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銀の松風、朱の早瀬  作者: 帆波
松影と朱炎
13/13

風の行方

茶室には、嵐が過ぎ去ったあとのような、あるいは嵐そのものを飲み込んでしまったかのような、濃厚な静寂が満ちていた。

午後の陽光が紙障子を透過し、茶室の空気を白く染めている。その光の中を、微かな塵がゆったりと舞っていた。直政は、激昂していた先ほどまでの自分が嘘のように、ただ深い沈黙の中に身を置いていた。

室内には、規則正しい音が響いている。

氏郷が、淡々と茶を点てている。

釜が湯を沸かす微かな松風の音。柄杓が水を汲み、茶碗を清める涼やかな音。そして、竹製の茶筅が茶碗の内壁を叩く、小気味よくも張り詰めた「シャカシャカ」という音。

茶筅が刻むそのリズムは、直政の荒ぶる思考を強引に引き戻す、茶室の鼓動のようであった。点前が進むたびに、直政の視界を覆っていた怒りの霧が、少しずつ晴れていく。だが、その晴れ間から覗くのは、かつて見たこともないほど広大で、そして冷徹な荒野であった。

「……怒りは静まりましたかな」

氏郷の問いかけは、茶筅を動かすリズムと同時になされた。直政は、自分の声がかすれていないかを確認するように、一度喉を鳴らしてから口を開いた。

「消えた、とは申しませぬ。ただ……沈めました」

「ですが、その瞳と身に纏う気配には、まだ石川殿に対する『絶対的な断罪』が色濃く残っております」

氏郷は直政と目を合わそうとはしない。その視線は、ただ手元の茶碗と茶筅、そして点てられるべき茶の姿に注がれている。

「貴殿は沈めたつもりであっても、その心の底にはまだ石川殿への私憤が燻っておるのでしょう。直政殿、貴殿は彼を『裏切り者』として斬り捨てられました。ですが、果たして石川殿は、単なる『裏切り者』なのでしょうか?」

直政の拳が、膝の上で微かに震えた。

「家康公を、徳川の礎を、あやつは捨てたのです。武士として、家臣として、許しがたき不義。これ以上の考察が何になりましょう」

直政の言葉には、揺るぎない確信があった。しかし、氏郷はその確信を、まるで茶の泡を整えるかのように、淡々と崩しにかかる。

「それは貴殿の美学であり、石川殿の美学ではないのではありませんか?」

「美学……と申されますか」

「その通りです。貴殿は己の正義を天下の公道と信じておられる。ですが、人にはそれぞれ、その人が生きるための『風』がございます。石川殿の風は、貴殿の風とは逆向きに吹いたに過ぎません。ですが、かつて同じ空を仰ぎし者であれば、吹く風の向きが異なるとて、それだけで彼を『悪』と断じるのは、あまりに早計でございましょう」

氏郷の茶筅を振る手が、ふと止まる。その静止が、直政の心臓を一瞬、凍りつかせた。

「ただ敵を斬るだけならば、獣と変わりませぬ。武将が真に強くなるには、敵が『なぜその道を選んだのか』という、自分とは異なる論理を掌握せねばならぬのです。……もし石川殿にも、彼なりの徳川の存続という守り方があり、そのために汚泥を被る道を選んだのだとしたら。貴殿は、それを理解しようと試みられましたかな?」

直政は反論しようと口を開きかけた。しかし、氏郷の淡々とした論理の刃を前に、言葉が空中で砕け散る。

数正のように、抗えぬ時代の奔流を前に、徳川の存続という大義のために自ら汚名を被り、未来を繋ごうと足掻こうとした者にとっては、自分の正義はただの「暴風」でしかなかったのではないか。自分という尺度を世界に強要し、それ以外を認めようとしない自分の脆さが、直政の心に亀裂を生んでいた。

数正の選択を受け入れることはできない。しかし、そこに「自分とは全く別の論理(風)」が存在した事実は、認めざるを得ない。理解し得ぬもの、認めたくないものに、直政はこれほどまで動揺しているのだ。

氏郷の茶筅の音が、再び響き始める。今度は、より細かく、より力強く、茶を仕上げるためのリズムだ。

氏郷は数正の話を一段落させ、手元で最後の仕上げに入っていた。直政の思考が数正という「敵」から離れかけたとき、氏郷は低く、しかし直政の魂を射抜くような声で言った。

「……石川殿という外の風に対し、貴殿はそれほどまでに怒りを抱かれる。ならば、日夜、貴殿の傍らにあり、貴殿の風を一身に受けて疲弊しているであろう……部下の者たちの『風』は、いかがでしょうか?」

直政の背筋に、冷たいものが走った。

数正という「敵」の話だったはずが、いつの間にか、直政自身の部下たちの苦悶へと話が摺り合わされている。

ふと、数々の戦場を共にし、自分の苛烈な指示に必死で食らいついてきた家臣たちの顔が脳裏に浮かぶ。彼らは、直政の苛烈な「風」に吹き飛ばされまいと、必死に踏ん張っていたのではないか。自分の掲げる完璧な理想の旗印に、彼らは押し潰されそうになっていたのではないか。

「貴殿はご自身の風を、配下たちに無理やり吹きつけてはおりませぬか? 誰もが貴殿と同じ重さの覚悟を背容れるとは限りませぬ。……己と他人は、生きている土壌も、呼吸する風も違うのです」

直政は絶句した。

数正という「他者」を理解しようと足掻く中で、皮肉にも、直政は自分の背後にいる者たちを理解しようとしていなかった自分に気づかされた。自分の「絶対的基準」を他者に強要し、数正の選択の真意に耳を塞いできたその傲慢さこそが、今の己の盲目的な弱さであり、同時に、自分の部下たちを疲弊させている毒そのものかもしれないという予感。それは、戦場で敵の刃を受けるよりも鋭く、直政の心臓を抉った。

氏郷が、最後の一撃を加え、茶筅を置いた。

茶室に漂う、濃厚でいて清冽な茶の香り。

完成した一碗が、直政の目の前に置かれる。だが、氏郷はまだ「飲め」とは言わない。

氏郷は伏せ目にしたまま、静かに、しかし有無を言わせぬ調子で告げる。

氏郷は茶碗に視線を落としたまま、静かに、しかし有無を言わせぬ調子で告げる。

「石川殿を断罪される前に、貴殿の配下たちの『風』を思い返してみることです。貴殿の掲げる正義の旗印が、誰を突き飛ばし、誰の心を枯らしてきたのか……」

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