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銀の松風、朱の早瀬  作者: 帆波
松影と朱炎
11/12

松風を聴く

「……口直しの、私の茶はいかがかな?」

その声は、耳の奥にこびりついて離れない秀吉の卑俗な高笑いを、一瞬で雪解け水のように洗い流した。

廊下の角で直政がぶつかりかけた男は、黄金の装飾がのたうつ大坂城の回廊にあって、そこだけ空気の密度が違うかのような、不思議な静謐さを纏って立っていた。

直政は荒い呼吸を整えようともせず、射抜くような視線で目の前の男を睨みつけた。

「……何奴だ」

男は直政の無礼な視線を柳に風と受け流し、穏やかに、しかし芯の通った声で名乗った。

「失礼……某、蒲生侍従氏郷と申す」

直政の眉が微かに動いた。蒲生氏郷――。

亡き織田信長公の娘婿であり、今は羽柴秀吉の臣下として松ヶ島侍従の座にある男。千利休が数多の門弟の中でも筆頭格と認める数寄者でありながら、ひとたび戦場に立てば常に先陣を切って駆ける勇将としても名高い。

「……蒲生侍従殿でしたか。これは失礼。某、徳川家臣、井伊兵部少輔直政にござる」

直政は短く名乗りを返したが、その声には刺すような冷気が混じっていた。

「侍従殿、お引取りを。某は今、この城のあらゆるものに反吐が出る思いにござる。石川数正のような不忠者と同席し、その毒を啜らされた以上、これ以上豊臣の風に触れる気はありませぬ」

吐き捨てるように言い放ち、直政は氏郷の傍らをすり抜けようとした。

だが、氏郷は動じなかった。去りゆく直政の背中に、重みのある言葉を置いた。

「毒を啜らされた……。なるほど、そう見えるか。だが兵部殿、貴殿が今、己の内で荒れ狂う激情を御しきれず、立ち振る舞いさえ見失っている。その余裕のなさは、いずれ徳川殿の判断さえも狂わせる毒になるとは思わぬか?」

直政の足が、ぴたりと止まった。

「……何だと」

「怒りは目を曇らせる。貴殿が今戦い、斬り伏せようとしているのは、石川殿その人か。あるいは、己の正義という狭い檻に閉じ込めた、ただの『主観』ではないのか」

――己の正義、という檻。

直政の背中に、氏郷の静かな視線が突き刺さる。

「己の正しさを盾に、激情に身を焼いていては、真に警戒すべきもの――関白殿下という深淵を見極めることは叶わぬ。貴殿に必要なのは、敵を斬る刃を誇示することではなく、その刃を正しく研ぎ、収めておくべきさやではないのか」

直政の脳裏に、かつて浜松の城で家康と交わした会話が蘇った。

『万千代、おぬしは清烈に過ぎる。いつかその苛烈さが、おぬし自身を焼き尽くすのではないかと心配でならぬ。……もし機会あらば、松ヶ島侍従という男をよく見ておくがよい。あやつこそ、おぬしの手本となろう男だ』

家康が認めた男。

直政はゆっくりと振り返った。氏郷は、直政の心の内を見透かしたような、深く底の知れぬ瞳で微笑んでいた。

「……その茶、毒か鞘か、確かめさせていただこう」

直政の返答を聞くと、氏郷は満足げに頷き、静かに歩き出した。

案内されたのは、大坂城の喧騒が嘘のように遠のいた、屋敷の奥深くにある茶室であった。

露地へ足を踏み入れた瞬間、直政の肌に心地よい湿り気が触れた。打ち水がなされたばかりの飛び石が、夕刻の淡い光を吸い込んで鈍く光っている。

(……静かすぎる)

直政は無意識に、自らの足音が砂利を噛む音に耳を澄ませた。

普段の直政なら、周囲の物音を「敵の伏兵」か「味方の合図」かで選別する。だが、この空間には、選別すべき対象が何一つとして存在しない。

ただ、つくばいから溢れる水が石を叩く、「トクン」という規則正しい音だけが、直政の張り詰めた鼓膜を震わせる。

その音は、直政が纏っている「徳川の外交官」という重い鎧の隙間を、一滴ずつ穿つように響いた。

刀を預け、狭い躱口にじりぐちの前に膝をつく。

この先に待っているのは、自分を翻弄した数正への答えか。あるいは、自分自身が直視することを避けてきた、心の深淵か。

直政は衣の擦れる「シュッ」という音を静寂の中に鋭く響かせ、覚悟を決めてその闇へと身を滑り込ませた。

茶室内は、わずか二畳余りの小宇宙であった。

正面の床には、名もなき一輪の花。

そして、中央に据えられた釜からは、微かに、しかし重厚な「音」が立ち上っていた。

風が松林を吹き抜けるような、あるいは地を這う獣の唸りのような、深い音――松風しょうふう

氏郷はまだ、そこにはいない。

あるのは、ただ圧倒的な音の奔流と、それを包み込むような沈黙の対比だけだった。

直政は、正座した己の膝の上で拳を固めた。

茶室の壁に反射する自分の呼吸音が、異様に大きく、荒く感じられる。

黄金の大坂城で数正に叩きつけた怒りの熱が、まだ全身を巡っている。その熱と、氏郷が用意したこの冷徹なまでの静寂が、直政の体内で激しく衝突し、火花を散らしていた。

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