第24話 意識してしまったら
自分は、水瀬悠真のことが好き。
その気持ちへ名前をつけてしまってから、美咲は悠真の顔をまともに見られなくなっていた。
昼休みが終わったあとも、何度も斜め後ろの席が気になった。
悠真が教科書をめくる音。
教師に指名され、少し面倒そうに答える声。
窓から風が入るたび、目元にかかった前髪を指で直す仕草。
以前から見ていたはずなのに、今はその一つ一つを意識してしまう。
目が合えば、心臓が大きく鳴る。
名前を呼ばれれば、声が上ずりそうになる。
今まで、どうやって普通に接していたのか。
それさえ分からなくなっていた。
「美咲、大丈夫?」
隣の席に座る菜月が、小声で尋ねた。
「何が?」
「顔、赤いよ」
「少し暑いだけ」
「窓、開いてるけど」
「今日は暑いの」
美咲は両手で頬を押さえた。
確かに熱を持っている。
体調が悪いわけではない。
原因は、はっきりと分かっていた。
「水瀬くんのこと、考えてた?」
菜月が耳元で囁く。
美咲の肩が大きく跳ねた。
「考えてないよ」
「今、すごく分かりやすく反応したけど」
「急に名前を出されたら驚くでしょう?」
「ふうん?」
菜月は意味ありげに目を細めた。
美咲は頬を赤くしたまま、少しだけ彼女へ顔を寄せる。
「本当に誰にも言わないでね」
「分かってるって」
「水瀬くんにも」
「本人にだけは、いつか言ったほうがいいと思うけど」
「まだ無理」
美咲は斜め後ろへ、そっと視線を向けた。
悠真は黒板を見ており、こちらの会話には気づいていない。
「今の関係を壊したくないの」
「手をつないでも?」
「あれは……」
昨日の温もりを思い出し、美咲の顔がさらに赤くなる。
「もう一度、つなぎたいけど」
「それなら、つなげばいいじゃない」
「好きだって気づく前と、今は違うよ」
「何が違うの?」
「全部」
以前なら、料理を教えるという理由で悠真の手に触れられた。
火傷を心配して手を握ることもできた。
練習を頑張ったご褒美だと言い訳して、指を絡めることもできた。
けれど今は、触れた瞬間に自分の気持ちまで伝わってしまいそうで怖かった。
「意識しすぎじゃない?」
「だって、好きな人なんだよ?」
美咲は口にしてから、慌てて周囲を見回した。
幸い、近くの生徒には聞かれていない。
「声、大きい」
菜月が苦笑する。
「菜月ちゃんが言わせたんでしょう?」
「私は何も言ってないよ」
美咲は不満そうに唇を尖らせた。
そのとき、背後から声が聞こえた。
「一ノ瀬さん」
「ひゃい!」
美咲は不自然な声を上げた。
振り返ると、悠真が怪訝そうに眉を寄せている。
「……どうした?」
「何でもないよ」
「今、変な声が出たぞ」
「水瀬くんが急に話しかけるから」
「名前を呼んだだけだろ」
「少し考え事をしてたの」
「そうか」
悠真は不思議そうな表情を残しながら、机の横へ掛けた鞄を指さした。
「弁当箱、帰ってから洗って返す」
「私が持って帰って洗うよ?」
「作ってもらったんだから、洗うくらいは俺がやる」
「でも、明日も使うから……」
「夕食のあとに洗えば、今日中に返せるだろ」
美咲は一瞬目を丸くしたあと、嬉しそうに頬を緩めた。
「ちゃんと洗ってくれるんだね」
「毎日やってるから、もう慣れた」
「それじゃあ、お願いしようかな」
美咲は柔らかく微笑んだ。
「水瀬くんが洗ってくれたお弁当箱で、明日も作るね」
「ああ」
「明日は何を入れてほしい?」
「今日の卵焼き」
悠真が迷わず答える。
美咲の瞳が僅かに大きくなった。
「気に入ってくれたの?」
「美味かった」
「本当?」
「ああ」
美咲は嬉しそうに目元を細めた。
「分かった。明日も入れるね」
「頼む」
「……うん」
悠真の短い言葉に、美咲の胸が温かくなる。
明日も自分の料理を食べてもらえる。
それだけのことが、以前よりずっと嬉しく感じられた。
「それだけ?」
美咲は悠真がまだ立っていることに気づいた。
「他にも何かあるの?」
「さっき、俺のほうを見てただろ」
美咲の肩が僅かに跳ねる。
「見てないよ」
「何度か目が合った」
「それは、たまたま」
「桜井さんと何を話してた?」
「秘密」
「俺のことか?」
「ど、どうして分かったの?」
「今、自分で認めたな」
美咲は両手で口元を押さえた。
悠真は小さく息を吐く。
「悪口か?」
「違うよ」
美咲は慌てて首を横へ振った。
「水瀬くんの悪口なんて、言わない」
「なら、何の話だ?」
「今は言えないの」
「昨日、勇気が出たら話すと言ってたことか?」
「……うん」
美咲は胸元へ手を添えた。
「もう少しだけ待って」
「分かった」
「聞かないの?」
「話せるまで待つと約束しただろ」
悠真は何でもないことのように答えた。
美咲の胸が、大きく鳴る。
「水瀬くん」
「何だ?」
「そういうところ、ずるいよ」
「何が?」
「何でもない」
美咲は恥ずかしさを隠すように前を向いた。
悠真は少し首を傾げたあと、自分の席へ戻る。
菜月が、その背中を見送りながら小さく笑った。
「美咲、顔に全部出てるよ」
「やっぱり?」
「水瀬くんが気づかないのが不思議なくらい」
「どうしよう……」
美咲は両手で熱くなった頬を覆った。
◇
放課後。
悠真と美咲は並んで学校を出た。
二人の間には、いつもより半歩ほど広い距離がある。
美咲は何度も、その隙間へ視線を落とした。
昨日は手をつないで歩いた。
肩が触れそうな距離でも、何も不自然には感じなかった。
けれど今は、自分から近づくことができない。
好きだと気づいただけで、悠真の隣を歩くことさえ緊張してしまう。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「俺、何かしたか?」
悠真が足を止めた。
美咲も数歩進んだあと、振り返る。
「何もしてないよ」
「なら、どうして離れて歩く?」
「離れてる?」
「いつもは、もっと近い」
美咲の胸が大きく鳴った。
悠真も二人の距離を意識していた。
そのことが分かっただけで、嬉しさと恥ずかしさが同時に込み上げる。
「偶然だよ」
「昼も、俺が近づいたら少し離れた」
「それは……」
「昨日、手をつないだところを桜井さんに見られたから、気が変わったのか?」
悠真は美咲の目を見た。
表情に大きな変化はない。
けれど、その瞳には不安が浮かんでいる。
「違うよ」
美咲はすぐに首を横へ振った。
「嫌じゃなかった」
「本当に?」
「うん。すごく嬉しかった」
思わず本音が出た。
美咲の頬が、一気に熱くなる。
悠真も僅かに目を見開いた。
「それなら、なぜ避ける?」
「避けてないよ」
「避けてるように見える」
悠真は僅かに目を伏せた。
「俺と一緒にいるところを見られるのが嫌になったのかと思った」
「そんなことない」
美咲はもう一度、強く否定した。
「菜月ちゃんに見られたのは恥ずかしかったけど、水瀬くんと一緒にいたことが嫌だったわけじゃない」
「そうか」
悠真の肩から、僅かに力が抜ける。
ほっとしたように見えた。
その表情を見て、美咲は胸が締めつけられるように感じた。
今の関係を壊したくないと思うあまり、すでに悠真を不安にさせている。
それでは意味がなかった。
「嫌になったんじゃないの」
美咲は胸元で鞄の持ち手を握った。
「むしろ逆」
「逆?」
悠真が首を傾げる。
「昨日までより、水瀬くんのことを意識するようになったの」
「意識?」
「近くにいると、緊張するというか……」
美咲は恥ずかしさに耐えられず、視線を落とした。
「手が触れただけで、心臓が速くなるの」
悠真は黙っている。
美咲は不安になり、制服の胸元を指先で押さえた。
「気持ち悪い?」
「どうして?」
「私だけ、変に意識してるから」
「気持ち悪くはない」
「迷惑?」
「それもない」
悠真は少し考え込んだ。
「俺も昨日から、一ノ瀬さんのことを考えてる」
美咲が勢いよく顔を上げる。
「どうして?」
「気になる人がいると言われたから」
「あ……」
「誰なのか考えてた」
「答えは出た?」
「分からない」
悠真は正直に答えた。
「でも、俺が知らない人だったら嫌だと思った」
美咲の胸が、先ほどより強く鳴る。
「それは、どうして?」
「それも分からない」
「じゃあ、私が近くにいると緊張する?」
「することはある」
「いつ?」
「急に顔を近づけられたとき」
「他には?」
「手をつないだとき」
美咲は息を止めた。
「水瀬くんも?」
「ああ」
「嫌だからじゃなくて?」
「嫌ではないと言っただろ」
悠真は少し気まずそうに視線を逸らした。
「どう反応すればいいか分からないだけだ」
「私も同じ」
美咲は小さく笑った。
「水瀬くんに触れたいと思うのに、触れたらどうすればいいか分からなくなる」
「難しいな」
「うん。すごく難しい」
二人の間に、静かな沈黙が流れた。
先ほどまでより、空気は柔らかくなっている。
「それなら」
悠真が片手を差し出した。
「え?」
「昨日と同じようにすればいいんじゃないか?」
美咲は差し出された手を見つめた。
「手をつないでもいいの?」
「嫌ならやめる」
「嫌じゃない」
美咲は自分の手を重ねた。
指と指が絡む。
悠真の掌から伝わる温もりで、心臓がさらに速くなった。
「やっぱり、緊張する」
美咲が小さな声で言う。
「俺もだ」
「水瀬くんも?」
「ああ」
悠真の指にも、僅かに力が入る。
「でも、さっきよりはいい」
「何が?」
「離れて歩かれるよりは、こっちのほうがいい」
美咲の頬に、自然と笑みが広がった。
「うん。私も」
二人は手をつないだまま歩き始めた。
昨日よりも緊張する。
昨日よりも相手の体温を強く意識する。
けれど、手を離したいとは思わなかった。
◇
マンションへ着いても、二人はしばらく手を離さなかった。
美咲の部屋と悠真の部屋。
それぞれの扉の前で、ようやく足を止める。
「着替えたら、すぐ行くね」
美咲が言う。
「ああ」
「今日は何が食べたい?」
「一ノ瀬さんが作るものなら、何でもいい」
「それは禁止って言ったでしょう?」
「何でも美味いから、選べない」
美咲の瞳が大きくなる。
「それ、本当?」
「ああ」
「私の料理、全部好き?」
「好きだ」
悠真は料理について答えた。
それでも、美咲の心臓は大きく跳ねた。
「もう一度言って」
「なぜ?」
「聞きたいから」
「一ノ瀬さんの料理が好きだ」
美咲は頬を赤くしながら、つないだ手へ力を込めた。
「ありがとう」
「そろそろ離さないと、着替えられないぞ」
「そうだね」
言いながらも、美咲はすぐには手を離さなかった。
「あと少しだけ」
「さっきから十分以上つないでる」
「もう一分」
「時間を測るのか?」
「気持ちの一分だから、少し長いかも」
「それは一分とは言わない」
悠真は呆れたように言った。
けれど、自分から手を離そうとはしなかった。
◇
その日の夕食は、美咲の希望で親子丼になった。
二人でタマネギを切り、鶏肉を煮る。
卵を割るのは、悠真の役目だった。
「今日は殻が入らなかったね」
美咲が嬉しそうに言う。
「もう慣れた」
「すごい進歩だよ」
「卵を割っただけだ」
「最初は黒い物体にしてたでしょう?」
「まだ覚えてるのか」
「ずっと覚えてるよ」
美咲は調味料を混ぜながら、穏やかに微笑んだ。
「水瀬くんと初めて話した日のことだから」
「忘れたいとは思わないのか?」
「思わないよ」
「部屋が一番散らかってた日だぞ」
「だから覚えてるの」
「どういう意味だ?」
「あの日がなかったら、今みたいに一緒にご飯を作ってなかったでしょう?」
美咲は悠真の顔を見る。
「学校を休んでくれて、よかったのかもしれないね」
「教師には聞かせられない言葉だな」
「私も学校を休もうかな」
「駄目だ」
悠真がすぐに答える。
美咲は楽しそうに目元を細めた。
「どうして?」
「心配になる」
「プリントを届けに来てくれる?」
「ああ」
「夕食も作ってくれる?」
「それは難しい」
「看病は?」
「必要ならする」
美咲は頬を赤くし、嬉しそうに笑った。
「やっぱり、一回くらい風邪を引いてみたいかも」
「やめろ」
「冗談だよ」
美咲は親子丼へ溶き卵を流し入れた。
「水瀬くんこそ、体調を崩さないでね」
「俺は滅多に風邪を引かない」
「もし引いたら、今度は私が看病するから」
「うつるぞ」
「それでも、一人にはしないよ」
美咲は迷いなく言った。
「水瀬くんは、具合が悪くても大丈夫って言いそうだから」
「実際、大丈夫かもしれない」
「駄目。そういうときは、ちゃんと私を頼って」
「考えておく」
「約束して」
美咲は菜箸を置き、小指を差し出した。
「風邪を引いたら、隠さずに言うこと」
「一ノ瀬さんに?」
「うん」
「隣なら、どちらにしても気づくだろ」
「それでも言ってほしいの」
悠真は小さく息を吐き、小指を絡めた。
「分かった」
「約束だよ」
「ああ」
美咲は安心したように微笑んだ。
食事を終えたあと、悠真は学校から持ち帰った弁当箱を自分の部屋で洗った。
水気を拭き取り、美咲の部屋を訪ねる。
「はい」
悠真が綺麗になった弁当箱を差し出す。
美咲は両手で受け取り、蓋を開けて中を確認した。
「ちゃんと洗えてる」
「疑ってたのか?」
「念のため」
「明日の卵焼き、忘れるなよ」
「うん。少し甘いのでいい?」
「ああ」
「他には?」
「唐揚げ」
「好きだね」
「一番好きだと言っただろ」
美咲は嬉しそうに弁当箱を胸元へ抱いた。
「明日、早起きして作るね」
「無理するなよ」
「大丈夫」
「寝不足になるくらいなら、作らなくていい」
美咲は少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「心配してくれてるの?」
「ああ」
「それなら、今日は早く寝るね」
美咲は玄関の扉を閉める前に、もう一度悠真を見た。
「おやすみ、水瀬くん」
「おやすみ」
「また明日の朝ね」
「ああ」
扉が閉まる。
たった数時間会えないだけなのに、美咲はもう明日の朝が待ち遠しかった。
悠真のことを好きだと自覚したからこそ、触れるだけで緊張する。
それでも、離れたくはない。
その矛盾した気持ちを抱えながら、美咲は明日の弁当へ何を入れるか考え始めていた。
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