第15話 隣人だけの特別扱い
試験二日目の朝。
悠真が美咲の部屋を訪ねると、玄関の扉はすぐに開いた。
「おはよう、水瀬くん」
美咲はすでに制服へ着替え、白いエプロンを身につけていた。
いつもどおり長い黒髪も綺麗に整えられている。ただし、表情には僅かな眠気が残っていた。
「眠そうだな」
悠真が言うと、美咲は目元へ指先を添えた。
「分かる?」
「ああ」
「昨日、少し遅くまで勉強してたから」
「何時まで?」
「十二時半くらい」
「朝は?」
「五時半に起きたよ」
「寝不足だろ」
「一日くらいなら大丈夫」
美咲は笑顔で答えたものの、その直後に小さな欠伸を漏らした。
慌てて口元を手で隠す。
「大丈夫には見えないな」
「今のは違うの」
「欠伸に違うも何もないだろ」
「水瀬くんが来て、安心したから出ただけ」
「俺と欠伸に何の関係がある?」
「緊張が解けたというか……」
美咲は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「昨日の朝は、水瀬くんが来てくれるか少し不安だったから」
「今日は?」
「昨日来てくれたから、大丈夫だと思ってた」
美咲は頬を緩める。
「それでも、本当に来てくれたら嬉しかった」
「朝食を一緒に食べると約束しただろ」
「うん。水瀬くんは、約束を守ってくれる人だね」
何気ない褒め言葉だった。
けれど悠真は、僅かに視線を落とした。
自分は、美咲との約束をすべて守っているわけではない。
話せることがあれば、いつか過去について話す。
それは明確な約束ではなかったものの、美咲は待っている。
悠真はまだ、その期待に応えるつもりがなかった。
「どうしたの?」
黙った悠真を、美咲が心配そうに覗き込む。
「何でもない」
「本当?」
「ああ。それより、朝食は?」
「もうできてるよ」
美咲は玄関から退き、悠真を部屋へ招いた。
◇
今日の朝食は、チーズトーストと目玉焼き、野菜のスープだった。
二人でローテーブルを挟み、向かい合って座る。
「今日は化学と日本史だね」
美咲はトーストを手に取りながら言った。
「ああ」
「一問の約束、覚えてる?」
「覚えてる」
「無理に難しい問題を選ばなくてもいいからね」
「昨日は、最後の問題を解いた」
美咲の手が止まった。
「数学の?」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ」
美咲はトーストを皿へ戻し、身を乗り出した。
期待に満ちた瞳が、悠真へ向けられる。
「答え、何になった?」
「教えない」
「どうして?」
「答えを言えば、一ノ瀬さんが合っているか判断できるだろ」
「それの何が駄目なの?」
「結果は関係ないと言ったのは、一ノ瀬さんだ」
「そうだけど、気になるよ」
美咲は不満そうに頬を膨らませた。
「私は最後まで解けたから、水瀬くんと同じ答えか知りたい」
「答案が返ってくれば分かる」
「返却は来週だよ?」
「待てばいい」
「水瀬くんは、意地悪だね」
美咲は唇を尖らせたまま、トーストを一口かじった。
それから、何かに気づいたように目を細める。
「でも、最後の問題を選んだんだ」
「それが?」
「一番難しかったでしょう?」
「そうだな」
「やっぱり、解けるんだね」
悠真の指が止まった。
美咲は勝ち誇るでもなく、ただ嬉しそうに微笑んでいる。
「正解したとは言ってない」
「それでも最後まで書いたんでしょう?」
「ああ」
「水瀬くんが自分で書きたいと思って、書いてくれた。それで十分だよ」
美咲は目元を柔らかくした。
「約束を守ってくれて、ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
「私にとっては、嬉しいことなの」
「そうか」
悠真は野菜のスープを飲んだ。
温かなスープと一緒に、胸の奥まで何かが染み込んでいくように感じた。
「今日も一問、書く」
悠真が言う。
「うん」
「ただし、どの問題かは教えない」
「分かった。答案が返ってきたら探すね」
「探すのか?」
「もちろん」
美咲は楽しそうに笑った。
◇
一時間目は化学。
今回も、前半は基本的な用語や化学式を答える問題。後半は物質量を扱う計算問題だった。
悠真は問題用紙へ目を通す。
すべて、授業で扱った範囲内だ。
最後の問題だけは、複数の反応を順番に整理しなければならず、少し複雑に作られている。
昨日と同じように、最後の一問を正しく解く。
そう決め、悠真は解答を始めた。
前半で二問、意図的に間違える。
中盤の計算問題でも、単位の変換を一つ間違えたことにする。
そして最後の問題。
悠真は途中式を省略せず、答えへ辿り着いた。
計算を見直す。
間違いはない。
正解を書き終えた瞬間、昨日と同じ小さな解放感があった。
解ける問題へ、正しい答えを書く。
本来なら当たり前の行為だ。
それをするだけで、胸に絡みついていた何かが少しずつ解けていくように感じた。
顔を上げる。
斜め前の席で、美咲が真剣な表情で答案へ向き合っている。
長い睫毛を伏せ、問題文を読み込んでいた。
悠真はすぐに視線を戻した。
試験中に誰かを見つめるなど、以前ならしなかっただろう。
◇
二時間目の日本史も、悠真は予定した点数になるよう解答した。
資料問題の一つだけ、本気で答える。
美咲との約束は一問だった。
化学ですでに果たしている。
それでも日本史でも一問だけ正しい答えを書いたのは、悠真自身がそうしたいと思ったからだった。
二日間の試験がすべて終わる。
「終わった……」
孝太郎が机へ突っ伏した。
「もう何も考えたくない」
「まだ答案返却があるぞ」
「今は言うな」
孝太郎は両手で耳を塞いだ。
「水瀬、化学の最後どうなった?」
「答え合わせはしない」
「どうして?」
「間違ってたら気分が悪くなる」
「気持ちは分かるけどさ」
孝太郎が顔だけを上げる。
「お前、意外と試験できたんじゃないか?」
「いつもどおりだ」
「そのいつもが怪しいんだよ」
「何が?」
「昨日、一ノ瀬と話したあと、少し雰囲気が変わった気がする」
悠真は僅かに眉を寄せた。
「どこが?」
「上手く言えないけど、前より真面目に解いてたように見えた」
「試験中に俺を見てたのか?」
「斜め後ろだから目に入っただけだよ」
孝太郎は笑った。
「一ノ瀬に何か言われた?」
「一問だけ本気で解けと」
「一問だけ?」
「ああ」
「何だ、その変な約束」
「俺が聞きたい」
悠真が肩をすくめる。
少し離れた席で、友人と答え合わせをしていた美咲がこちらを見た。
会話の内容が聞こえたのか、嬉しそうに目元を細める。
「水瀬くん」
美咲は友人たちへ断り、悠真の席まで歩いてきた。
「今日も書いてくれた?」
「ああ」
「どの教科?」
「教えない」
「昨日と同じだね」
美咲は少し残念そうに頬を膨らませた。
「でも、ありがとう」
「今度は俺が書きたかったから書いた」
美咲の表情が止まる。
「……本当に?」
「ああ」
「私との約束だからじゃなくて?」
「約束は一問だろ。今日は化学と日本史で一問ずつ、普通に答えた」
美咲は何度か瞬きをした。
言葉の意味を理解すると、その頬がゆっくりと緩んでいく。
「二問も?」
「大げさだな」
「だって、水瀬くんが自分から書いてくれたんでしょう?」
「ああ」
「そっか」
美咲は胸元で両手を握った。
嬉しさを抑えられないように、口元へ笑みが浮かんでいる。
「本当によかった」
「俺の点数だぞ」
「分かってるよ」
「一ノ瀬さんには関係ない」
「それでも嬉しいの」
美咲は真っすぐに悠真を見つめた。
「水瀬くんが少しだけ、自分を隠さなくてもいいと思ってくれた気がするから」
悠真は何も返せなかった。
彼女の言うとおりなのかもしれない。
すべてを見せることは、まだできない。
それでも一問だけなら、本当の自分を出してもいいと思えた。
「来週、答案が返ってくるのが楽しみだね」
「俺は楽しみじゃない」
「私は楽しみ」
美咲は柔らかく微笑んだ。
◇
放課後。
試験が終わった解放感から、クラスの生徒たちは遊びに行く相談を始めていた。
悠真も帰る準備をしていると、一人の女子生徒が机へ近づいてくる。
桜井菜月。
肩まである明るい茶色の髪を、校則に触れない程度に緩く巻いている。クラスでは美咲と同じグループにいることが多い女子だった。
「水瀬くん、今いい?」
「何?」
菜月は両手を背中の後ろで組み、少し緊張した様子で笑った。
「昨日、佐伯くんたちに勉強を教えてたよね」
「ああ」
「すごく分かりやすかったって聞いて」
「普通に説明しただけだ」
「それでも、私も聞きたい問題があったんだ」
「試験は終わったぞ」
「うん。でも答えが気になって」
菜月は数学の問題を口にした。
最後の応用問題ではなく、中盤にあった図形問題だった。
「私はこういう答えになったんだけど、水瀬くんは?」
「覚えてない」
「本当に?」
「ああ」
もちろん覚えている。
しかし答え合わせをすれば、そこから別の問題へ話が広がるかもしれない。
菜月は少し残念そうに肩を落とした。
「そっか。じゃあ、答案が返ってきたら教えてくれる?」
「先生に聞いたほうが早い」
「水瀬くんに聞きたいの」
菜月は冗談めかして目元を緩めた。
その頬が、僅かに赤くなっている。
「それで、よかったら連絡先も交換しない?」
教室に残っていた孝太郎が、驚いたようにこちらを見る。
他の男子生徒も、小さな声で何かを話し始めた。
悠真は返事に困った。
断るほどの理由はない。
同じクラスの生徒と連絡先を交換すること自体は、ごく普通のことだ。
「水瀬くん」
少し離れた場所から、美咲の声が聞こえた。
彼女は鞄を持ち、悠真を待っていたらしい。
表情には普段どおりの笑顔が浮かんでいる。
しかし、その瞳は菜月のスマートフォンへ向けられていた。
「どうした?」
悠真が尋ねる。
「ううん。何でもない」
美咲は小さく首を横へ振った。
笑顔を崩さないまま、視線を床へ落とす。
「先に帰ろうかと思って」
「夕食は?」
「今日は水瀬くんも、クラスのみんなと遊びに行くかもしれないから」
「行かない」
「でも、桜井さんと話があるんでしょう?」
美咲は僅かに唇を結んだ。
責める口調ではない。
それでも、普段より声が硬い。
「話は終わった」
悠真は立ち上がった。
「桜井さん、連絡先なら学校のアプリで十分だろ。問題については、答案が返ってからでいい」
「あ……うん」
菜月は残念そうにスマートフォンを下ろした。
「ごめん。急に聞いて」
「別に気にしてない」
悠真は鞄を肩へ掛け、美咲のもとへ向かった。
「帰るぞ」
「私と?」
「隣に住んでるんだから、一緒でいいだろ」
美咲の瞳が僅かに大きくなる。
そのあと、ゆっくりと目元が緩んだ。
「うん」
美咲は嬉しそうに頷いた。
「一緒に帰ろう」
◇
学校を出たあと、美咲はいつもより口数が少なかった。
隣を歩きながら、何度も悠真の顔を見ようとする。
けれど目が合いそうになると、すぐに前を向いた。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「怒ってるのか?」
「怒ってないよ」
「なら、どうして静かなんだ?」
「少し考え事をしてるだけ」
「桜井さんのことか?」
美咲の肩が小さく跳ねた。
「どうして?」
「連絡先を聞かれたとき、様子が変だったから」
「変じゃない」
「俺には何でも顔に出ると言うのに、自分も分かりやすいな」
美咲は困ったように俯いた。
胸の前で鞄の持ち手を握り直す。
「……少しだけ、嫌だったの」
「桜井さんが?」
「水瀬くんに連絡先を聞いてるのが」
「どうして?」
「分からない」
「またそれか」
「私だって、分かりたいよ」
美咲は足を止めた。
頬が赤く染まり、瞳には戸惑いが浮かんでいる。
「桜井さんは友達だし、悪いことは何もしてない。水瀬くんが誰と連絡先を交換しても、私が口を出すことじゃない」
「そうだな」
「でも、嫌だと思ったの」
美咲は自分の胸へ片手を添えた。
「水瀬くんが桜井さんと楽しそうに話したり、私の知らないところで連絡を取ったりするのを想像したら、胸が苦しくなった」
悠真は何と答えるべきか分からなかった。
美咲自身も、自分の感情に戸惑っている。
「それは、嫉妬じゃないのか?」
悠真が率直に言う。
美咲の顔が一気に赤くなった。
「やっぱり、そうなのかな」
「俺に聞かれても分からない」
「水瀬くんは、嫌じゃなかった?」
「何が?」
「私が他の男の子に勉強を教えたり、話したりすること」
悠真は考えた。
昨日、美咲が孝太郎に勉強を教えていた。
特に何も感じなかったはずだ。
しかし、美咲が知らない男子と二人で帰ったり、毎日その相手のために弁当を作ったりする姿を想像すると、胸の奥が僅かにざわついた。
「少しは気になるかもしれない」
悠真は正直に答えた。
美咲が顔を上げる。
「本当?」
「ああ」
「それは、どうして?」
「分からない」
美咲は何度か瞬きをした。
それから、小さく笑い始める。
「私と同じだね」
「そうらしいな」
二人は再び歩き始めた。
先ほどより、肩が近い。
「水瀬くん」
「何だ?」
「連絡先、交換しなくてよかったの?」
「学校のアプリがある。それで十分だろ」
「私とは交換してるよね?」
「一ノ瀬さんは隣人だからな」
「隣人だけ、特別?」
美咲は期待するように悠真の顔を覗き込んだ。
「今のところは」
悠真が答える。
美咲の頬に、嬉しそうな笑みが広がった。
「そっか」
「そんなに喜ぶことか?」
「うん」
美咲は胸元で鞄を抱きしめる。
「私だけ特別なら、嬉しい」
「連絡先を交換してるだけだぞ」
「それでもいいの」
美咲は半歩だけ悠真へ近づいた。
「今は、それで十分だから」
触れそうになった二人の肩が、歩くたびに僅かに揺れる。
どちらも距離を取ろうとはしなかった。
◇
マンションへ戻り、二人は夕食の相談をした。
「試験も終わったし、今日は少し豪華にしようか」
美咲が楽しそうに言う。
「何を作る?」
「水瀬くんが決めて」
「また宿題か?」
「今日は今決めていいよ」
悠真は少し考えた。
「一ノ瀬さんが食べたいもの」
「私が?」
「ああ。試験期間中も夕食と弁当を作ってくれたからな」
「私は、水瀬くんに食べてもらいたくて作っただけだよ」
「それでも、今日は一ノ瀬さんの好きなものにする」
美咲は驚いたように悠真を見つめた。
やがて、柔らかく頬を緩める。
「それなら、クリームシチューがいい」
「好きなのか?」
「うん。小さい頃から好きなの」
「分かった」
「水瀬くんも手伝ってくれる?」
「ああ」
美咲の表情が明るくなる。
「一緒に作ろうね」
二人がそれぞれの部屋へ入ろうとしたところで、美咲が振り返った。
「水瀬くん」
「何だ?」
「私の好きなものも、一つ覚えてくれたね」
「クリームシチューだろ」
「うん」
美咲は嬉しそうに笑った。
「忘れないでね」
「忘れない」
「約束?」
「ああ」
悠真が頷く。
美咲はしばらく、その顔を見つめていた。
「今、少し笑ったね」
「気のせいだ」
「ううん。笑ってた」
美咲は一歩近づき、悠真の顔を覗き込む。
「やっぱり、似てる」
「誰に?」
「天宮レイくんに」
悠真の笑みが消える。
美咲は慌てて手を振った。
「ごめん。また嫌なことを言ったよね」
「いや」
悠真は小さく首を横へ振った。
「今は、そこまで嫌じゃない」
「本当?」
「ああ」
美咲の目元が柔らかくなる。
「それじゃあ、いつか聞いてもいい?」
「いつかなら」
「分かった。待ってるね」
美咲は隣室の扉を開けた。
「着替えたら、材料を持っていくね」
「ああ」
「今日は私の好きなものを、一緒に食べてね」
「分かった」
扉が閉まる直前、美咲が嬉しそうに手を振る。
悠真も小さく手を上げて応じた。
美咲は、悠真の秘密へ少しずつ近づいている。
そして悠真も、美咲のことを少しずつ特別な存在として意識し始めていた。
二人とも、その感情へ明確な名前をつけるには、まだ少しだけ時間が必要だった。
読んでくださってありがとうございます。
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