第23話 この気持ちの名前
悠真と手をつないだまま、校門を出る。
美咲は隣を歩きながら、つながれた手ばかり意識していた。
指と指を絡めるように重なった手。
悠真の掌は、自分より少し大きい。
指の硬さも、伝わってくる体温も、握り返された僅かな力も、すべてがはっきりと感じられた。
練習を頑張った悠真へのご褒美。
最初は、そう言った。
けれど、本当は違う。
手をつなぎたいと思ったのは、美咲のほうだった。
「一ノ瀬さん」
「な、何?」
突然名前を呼ばれ、美咲の肩が跳ねた。
「信号、青になったぞ」
「あ……うん」
考え事をしていたせいで、目の前の信号が変わったことに気づかなかった。
悠真が先に一歩踏み出す。
手を引かれ、美咲も慌てて歩き始めた。
「大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
「さっきから静かだな」
「少し考え事をしてただけ」
「顔も赤い」
「運動したあとだから」
「運動したのは俺だろ」
「応援も意外と疲れるの」
美咲は前を向いたまま答えた。
自分でも苦しい言い訳だと分かっている。
悠真の顔を見たら、さらに頬が熱くなりそうだった。
「手、離すか?」
悠真が尋ねる。
美咲は反射的につないだ手へ力を込めた。
「嫌」
思ったより、強い声が出た。
悠真が僅かに目を見開く。
「あ……違うの」
美咲は慌てて言葉を続けた。
「マンションまでって言ったから。途中で離したら、ご褒美にならないでしょう?」
「そういうものか?」
「そういうものです」
「俺へのご褒美なのに、一ノ瀬さんが決めるんだな」
「嫌だった?」
美咲は恐る恐る、悠真の顔を見上げた。
「嫌なら離すけど……」
「嫌ではない」
悠真はすぐに答えた。
その手から、僅かに力が返ってくる。
「なら、このままでいい」
「……うん」
美咲は胸の奥が温かくなるのを感じた。
手をつないでいるだけ。
それなのに、いつもの帰り道が全く違って見えた。
◇
駅へ向かう途中、同じ学校の制服を着た生徒と何度かすれ違った。
そのたびに、美咲はつないだ手を意識した。
周囲から見れば、恋人同士に見えるかもしれない。
そう思うと恥ずかしい。
けれど、離したいとは思わなかった。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「また手に力が入ってる」
「痛かった?」
「痛くはない」
「じゃあ、このままでいい?」
「ああ」
悠真がもう一度握り返す。
美咲は嬉しさを隠すように俯いた。
「水瀬くん」
「何だ?」
「今日は、本気を見せてくれてありがとう」
「一回だけだ」
「それでも嬉しかったよ」
「どうして?」
「私にだけ、本当の水瀬くんを見せてもらえたから」
美咲は周囲へ聞こえないほど声を小さくした。
勉強ができること。
運動も人並み以上にできること。
その二つは、美咲と悠真だけが知る秘密だった。
「進藤にも見られたけどな」
「それは少し残念」
「何が?」
「私だけの秘密だったのに」
美咲は僅かに唇を尖らせた。
「独占欲か?」
悠真が尋ねる。
美咲は少し迷ったあと、小さく頷いた。
「たぶん」
「前は、俺が実力を隠すことを気にしてただろ」
「うん。でも、今は少し変わったの」
「どう変わった?」
「水瀬くんが隠したいなら、それでいいと思ってる」
美咲はつないだ手を見つめた。
「無理に知られて、水瀬くんが苦しくなるほうが嫌だから」
「そうか」
「それに……」
美咲は頬を赤くしながら、悠真を横目で見た。
「私だけが知ってることがあるのは、嬉しいから」
「変わってるな」
「そうかもしれないね」
美咲は楽しそうに目元を緩めた。
「でも、誰にも言わないよ」
「ああ」
「佐伯くんにも、菜月ちゃんにも」
「信用してる」
悠真の短い言葉に、美咲の足が僅かに止まりかけた。
「今、何て言ったの?」
「信用してる」
「私のことを?」
「他に誰がいる?」
美咲は目を大きくした。
そのあと、つないだ手を胸元へ引き寄せるように力を込める。
「ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
「私には嬉しいことだよ」
美咲は柔らかく微笑んだ。
「絶対に話さないからね」
「分かってる」
「水瀬くんが、自分で話したいと思うまでは、ずっと二人だけの秘密」
「ああ」
悠真は迷わず頷いた。
◇
駅の改札が見えてきたところで、美咲は前方に見覚えのある姿を見つけた。
柱の近くで、桜井菜月が友人と話している。
菜月も美咲に気づいたらしく、軽く手を上げた。
「美咲――」
彼女の視線が、二人のつないだ手へ落ちる。
言葉が途中で止まった。
「菜月ちゃん」
美咲の身体が強張った。
反射的に悠真の手を離そうとする。
しかし、悠真の指が僅かに強く握られた。
美咲は驚いて隣を見る。
「マンションまでだろ」
悠真は周囲へ聞こえない声で言った。
「でも……」
「嫌なら離す」
「嫌じゃない」
美咲はすぐに答えた。
つないだ手へ、自分からもう一度力を込める。
「約束したから、このままでいる」
「ああ」
菜月が二人の前まで歩いてきた。
「二人とも、今帰り?」
「うん。球技大会の練習があったから」
美咲は笑顔を作った。
けれど、緊張のせいで口元が僅かに引きつっている。
「そうなんだ」
菜月は二人の手へ、もう一度視線を落とした。
「仲いいんだね」
「これは、その……」
練習を頑張ったご褒美。
マンションまでの約束。
どう説明しても、余計に不自然な気がする。
「一ノ瀬さんへの礼だ」
悠真が代わりに答えた。
「礼?」
「練習を見に来て、飲み物を買ってくれたから」
「それで手をつなぐの?」
菜月は面白そうに目を細めた。
「水瀬くんって、意外と大胆なんだね」
「つないだのは一ノ瀬さんからだ」
「水瀬くん!」
美咲が思わず声を上げる。
悠真は本当のことを話しただけという顔をしていた。
菜月は一瞬目を丸くしたあと、楽しそうに笑う。
「そっか。美咲からなんだ」
「ち、違うの。変な意味じゃなくて」
「まだ何も言ってないよ?」
菜月の笑みが深くなる。
美咲の顔は、ますます赤くなった。
「それじゃあ、私は友達を待たせてるから」
菜月は美咲の耳元へ顔を寄せる。
「明日、詳しく聞かせてね」
「菜月ちゃん」
「じゃあ、また明日」
菜月は小さく手を振り、待っていた友人のもとへ戻っていった。
◇
「絶対、誤解されたよ」
電車へ乗ったあと、美咲は恥ずかしそうに俯いた。
さすがに混雑した車内では、手を離している。
「事実を言っただけだ」
「水瀬くんは、もう少し言い方を考えて」
「一ノ瀬さんからつないだのは本当だろ」
「本当だけど……」
美咲は鞄で赤くなった頬を隠した。
「明日、菜月ちゃんに絶対聞かれる」
「説明すればいい」
「何て?」
「ご褒美だと」
「もっと誤解されそう」
「なら、何も言わなければいい」
「そうすると、付き合ってると思われるよ」
「困るのか?」
悠真が尋ねる。
美咲の動きが止まった。
鞄の陰から、恐る恐る顔を上げる。
「水瀬くんは、困らないの?」
「周りに騒がれるのは面倒だ」
「それだけ?」
「ああ」
「私と付き合ってると思われること自体は?」
美咲は不安そうに悠真を見つめた。
返事を待つ間、鞄の持ち手を強く握っている。
「嫌ではない」
悠真が答える。
美咲の瞳が僅かに大きくなる。
「本当?」
「ああ」
「どうして?」
「一ノ瀬さんも、俺と噂になるのは嫌じゃないと言っただろ」
「言ったけど」
「なら同じだ」
「同じ……」
美咲は、その言葉を確かめるように繰り返した。
やがて、嬉しそうに目元を緩める。
「そっか。同じなんだね」
◇
翌日の昼休み。
美咲は菜月に腕を引かれ、教室の隅へ連れていかれた。
「それで?」
菜月は壁へ背中を預け、腕を組んだ。
「水瀬くんとは、どういう関係なの?」
「同じクラスで、隣に住んでる人だよ」
「それは知ってる」
「大切な友達」
「手をつなぐ友達?」
美咲の頬が赤くなる。
「あれは、練習を頑張ったご褒美で……」
「ご褒美として、美咲が手をつないだの?」
「うん」
「それを水瀬くんも受け入れた?」
「……うん」
菜月は美咲の顔をじっと見つめた。
「美咲、水瀬くんのことが好きでしょう?」
「えっ?」
美咲は目を大きく開いた。
「どうして、そうなるの?」
「自分で分かってないの?」
「気になる人ではあるけど」
「毎日お弁当を作って、一緒に夕食を食べて、休日には二人で買い物へ行って、手までつないでるんでしょう?」
「改めて並べないで」
美咲は両手で顔を覆った。
「最初は、水瀬くんが一人暮らしで大変そうだったから、手伝おうと思っただけなの」
「今も、それだけ?」
菜月の声から、からかうような響きが消えた。
「水瀬くんが他の女の子と話してたら?」
「……気になる」
「連絡先を交換したら?」
「嫌かも」
「別の女の子と毎日夕食を食べたら?」
「それは絶対に嫌」
美咲は即答した。
想像しただけで、胸の奥が苦しくなる。
「水瀬くんに会えない日は?」
「寂しいと思う」
「手をつないだときは?」
「すごく嬉しかった」
「水瀬くんが、他の女の子を好きになったら?」
美咲は何も答えられなかった。
胸を強く締めつけられたように感じる。
悠真が、自分以外の女子へ優しく笑う。
その人と毎朝一緒に学校へ行き、二人で夕食を食べる。
その手を、自分ではない誰かが握る。
嫌だった。
考えるだけでも、泣きそうになるほど嫌だった。
「……嫌」
美咲は胸元へ手を添えた。
「そんなの、絶対に嫌だよ」
「それなら、答えは出てるんじゃない?」
菜月は柔らかく笑った。
美咲は顔を上げ、離れた席にいる悠真を見る。
彼は孝太郎から問題集を見せられ、少し面倒そうな表情で説明していた。
孝太郎が正解したらしく、悠真の口元が僅かに緩む。
目立たないように振る舞っている学校での姿。
家で見せる、少しだけ素直な表情。
料理に失敗して、不満そうに眉を寄せた顔。
美咲の料理を、美味しそうに食べる横顔。
過去を尋ねられ、苦しそうに目を伏せる姿。
手をつないだとき、嫌ではないと答えてくれた声。
どれを思い出しても、胸が温かくなる。
「私……」
美咲の声が僅かに震えた。
「水瀬くんのこと、好きなのかな」
「私に聞かれても困るよ」
菜月は苦笑した。
「でも、私にはそう見える」
美咲はもう一度、自分の胸へ問いかけた。
悠真に会いたい。
一緒にいたい。
美味しい料理を食べてもらいたい。
嬉しいときは、隣で笑ってほしい。
苦しいときは、そばにいたい。
誰にも見せない顔を、自分にだけ見せてほしい。
別の誰かに取られたくない。
その気持ちを恋と呼ぶのなら、答えは一つしかなかった。
「うん」
美咲は小さく頷いた。
「私、水瀬くんが好き」
口にした瞬間、それまで曖昧だった感情が、はっきりとした形を持った。
恥ずかしい。
けれど、それ以上に嬉しかった。
自分の気持ちを、ようやく理解できたから。
「やっと気づいたんだ」
菜月は穏やかに微笑んだ。
「告白する?」
「無理だよ」
美咲は慌てて首を横へ振った。
「どうして?」
「今の関係が変わるのが怖いから」
「断られると思ってる?」
「分からない」
美咲は悠真の横顔を見つめた。
「水瀬くんも、私のことを少しは大切に思ってくれてると思う」
「手をつないでたもんね」
「でも、それが恋愛としてなのかは分からないから」
美咲の表情が僅かに曇る。
「もし告白して困らせたら、今みたいに一緒にいられなくなるかもしれない」
「毎日の夕食も?」
「うん」
「一緒に登校するのも?」
「できなくなるかもしれない」
それだけは嫌だった。
恋人になれなくても、悠真の隣にはいたい。
今の穏やかな日常を、失いたくなかった。
「だから、今は言わない」
美咲は自分の胸へ、そっと手を当てた。
「もう少しだけ、このまま水瀬くんの隣にいる」
「のんびりしてたら、誰かに取られるかもしれないよ?」
「例えば?」
「私とか」
菜月は悪戯っぽく笑った。
美咲の表情が固まる。
「……本気?」
「どうだろう」
「菜月ちゃん」
「冗談だよ。今はね」
「今は?」
「水瀬くん、最近ちょっと気になるんだよね。思ってたより格好いいし、話してみると優しいから」
美咲は唇を引き結んだ。
胸の奥に、はっきりとした嫉妬が生まれる。
「やっぱり、告白したほうがいいのかな……」
「そこは自分で考えて」
菜月は楽しそうに笑った。
「でも、相談には乗るよ」
「この話、誰にも言わないでね」
「分かってる」
「絶対だよ」
「美咲が水瀬くんを好きなことだけでしょう?」
「うん。それだけ」
美咲は念を押すように頷いた。
悠真と交わした二人だけの秘密には、最初から一言も触れていない。
菜月に限らず、誰にも話すつもりはなかった。
◇
昼休みが終わる前。
美咲が自分の席へ戻ろうとすると、悠真が声をかけてきた。
「何を話してた?」
「秘密」
「俺のことを見てただろ」
「気づいてたの?」
「ああ」
「水瀬くんは、本当に人の視線に敏感だね」
美咲は少し困ったように笑った。
「悪口ではないから、安心して」
「そうか」
「気になる?」
「少し」
悠真が答える。
その一言だけで、美咲の胸が温かくなった。
「いつか話すね」
「いつ?」
「もう少しあと」
美咲は柔らかく微笑んだ。
「私が、ちゃんと勇気を出せるようになったら」
悠真は意味が分からないように首を傾げる。
「何に勇気が必要なんだ?」
「それも秘密」
「秘密が増えたな」
「水瀬くんだけじゃなくて、私にも秘密はあるの」
美咲は人差し指を唇の前へ立てた。
「でも、いつか必ず話すから」
「ああ。待ってる」
悠真は自然に答えた。
美咲の目が大きくなる。
「待っててくれるの?」
「一ノ瀬さんも、俺を待つと言っただろ」
「うん」
「なら、俺も待つ」
美咲の頬に、柔らかな笑みが広がる。
「ありがとう、水瀬くん」
自分の気持ちに、ようやく名前をつけることができた。
けれど、今はまだ胸の中へしまっておく。
悠真が守っている秘密とは別の、美咲自身の秘密として。
いつか本人へ伝えられる日まで。
読んでくださってありがとうございます。
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