第21話 秘密を知った彼女
翌朝。
悠真が玄関の扉を開けると、美咲は隣室の前で待っていた。
「おはよう、水瀬くん」
彼女はいつものように柔らかく微笑んだ。
しかし、その表情には普段と僅かな違いがある。
悠真の顔を見る目が、妙に嬉しそうだった。
「おはよう」
「今日は三十秒しか待ってないよ」
「聞いてない」
「いつも水瀬くんが聞くから、先に言ってみたの」
美咲は得意そうに胸を張った。
「本当に三十秒か?」
「……一分くらい」
「すぐに変わったな」
「細かい時間は見てなかったから」
美咲は誤魔化すように髪を耳へかけた。
その頬には、朝から僅かな赤みがある。
「それより、お弁当」
美咲が小さな紙袋を差し出した。
「今日は鮭と卵焼き。野菜も入ってるからね」
「分かった」
悠真が紙袋を受け取る。
昨日までと同じやり取りのはずだった。
けれど、美咲は手を離す直前に悠真の指先へそっと触れた。
「一ノ瀬さん?」
「あ、ごめん」
美咲は慌てて手を引いた。
指先を胸元へ寄せ、少し恥ずかしそうに俯く。
「どうした?」
「何でもないよ」
「昨日から様子が変だぞ」
「昨日、水瀬くんが秘密を話してくれたから」
美咲は顔を上げ、嬉しそうに目元を緩めた。
「前より少し近くなれた気がして」
「隣に住んでるだろ」
「部屋の距離じゃなくて、心の距離の話」
悠真は返事を止めた。
美咲も、自分で言ってから恥ずかしくなったらしい。頬の赤みが濃くなる。
「今のは忘れて」
「無理だな」
「昨日も同じこと言ったよね」
「一度聞いたことは忘れない」
「それなら……覚えていてもいいよ」
美咲は小さな声で呟いた。
「何か言ったか?」
「何でもない」
今度は美咲が先に歩き出す。
「学校へ行こう?」
「ああ」
悠真はその隣へ並んだ。
◇
電車の中。
美咲は鞄から数学のノートを取り出した。
「水瀬くん、昨日の問題なんだけど」
「試験の最後の問題か?」
「うん。家でもう一度解いてみたの」
開かれたページには、途中式が丁寧に書かれている。
「合ってる?」
悠真はノートへ目を通した。
美咲の答えは正しい。
場合分けも忘れていなかった。
「合ってる」
「本当?」
「ああ。途中も問題ない」
美咲の表情が明るくなる。
「よかった」
「一度教えただけで解けたんだから、俺に聞く必要はなかっただろ」
「水瀬くんに確認してほしかったの」
「なぜ?」
「昨日、水瀬くんに教えてもらった問題だから」
美咲はノートを胸元へ抱いた。
「私、今まで誰かに勉強を教えることはあっても、教えてもらうことは少なかったの」
「学年一位だからな」
「だから、少し嬉しかった」
「分からない問題があったことが?」
「違うよ」
美咲は苦笑する。
「水瀬くんに教えてもらえたことが」
「俺でなくてもいいだろ」
「水瀬くんがいいの」
美咲は迷わず答えた。
直後、自分の言葉が恥ずかしくなったのか、ノートで口元を隠す。
「昨日の説明、本当に分かりやすかったから」
「今さら理由を追加したな」
「最初から、その意味だったよ」
「本当か?」
「本当です」
美咲は悠真と目を合わせようとしない。
窓へ顔を向けているが、耳まで赤くなっていた。
「今後も分からない問題があったら、聞いていい?」
「構わない」
「私の前では、分からないふりをしない?」
「ああ」
「本当に?」
「二人きりならな」
美咲はノートを下ろし、悠真を見る。
「学校では駄目?」
「他の人間に聞かれる可能性がある」
「そっか」
「一ノ瀬さんに教える必要があるなら、帰ってからにしてくれ」
「それなら今日も、水瀬くんの部屋へ行っていい?」
「夕食を食べるんだから、どちらにしても来るだろ」
「勉強も一緒にできる?」
「ああ」
美咲は嬉しそうに笑った。
「楽しみにしてるね」
「勉強を楽しみにする人間は初めて見た」
「勉強だけじゃないよ」
「他に何がある?」
悠真が尋ねる。
美咲は僅かに唇を開いた。
けれど、すぐに閉じてしまう。
「秘密」
「俺には秘密を話せと言っただろ」
「これは、まだ私にもよく分からないから」
美咲は胸元へ片手を添えた。
「ちゃんと分かったら、話すね」
◇
学校へ着くと、一階の掲示板に試験結果が貼り出されていた。
五教科の合計点による、学年上位二十名の名前。
一番上には、一ノ瀬美咲の名前がある。
一ノ瀬美咲――四百九十一点。
二位とは十二点差だった。
「やっぱり一ノ瀬が一位か」
「すごいな。化学は満点だったらしいぞ」
掲示板の前に集まった生徒たちが、美咲の名前を見て声を上げる。
「一ノ瀬さん、おめでとう」
女子生徒の一人が美咲へ笑顔を向けた。
「ありがとう」
美咲はいつもの完璧な笑顔で応じた。
「でも、数学を一問間違えちゃったから」
「それでも九十八点でしょう? 私なんて六十点だったよ」
「次は一緒に勉強しよう?」
「本当に? 助かる」
すぐに美咲の周囲へ生徒が集まる。
悠真は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
誰に対しても明るく、丁寧に接する優等生。
昔は人と話すのも苦手だったとは思えない。
「水瀬、お前は何位だった?」
隣にいた孝太郎が尋ねる。
「知らない」
「点数から考えたら、五十位くらいか?」
「学年は二百人いる。もっと下だろ」
「それでも俺よりは上だよ。俺、百五十位だった」
「赤点は?」
「奇跡的になかった」
孝太郎は安堵したように笑った。
「それより、数学の最後を解いた水瀬が上位にいないの、変な感じだな」
「他の問題を間違えたからな」
「簡単なところばっかり?」
「そういうこともある」
「もったいないよな。あれを解けるなら、もっと上に行けたんじゃないの?」
孝太郎の言葉に、悠真は答えなかった。
上位へ行く必要はない。
名前が掲示されれば、注目される。
教師から期待される。
勉強を教えてほしいと、周囲から声をかけられる。
そんな生活は望んでいなかった。
「水瀬くん」
美咲が人の輪を離れ、悠真のもとへ歩いてきた。
「俺のところに来ていいのか?」
「どうして?」
「みんなに祝われてただろ」
「ちゃんとお礼は言ったよ」
美咲は掲示板の一位へ視線を向けた。
「でも、水瀬くんにも見てほしかったから」
「一位だったな。おめでとう」
悠真が言う。
美咲は目を丸くした。
「それだけ?」
「他に何がある?」
「もう少し褒めてくれるかと思ってた」
「四百九十一点は十分すごい」
「本当にそう思う?」
「ああ。俺が普通に解いても、同じ点を取れるとは限らない」
美咲の瞳が僅かに揺れる。
「水瀬くんと私、本気で勝負したらどっちが勝つかな?」
「しないぞ」
「一回だけ」
「目立つから嫌だ」
「二人だけで問題を解くのは?」
「何のために?」
「少し気になるから」
美咲は悠真の顔を覗き込んだ。
「水瀬くんの本当の実力」
「昨日、満点近く取れるとは言っただろ」
「それが、どのくらいなのか見てみたいの」
「断る」
「やっぱり駄目?」
美咲の眉尻が僅かに下がる。
しかし悠真は頷かなかった。
「勝負をすれば、勝ち負けが決まる」
「うん」
「一ノ瀬さんは努力して学年一位になった。それを、俺が簡単に上回る可能性もある」
美咲は黙って悠真の言葉を聞いている。
「それでも、勝負したいのか?」
「したい」
美咲は迷わず答えた。
「負けたら悔しいと思う。でも、水瀬くんに負けたなら、もっと頑張ろうと思えるから」
「俺が負けたら?」
「水瀬くんが本気で解いた結果なら、私が勝っても嬉しいよ」
「傷つかないのか?」
「どうして?」
「努力してきた自分より、勉強していない人間のほうが上かもしれない」
美咲の表情が僅かに曇った。
怒ったわけではない。
悠真の言葉の奥にあるものへ気づいたようだった。
「水瀬くんは、自分の力で誰かが傷つくのが怖いの?」
「……分からない」
「だから、できないふりをしてる?」
「それだけじゃない」
「他の理由は、まだ言えない?」
「ああ」
美咲は小さく頷いた。
「それなら、今は聞かない」
そして、柔らかく微笑む。
「でも、私は水瀬くんに負けても嫌いにならないよ」
「悔しくはなるんだろ」
「それはなる」
美咲は少しだけ頬を膨らませた。
「私、本当にたくさん勉強してるから」
「知ってる」
「それでも、水瀬くんが本気を見せてくれたほうが嬉しい」
「どうして?」
「隠さなくてもいいと思ってもらえた証拠になるから」
美咲は胸元へ手を添えた。
「私の前だけでも」
その言葉に、悠真の心が僅かに動く。
「……一度だけなら考える」
「本当?」
美咲の顔が明るくなる。
「今すぐじゃないぞ」
「うん」
「試験の問題以外でやる」
「分かった」
「周りには言わない」
「二人だけの秘密だね」
美咲は嬉しそうに笑った。
「まだやるとは決めてない」
「でも、考えてくれるんでしょう?」
「ああ」
「楽しみにしてるね」
◇
その日の六時間目。
担任教師が教卓へ立ち、黒板へ大きな文字を書いた。
『球技大会』
教室内から歓声とため息が同時に上がる。
「二週間後、学年ごとの球技大会がある」
担任は配布資料を持ち上げた。
「男子はバスケットボールかサッカー。女子はバレーボールかバドミントン。それぞれ希望を取るが、人数が偏った場合はこちらで調整する」
「先生、両方嫌な場合は?」
孝太郎が手を上げる。
「応援を頑張れ。競技には出てもらう」
教室に笑いが起きる。
「今日のホームルームで種目を決める。まず、球技大会の実行委員を男女一人ずつ選びたい」
何人かの生徒の視線が、美咲へ向けられる。
「女子は一ノ瀬さんでいいんじゃない?」
「成績もいいし、運動もできるから」
「一ノ瀬さん、お願いできる?」
声をかけられた美咲は、一瞬だけ困ったように眉を下げた。
それでもすぐに立ち上がる。
「みんながよければ、やります」
教室から拍手が起きた。
男子の実行委員には、運動部の生徒が選ばれた。
続いて、種目ごとの希望が取られる。
「水瀬はどっちにする?」
孝太郎が振り返った。
「どちらでもいい」
「俺はバスケにするぞ。一緒にやろうぜ」
「サッカーのほうが人数に紛れやすい」
「どういう選び方だよ」
「目立たないほうがいい」
「バスケが足りないらしいぞ」
黒板を見ると、男子バスケットボールの希望者が二人不足していた。
対してサッカーは、すでに定員を超えている。
「水瀬、バスケに入ってくれないか?」
男子の実行委員が声をかけてくる。
「運動は得意じゃない」
「人数合わせでいいから」
「佐伯もいるぞ」
孝太郎が期待するように悠真を見る。
断れば、誰か別の生徒が移動しなければならない。
「……分かった」
「よし!」
孝太郎が嬉しそうに拳を上げた。
悠真の名前が、バスケットボールの欄へ書かれる。
女子は、美咲がバレーボールを選んでいた。
視線が合う。
彼女は嬉しそうに口元を緩めたあと、悠真の運動能力について何かを思い出したように目を細めた。
ホームルームが終わると、美咲がすぐに悠真の机へ来た。
「水瀬くん、バスケに出るんだね」
「人数合わせだ」
「やったことは?」
「授業で少し」
「得意じゃないの?」
「普通だ」
悠真が答える。
美咲は疑うように顔を覗き込んだ。
「本当は?」
「二人きりではないぞ」
「あ……」
周囲には、まだ多くの生徒が残っている。
「ごめんね」
美咲は声を潜めた。
「帰ってから聞く」
「聞くつもりなのか?」
「うん」
美咲は楽しそうに笑った。
「勉強の次は、運動の秘密も教えてもらえるかもしれないから」
「期待するな」
「少しだけならいいんでしょう?」
「そうだったな」
「水瀬くんがバスケをするところ、楽しみにしてるね」
その言葉に、悠真は小さく息を吐いた。
美咲の前でだけ、本当の実力を隠さない。
昨日は、そう決めた。
しかし球技大会は、二人きりではない。
クラスメイトも、教師も、他のクラスの生徒も見ている。
悠真は、その中でいつもどおり平均的な生徒を演じるつもりだった。
ただ、美咲が期待するような目で見つめてくると、少しだけ迷いが生まれてしまう。
勉強で一問だけ本気を出したように、運動でも一度くらいなら。
そう考えた自分に気づき、悠真は美咲から視線を逸らした。
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