沸き立つ刃
釜が煮える「松風」の音が、茶室の静寂を支配していた。
直政は、躱口にじりぐちから這い出たまま、正座して待機している。刀を預け、丸腰になった己の身体には、戦場以上の無防備さが纏わりついていた。背後をさらすようなこの状況に、直政の神経は過敏に研ぎ澄まされている。
……微かな衣擦れの音が、嵐のような松風の音の隙間を縫うように響いた。
襖ふすまが開く音さえ、ほとんど聞こえなかった。
気配が、揺らぐ。
背後の躱口から、影が滑り込むように氏郷が入室した。
氏郷は、直政の方を振り返りもせず、音もなく自分の位置に座す。戦場ならば首を獲る絶好の機会であったが、その佇まいには、あまりにも隙がない。殺気がないのではない。氏郷という存在そのものが、この茶室の静寂と一体化しているかのようだった。
直政は、この沈黙に耐えかねたように、膝の上で拳を強く握りしめた。
「……石川数正は、徳川の恥だ」
言葉を吐き出した。それは大坂城で数正に叩きつけた怒りの残滓だった。
「主君を裏切り、敵である秀吉の懐へ逃げ込んだ。不忠。不義。これ以上の悪があろうか。某は、あの男を斬るためだけに、この城に踏み止まっているようなものだ」
直政が語気を強めるたび、釜の音が共鳴するように高まった。
シュウウウ、と高く鋭い音が室内に充満し、直政の荒い呼吸を飲み込んでいく。
「兵部殿、貴殿は己の正義という狭い檻に閉じ籠もっておられるように見受けられる」
氏郷は、直政の目を見ようともせず、ただ釜の音を聴きながら静かに言った。
「ご自身のみが正しいと叫んでおられるだけです。ですが兵部殿、その狭い檻の中にいらっしゃるからこそ、貴殿は外の世界の真実が見えておられぬのですよ」
「……何だと」
「貴殿の振るわれる『正義の刃』には、外の世界にある『他者の命』や『複雑な情勢』といった、本来あるべき重みが欠落しておる。重みを感じぬまま、ただ叫び暴れる姿は……武人とは呼べませぬな。ただ吠えることしかできぬ、狂犬に過ぎませぬ」
「狂犬……!」
直政の身体が、稲妻に打たれたように硬直した。
全身の血が逆流する。怒りが、泥流のように喉元までせり上がる。目の前で泰然と座すこの男の胸倉を掴み上げたい衝動が、直政の筋肉を支配した。
――だが。
直政の脳裏に、かつて主君の傍らで聞いた静かな諭しが過った。
『万千代、おぬしは清烈に過ぎる。……いつかその苛烈さが、おぬし自身を焼き尽くすのではないかと心配でならぬ』
(ここで理を捨てて噛みつけば……私は、ただ己の衝動に任せて吠えるだけの獣に成り下がる)
氏郷に噛みつけば、それは殿の憂いを現実に変えることに他ならない。私は、殿の思い描く徳川の未来を支える「刃」でありたいのだ。己の憤怒すら制御できぬ者に、他を統べる資格などあるものか。
(抑えろ。この火を、徳川の未来のために飼い慣らすのだ……それが、我が矜持だ)
直政は、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめ、震える唇を必死に噛み締めた。怒りを殺すのではない。押し殺すのだ。家康の期待を裏切らぬよう、一人の武将として、この男の言葉を飲み込むために。
シュウウウウウウウ――ッ!
直政の激昂と共鳴するように、松風の音が咆哮へと変わる。
釜が煮えたぎり、湯気が激しく噴き出す。室内を埋め尽くす音の奔流は、直政の内面そのものだった。
壊れそうなほどの音圧の中、氏郷がゆっくりと柄杓を手に取った。
その所作に、淀みはない。
氏郷は、音を立てずに釜の蓋を開け、手元にあった冷水を一気に注ぎ込んだ。
ジュッ――。
激しい蒸気が弾け、猛り狂っていた松風の音が、一瞬にして消え失せた。
あまりの静寂に、直政は耳が聞こえなくなったかのような錯覚に陥った。
残ったのは、氏郷の静かな呼吸と、直政自身の荒い、そしてどこか恥じ入るような吐息だけである。
「……かつて、某も同様でございました」
氏郷は、柄杓を置き、遠くを見つめるような瞳で語り始めた。
「信長公の『合理的正義』という名の檻の中で、私だけが正しいと信じていた時期がございました。……その時、私を支えてくれていた忠臣を、己の判断基準――合理に合わぬという理由だけで、切り捨てたことがございます。己こそが正義の体現だと疑わなかった私には、彼が必死に守ろうとしていた『情』や『苦悩』の重みが、全く見えていなかったのです」
氏郷の声は低く、そして深く沈んでいた。
「正義の刃は、振るえば必ず血を流す。ですが、その刃の重さを知らぬ者は、結果として、最も守るべき根元を自ら断ち切るのです。貴殿は、その刃で何を斬りたいのですかな? 石川殿の首か、それとも徳川の未来か?」
直政は、返答できなかった。
怒りの炎は、まだ消えてはいない。しかし、氏郷に突きつけられた「重み」という概念は、直政の心に重く、冷たい鉛のように沈み込んでいた。
茶室には、沈黙だけが支配している。
氏郷はまだ、茶を点てようとはしない。
直政は、ただ自分の荒い息を殺し、自身の内側で燃えさかっていた「火」が、深い思考の泥の中に沈んでいくのを感じていた。




