第22話 放課後のバスケットボール
球技大会の種目が決まった翌日。
教室では、朝から大会についての話題が飛び交っていた。
「一年三組、バスケ部が三人いるらしいぞ」
孝太郎が椅子を反対向きにし、悠真の机へ身を乗り出す。
「それは大変だな」
悠真は教科書を開いたまま答えた。
「大変だな、じゃない。俺たちが最初に当たる相手だよ」
「まだ組み合わせは決まってないだろ」
「実行委員から聞いた。ほとんど決まりらしい」
孝太郎は絶望したように頭を抱えた。
「どうするんだよ。うちのチーム、バスケ部は一人だけだぞ」
男子バスケットボールに参加するのは、全部で八人。
その中でバスケットボール部に所属しているのは、
進藤蓮一人だけだった。
残りは別の運動部が三人。
帰宅部が四人。
悠真と孝太郎も、その四人に含まれている。
「球技大会なんだから、負けても困らないだろ」
「せっかく出るなら勝ちたいじゃん」
「俺は人数合わせだ」
「水瀬も少しはやる気を出せよ」
「応援してる」
「お前も出る側だよ」
孝太郎は呆れたように肩を落とした。
そのとき、教室の前方から進藤が歩いてきた。
身長は悠真と同じくらいだが、制服の上からでも鍛えていることが分かる。短く切った髪と鋭い目元のせいで近寄りがたく見えるものの、話し方は意外と穏やかだった。
「水瀬、佐伯。今日の放課後、時間あるか?」
「練習?」
孝太郎が尋ねる。
「ああ。体育館を一時間だけ使えることになった」
進藤は二人を交互に見る。
「全員の実力を確認して、ポジションを決めたい」
「俺は行く。水瀬も行くよな?」
孝太郎が期待するように顔を向ける。
「今日は用事がある」
悠真が答えると、孝太郎は眉を寄せた。
「また一ノ瀬と夕食?」
「どうして知ってる?」
「もうクラスの半分くらい知ってるぞ」
悠真は教室内を見回した。
何人かの生徒が、聞いていないふりをしながらこちらへ耳を傾けている。
「誰が話した?」
「お前たちが隠してないからだろ。毎日一緒に弁当食べてるし」
「そうだったな」
「否定しないのかよ」
孝太郎が驚いたように目を開く。
少し前なら、悠真は美咲との関係をできるだけ隠そうとしていた。
けれど今は、隣人であることも、夕食を一緒に食べていることも知られている。わざわざ嘘をつく必要はないと感じ始めていた。
「練習は六時までだ」
進藤が言う。
「夕食には間に合うだろ」
「一ノ瀬さんに連絡しておく」
「水瀬」
進藤は悠真の顔を真っすぐに見た。
「遊びじゃないからな」
「球技大会だろ?」
「出るなら勝つ」
迷いのない声だった。
「足を引っ張るつもりなら、今のうちに別の種目へ移ってくれ」
「進藤、言い方が厳しくないか?」
孝太郎が困ったように眉を寄せる。
「大会まで二週間しかない。練習する気がないやつに時間は使えない」
進藤の言葉は冷たいが、間違ってはいない。
勝つために練習するなら、やる気のない人間が一人いるだけで全体に迷惑がかかる。
「分かった」
悠真は教科書を閉じた。
「練習には出る」
「途中で帰るなよ」
「ああ」
進藤は小さく頷き、別の参加者へ声をかけに向かった。
「進藤、怖いな」
孝太郎がその背中を見送る。
「真面目なだけだろ」
「水瀬は怒らないのか?」
「事実を言われただけだ」
悠真はスマートフォンを取り出し、美咲へメッセージを送った。
『放課後、球技大会の練習がある。帰りが少し遅くなる』
斜め前の席で、美咲のスマートフォンが震える。
彼女は画面を確認すると、すぐに悠真を振り返った。
『私も見に行っていい?』
返信とほぼ同時に、期待するような視線が向けられる。
『女子の練習は?』
『バレーボールは明日から』
『好きにすればいい』
美咲は画面を見て、嬉しそうに頬を緩めた。
『うん。見に行くね』
◇
放課後の体育館。
バスケットボールへ参加する八人が集まり、進藤を中心に練習が始まった。
「最初に簡単なゲームをする」
進藤がボールを脇へ抱えながら説明する。
「経験者と初心者を分けたい。バスケ部だったやつは?」
誰も手を上げない。
「ミニバス経験者は?」
一人の男子生徒だけが手を挙げた。
「他は授業だけか?」
全員が頷く。
進藤の視線が悠真へ向けられる。
「水瀬も?」
「ああ」
「本当に授業だけか?」
「どうして?」
「体格は悪くないから」
進藤は悠真の肩や足元へ視線を動かした。
「他に何かやってた?」
「特には」
「そうか」
進藤は納得したように見えなかったが、それ以上は尋ねなかった。
悠真がバスケットボールを本格的に習ったことはない。
ただし、子役時代にスポーツを題材とした作品へ出演したことがある。
役作りのため、数か月間だけ専門の指導を受けた。
競技選手のようにはいかないが、高校の球技大会で困る程度ではない。
もちろん、それを見せるつもりはなかった。
「二チームに分かれるぞ」
進藤の指示で、四人ずつに分かれる。
悠真は孝太郎と同じチームになった。
相手側には進藤がいる。
体育館の二階部分へ目を向けると、美咲が手すりの近くに立っていた。
悠真と目が合う。
彼女は嬉しそうに小さく手を振った。
その隣には、桜井菜月と女子生徒が二人いる。
美咲一人で見に来たのではなく、友人たちも誘ったらしい。
「水瀬」
孝太郎が肩を軽く叩く。
「一ノ瀬ばっかり見てるなよ」
「見てない」
「今、手を振ってただろ」
「向こうが振ったから返しただけだ」
「はいはい」
孝太郎は面白そうに笑った。
「試合中も格好いいところを見せろよ」
「見せるつもりはない」
「何のために女子が見に来たと思ってるんだ」
「暇だったからじゃないか?」
「お前、いつか一ノ瀬に怒られるぞ」
その言葉の意味を尋ねる前に、ゲーム開始の合図が出た。
◇
悠真は、できるだけ目立たないように動いた。
ボールを持てば、近くにいる味方へ渡す。
シュートは無理に狙わない。
相手が攻めてきても、抜かれない程度に守る。
速く走りすぎないよう、周囲に速度を合わせる。
進藤は一人だけ動きが違った。
ボールを受けると素早く相手を抜き、正確にシュートを決める。
「速っ!」
孝太郎が慌てて追いかけるが、間に合わない。
次の攻撃。
孝太郎がボールを受け、悠真へパスを出した。
わざとではないだろうが、僅かに位置がずれている。
普通に手を伸ばしただけでは届かない。
悠真は一歩だけ速く踏み込み、ボールを受け取った。
その瞬間、進藤が目の前へ入る。
「来い」
進藤は腰を落とし、両腕を広げた。
「俺に?」
「ああ。抜いてみろ」
「無理だ」
悠真は近くにいる味方を探した。
だが、全員が相手に守られている。
「やる前から諦めるな」
進藤が僅かに距離を詰める。
悠真は一度だけボールを床へついた。
進藤の重心が僅かに右へ動く。
左へ抜くことはできる。
一歩目で相手の外側へ入り、身体を使って進路を確保する。
そこから二歩でゴール下へ入り、シュート。
頭の中には、すでに一連の動きが浮かんでいた。
しかし実行すれば、進藤に実力を疑われる。
悠真は迷った末、後方へ無理なパスを出した。
ボールは味方の手を外れ、コートの外へ転がっていく。
「悪い」
悠真が言う。
進藤は追いかけず、悠真の顔を見つめていた。
「今、俺を抜けただろ」
「無理だ」
「俺が右へ重心を動かしたのを見てた」
「偶然だろ」
「それなのに、どうしてパスした?」
「味方が見えたから」
進藤は納得していないように目を細める。
「次は逃げるなよ」
「遊びの試合で熱くなりすぎだ」
「出るなら勝つと言った」
進藤はボールを拾い、ゲームを再開した。
◇
二十分ほど経過した頃。
孝太郎はすでに肩で息をしていた。
「きつい……」
「まだ二十分だぞ」
悠真が言う。
「水瀬は何で平気なんだよ」
「平気に見えるだけだ」
「汗も全然かいてないじゃん」
悠真は額へ手を当てた。
確かに、ほとんど汗をかいていない。
周囲に合わせて運動量を抑えすぎたらしい。
「体質だ」
「便利な体質だな」
孝太郎は疑うことなく納得した。
しかし、進藤は違った。
コートの反対側から、何度も悠真の動きを観察している。
「休憩にする」
進藤の声で、全員がコートの端へ移動した。
体育館の二階にいた美咲たちも、階段を下りてくる。
「お疲れさま」
美咲は飲み物の入った袋を持っていた。
「みんなの分、買ってきたよ」
「ありがとう、一ノ瀬!」
孝太郎が一番に駆け寄る。
美咲は全員へスポーツドリンクを渡したあと、最後に悠真の前へ来た。
「水瀬くん」
「ありがとう」
悠真がボトルを受け取る。
美咲は悠真の顔を見つめ、少しだけ眉を寄せた。
「疲れてないの?」
「少しは」
「嘘」
美咲は周囲へ聞こえないよう、小さな声で言った。
「全然、呼吸が乱れてないよ」
「運動量が少なかったからな」
「わざと?」
「あとで話す」
悠真が視線で周囲を示す。
美咲は小さく頷いた。
「分かった」
そのとき、コートの中からボールが飛んできた。
別の部活動が使っていたものらしい。
強く弾んだボールは、美咲の後頭部へ向かっている。
彼女は背を向けており、気づいていない。
「一ノ瀬さん」
悠真は美咲の肩を引き寄せた。
同時に反対の手を伸ばし、飛んできたボールを片手で受け止める。
美咲の身体が、悠真の胸元へ収まった。
「えっ?」
何が起きたのか分からない様子で、美咲が目を丸くする。
悠真は片手にボールを持ち、飛んできた方向へ投げ返した。
「すみません!」
遠くから、男子生徒が頭を下げる。
「気をつけろよ」
悠真は短く返した。
「水瀬くん……」
美咲が胸元から顔を上げる。
二人の距離は、触れ合うほど近い。
悠真の腕が、美咲の肩を抱くように回されていた。
「怪我は?」
「してない」
「ならよかった」
悠真は美咲から手を離した。
美咲は僅かに名残惜しそうな表情を見せたあと、頬を赤くして俯く。
「ありがとう」
「当たらなくてよかった」
「それより、今の……」
美咲の視線が、ボールを受け止めた悠真の手へ向けられる。
かなりの速度で飛んできたボールを、振り返ることもなく片手で受け止めた。
普通の反応ではない。
「水瀬」
進藤がこちらへ歩いてきた。
先ほどまでより鋭い目で、悠真を見ている。
「今のボール、見えてたのか?」
「視界の端に入った」
「後ろから飛んできたぞ」
「床に映った影が見えた」
「それだけで取ったのか?」
「たまたまだ」
「また偶然か」
進藤はボールが飛んできた方向と、悠真の立っている位置を確認する。
「お前、本当は何かやってただろ」
「何もやってない」
「なら、次のゲームは俺と同じチームに入れ」
「どうして?」
「動きを近くで見る」
「監視するつもりか?」
「実力を隠してるやつがいるなら、確認するのは当然だ」
進藤は真剣な表情だった。
悠真は小さく息を吐く。
「好きにしろ」
「逃げるなよ」
進藤はそれだけ告げ、他の参加者のもとへ戻った。
◇
休憩が終わり、二回目のゲームが始まった。
今度は進藤と悠真が同じチームだった。
「水瀬、前へ出ろ」
「俺より上手いやつがいるだろ」
「いいから出ろ」
進藤からパスが来る。
悠真は受け取り、前を向いた。
相手が一人、進路を塞ぐ。
抜くことは難しくない。
しかし、また周囲から注目される。
悠真が味方へパスを出そうとすると、進藤が声を上げた。
「逃げるな!」
その声に、悠真の身体が僅かに強張った。
「お前なら行ける。やってみろ!」
期待されている。
その感覚が、胸へ重くのしかかる。
――レイくんならできる。
――天才なんだから。
――みんな期待しているよ。
過去の声が、一瞬だけ蘇った。
悠真の足が止まる。
相手の手が、ボールへ伸びる。
「水瀬くん!」
二階から、美咲の声が聞こえた。
悠真は顔を上げた。
美咲が手すりから身を乗り出すようにして、こちらを見ている。
「無理しなくていいよ!」
進藤とは反対の言葉だった。
「自分で決めて!」
美咲は真剣な表情で続けた。
「水瀬くんが、やりたいようにして!」
期待に応えなくてもいい。
結果を出さなくてもいい。
選ぶのは自分だ。
悠真はボールを床へついた。
相手の重心を見る。
右足が、僅かに外へ開いている。
悠真は左へ踏み込むと見せかけ、瞬時に身体を右へ切り返した。
「なっ……」
相手の横を抜く。
ゴールまで数歩。
別の守備が前へ入る。
悠真はシュートへ行かず、走り込んできた進藤へパスを出した。
進藤はそれを受け、そのままゴールを決める。
体育館に、ボールの跳ねる音が響いた。
「水瀬」
進藤が振り返る。
驚きと、確信が混じった表情だった。
「やっぱりできるんじゃないか」
「今の一回だけだ」
「一回できるなら、偶然じゃない」
「好きに考えろ」
悠真は二階へ視線を向けた。
美咲が胸元で両手を握り、嬉しそうに笑っている。
その笑顔を見たとき、悠真の胸に、試験で難問を解いたときと同じ解放感が生まれた。
◇
練習が終わり、体育館を出る。
美咲は悠真の隣を歩きながら、先ほどの動きを思い出しているようだった。
「水瀬くん、バスケもできるんだね」
「少しだけだ」
「最後の動き、進藤くんでも驚いてたよ」
「一度上手くいっただけだ」
「二人きりなら、本当のことを話してくれる約束でしょう?」
美咲は少し不満そうに唇を尖らせた。
周囲には誰もいない。
孝太郎たちは、まだ更衣室にいた。
「……できる」
悠真は小さな声で認めた。
「どのくらい?」
「球技大会なら困らない程度」
「本気を出したら、進藤くんより上手い?」
「分からない。あいつはバスケ部だ」
「でも、動きを見ただけで抜き方が分かったんでしょう?」
「ああ」
美咲の瞳が僅かに輝く。
「他の運動も?」
「大抵のものはできる」
「やっぱり」
美咲は納得したように頷いた。
「体育でも、わざと手を抜いてたんだね」
「ああ」
「これも、秘密?」
「誰にも言うな」
「うん。約束する」
美咲は小指を立てる。
悠真も小指を差し出し、二人の指が絡んだ。
「勉強のことと、運動のこと」
美咲は一本ずつ数えるように言った。
「秘密が二つになったね」
「嬉しそうだな」
「水瀬くんが、私にだけ話してくれたから」
美咲は絡めた小指を見つめる。
「他の人には知られたくないことを、私だけは知ってる。それが嬉しいの」
「変わってるな」
「そうかも」
美咲は小指を離さず、僅かに顔を上げた。
「球技大会でも、隠すの?」
「ああ」
「最後みたいに、一回だけ本気を出すのは?」
「状況による」
「私は見てみたいな」
美咲は柔らかく微笑んだ。
「本気で動く水瀬くん、格好よかったから」
悠真の視線が僅かに逸れる。
「また顔が赤いよ」
「運動したあとだからだ」
「さっきまで全然疲れてなかったのに?」
「今になって暑くなった」
美咲は楽しそうに目元を細めた。
「水瀬くん」
「何だ?」
「今日は、こうして帰ってもいい?」
「こうして?」
美咲は絡めていた小指を外し、そのまま悠真の手を握った。
指と指が重なる。
いわゆる恋人つなぎに近い形だった。
「練習を頑張ったご褒美」
「俺へのご褒美なのか?」
「……私へのご褒美かも」
美咲は頬を赤くしながら、小さく笑った。
「嫌?」
悠真はつながれた手を見る。
温かな指先。
試験のときも、過去の記憶が蘇ったときも、この手に助けられた。
「嫌じゃない」
悠真は握られた手へ、僅かに力を返した。
美咲の瞳が大きくなる。
そして、これまでで一番嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、マンションまでね」
「ああ」
二人は手をつないだまま、夕暮れの校舎を出た。
勉強と運動。
美咲が知る悠真の秘密は、二つになった。
そして悠真が彼女にだけ見せる本当の姿も、少しずつ増え始めていた。
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