第11話 君は、誰なの?
翌朝。
悠真が部屋を出ると、美咲はいつものように隣室の前で待っていた。
「おはよう、水瀬くん」
「ああ。おはよう」
挨拶は普段と変わらない。
けれど美咲は、悠真の顔をまともに見ようとしなかった。
視線は廊下の床へ向けられている。両手で鞄を身体の前に持ち、その取っ手を何度も握り直していた。
「今日は何分待ってた?」
「一分くらい」
「正直に言うようになったな」
「どうせ、すぐに分かっちゃうから」
美咲は小さく笑った。
そこで初めて悠真へ顔を向ける。
二人の視線が重なった瞬間、美咲の瞳が微かに揺れた。
まるで悠真の顔に、別の誰かの面影を探しているような視線だった。
「何だ?」
悠真が尋ねる。
「え?」
「俺の顔に何かついてるか?」
「ついてないよ」
美咲は慌てて首を横へ振った。
長い黒髪が肩の上で揺れる。
「それなら、どうして見てた?」
「水瀬くんが、今日も元気そうだなって思っただけ」
そういいながら美咲はちらっと悠真の手を見た。
「昨日の火傷を気にしてるのか?」
「あ……うん。それもあるよ」
美咲の返事は、少し遅れた。
「手、見せてくれる?」
「もう治ってる」
「念のため」
美咲が片手を差し出す。
断っても諦めないことは分かっているため、悠真は右手を彼女の前へ出した。
美咲は悠真の指先をそっと持ち、手の甲を確認する。
赤みはほとんど消えていた。
「痛くない?」
「痛くない」
「本当に?」
「ああ」
「よかった……」
美咲は胸を撫で下ろした。
しかし、すぐには手を離さなかった。
悠真の手を両手で包んだまま、指や手のひらへ視線を動かしている。
「一ノ瀬さん?」
「あ、ごめん」
美咲は我に返り、慌てて手を離した。
頬が僅かに赤くなる。
「何を見てた?」
「何も見てないよ」
「昨日から変だぞ」
「変じゃない」
「今も返事が遅れた」
「それは……」
美咲は言葉を詰まらせた。
唇を引き結び、困ったように眉尻を下げる。
「ちょっと考え事をしてただけ」
「どんな?」
「まだ言えない」
「俺には何でも話せと言うのに?」
悠真が指摘すると、美咲は申し訳なさそうに俯いた。
「そうだよね。ずるいよね」
「別に、言いたくないなら言わなくていい」
「怒ってない?」
「怒る理由がない」
美咲は恐る恐る顔を上げた。
悠真の表情を確かめ、安心したように小さく息を吐く。
「ありがとう」
「ただし、俺の顔をじろじろ見るのはやめろ」
「それは、少し難しいかも」
「どうして?」
美咲は悠真の顔をもう一度見た。
目元から鼻筋、口元へと視線が移っていく。
「確認したいことがあるから」
「何を?」
「秘密」
美咲は人差し指を唇の前へ立てた。
その仕草は少し悪戯っぽいが、瞳の奥には真剣な光が残っていた。
◇
学校へ向かう電車の中でも、美咲は時折悠真の横顔を見ていた。
目が合うたび、窓の外へ視線を逸らす。
三度目になったところで、悠真は小さく息を吐いた。
「そんなに見ても、顔は変わらないぞ」
「ごめんね」
「何を確認してる?」
「だから、まだ秘密」
「昨日の笑顔と関係があるのか?」
美咲の肩が小さく跳ねた。
分かりやすい反応だった。
「やっぱりそうか」
「水瀬くん、こういうときだけ鋭いよね」
「こういうときだけ、は余計だ」
美咲は気まずそうに頬を掻いた。
「昨日の笑顔が、昔見た人に似てると思ったの」
「昔見た人?」
「……天宮レイくん」
電車の走行音が、二人の間を流れていく。
悠真は表情を変えなかった。
「俺が、昨日テレビに出てた子役に似てると言いたいのか?」
「顔全部が似てるわけじゃないの」
美咲は慌てて説明する。
「髪型も雰囲気も全然違うし、レイくんは五歳くらいだったから。でも、笑ったときの目元が少しだけ……」
「気のせいだろ」
「そうだと思う」
美咲は素直に頷いた。
「昨日、昔の写真も見たけど、やっぱり別人に見えたから」
悠真の胸に小さな緊張が走る。
「わざわざ調べたのか?」
「気になったから」
美咲は恥ずかしそうに視線を落とした。
「でも、少し失礼だったよね。水瀬くんを別の人みたいに見て」
「別に気にしてない」
「本当?」
「ああ」
美咲は胸元へ手を添え、安心したように微笑んだ。
「よかった」
「それで、確認は終わったのか?」
「まだ少しだけ」
「何を確認するんだ」
「もう一回笑ってくれたら、分かるかもしれない」
「断る」
「即答なんだ」
「理由もないのに笑えない」
「それじゃあ、水瀬くんを笑わせればいいんだね」
美咲は真剣な表情で考え始めた。
どうやら本気らしい。
「余計なことは考えなくていい」
「面白い話と、くすぐるのなら、どっちがいい?」
「どちらも嫌だ」
「水瀬くん、くすぐったいの?」
「教えない」
「今、少し反応したよね?」
「してない」
美咲は悠真の脇腹へ視線を向けた。
手を伸ばすつもりなのか、指先が僅かに動いている。
「本気で怒るぞ」
「家でならいい?」
「よくない」
美咲は残念そうに唇を尖らせた。
「笑った顔、見たいのに」
「そのうち見られると言っただろ」
「そのうちは、いつ?」
「気が向いたら」
「学校を休むときと同じ答えだね」
美咲は呆れたように笑った。
その笑顔を見て、悠真の警戒心が少し緩む。
正体へ気づいたわけではない。
天宮レイと似ている可能性を考えただけだ。
十年前の子役と、現在の同級生。
それだけで同一人物だと断定することはできないだろう。
それでも、美咲が人の表情をよく見ていることは確かだった。
今後は、彼女の前でも気を抜かないほうがいい。
そう考えた瞬間、胸に僅かな寂しさが生まれた。
美咲の前では、平凡を演じることを忘れ始めていた。
もう一度すべてを隠せば、彼女との距離も元へ戻ってしまう気がした。
◇
午前中の授業を終え、昼休みになる。
悠真が鞄から弁当を取り出すと、孝太郎がすぐに振り返った。
「今日も弁当なのか」
「ああ」
「一ノ瀬の手作り?」
「そうだけど」
「もう隠さないんだな」
「隠しても仕方ないだろ」
悠真は弁当箱の蓋を開けた。
今日は白いご飯に焼き鮭、卵焼き、ブロッコリー、ニンジンのきんぴらが詰められている。
小さな紙が一枚、蓋の裏へ貼られていた。
『野菜も残さず食べてね』
丸い文字の横には、笑顔の簡単な絵が描かれている。
「何だ、それ」
孝太郎が覗き込んできた。
「見るな」
悠真は紙を剥がし、素早く掌の中へ隠した。
「今、何か書いてあっただろ」
「何もない」
「見せろよ」
「嫌だ」
「絶対、一ノ瀬からだろ」
孝太郎がさらに身を乗り出す。
悠真が押し返そうとしたところで、頭上から声が聞こえた。
「佐伯くん」
美咲が立っていた。
笑顔を浮かべているが、その瞳には僅かな圧がある。
「水瀬くんが嫌がってるよ?」
「あ……悪い」
孝太郎はすぐに身体を引いた。
美咲は悠真の正面へ座り、自分の弁当箱を開く。
悠真の掌へ視線を向け、少し恥ずかしそうに頬を緩めた。
「見た?」
「ああ」
「子供っぽかった?」
「少し」
「書かないほうがよかったかな」
美咲の笑顔が僅かに曇る。
「別に嫌とは言ってない」
「じゃあ、明日も書いていい?」
「それは好きにすればいい」
「うん。好きにするね」
美咲の表情が明るくなる。
悠真は掌の中に隠した紙を、制服の胸ポケットへ入れた。
美咲がその動きを見て、嬉しそうに目元を細める。
「捨てないの?」
「ここにゴミ箱がないからな」
「あとで捨てる?」
「質問が多い」
「取っておいてくれるのかなって思っただけ」
「そんなわけないだろ」
悠真は焼き鮭を口へ運んだ。
美咲は少しだけ頬を膨らませ、自分の弁当を食べ始める。
捨てるつもりなら、机の中にでも入れればいい。
それを胸ポケットへしまった理由を、悠真自身も説明できなかった。
◇
昼食を終えた頃、孝太郎が数学の問題集を持ってきた。
「水瀬、昨日の続き教えてくれ」
「一ノ瀬さんに聞け」
「一ノ瀬は女子に頼まれてるんだよ」
見ると、美咲の机には女子生徒が二人集まっている。
美咲は問題集を開きながらも、ときどき悠真のほうを見ていた。
「どこが分からない?」
悠真は仕方なく尋ねた。
「この問題」
孝太郎が示したのは、二次関数の範囲を求める問題だった。
「まず、定義域の端を代入する」
「ああ」
「それから頂点が範囲に入るか確認する」
「何で?」
「頂点が最大か最小になるからだ」
悠真はノートへ簡単な図を描いた。
「この形なら、頂点が一番下になるだろ」
「なるほど」
「だから最小値は頂点。最大値は定義域の両端を比べる」
「昨日より分かりやすいな」
「昨日も同じように説明した」
「昨日は俺が全然分かってなかったから」
孝太郎は自分で式を書き始める。
数分後、正しい答えへ辿り着いた。
「できた」
「ああ」
「水瀬、お前、本当に数学得意じゃないの?」
孝太郎が疑わしそうに目を細める。
「普通だ」
「それにしては教えるの上手くないか?」
「問題集に解説があるだろ」
「これか?」
孝太郎は問題集の後ろにある解説を開いた。
悠真が説明した方法とは、式の組み立て方が少し違っている。
「解説どおりじゃないけど」
「同じ答えになるなら問題ない」
「お前、昨日の難しい問題もすぐ補助線を引いてたよな」
孝太郎の声を聞き、美咲が顔を上げた。
悠真はその視線に気づく。
「偶然だと言っただろ」
「そんな偶然、何度もあるか?」
「あるんじゃないか?」
「適当だな」
孝太郎は笑い、次の問題へ目を移した。
深く疑っているわけではないらしい。
しかし美咲は違った。
女子生徒へ説明を続けながらも、その瞳には昨日と同じ疑問が浮かんでいた。
◇
午後の数学では、試験対策として小テストが行われた。
全十問。
制限時間は十五分。
悠真は問題へ目を通し、今回も取るべき点数を考えた。
平均は六十点前後になるだろう。
それなら、七十点ほどが自然だ。
基礎問題を二つ。
応用問題を一つ。
合計三問を間違える。
悠真は解答欄を埋めながら、どの問題にどんな間違いを残すか選んでいった。
しかし、昨日のことがある。
単純な計算問題で間違え、応用問題の途中式だけが正しい答案は不自然だった。
今日は、応用問題を二つ白紙にする。
残りは一つだけ、途中の考え方から間違える。
そう決め、答案を作った。
「時間だ。後ろから回収しろ」
教師の指示で、答案が集められる。
悠真の答案を受け取った美咲は、提出する前に一瞬だけ内容を見た。
空欄の応用問題。
悠真が間違えるために書いた、不自然な途中式。
美咲の眉が僅かに動く。
けれど、何も言わず答案を前へ回した。
◇
放課後。
悠真が帰る準備をしていると、美咲が机の横へ来た。
「今日も図書室へ行かない?」
「勉強会か?」
「うん」
「今日は担任に頼まれてない」
「私がお願いしてるの」
美咲は両手を身体の前で合わせ、少し首を傾げた。
「駄目?」
「俺がいなくても、一ノ瀬さん一人で足りるだろ」
「教えてほしいんじゃなくて、一緒に勉強したいの」
「どうして?」
「水瀬くんが、どうやって問題を解くのか見たいから」
美咲は率直に答えた。
「監視するつもりか?」
「そういうわけじゃないよ」
「同じだろ」
「……やっぱり、嫌?」
美咲の表情が曇る。
悠真は鞄へ教科書を入れながら、小さく息を吐いた。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「俺が本当に普通の成績だったら、納得するのか?」
美咲はすぐに答えなかった。
自分の胸へ問いかけるように、視線を落とす。
「分からない」
「何が?」
「水瀬くんの成績がいいのか悪いのか、それが一番気になるわけじゃないから」
美咲は顔を上げた。
「本当はできるのに、できないふりをしてるなら、その理由が知りたいの」
「理由を知って、どうする?」
「水瀬くんが苦しんでるなら、助けたい」
「苦しんでない」
「それなら、どうして隠すの?」
悠真は答えられなかった。
目立ちたくない。
期待されたくない。
過去を知られたくない。
理由は明確だ。
けれど、それを説明するには、天宮レイとしての過去へ触れる必要がある。
「私の考えすぎだったら、ごめんなさい」
美咲は不安そうに眉尻を下げた。
「でも、水瀬くんがわざと間違えてるように見えるの」
悠真の指が止まる。
「証拠は?」
「ないよ」
「なら、考えすぎだ」
「今日の小テスト、三問間違えたでしょう?」
「まだ採点されてない」
「答案を回したときに見えたの」
美咲は少し申し訳なさそうに目を伏せた。
「二問は空欄だった。でも、最後の問題は、途中でわざと違う式に変えたように見えた」
「どうしてそう思う?」
「その前まで正しい考え方だったから」
「途中で勘違いしただけだ」
「水瀬くんが?」
美咲は真っすぐに悠真を見る。
疑っているのではない。
確かめようとしている目だった。
「一ノ瀬さんは、俺を買いかぶりすぎだ」
悠真は鞄を肩へ掛けた。
「試験が終われば分かる。俺は平均くらいしか取れない」
「それも、わざとだったら?」
「そこまでして、平均点を取る理由がないだろ」
美咲は唇を結んだ。
その理由こそ、彼女が知りたいものだった。
「今日の勉強会は行かない」
「……分かった」
美咲は寂しそうに視線を落とした。
「でも、夕食は?」
「食べる」
悠真が即答すると、美咲の顔が上がる。
「今日も一緒に食べてくれる?」
「ああ」
「私のこと、嫌になってない?」
「どうしてそうなる?」
「しつこく聞いちゃったから」
美咲は鞄の持ち手を強く握った。
「水瀬くんに嫌われたくないのに、気になると止められなくて」
「嫌ってない」
「本当?」
「ああ。嫌なら、夕食も断ってる」
美咲の肩から力が抜けた。
安心したように息を吐き、柔らかく微笑む。
「よかった」
「ただし、今日の夕食は俺が手伝う」
悠真が続けると、美咲は目を丸くした。
「水瀬くんから?」
「弁当まで作ってもらったからな。そのくらいはする」
「……本当に?」
「ああ」
美咲の表情が、一気に明るくなる。
「それじゃあ、今日は簡単なものにしようね」
「何を作る?」
「ハンバーグはどう?」
「簡単なのか?」
「水瀬くんには、少し難しいかも」
「なら、なぜ選んだ」
「私が一緒にいるから大丈夫」
美咲は楽しそうに笑った。
「失敗しても、一緒に作り直せばいいでしょう?」
悠真はその言葉を聞き、僅かに目元を緩めた。
今度こそ美咲に気づかれないよう、すぐに背を向ける。
「先に帰る」
「あ、待って。私も帰るよ」
「勉強会は?」
「今日はいいの」
「試験前だろ」
「家でやるから大丈夫。それに――」
美咲は悠真の隣へ並んだ。
嬉しそうに頬を緩めている。
「水瀬くんと一緒にハンバーグを作るほうが、今日は大事だから」
「学年一位が言う言葉じゃないな」
「勉強は、あとから取り戻せるもの」
「料理もあとからできるだろ」
「でも、今の水瀬くんが自分から手伝うって言ってくれたのは、今日だけかもしれないでしょう?」
「明日も手伝うかもしれない」
悠真が何気なく答える。
美咲の足が止まった。
「……明日も?」
「かもしれない、と言っただけだ」
「うん」
美咲は胸元で両手を握り、嬉しそうに笑った。
「それでも、楽しみにしてるね」
◇
帰宅後。
美咲が自分の部屋で着替えている間に、悠真は制服の胸ポケットへ手を入れた。
昼に美咲からもらった小さな紙を取り出す。
『野菜も残さず食べてね』
丸い文字と、簡単な笑顔。
捨てるつもりなら、学校のゴミ箱へ入れる機会はいくらでもあった。
それでも、持ち帰ってしまった。
悠真はしばらく紙を見つめ、机の引き出しを開ける。
一番上には、学校関係の書類や筆記用具が入っていた。
その隅へ、紙を置く。
「ゴミ箱が遠かっただけだ」
自分へ言い訳するように呟き、引き出しを閉めた。
直後、インターホンが鳴る。
扉を開けると、エプロン姿の美咲が立っていた。
両手には、ハンバーグの材料が入った袋を持っている。
「お待たせ」
美咲は明るく笑った。
「今日は水瀬くんが料理する日だよ」
「手伝うと言っただけだ」
「私が手伝うから、水瀬くんが作るの」
「話が逆になってないか?」
「大丈夫。失敗しても怒らないから」
美咲は楽しそうに部屋へ入った。
悠真は扉を閉めながら、小さくため息をつく。
試験のこと。
隠している実力のこと。
天宮レイとの共通点。
美咲は少しずつ、悠真の秘密へ近づいている。
それでも悠真は、彼女を遠ざけられなかった。
むしろ明日の夕食まで考え始めている自分に、気づかないふりをしていた。
読んでくださってありがとうございます。
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