第14話 君のための一問
定期試験初日の朝。
悠真が目を覚ましたのは、いつもより少し早い午前六時四十分だった。
昨夜は日付が変わる前に眠った。
体調に問題はなく、頭も普段どおりに働いている。
学校を休みたいとも思わなかった。
ベッドから起き上がり、机の上へ目を向ける。
数学の教科書が開いたままになっていた。
昨夜、試験範囲を確認するために開いたものだ。
勉強したわけではない。
ただ、試験でどの問題を間違えるか考えただけ。
それでも今までとは、一つだけ違うことを決めていた。
難しい問題を一問だけ、本気で解く。
それ以外は、今までどおり平均点付近になるよう調整する。
「何をしてるんだろうな、俺は」
悠真は小さく呟いた。
たった一問。
それに何の意味があるのか、自分でも分からない。
美咲に本当の実力を証明するつもりはない。むしろ一問だけ正解したところで、偶然だと思われる可能性のほうが高い。
けれど、それでよかった。
自分が美咲の言葉を無視しなかったことを、自分自身だけが分かっていればいい。
スマートフォンが震えた。
『おはよう。起きてる?』
美咲からのメッセージだった。
『起きてる』
『今日は早いね』
『試験だからな』
『緊張してる?』
『してない』
しばらく返信が来なかった。
悠真の返事を疑っているのかもしれない。
『朝ご飯、一緒に食べない?』
「朝からか……」
悠真は時刻を確認した。
いつも家を出る時間まで、まだ一時間近くある。
『もう作ったのか?』
『うん。おにぎりと卵焼きだけだけど』
『すぐ行く』
送信してから、悠真は自分が迷わず承諾したことに気づいた。
少し前までなら、朝から他人の部屋へ行くことなど断っていただろう。
『待ってるね』
美咲からの返信には、笑顔の絵文字が添えられていた。
◇
身支度を整え、隣室のインターホンを鳴らす。
数秒後、美咲が扉を開けた。
「おはよう、水瀬くん」
すでに制服へ着替えている。
長い黒髪も綺麗に整えられ、赤いリボンも曲がっていない。悠真より早く起き、勉強と朝食の準備まで終えたらしい。
「おはよう」
「どうぞ。入って」
美咲は扉を大きく開け、悠真を室内へ招いた。
「お邪魔します」
美咲の部屋へ入るのは、これが初めてだった。
間取りは悠真の部屋と同じ。
けれど、室内の印象はまるで違っている。
床には物一つ落ちていない。ソファには薄い水色のクッションが二つ並び、ローテーブルの上には小さな花瓶が置かれていた。
壁際の本棚には、参考書や小説が高さを揃えて並べられている。
「……同じ部屋とは思えないな」
悠真が見回しながら呟く。
「水瀬くんの部屋が散らかりすぎなの」
美咲は苦笑した。
けれど、少し落ち着かない様子で悠真の反応を窺っている。
「変じゃない?」
「何が?」
「部屋」
「綺麗だと思う」
「本当?」
「ああ」
美咲は安心したように胸元へ手を添えた。
「よかった。男の子を部屋に入れるの、初めてだから」
その言葉を聞き、悠真の動きが止まる。
「俺が最初でいいのか?」
「水瀬くんなら大丈夫」
美咲は自然に答えた。
しかし、数秒後に自分の発言を理解したらしい。
頬が少しずつ赤くなる。
「変な意味じゃないよ?」
「分かってる」
「水瀬くんは信用できるって意味だから」
「分かったと言ってる」
「本当に?」
「ああ」
美咲はまだ恥ずかしそうに視線を泳がせている。
話題を変えるようにキッチンへ向かい、テーブルの上に朝食を並べ始めた。
「冷めないうちに食べよう?」
皿には、小さなおにぎりが二つずつ。
卵焼きと味噌汁も用意されている。
二人は向かい合って座り、手を合わせた。
「いただきます」
悠真はおにぎりを一つ手に取った。
中には鮭が入っている。
「美味い」
「本当?」
「ああ」
美咲は嬉しそうに目元を細めた。
「朝は、あまり重くないほうがいいと思って」
「いつもこれくらい食べてるのか?」
「普段は、もう少し簡単だよ。今日は試験だから」
「試験と朝食は関係あるのか?」
「頭を使うには、ちゃんと食べたほうがいいの」
美咲は卵焼きを箸でつまみながら、真面目な表情で続ける。
「水瀬くん、試験中にお腹が鳴ったら困るでしょう?」
「そのときは諦める」
「集中できなくなるよ」
「腹が鳴ったくらいで、答えは変わらない」
「やっぱり自信があるんだね」
美咲の瞳に、また小さな疑問が浮かんだ。
悠真は味噌汁へ口をつける。
「一般論だ」
「そういうことにしておくね」
美咲はそれ以上追及しなかった。
◇
食事を終えると、美咲はキッチンから小さな包みを持ってきた。
「これ、水瀬くんに」
「何だ?」
「お守り」
包みの中に入っていたのは、濃紺の布で作られた小さなお守りだった。
表面には白い糸で、『必勝』と刺繍されている。
「買ったのか?」
「ううん。作ったの」
「一ノ瀬さんが?」
「昨日の夜に」
美咲は少し恥ずかしそうに髪を耳へかけた。
「裁縫はあまり上手じゃないから、近くで見ないでね」
悠真はお守りを手に取った。
刺繍は僅かに歪んでいる。
縫い目も、完璧に揃っているわけではない。
何でも器用にこなすように見える美咲にも、苦手なことがあるらしい。
「わざわざ作ったのか」
「嫌だった?」
美咲の眉尻が僅かに下がる。
「いや。ありがとう」
悠真はお守りを鞄へ入れた。
美咲の表情が、ぱっと明るくなる。
「試験が終わるまで持っていてね」
「ああ」
「でも、無理はしなくていいから」
美咲は柔らかく微笑んだ。
「昨日言ったこと、覚えてる?」
「何点を取っても、隣にいる」
悠真が答える。
美咲は一瞬、目を大きくした。
そのあと、頬を赤くしながら俯く。
「覚えててくれたんだ」
「昨日のことだからな」
「それでも嬉しい」
美咲は胸元で両手を重ねた。
「だから今日は、水瀬くんが取りたい点数を取ってね」
「満点を取れとは言わないのか?」
「言わないよ」
「期待してるんだろ?」
「してる」
美咲は迷わず頷いた。
「でも、私が見たいのは点数じゃないから」
「なら、何だ?」
「水瀬くんが、自分で納得できる答えを書くところ」
悠真は鞄の中に入れたお守りへ、僅かに視線を向けた。
「難しい注文だな」
「そうかな?」
「ああ」
「それじゃあ、一問だけでもいいよ」
美咲は冗談めかして人差し指を立てた。
「一問だけ、水瀬くんが本当に正しいと思う答えを書いて」
悠真の目が僅かに開かれる。
昨夜、自分で決めたことと同じだった。
「どうして一問なんだ?」
「全部頑張れって言ったら、嫌がるでしょう?」
「分かってるな」
「少しずつ分かるようになってきたから」
美咲は嬉しそうに笑った。
「その一問がどれなのか、私は知らなくてもいいの。ただ、水瀬くんが自分で選んでくれたら、それでいい」
「……分かった」
「約束?」
「ああ」
悠真は静かに頷いた。
「一問だけ、約束する」
◇
一時間目は国語。
悠真は文章を読み、問題を順番に解いていった。
記述問題も、漢字も、すべて答えは分かる。
しかし、いつもどおり適度に間違いを残した。
古文の設問を一つ空欄にする。
記述では、必要な要素を一つだけ外す。
漢字も一問間違える。
予想得点は七十点台後半。
国語では、約束の一問を書かなかった。
二時間目は数学。
問題用紙と解答用紙が配られる。
開始の合図が出るまで、悠真は机の横へ掛けた鞄を見た。
その中には、美咲が作ったお守りが入っている。
「始め」
教師の声と同時に、生徒たちが問題用紙をめくる。
悠真も最初のページから目を通した。
全十五問。
前半は基礎問題。
後半へ進むにつれて難易度が上がり、最後の一問は事前の予告どおり、かなり難しく作られていた。
普通に解けば、満点を取れる。
時間も十分にある。
しかし満点を取れば、目立つ。
教師から再び期待される。
周囲の生徒からも、なぜ今まで平均点だったのかと疑われる。
悠真は予定どおり、前半で二問、後半で一問を間違えることにした。
一問目から順番に解答していく。
書くべき途中式。
残すべき計算ミス。
間違い方まで考えながら、答案を作る。
最後の問題へ辿り着く。
図形と二次関数を組み合わせた応用問題だった。
複数の条件があり、求める値へ至るまでに何段階もの計算が必要になる。
教室のあちこちから、困惑したような息遣いが聞こえた。
問題を見ただけで諦め、伏せて眠り始める生徒もいる。
悠真はシャープペンシルを置いた。
この問題を空欄にすれば、目立たずに済む。
前半の間違いと合わせて、平均より少し上の点数になるだろう。
これまでどおりだ。
『一問だけ、水瀬くんが本当に正しいと思う答えを書いて』
朝の美咲の声が蘇る。
悠真は右手を机の下へ下ろし、服の上からポケットの中のお守りへ触れた。
薄い布の感触。
中には何が入っているのか分からない。
けれど、美咲が昨夜、自分のために作ったものだ。
期待されることは怖い。
本当の実力を見せれば、また何かを求められるかもしれない。
それでも美咲は、結果を求めていない。
自分で納得できる答えを、一問だけ書いてほしいと言った。
悠真はシャープペンシルを持ち直した。
解答欄へ、最初の式を書く。
その瞬間、周囲の音が遠くなった。
問題の条件を整理する。
必要な値を求め、図形の関係を式へ置き換える。
解法は初めから見えていた。
あとは、それを答案へ正確に書くだけ。
五分もかからず、最後の答えへ辿り着いた。
見直す。
途中式にも、答えにも間違いはない。
その一問だけは、わざと作ったミスが一つもない。
悠真は答案から手を離した。
胸の奥に、僅かな恐怖が残っている。
同時に、それ以上の解放感があった。
分かっている答えを、正しいまま書く。
当たり前のことをしただけなのに、ひどく久しぶりな気がした。
「時間だ。ペンを置け」
教師の声が響く。
答案が回収される。
斜め前に座る美咲が、一瞬だけ悠真を振り返った。
何も聞かなかった。
ただ、穏やかに微笑んでいた。
◇
三時間目の英語も、悠真は平均点を少し上回る程度に調整した。
長文問題では正しい選択肢が分かっていたが、二問だけ別の答えを選ぶ。
英作文も、あえて簡単な文法だけを使った。
試験初日の全科目が終わる。
教室内では、生徒たちが一斉に答え合わせを始めていた。
「数学の最後、何だよあれ!」
孝太郎が頭を抱える。
「問題文の意味すら分からなかったぞ」
「難しかったな」
悠真は普通の調子で答えた。
「お前、解けた?」
「一応、最後まで書いた」
「本当か?」
孝太郎が勢いよく顔を上げた。
「昨日の追加問題もすぐ解き方を見つけてたよな。実は数学得意なんじゃないか?」
「答えが合ってるとは限らない」
「途中式、見せてくれ」
「問題用紙は回収された」
「そっか……」
孝太郎は残念そうに肩を落とした。
数学は問題用紙も含めて回収されている。悠真が何を書いたのか、教師以外には分からない。
美咲にも分からないはずだった。
「水瀬くん」
声がして振り返る。
美咲が机の横に立っていた。
表情はいつもと変わらない。
「少しだけ、話してもいい?」
「ああ」
「ここではなくて、廊下で」
美咲は先に教室を出た。
悠真もそのあとを追う。
◇
廊下の端まで歩き、美咲が足を止める。
窓の外には、昼の明るい空が広がっていた。
「試験、お疲れさま」
美咲は振り返り、柔らかく微笑んだ。
「一ノ瀬さんも」
「朝の約束、覚えてた?」
「ああ」
「一問だけ、本当の答えを書いてくれた?」
美咲は悠真の目を真っすぐに見つめている。
「書いた」
悠真は迷わず答えた。
美咲の目が大きくなる。
「本当に?」
「ああ」
「どの科目?」
「数学」
「どの問題?」
「それは教えない」
「最後の問題?」
「教えないと言っただろ」
美咲は少しだけ頬を膨らませた。
けれど、すぐに嬉しそうな笑顔へ戻る。
「ありがとう」
「なぜ一ノ瀬さんが礼を言う?」
「私との約束を守ってくれたから」
「一問、普通に解いただけだ」
「水瀬くんにとっては、普通のことじゃなかったでしょう?」
美咲の言葉に、悠真は黙った。
彼女は悠真が何を隠しているのか、まだ知らない。
それでも、たった一問を正しく書くことに、どれほど勇気が必要だったのかを理解しようとしている。
「怖かった?」
美咲が静かに尋ねる。
「少し」
悠真は正直に答えた。
「でも、書けた」
「うん」
「一ノ瀬さんのお守りがあったからかもしれない」
美咲の頬が、一気に赤くなった。
「お守り、使ってくれたの?」
「ポケットに入ってる」
「試験中に見た?」
「それじゃあカンニングを疑われるだろ。服の上から触った」
美咲は胸元で両手を握った。
嬉しさを抑えきれないように、口元が緩んでいる。
「作ってよかった」
「縫い目は少し曲がってたけどな」
「近くで見ないでって言ったのに」
美咲は恥ずかしそうに顔を覆った。
「そこまで見たの?」
「ああ」
「忘れて」
「無理だな」
「水瀬くんの意地悪」
美咲は唇を尖らせた。
それでも、嬉しそうな表情は隠せていなかった。
「でも、よかった」
美咲は顔から手を離した。
「水瀬くんが自分で選んだ答えを書けて」
「期待に応えられたか?」
「うん」
「点数は分からないぞ」
「関係ないよ」
美咲は悠真の手へ、そっと触れた。
昨日、爪の跡が残っていた右手。
今日は強く握られていないことを確認するように、指先を重ねる。
「水瀬くんが一問書いてくれた。それだけで、私は嬉しい」
美咲の手は温かかった。
悠真はその手を振り払わなかった。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「明日も一問でいいか?」
美咲は目を丸くした。
それから、ゆっくり頷く。
「もちろん」
「全部解けとは言わないんだな」
「言ってほしい?」
「言われてもやらない」
「じゃあ、一問でいいよ」
美咲は楽しそうに笑った。
「明日の一問も、楽しみにしてるね」
「あまり期待するな」
「少しだけにする」
「少しならいい」
その言葉に、美咲の表情がさらに明るくなる。
「約束だよ」
「ああ」
二人は指切りをしたわけではない。
けれど美咲の指先は、しばらく悠真の手へ重なったままだった。
◇
帰り道。
美咲は何度も嬉しそうに悠真を見ていた。
「何だ?」
「今日は水瀬くんが、少し変わった日だなと思って」
「一問解いただけだ」
「それでも、昨日までとは違うよ」
「何も変わってない」
「変わってる」
美咲は一歩前へ出て、悠真を振り返った。
「自分から怖かったって言ってくれた」
「それが?」
「今までは何でもないって、すぐに隠してたでしょう?」
悠真は答えなかった。
確かに、以前なら不安を認めなかった。
表情も、声も、すべて作り、平静を装っていたはずだ。
「私に話してくれて、嬉しかった」
美咲は柔らかく微笑んだ。
「水瀬くんのことを、また一つ知れたから」
「俺は一ノ瀬さんのことを、あまり知らないけどな」
「知りたい?」
「公平ではないと思っただけだ」
「それなら、何でも聞いて」
美咲は胸の前で手を合わせ、期待するように悠真を見た。
「何でも?」
「答えられることなら」
「好きな人は?」
悠真が何気なく尋ねた瞬間、美咲の足が止まった。
顔が一気に赤くなる。
「ど、どうして、いきなりそれを聞くの?」
「何でもいいと言っただろ」
「言ったけど……」
美咲は胸元で指を組み、落ち着かない様子で視線を泳がせた。
「初恋の相手なら、天宮レイだと聞いた。今はどうなんだ?」
「今は……」
美咲の視線が、一瞬だけ悠真へ向く。
すぐに逸らされた。
「まだ、分からない」
「好きな人がいるかどうかも?」
「気になる人はいるよ」
小さな声だった。
「でも、その人のことを好きなのかは、まだ分からないの」
「どうすれば分かる?」
「私が聞きたいよ」
美咲は困ったように笑った。
「会いたいと思ったり、一緒にご飯を食べたいと思ったり、その人が他の女の子と話していると少し気になったり」
「それは好きなんじゃないのか?」
悠真が言うと、美咲はさらに顔を赤くした。
「そんなに簡単に言わないで」
「俺には分からない」
「初恋したことがないって言ってたもんね」
「ああ」
美咲は何かを確かめるように、悠真の顔を見た。
「じゃあ、水瀬くんも誰かに会いたいと思ったり、一緒にご飯を食べたいと思ったりしたら、その人を好きなのかもしれないね」
「そういうものか?」
「たぶん」
美咲は少しだけ歩調を速め、悠真の半歩前を歩く。
赤くなった顔を見られたくないのだろう。
悠真はその背中を見つめた。
朝、起きたとき。
美咲からのメッセージが来ているか、確認するようになった。
学校では、美咲が誰と話しているのか、以前より目に入る。
夕食を一緒に食べることを、いつの間にか楽しみにしている。
それが恋なのか、悠真にはまだ分からない。
「水瀬くん」
美咲が前を向いたまま呼びかける。
「何だ?」
「明日も、朝ご飯を一緒に食べる?」
「ああ」
悠真は迷わず答えた。
美咲が振り返る。
頬を赤くしたまま、嬉しそうに笑っていた。
「待ってるね」
その笑顔を見て、悠真の胸が少しだけ速く鳴った。
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