第13話 期待しないで
定期試験前日。
教室の空気は、朝から普段より落ち着かなかった。
自分の席で問題集を開いている生徒。
友人同士で英単語を出し合っている生徒。
今さら勉強しても間に合わないと諦め、机へ突っ伏している生徒。
反応はそれぞれだったが、試験を意識していない者はほとんどいない。
悠真は自分の席へ座り、窓の外を眺めていた。
机の上には教科書も問題集も出していない。
「水瀬」
前の席から、孝太郎が振り返った。
目の下には薄い隈ができている。
「眠そうだな」
「昨日、夜中まで勉強してたんだよ」
「何時まで?」
「二時」
「今日は試験じゃないぞ」
「分かってる。でも、数学が全然終わらなくて」
孝太郎は欠伸をしながら、手に持っていた単語帳を机へ置いた。
「お前は本当に勉強しないんだな」
「ああ」
「昨日、一ノ瀬から教えてもらったんじゃないの?」
「料理なら教えてもらった」
「料理?」
孝太郎の目が僅かに大きくなる。
「一ノ瀬と一緒に料理したのか?」
「ハンバーグを作った」
「お前が?」
「ああ」
「一ノ瀬の部屋で?」
「俺の部屋で」
孝太郎は口を開けたまま固まった。
近くで英単語を確認していた男子生徒も、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
「ちょっと待て」
孝太郎は声を潜め、机へ身を乗り出した。
「お前、一ノ瀬と毎日一緒に飯食ってるの?」
「結果的には」
「結果的に毎日、女子と夕食を食べることなんてあるか?」
「隣に住んでるからな」
「隣人なら普通なのか?」
「知らない」
悠真は興味なさそうに答えた。
孝太郎は信じられないものを見るような目を向けている。
「それで何もないの?」
「何が?」
「だから、その……付き合ったりとか」
「してない」
悠真は即答した。
その言葉を口にした瞬間、なぜか胸の奥が僅かにざわついた。
事実を答えただけだ。
美咲とは付き合っていない。
同じクラスで、偶然隣に住んでいたため、一緒に食事をするようになっただけ。
それ以上ではない。
「本当か?」
「ああ」
「一ノ瀬は、そう思ってるのか?」
「本人に聞け」
「聞けるわけないだろ」
孝太郎は困ったように眉を寄せた。
「でも、どう見ても一ノ瀬はお前のこと――」
「おはよう」
背後から声が聞こえた。
振り返ると、美咲が立っていた。
普段と同じ柔らかな笑顔を浮かべている。しかし、その頬は少し赤かった。
「おはよう、一ノ瀬」
孝太郎は慌てて姿勢を正した。
「いつからいた?」
「水瀬くんと一緒に料理した、というところから」
「ほとんど聞いてるじゃないか」
「うん」
美咲は恥ずかしそうに髪を耳へかけた。
悠真の顔を一瞬見て、すぐに視線を落とす。
「それで、佐伯くんは何を聞こうとしてたの?」
「いや、何でもない」
「私が水瀬くんを、どう思ってるか聞きたかったんでしょう?」
孝太郎の肩が大きく跳ねた。
「分かってたのか」
「途中から聞こえてたから」
美咲は胸の前で鞄の持ち手を握った。
その指先には、少し力が入っている。
悠真は黙って彼女の答えを待った。
「水瀬くんは、私にとって――」
美咲は言葉を止めた。
頬の赤みが濃くなる。
唇を何度か動かしたものの、その先を口にできずにいる。
「隣人だろ」
悠真が代わりに答えた。
美咲の瞳が僅かに揺れた。
「……うん」
小さな返事だった。
「隣に住んでる、大切なクラスメイト」
美咲は何とか笑顔を作った。
けれど、先ほどまでの表情より少し寂しそうに見える。
「そういうことだから、変な噂を流さないでね」
「分かった」
孝太郎は頷いたものの、納得してはいない顔だった。
美咲は自分の席へ向かう。
その背中を見ながら、悠真の胸に小さな違和感が残った。
隣人。
自分から口にした言葉だ。
それなのに、美咲との間に一本の線を引いたようで、少しだけ気分が悪かった。
◇
一時間目の数学が終わる直前。
教師は前日に行った小テストを返却し始めた。
「平均点は六十二点だ。試験前日だから細かい説明はしないが、間違えた問題は今日中に確認しておけ」
答案が順番に返される。
悠真の得点は、予定どおり七十点だった。
空欄にした応用問題が二つ。
意図的に間違えた問題が一つ。
平均より少し上。
目立たない点数としては十分だった。
「水瀬」
教師が教卓から呼んだ。
「あとで少し話がある。昼休みに数学準備室へ来てくれ」
教室内の視線が、悠真へ集まる。
「分かりました」
悠真は表情を変えずに答えた。
斜め前の席にいる美咲が、不安そうにこちらを見ていた。
◇
昼休み。
数学準備室へ入ると、担当教師が机の上へ悠真の答案を置いた。
「呼び出して悪かったな」
「何かありましたか?」
「昨日の小テストについてだ」
教師は答案の最後の問題を指さした。
「この解き方、途中までは合っている」
「そうなんですか」
「自分で分からないのか?」
「途中で解けなくなったので」
悠真は、少し困ったような表情を作った。
自分の実力へ自信がない生徒。
難しい問題へ挑戦したが、途中で考え方を間違えた。
そう見えるよう、眉尻を僅かに下げ、声の調子も弱くする。
教師は答案と悠真の顔を交互に見た。
「昨日だけなら、俺もそう思った」
「昨日だけ?」
「一昨日の演習問題も見せてもらった。最後の問題は、答えの直前まで正しかったそうだな」
「偶然です」
「二日続けてか?」
教師の視線が鋭くなる。
悠真は何も答えなかった。
「お前、入学直後の実力試験では学年のほぼ中央だったな」
「はい」
「中学の内申も、悪くはないが突出してはいない」
「そうですね」
「だが、昨日の勉強会で問題を教えてもらった生徒が、お前の説明は分かりやすかったと言っていた」
教師は腕を組み、僅かに首を傾げる。
「本当は、もっとできるんじゃないか?」
「買いかぶりです」
「なら、この問題を解いてみろ」
教師が新しい紙を差し出した。
そこには、教科書の範囲を越えた問題が一つ書かれている。
難関大学の入試で出てもおかしくない難易度だった。
「高校一年生に解かせる問題ではないと思います」
悠真は紙を見ただけで言った。
「解けないか?」
「無理です」
「まだ問題文を読んだだけだろ」
「見たことのない公式が必要そうなので」
実際には、すでに解法が見えている。
複数の条件を整理し、式を変形すれば答えへ辿り着ける。
ただし、それを解けば、もう普通の生徒ではいられない。
「少し考えてみろ」
「試験前なので、教科書の範囲を勉強したいです」
「勉強していないと聞いたが?」
教師は小さく笑った。
「佐伯が言っていたぞ。水瀬は家でも全然勉強していないらしい、と」
「佐伯の勘違いです」
「そういうことにしておこう」
教師は紙を回収した。
悠真の答案を、指先で軽く叩く。
「試験で何点取るつもりだ?」
「取れる点を取ります」
「満点を狙うつもりは?」
「ありません」
「どうしてだ?」
「無理だからです」
教師は少し考え込んだ。
やがて、悠真の目を真っすぐに見る。
「俺は、お前に期待している」
その言葉を聞いた瞬間。
悠真の呼吸が止まった。
視界の端が、僅かに暗くなる。
――期待しているよ、レイくん。
白い照明。
何台ものカメラ。
台本を持つ大人たち。
笑顔を浮かべながら、自分へ同じ言葉をかける監督。
――君ならできる。
――天才なんだから。
――失敗するわけがないよね。
頭の奥に、昔の声が蘇る。
「水瀬?」
教師の声に、悠真は現実へ引き戻された。
右手が強く握られている。
爪が掌へ食い込んでいた。
「……期待しないでください」
自分でも驚くほど低い声が出た。
教師の表情が変わる。
「何?」
「俺は、先生が思っているような生徒じゃありません」
「水瀬、俺は――」
「失礼します」
悠真は教師の言葉を遮り、数学準備室を出た。
◇
廊下へ出た直後、美咲と目が合った。
「水瀬くん」
彼女は準備室から少し離れた場所に立っていた。
両手には悠真と自分の弁当箱を持っている。
「どうしてここに?」
「お昼、一緒に食べようと思って」
「先に食べていればよかっただろ」
「待っていたかったから」
美咲は悠真の顔を見て、表情を曇らせた。
「何かあった?」
「何もない」
「でも、顔色が悪いよ」
「気のせいだ」
「手も……」
美咲の視線が、悠真の右手へ落ちる。
悠真はまだ、拳を強く握っていた。
「見せて」
「大丈夫だ」
「お願い」
美咲は弁当箱を窓際へ置き、悠真の手へ触れた。
固く握られた指を、一本ずつゆっくりと開いていく。
掌には、爪の跡が赤く残っていた。
「どうしたの、これ」
「少し力を入れただけだ」
「どうして?」
「何でもない」
美咲は悠真の掌を両手で包んだ。
いつもなら、距離の近さへ気づいて顔を赤くする。
今はそれよりも、悠真への心配が勝っているらしい。
「先生に、何か言われた?」
「小テストのことを聞かれただけだ」
「それだけで、こんなふうになるの?」
「……期待していると言われた」
悠真は小さな声で答えた。
美咲の瞳が僅かに揺れる。
その一言だけで、彼女は何かを察したようだった。
「嫌だった?」
「ああ」
「期待されることが?」
「嫌いだ」
悠真は視線を窓の外へ向けた。
「期待されれば、応えなければならなくなる」
「応えなくてもいいんじゃない?」
「そう思わない人間もいる」
「先生が?」
「違う」
即答する。
数学教師は、単純に悠真の実力を評価しようとしただけだろう。
悪意などなかった。
それでも、あの言葉を聞いた瞬間、過去の記憶が蘇った。
「昔、誰かに言われたの?」
美咲は静かに尋ねた。
悠真は答えなかった。
美咲も、それ以上追及しない。
「ごめんなさい」
彼女は悠真の手を包んだまま、僅かに俯いた。
「どうして一ノ瀬さんが謝る?」
「私も昨日、本気の水瀬くんが見たいって言ったから」
「それとは関係ない」
「でも、それも期待でしょう?」
「……そうかもしれない」
美咲の指先が僅かに震えた。
「嫌だった?」
不安そうな声だった。
悠真は美咲の横顔を見る。
彼女は唇を引き結び、返事を待っている。
「一ノ瀬さんに言われたのは、嫌じゃなかった」
悠真が答える。
美咲の顔が上がる。
「本当?」
「ああ」
「どうして?」
「分からない」
悠真は正直に言った。
教師に期待されることは、恐ろしいと感じた。
けれど美咲に「本気を見たい」と言われたとき、同じ恐怖は生まれなかった。
戸惑いはした。
面倒だとも思った。
しかし、嫌ではなかった。
「一ノ瀬さんは、結果だけを見てるわけじゃないからかもしれない」
「結果だけ?」
「点数が高くても低くても、自分を責めるなと言っただろ」
「うん」
「今まで、そんなふうに言われたことはなかった」
期待する者は、結果を求める。
頑張ったかどうかではない。
何を感じたかでもない。
求められた演技ができたか。
視聴率が取れたか。
次の仕事につながったか。
すべて、結果で判断された。
「私は、点数が知りたいわけじゃないよ」
美咲は悠真の掌を包む手に、僅かに力を込めた。
「水瀬くんが満点を取っても、平均点でも、赤点でも、それで嫌いになったりしない」
「赤点は困るだろ」
「そのときは、一緒に勉強する」
「結局、勉強はさせるのか」
悠真が僅かに口元を緩める。
美咲はその変化に気づき、安心したように笑った。
「少し元気になったね」
「最初から元気だ」
「また強がってる」
美咲は悠真の手を離さず、顔を覗き込んだ。
「水瀬くん」
「何だ?」
「私は、もう期待しないようにするね」
「一ノ瀬さん」
「本気を見せて、なんて言わない」
美咲は少し寂しそうに微笑んだ。
「水瀬くんが、自分で見せたいと思うまでは待つから」
その言葉を聞き、悠真の胸に別の痛みが生まれた。
期待されるのは嫌だ。
そのはずなのに、美咲が期待を手放すことを寂しいと思ってしまった。
「期待してもいい」
気づけば、口にしていた。
美咲の目が大きくなる。
「いいの?」
「応えられるとは限らない」
「うん」
「一ノ瀬さんが望む点数を取るとも約束しない」
「それでいいよ」
「それでも?」
「うん」
美咲は迷わず頷いた。
「私は、水瀬くんが何点を取っても、隣にいるから」
悠真は言葉を失った。
点数と、隣室に住んでいることは関係ない。
分かっている。
けれど美咲が言った「隣」は、部屋の位置だけを意味していない気がした。
「そろそろ、手を離してくれないか?」
悠真が言う。
美咲は自分がまだ悠真の手を両手で包んでいることに気づいた。
頬が急に赤くなる。
「ご、ごめん」
慌てて離れようとした美咲の手を、今度は悠真が僅かに握った。
美咲の身体が止まる。
「水瀬くん?」
「もう少しだけ」
自分でも、なぜそう言ったのか分からない。
美咲の手は温かかった。
過去の記憶で冷たくなった指先が、少しずつ元へ戻っていく。
「……うん」
美咲は頬を赤くしたまま、もう一度悠真の手を包んだ。
「落ち着くまで、こうしてるね」
廊下を通り過ぎる生徒たちが、二人を不思議そうに見ている。
けれど悠真は、今だけはその視線を気にしなかった。
◇
放課後。
「水瀬くん、今日は何を食べたい?」
教室を出ながら、美咲が尋ねた。
「今日は一ノ瀬さんが食べたいものでいい」
「また何でもいいって言うつもり?」
「違う」
悠真は僅かに考えた。
「昼の弁当に入っていた、ニンジンのきんぴら」
「夕食で?」
「あれが美味かった」
美咲は驚いたように瞬きをした。
そのあと、嬉しそうに頬を緩める。
「分かった。副菜に作るね」
「他は?」
「試験前だから、消化にいいものにしようかな」
「明日食べられないわけじゃないぞ」
「体調を崩したら大変でしょう?」
美咲は心配そうに悠真の顔を見る。
「今日は早く寝てね」
「分かった」
「夜更かしは駄目だよ」
「ああ」
「朝ご飯も食べてね」
「食べる」
「何だか、今日は素直だね」
美咲は少し不思議そうに首を傾げた。
「嫌か?」
「ううん。嬉しいよ」
美咲は柔らかく微笑んだ。
「それじゃあ、今日は鮭のホイル焼きにしよう」
「作るのを手伝う」
「本当に?」
「ああ」
「試験前だよ?」
「勉強はしない」
「そこは変わらないんだね」
美咲は困ったように笑った。
「でも、一緒に作ろうか」
二人は並んで帰路についた。
◇
その日の夜。
食事と片づけを終え、美咲が隣室へ戻ったあと。
悠真は机の上に、明日の試験範囲表を置いた。
一日目の科目は、国語、数学、英語。
いつもどおりなら、それぞれ平均点付近になるよう調整する。
満点を取る必要はない。
実力を見せる必要もない。
『私は、水瀬くんが何点を取っても、隣にいるから』
昼に聞いた美咲の声が蘇る。
「何点でも、か」
悠真は数学の教科書を開いた。
勉強をするためではない。
試験範囲を確認し、どの問題を間違えるべきか考えるためだった。
けれど、ページをめくる指が途中で止まる。
わざと間違えること。
分かっている問題を空欄にすること。
それは今まで、何でもない行為だった。
自分を守るために必要なことだと思っていた。
しかし、美咲が本気の自分を見たいと言った。
結果を出せとは言わなかった。
期待に応えろとも言わなかった。
ただ、見てみたいと笑った。
「……一問くらいなら」
悠真は小さく呟いた。
すべてを見せるつもりはない。
満点を取るつもりもない。
けれど明日の試験で一問だけ、本来なら間違えるはずだった難しい問題へ、正しい答えを書いてもいいかもしれない。
それが美咲の期待へ応えることになるのかは、分からなかった。
それでも悠真にとっては、平凡を演じ始めてから初めて、自分の意思で本当の実力を見せる選択だった。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
★評価やブックマークで応援していただけると更新の励みになります!




