力したんだろ」
「本人から聞いたのか?」
「少しだけ」
孝太郎はコートで動く美咲を見た。
「中学では、今ほど目立ってなかったらしいぞ」
「知ってるのか?」
「同じ中学の女子が言ってた。勉強はできたけど、かなり大人しくて、いつも一人で本を読んでたって」
悠真はボールを追う美咲の姿を見つめた。
昔は、人と話すことも、運動も苦手だった。
変わりたい理由があり、努力した。
それは本人から聞いている。
「高校に入ってから、無理して明るくしてるんじゃないかって言うやつもいるけどな」
孝太郎が続ける。
「無理?」
「昔を知ってる人間から見たら、変わりすぎなんだろ」
コートでは、美咲が仲間へ笑顔を向けていた。
学校で見せる、隙のない微笑み。
確かに悠真の部屋にいるときの笑顔とは、少し違う。
「努力して変わったなら、それも本人だろ」
悠真が言う。
「昔と違うからって、無理してると決めつける必要はない」
「水瀬って、意外と一ノ瀬のこと分かってるよな」
「毎日一緒にいるからな」
「その言い方、もう恋人みたいだぞ」
「違う」
否定した瞬間。
悠真の胸の奥が、僅かに痛んだ。
「今はな」
無意識に言葉を付け足す。
孝太郎が目を丸くした。
「今は?」
「何でもない」
悠真は立ち上がり、練習へ戻った。
◇
練習が終わる頃、体育館の外では強い雨が降っていた。
「朝は晴れてたのに」
昇降口で、美咲が雨を見つめる。
「傘、持ってきたか?」
悠真が尋ねる。
「持ってない」
「天気予報は?」
「見てなかった」
美咲は困ったように眉尻を下げた。
「水瀬くんは?」
「折り畳みがある」
「それなら、私は少し待ってから帰るね」
「いつまで?」
「雨が弱くなるまで」
空を見る限り、すぐに止みそうにはない。
むしろ先ほどより強くなっている。
「一緒に入ればいい」
悠真は鞄から折り畳み傘を取り出した。
「でも、小さいよ?」
「二人くらい入れる」
「水瀬くんが濡れない?」
「少しくらいなら問題ない」
「体調を崩したら大変だよ」
「滅多に風邪は引かない」
悠真が傘を開く。
美咲は少し迷ったあと、その下へ入った。
「お邪魔します」
「傘に言うのか?」
「水瀬くんに」
美咲は恥ずかしそうに笑った。
二人で並ぶと、傘の中は狭かった。
肩が触れ合う。
歩くたび、美咲の腕が悠真の腕へ当たる。
「もう少し入れ」
悠真が傘を美咲のほうへ傾ける。
「水瀬くんの肩、濡れてるよ」
「このくらい大丈夫だ」
「駄目」
美咲は悠真の制服の袖をつかみ、自分のほうへ引き寄せた。
二人の身体が、先ほどより近づく。
「これなら、二人とも入れるでしょう?」
「近くないか?」
「離れたら濡れるよ」
美咲は頬を赤くしながら、悠真の腕へ自分の腕を添えた。
「嫌?」
「嫌ではない」
「それなら、このまま帰ろう?」
「ああ」
雨音が傘を叩く。
周囲にも生徒はいるが、強い雨と傘に遮られ、二人だけの空間にいるように感じられた。
「水瀬くん」
「何だ?」
「さっき、私の練習を見てた?」
「ああ」
「どうだった?」
「上手かった」
「本当?」
「動きに無駄が少ない。ボールの落下地点へ入るのも速い」
「そんなに細かく見てたの?」
美咲は驚いたように瞬きをした。
「見ていれば分かる」
「……そっか」
彼女は嬉しそうに頬を緩めた。
「水瀬くんに見てもらえるなら、もっと頑張れそう」
「無理はするなよ」
「少しくらいなら大丈夫」
「寝不足になってた人が言っても、信用できない」
「それは一日だけ」
「体調を崩したら、今度は俺が心配する」
美咲の足が僅かに止まった。
「水瀬くん」
「何だ?」
「今の、もう一度言って」
「嫌だ」
「どうして?」
「聞こえてただろ」
「聞こえたけど、もう一度聞きたい」
美咲は悠真の顔を覗き込んだ。
「私が体調を崩したら、心配してくれる?」
「ああ」
「看病も?」
「必要なら」
「ずっとそばにいてくれる?」
「質問が増えてるぞ」
美咲は楽しそうに笑った。
「約束だからね」
「体調を崩すことを前提にするな」
「分かってるよ」
美咲は悠真の腕へ、少しだけ身体を寄せた。
「でも、水瀬くんも風邪を引いたら、ちゃんと教えてね」
「ああ」
「一人で我慢したら駄目だよ」
「分かってる」
「本当に?」
「約束しただろ」
美咲は安心したように微笑んだ。
「うん。覚えててくれたならいいの」
二人は一つの傘へ入り、雨の中を歩き続けた。
悠真は傘を美咲の側へ傾けていたため、右肩が少しずつ濡れていく。
美咲に気づかれないよう、傘を戻そうとはしなかった。
けれど彼女は途中で、その濡れた肩に気づいた。
「水瀬くん」
「何だ?」
「もっとこっちに来て」
「十分近いだろ」
「まだ肩が濡れてる」
美咲は悠真の腕を抱えるように引き寄せた。
身体がぴったりと触れ合う。
悠真の心臓が僅かに速くなった。
美咲も同じらしく、顔を赤くしながら前だけを見ている。
「これなら濡れないね」
「ああ」
「恥ずかしい?」
「少し」
「私も」
美咲はそれでも離れなかった。
「でも、風邪を引かれるよりいいから」
悠真の濡れた肩へ、彼女の体温が伝わる。
二人は互いに何も言えなくなり、雨音を聞きながらマンションまで歩いた。
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