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銀の松風、朱の早瀬  作者: 帆波
黄金の深淵
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紅蓮の潰走

躱口にじりぐちを潜った先に広がっていたのは、天下人が愛でる静寂であった。

だが、その静寂は直政の肺腑を抉るほどに鋭い。

石川数正は、ただ静かに茶を点てていた。かつて岡崎の城で、直政に厳格な武士の矜持と軍法を説いたあの無骨な指先が、今は豊臣の洗練された作法を完璧にこなしている。その淀みのない所作こそが、直政にとっては耐えがたい裏切りの証左であった。

数正がゆっくりと茶碗を差し出し、直政の目の前に置く。

「……どうぞ、お召し上がりくだされ」

その穏やかな、かつてと変わらぬ声が、直政の中で堰き止めていたものを決壊させた。直政は膝を突き出し、拳が白く震えるほどに畳を掴んだ。茶碗には一切目を向けず、蛇に睨まれた獲物のような数正を、至近距離から射抜く。

「……貴様、どの面を下げて。どの口で、それを申すか」

地を這うような、低い、しかし熱を帯びた声が茶室を震わせた。直政の全身から発せられる殺気は、丸腰であることを忘れさせるほどに鋭い。だが、数正は視線を逸らさず、ただ深い皺の刻まれた顔で沈黙を守った。申し訳なさも、釈明もない。その「豊臣の臣」としての徹底した静寂が、直政の怒りをさらに虚空へと空転させる。

「ははは! 兵部、おぬし、やはり若いのう」

その緊迫を切り裂いたのは、秀吉の無邪気なまでの笑い声だった。秀吉は直政の憤怒を、まるで子供の駄駄を眺めるような、慈悲に満ちた侮蔑の眼差しで見下ろしていた。

「この男の知恵は、もう我が羽柴のものよ。過去の遺恨に拘泥して、せっかくの茶の味を損なうとは。……家康も、随分と器の小さな者を懐刀にしたものよな」

秀吉の言葉は、直政が人生を懸けて築き上げてきた自己を、一瞬で無価値な泥へと変えた。嘲笑う天下人と、沈黙し続けるかつての師。二人の「怪物」に挟まれ、直政の理性がついに音を立てて砕け散った。

「…………!」

直政は勢いよく立ち上がった。礼法も、外交上の立場も、もはやどうでもよかった。

「先祖より代々仕えし主君を裏切り、殿下に媚びて恥じぬような臆病者と同席すること、某、固くお断り申す!御免!」

数正の目を真っ向から射抜き、呪いのような言葉を叩きつけると、直政は返事も待たずに躱口を飛び出した。

背後から、秀吉の「ははは! 黄金にあてられたか直政。若いというのは難儀なものよな――誰ぞある! 井伊殿は腹を下して加減がすぐれぬようじゃ。粗相をせぬうちに、早う屋敷まで送り届けて差し上げよ!」という、慈悲の皮を被った侮蔑の笑い声が追いすがってくる。

その粘りつくような高笑いを振り切るように、直政は露地を駆け抜けた。

視界が、異様に歪んでいた。

広大な廊下を縁取る黄金の障壁画が、どろりと溶け出した蜜のように直政の目を灼く。立ち込める沈香の匂いは、鼻腔の奥で鉄錆のような血の匂いへと変質していた。踏みしめる畳の感触がひどく遠い。まるで泥濘の上を歩いているかのように足元が覚束ず、己の身体が自分のものではないような、薄ら寒い乖離感に包まれる。

(あのような男に……あのような者たちに、徳川が、殿が、飲み込まれてたまるか……!)

心臓の鼓動が耳元で早鐘のように打ち鳴らされる。屈辱と憤怒が、熱を帯びた塊となって喉元までせり上がっていた。廊下の角を曲がろうとした際、直政は向こうから歩いてきた人影と危うく接触しそうになった。

「――おっと」

相手が軽く身を翻し、間一髪で衝突を避ける。直政は止まることもできず、その場に立ちすくんで荒い呼吸を繰り返した。髪は乱れ、瞳にはいまにも血を吐きそうなほどの情念が宿っている。

目の前にいたのは、端正な顔立ちに、黄金の喧騒に染まることを拒むような、凛として涼やかな空気を纏った武将であった。

蒲生侍従氏郷。

千利休の門下でも随一の粋人として知られ、世に松ヶ島侍従と称されるその男は、直政の異様な形相と、奥の茶室から漏れ聞こえる秀吉の残響から、瞬時にすべてを察したようだった。

氏郷は、道を開けるように静かに傍らへ寄った。そして、すれ違いざま。直政の背中に、雪解け水のように清廉で、それでいて確かな熱を含んだ声を落とした。

「……井伊殿。殿下の茶は、少々苦味が強すぎたようですな。……口直しに私の茶はいかがかな?」

その一言に、直政の肩が微かに震えた。

歪んでいた視界が、わずかに形を取り戻したような気がした。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、時代考察の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。

日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。

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