黄金の洗礼
大広間の奥、黄金の障壁画が放つ光に眼を灼かれそうになりながらも、直政は一分の乱れもない歩法で進み、最良の間合いで平伏した。
立ち込める沈香の匂いを切り裂くように、頭上から爆ぜるような笑い声が降ってくる。
「かかか! 面を上げよ、井伊兵部。噂に違わぬ美男子よのう! 眩しくて、この秀吉、目が潰れそうじゃ」
黄金の座に沈み込んでいた羽柴秀吉が、膝を叩いて身を乗り出した。
直政が静かに面を上げると、そこには天下人の威厳というよりは、陽気な猿のような親しみやすさを湛えた、人懐っこい笑顔があった。秀吉は大政所がいかに直政を気に入ったかを饒舌に語り、格式を無視して直政のすぐそばまで歩み寄ってくる。
「……」
傍らに控える石田治部少輔三成は、微動だにせずその光景を凝視していた。
三成の目は、主君の奔放な振る舞いを追いつつも、その実、直政の微細な反応を一つも見逃すまいとしていた。秀吉が距離を詰め、親密な言葉を投げかけるたび、直政の瞳の奥に生じる、氷のような「拒絶」の火花。三成はそれを冷徹な事務官の目で拾い上げ、直政という男の「制御しきれぬ矜持」の深度を、脳内の帳面に刻み込んでいく。
直政は、そんな視線をも柳に風と受け流し、淀みのない微笑を浮かべて応じた。
「大政所様の御慈悲深きお心が、私共のような田舎武士を温かく受け入れてくださったまでにございます」
秀吉の過剰なまでの賞賛も、物理的な近さも、直政にとってはただの風に過ぎない。秀吉が肩を叩こうと手を伸ばせば、直政は流れるような所作でそれを躱すことなく、しかし同時に相手に主導権を渡さぬ、完璧な「受領の礼」へと繋げる。
「ほう、謙虚よのう。だが、その若さで家康の懐刀を務めるからには、さぞや腹の中には黒い虎でも飼うておるのではないか? 遠慮はいらぬ、この秀吉に少しはその牙を見せてみよ」
秀吉は直政の顔を覗き込み、粘りつくような視線でその「微笑」の裏側を抉ろうとする。
「牙など、私のような若輩にはございません。ただ、主君より預かりし『徳川の礼』を、一分たりとも損なわぬよう心掛けておるのみにございます」
直政の微笑は、一点の曇りもなかった。
その姿に、後方に控える守勝は、内心で舌を巻いていた。
(……見事だ、兵部。あの怪物を前に、これほどまでに己を失わぬとは)
だが、秀吉の目が、ふと笑いを消した。冷徹な捕食者のそれが、直政の端正な貌を凝視する。
「……気に食わぬのう。おぬしの微笑は、まるで作り物の仏像のようじゃ。生きた人間の血が通うておらぬ」
秀吉は吐き捨てるように言うと、急にくるりと背を向け、快活な声に戻った。
「よかろう。おぬしのその固い殻、別の場所で割ってやるとしよう。口直しに、とっておきの茶を飲ませてやろう。――兵部、ついて参れ」
三成が制止の声を上げようとするのを手で制し、秀吉は案内役の且元、そして守勝らに対しても「待っておれ」と短く命じた。天下人の独断に、誰も抗うことはできない。
直政は「……忝く存じます」と一礼し、秀吉の背を追って広間を後にした。
案内されたのは、庭の奥、木々の静寂に守られるように佇む小さな茶室であった。
露地を進む間、直政はさらに深く、鋭く、精神の深淵を凝り固まらせていた。周囲に味方はおらず、目の前には天下人一人の背中。この密室こそが、秀吉が仕掛ける真の戦の場であると確信していたからだ。いかなる甘言にも動じず、いかなる威圧にも屈さぬ。直政は全身を研ぎ澄まされた抜き身の刀と化し、覚悟を決めて躱口を潜った。
だが。
薄暗い茶室の中に立ち込めていたのは、秀吉の強烈な覇気でも、剥き出しの敵意でもなかった。
一人の男が背を向け、ただ静かに、無心に茶を点てている。その背中、その肩の丸み、そして茶を点てる際の、どこか無骨ながらも洗練された無駄のない動き。
「…………」
直政の足が、畳の上で凍りついた。
脳裏を過ったのは、かつて岡崎の評定の場で、あるいは戦場の陣中で、常に自分の前を歩んでいた背中だ。徳川の軍法を、政道を、そして家康への忠節を、誰よりも厳格に説いていた男の背。
(……馬鹿な。あり得ぬ)
必死に否定しようとする思考を切り裂き、男がゆっくりと振り返る。
その、枯れた木の幹のような深い皺の刻まれた顔が、昏い灯りの中に浮かび上がった。
「……お久しゅうございますな。井伊兵部殿」
石川数正。
その名を、そしてその穏やかですらある声を認識した瞬間、直政がこれまで必死に守り抜いてきた「微笑の仮面」が、内側から音を立てて砕け散った。
秀吉が仕掛けたのは、外交の駆け引きですらない。
直政が「徳川の鑑」であろうとするその芯を、かつての「師」の姿を使って根底から腐らせるような、あまりに惨烈な再会であった。




