第12話 初めて作るハンバーグ
「まずは手を洗ってね」
キッチンに立った美咲は、先生のような口調で言った。
淡い黄色のエプロンを身につけ、長い黒髪を後ろで一つにまとめている。買い物袋から食材を取り出す動作にも無駄がない。
対する悠真は、普段着のままだった。
「エプロンは?」
美咲が悠真の服を見る。
「持ってない」
「一人暮らしなのに?」
「料理をしないから必要ない」
「それもそうだね」
美咲は納得しかけたあと、困ったように眉を下げた。
「でも、今日はハンバーグを作るから、服が汚れるかもしれないよ」
「洗えばいい」
「水瀬くん、洗濯はできるの?」
悠真は答えなかった。
洗濯機の操作はできる。
衣類と洗剤を入れて、ボタンを押すだけだ。
ただし、服を色や素材で分けたことはなく、洗濯表示を確認したこともない。
「……できる」
僅かな間を置いて答える。
美咲は目を細めた。
「今の間は何?」
「何もない」
「本当に洗える?」
「洗濯機が洗う」
「色物と白い服は分けてる?」
「一緒に入れてる」
「ネットは?」
「ネット?」
美咲の表情が固まった。
そのまま数秒、悠真の顔を見つめる。
「水瀬くん」
「何だ?」
「今度、洗濯の仕方も教えるね」
「必要ない」
「必要です」
美咲はきっぱりと言い切った。
「今まで服の色が変わったことはない?」
「白いシャツが少し青くなったことはある」
「それ、色移りしてるよ」
「着られるから問題ない」
「問題があるかどうかは、今度クローゼットを見て決めます」
「勝手に決めるな」
悠真が抗議しても、美咲はすでに洗濯を教えるつもりらしい。
スマートフォンを取り出し、何かを入力し始める。
「何をしてる?」
「忘れないように予定へ入れてるの」
「消せ」
「日曜日の午前中でいい?」
「よくない」
「午後のほうがいい?」
「時間の問題じゃない」
美咲は楽しそうに口元を緩め、スマートフォンをポケットへ戻した。
「それより、手を洗おうか」
「話を逸らしたな」
「ハンバーグが遅くなっちゃうから」
悠真は小さく息を吐き、言われたとおり手を洗った。
◇
美咲が用意した材料は、合い挽き肉、タマネギ、卵、パン粉、牛乳。
付け合わせには、ジャガイモとニンジンを使うらしい。
「最初にタマネギをみじん切りにするよ」
美咲がタマネギをまな板へ置く。
「俺が切るのか?」
「切ってみる?」
「昨日は包丁を持たせるのが怖いと言ってただろ」
「今日は私が隣で見てるから」
美咲は包丁を手に取り、悠真へ差し出した。
けれど、悠真が受け取ろうとすると、美咲の指が離れない。
「一ノ瀬さん?」
「本当に大丈夫かなって……」
「信用してないなら、自分で切ればいい」
「待って。やっぱり水瀬くんにお願いします」
美咲は覚悟を決めたように包丁を離した。
「まず、タマネギを半分に切るの」
「そのくらいは分かる」
「左手は猫の手にしてね」
「猫?」
「指を曲げるの。伸ばしたままだと、切るかもしれないから」
美咲は自分の左手を丸め、見本を見せる。
「こうだよ」
「分かった」
悠真はタマネギへ包丁を入れた。
思ったより硬い。
僅かに力を込めると、包丁が一気に下へ落ちた。
「危ない!」
美咲が思わず声を上げる。
悠真の指は離れた位置にあり、怪我はしていない。
「大丈夫だ」
「もっとゆっくり切って」
「切れたから問題ない」
「見てる私の心臓に問題があるよ」
美咲は胸へ手を当て、深く息を吐いた。
「やっぱり、みじん切りは私がやろうかな」
「やると言ったんだから、最後までやる」
「急にやる気を出したね」
「途中で代わられるのは気分が悪い」
悠真はタマネギへ向き直った。
美咲から切り方を教わり、ゆっくり包丁を動かす。
最初は大きさが揃わなかった。
細かな欠片の隣に、大きな塊が残っている。
「これは、みじん切りと呼べるのか?」
悠真がまな板を見つめる。
「少し大きいものもあるけど、最初なら上手だよ」
「本当に?」
「うん」
美咲は柔らかく微笑んだ。
「ちゃんと猫の手もできてたし、怪我もしなかったから」
「評価が低すぎるだろ」
「最初から完璧じゃなくていいの」
美咲は大きく残ったタマネギを指先で集める。
「できなかったところは、次にできるようになればいいから」
「次も俺が切るのか?」
「嫌?」
「……考えておく」
美咲の口元が、嬉しそうに緩んだ。
「楽しみにしてるね」
◇
切ったタマネギを炒め、冷ましている間に、ひき肉と他の材料を用意する。
大きなボウルへ肉を入れ、美咲が調味料を加えていった。
「次は、これを手で混ぜるの」
「手で?」
「うん。粘りが出るまで、しっかりこねてね」
悠真はボウルの中へ手を入れた。
冷たい肉が指へまとわりつく。
「……感触がよくないな」
「最初は少し驚くよね」
「一ノ瀬さんがやってくれ」
「今日は水瀬くんが作るんでしょう?」
「手伝うとは言った」
「もうタマネギを切ったんだから、最後まで頑張ろう?」
美咲は悠真の隣に立ち、ボウルの中を覗き込む。
「指先だけじゃなくて、手全体で混ぜるの」
「こうか?」
「もう少し強く」
「こう?」
「うん。上手」
美咲の声が近い。
二人の肩は、僅かに触れ合っていた。
悠真が混ぜるたび、美咲は嬉しそうに頷く。
「子供に教えてる気分になってないか?」
「少しだけ」
「やめるぞ」
「嘘。嘘だから」
美咲は慌てて悠真の袖をつかんだ。
「ちゃんと高校生の男の子に教えてるつもりです」
「なら、その笑いを止めろ」
「だって、水瀬くんが真剣な顔でお肉をこねてるから」
美咲は笑いを堪えようと唇を結んでいるが、目元は楽しそうに緩んでいる。
「もういいだろ」
悠真が手を止める。
「まだ少し足りないかな」
「これ以上やるのか?」
「うん。色が白っぽくなるまで」
美咲はボウルの上へ手を伸ばした。
「一緒にやるね」
「一ノ瀬さんも?」
「そのほうが早いでしょう?」
美咲が反対側から手を入れる。
ボウルの中で、二人の指先が触れた。
「あっ」
美咲が小さく声を上げる。
反射的に手を引こうとしたものの、ひき肉が指へ絡み、上手く動かせなかった。
悠真の指と、美咲の指が重なる。
二人とも動きを止めた。
「……手、当たってるな」
悠真が言う。
「う、うん」
美咲の頬が少しずつ赤くなっていく。
「狭いね」
「ボウルが小さいからな」
「そうだよね。ボウルが小さいだけだよね」
美咲は自分へ言い聞かせるように何度も頷いた。
手を動かそうとするたび、また指先が触れる。
美咲の肩が、そのたびに僅かに跳ねた。
「気になるなら、俺がやる」
「だ、大丈夫」
「顔が赤いぞ」
「お肉が冷たいから」
「冷たいと顔が赤くなるのか?」
「今日は、なるの」
意味の分からない理屈だった。
美咲は悠真と目を合わせようとせず、真剣な顔でひき肉を混ぜ続ける。
しかし耳まで赤くなっているため、まったく平静には見えない。
悠真も指が触れるたび、胸の奥が落ち着かなくなるのを感じていた。
撮影では、共演者と手をつなぐ場面も、抱き合う場面もあった。
それが恥ずかしいと思ったことはない。
決められた演技だったからだ。
けれど今は、台本もカメラもない。
美咲の指が触れるという、それだけのことを意識してしまう。
「もう、いいんじゃないか?」
悠真が尋ねる。
「そ、そうだね」
美咲は逃げるように手を引いた。
「手を洗ってくる」
「ああ」
美咲は足早にシンクへ向かった。
水を出し、指についた肉を洗い流す。悠真へ背を向けたまま、何度も深呼吸しているように見えた。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「洗いすぎじゃないか?」
「ちゃんと洗わないと衛生的によくないから」
美咲は振り返らずに答えた。
声が少し上ずっていた。
◇
ひき肉を二つに分け、形を整える。
美咲は両手の間で肉を投げるように動かした。
「中の空気を抜くの」
「なぜ?」
「空気が残ってると、焼いてる途中で割れやすくなるから」
「料理は知らないことが多いな」
「少しずつ覚えればいいよ」
悠真も見よう見まねで、肉を左右の手へ移動させる。
最初の一回は力が強すぎた。
肉が掌から飛び出しそうになり、美咲が慌てて受け止める。
「危ない!」
「落ちなかったから問題ない」
「床に落としたら、今日の夕食が一つ減るところだったよ」
「拾って焼けばいい」
「駄目だよ」
美咲は真剣な表情で首を横へ振った。
「もう少し優しくね。相手へ渡すみたいに」
「相手?」
「私の手に渡すつもりでやってみて」
美咲が両手を広げる。
悠真は成形途中の肉を、彼女の掌へ向けて投げた。
今度は力を抑える。
肉は綺麗に美咲の手へ収まった。
「うん。上手」
美咲は受け取った肉を、悠真へ投げ返す。
二人で何度か繰り返した。
「何だか、キャッチボールみたいだね」
「肉で遊ぶな」
「遊んでるんじゃなくて、空気を抜いてるの」
美咲は楽しそうに笑った。
「でも、こういうのも楽しいね」
「一人で作ったほうが早いだろ」
「早ければいいわけじゃないよ」
美咲は自分のハンバーグを丸く整えながら、穏やかに言った。
「一緒に作った時間も、料理の一部だと思うから」
「食べたら同じじゃないか?」
「違うよ」
「何が?」
「今日のハンバーグを食べたら、私は水瀬くんと初めて一緒に作ったことを思い出すもの」
美咲は少し照れくさそうに目元を緩めた。
「そういう思い出が増えるの、私は嬉しいよ」
悠真は手元のハンバーグへ視線を落とした。
形は少し歪んでいる。
美咲が作ったもののように、綺麗な楕円形ではない。
自分一人なら、わざわざハンバーグなど作らない。
仮に作ったとしても、失敗した料理として忘れていただろう。
けれど今日のことは、確かに覚えている気がした。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「これは、俺が作ったことになるのか?」
「もちろん」
「ほとんど教えてもらったけど」
「タマネギを切って、お肉もこねて、形も作ったでしょう?」
「焼くのは一ノ瀬さんだろ」
「一緒に焼こうよ」
美咲は嬉しそうに微笑んだ。
「だから、二人で作ったハンバーグだね」
◇
二つのハンバーグをフライパンへ並べる。
肉の焼ける音とともに、香ばしい匂いが広がった。
「火は、このくらいか?」
悠真がコンロのつまみを調整する。
「うん。最初は中火で表面を焼くの」
「昨日の唐揚げよりは簡単そうだな」
「油が跳ねにくいからね」
美咲はそう言ってから、悠真の右手へ視線を向けた。
「本当に、もう痛くない?」
「痛くない」
「見せて」
「朝も見せただろ」
「念のため」
美咲は悠真の手を取り、手の甲を確認する。
赤みは完全に消えていた。
「よかった」
美咲は安心したように微笑む。
それでもすぐには手を離さない。
指先で、火傷した場所をそっと撫でる。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「確認は終わっただろ」
「あ……うん」
美咲は慌てて手を離した。
少し名残惜しそうに、自分の指先へ視線を落とす。
「火傷の痕が残ったら、どうしようって思ってたから」
「この程度で残らない」
「でも、心配だったの」
「心配しすぎだ」
「水瀬くんのことだから」
美咲は小さく答えた。
「俺だから?」
「うん」
「他の人なら心配しないのか?」
何気なく尋ねる。
美咲の動きが止まった。
「他の人でも、心配はするよ」
「なら、俺だからではないだろ」
「そうなんだけど……」
美咲は困ったように眉尻を下げる。
胸元で指先を組み、言葉を探していた。
「水瀬くんの場合は、少し違うの」
「何が違う?」
「分からない」
「またそれか」
「仕方ないでしょう?」
美咲は僅かに頬を膨らませた。
「自分でも、まだ分からないんだから」
その頬は、少しずつ赤くなっていた。
悠真がさらに尋ねようとしたとき、美咲のスマートフォンが鳴った。
「あ、お母さんだ」
美咲は画面を確認する。
「出ないのか?」
「出るよ」
彼女はスマートフォンを耳へ当てた。
「もしもし、お母さん?」
声の調子が、普段より少し柔らかくなる。
『美咲? 今、大丈夫?』
静かな室内のため、通話相手の声が僅かに聞こえた。
「うん。今、夕食を作ってるところ」
『今日もちゃんと自炊してるのね。何を作ってるの?』
「ハンバーグ」
『一人で?』
美咲の視線が、悠真へ向けられた。
目が合った瞬間、彼女は頬を赤くして顔を逸らす。
「一人じゃなくて、その……」
『お友達と一緒?』
「うん」
『女の子?』
美咲の表情が固まった。
悠真は何も言わず、フライパンのハンバーグを見ていた。
美咲はスマートフォンを両手で持ち直し、小さな声で答える。
「男の子」
数秒、通話の向こうが静かになった。
『男の子?』
先ほどより、母親の声がはっきり聞こえた。
「同じクラスの人で、隣の部屋に住んでるの」
『美咲、詳しく聞かせて』
「今はハンバーグを焼いてるから、あとでね」
『その男の子は、今そこにいるの?』
「いるよ」
美咲の顔がますます赤くなる。
『少し代わってもらえる?』
「どうして?」
『ご挨拶したいから』
「必要ないよ!」
美咲が思わず声を上げる。
フライパンの前にいた悠真が振り返った。
「焦げるぞ」
「あっ」
美咲は慌ててハンバーグを裏返した。
少し濃い焼き色がついているが、焦げてはいない。
『今の声、その男の子?』
「お母さん、本当にあとでかけ直すから」
『美咲、変なことは――』
「何もしないよ!」
美咲は通話を切った。
スマートフォンを胸元へ抱え、深く息を吐く。
「大丈夫か?」
「うん。ごめんね、うるさくして」
「俺に代わる話は?」
「忘れて」
美咲は両手で顔を覆った。
「どうして、お母さんってああなるんだろう……」
「娘が男子の部屋にいると聞けば、心配するんじゃないか?」
「水瀬くんは、変なことをする人じゃないよ」
「出会って一週間も経ってないのに、言い切れるのか?」
美咲は顔から手を離した。
真っすぐに悠真を見る。
「言い切れるよ」
「根拠は?」
「水瀬くんだから」
「説明になってない」
「それでも、信じてるの」
美咲の声には迷いがなかった。
「私が困ってたら助けてくれるし、嫌だって言いながら最後には話を聞いてくれる。それに、私が失敗しても責めなかった」
美咲は少し照れくさそうに目元を緩める。
「だから、水瀬くんは大丈夫」
悠真の胸に、温かさと痛みが同時に生まれた。
美咲は自分を信じている。
けれど悠真は、彼女へ嘘をつき続けている。
「信じすぎるな」
「どうして?」
「俺が悪い人間かもしれない」
「そうなの?」
「ああ、と言ったら?」
美咲は少し考えた。
それから、柔らかく笑う。
「たぶん、信じない」
「悪い人間だと言う俺を?」
「うん」
美咲は悠真の目を見つめた。
「水瀬くんは、自分のことを悪く言いすぎる気がするから」
悠真は何も返せなかった。
◇
焼き上がったハンバーグを皿へ盛り、二人で向かい合って座る。
悠真が作ったハンバーグは少し形が崩れていた。
美咲が作ったものは、綺麗な楕円形を保っている。
「いただきます」
二人で手を合わせる。
悠真は自分が作ったハンバーグを箸で切った。
中まで火は通っている。
肉汁も残っていた。
一口食べる。
「どう?」
美咲が期待するように顔を覗き込む。
「美味い」
「本当?」
「ああ」
「よかった」
美咲は自分のことのように嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「初めて作ったハンバーグ、成功だね」
「一ノ瀬さんが教えたからだろ」
「それでも、作ったのは水瀬くんだよ」
「一ノ瀬さんのも食べていいか?」
「うん」
美咲が皿を少し前へ出す。
悠真は彼女のハンバーグを一口分取り、自分のものと食べ比べた。
「同じ味だな」
「同じ材料だからね」
「なら、成功でいいか」
悠真が僅かに口元を緩める。
美咲はその表情を見逃さなかった。
「あ」
「何だ?」
「今、笑った」
美咲は嬉しそうに身を乗り出した。
「昨日と同じ笑い方」
悠真の表情が消える。
「もう一回笑って」
「嫌だ」
「一瞬すぎて、ちゃんと見られなかった」
「見なくていい」
「やっぱり、少し似てる気がするのに」
「誰に?」
「天宮レイくん」
美咲は悠真の顔をじっと見つめる。
昨日より確信へ近づいているような瞳だった。
「水瀬くん、本当に子役じゃなかった?」
「違う」
「演技をしたことは?」
「ない」
悠真は迷わず答えた。
美咲の瞳が僅かに揺れる。
「そっか」
「疑ってるのか?」
「少しだけ」
「俺が天宮レイだと思ってる?」
「そこまでは思ってないよ」
美咲は困ったように笑った。
「でも、何か関係があるのかなって」
「関係ない」
先ほどより少し強い声が出た。
美咲の肩が僅かに跳ねる。
悠真は自分の反応へ気づき、箸を置いた。
「悪い」
「ううん。私のほうこそ、ごめんなさい」
美咲は俯いた。
「聞かないって言ったのに、また聞いちゃった」
「一ノ瀬さんが謝る必要はない」
「でも、嫌だったでしょう?」
「ああ」
悠真は嘘をつかなかった。
「今は、聞かれたくない」
美咲が顔を上げる。
今まで悠真は、何もない、関係ないと言い続けてきた。
今は聞かれたくない。
その言葉は、話せない何かがあることを認めたのと同じだった。
「今は、なんだね」
美咲が静かに言う。
「ああ」
「いつか、話してくれる?」
「分からない」
「待っていてもいい?」
美咲は不安そうに悠真を見つめた。
「水瀬くんが話したいと思えるまで」
「好きにすればいい」
美咲の目元が柔らかくなる。
「うん。好きにするね」
その返事は、いつもと同じだった。
けれど今度の「好きにする」には、どこか静かな決意が込められていた。
◇
食事を終えたあと、二人で食器を洗った。
美咲が帰る準備をしていると、テーブルの上に置かれた数学の教科書へ目を向ける。
「水瀬くん」
「何だ?」
「試験、明後日からだよ」
「ああ」
「本当に勉強しないの?」
「しない」
美咲は少し考え込んだ。
「それなら、勝負しない?」
「勝負?」
「今回の試験、私と点数を比べるの」
「学年一位と?」
「うん」
「俺が勝てるわけないだろ」
「本気を出しても?」
美咲の視線が、悠真を捉える。
「俺は今でも本気だ」
「そういうことにしておくね」
美咲は小さく笑った。
「五教科の合計点で勝負。勝ったほうが、負けたほうへ一つお願いできるの」
「断る」
「どうして?」
「一ノ瀬さんに勝つ必要がない」
「負けるのが怖い?」
美咲は少し挑発するように目を細めた。
「その程度で乗ると思うか?」
「思ってないよ」
「なら、なぜ言った?」
「水瀬くんが、どうしたら本気を出してくれるのか考えてるの」
美咲は真剣な表情へ戻った。
「私は、点数が高い水瀬くんを見たいわけじゃない」
「それなら放っておけばいい」
「違うの」
美咲は首を横へ振った。
「わざと自分を小さく見せてる水瀬くんが、少し苦しそうに見えるから」
悠真は眉を寄せた。
「苦しそうにしてるつもりはない」
「うん。でも、私はそう見える」
「何でもできると知られたら、もっと苦しくなることもある」
言葉が、無意識に口からこぼれた。
美咲の目が大きくなる。
悠真自身も、それ以上話すつもりはなかった。
「今のは忘れろ」
「忘れないよ」
「一ノ瀬さん」
「無理に聞いたりはしない」
美咲は静かに続けた。
「でも、今の言葉は覚えておく」
彼女は胸へ手を添え、悠真を真っすぐに見た。
「水瀬くんが、いつか続きを話してくれたときに、ちゃんと受け止めたいから」
悠真は美咲の視線から逃げなかった。
「勝負はしない」
「うん」
「試験も、いつもどおり受ける」
「分かった」
美咲は残念そうに眉を下げたが、無理に変えようとはしなかった。
「でも、一つだけお願いしてもいい?」
「内容による」
「試験でどんな点数を取っても、自分を責めないで」
予想していなかった言葉だった。
「俺が?」
「うん」
「わざと低い点を取ると思ってるのに?」
「もし私の考えが間違ってるなら、点数が低くても大丈夫だって言いたいから」
美咲は柔らかく微笑んだ。
「本当にわざとなら、それは水瀬くんが選んだ結果だから、私が責めることじゃない」
「なら、なぜ本気を出せと言う?」
「いつか、本気の水瀬くんも見てみたいから」
美咲の声に、責める響きはなかった。
「でも、無理やり見せてもらいたいわけじゃないの」
「……そうか」
「うん」
美咲は鞄を持ち、玄関へ向かった。
靴を履いてから、一度振り返る。
「今日のハンバーグ、本当に美味しかったよ」
「俺のほうが教えてもらった側だろ」
「それでも、水瀬くんが作ってくれたから」
美咲は嬉しそうに微笑んだ。
「また一緒に作ろうね」
「気が向いたらな」
「今度は何がいい?」
「まだ決めてない」
「明日の宿題にする?」
「増やすな」
美咲は小さく笑い、扉を開けた。
「おやすみ、水瀬くん」
「ああ。おやすみ」
扉が閉まる。
悠真は一人になった部屋で、数学の教科書へ視線を向けた。
試験まで、あと二日。
いつもどおり平均点を取ればいい。
その考えは変わっていない。
けれど美咲の「いつか、本気の水瀬くんも見てみたい」という言葉が、耳の奥に残り続けていた。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
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