抜き身の一団
岡崎から大坂へ向かう道中、井伊の一団が通った後には、決まって妙な静寂が残った。
それは、華やかな上方の街道にあって、そこだけが「死地」であるかのような錯覚を周囲に抱かせた。
(……歩みが、遅い)
馬上から落とされた直政の冷徹な一瞥に、一団の末端にいた若党の肩が目に見えて跳ねた。
岡崎にて大政所を送り出した後、少しは緩むかと思っていた井伊の「軍律」は、大坂に近づくにつれ、もはや狂気と言える域にまで達している。
「兵部少輔殿……」
守勝は意を決して声をかけようとしたが、直政の横顔を見た瞬間に言葉が喉に張り付いた。
直政は、前方の空一点を見据えたまま、瞬き一つしていなかった。その瞳は、美しい硝子玉のように澄み渡っているが、そこには生身の人間が持つはずの「ゆらぎ」が一切ない。
(このお方は、また自分を殺しておられる……)
守勝には分かっていた。
直政は大坂という魔窟へ乗り込むにあたり、自らを徳川の「看板」という名の精巧な具足に作り替え、それを深く纏い始めているのだ。たとえ身に纏っているのが鎧ではなく直垂であろうとも、その精神はすでに完全に武装されている。その過程で、一団の供回りがどれほど疲弊しようと、今の直政の耳には届かない。
「木俣」
名を呼ばれ、守勝の背筋が伸びる。直政の視線は依然として動かない。
「大坂城は城ではない。……底なしの沼だ。一度足を取られれば、徳川ごと飲み込まれる。呼吸一つ、瞬き一つにまで、徳川の矜持を込めよ。……それ以外の感情は、すべてこの道に捨ててゆけ」
冷徹なその声は、励ましでも命令でもなく、ただの断定であった。
「それ以外」の感情――主君への忠義以外のすべてを削ぎ落とせという。
「はっ」と応じる守勝の声を背に、直政は静かに馬を進めていく。
淀川を越え、城下へ足を踏み入れた途端、一行を襲ったのは眩暈を誘うような熱気と騒音であった。
そこには、三河や岡崎の清廉な空気など微塵も残っていない。堺から流れ込んだ異国の香料が放つねっとりとした甘い匂い、魚市場の生臭い風、そして何より、溢れんばかりの人々が放つ「欲望」の汗が街全体を蒸し返らせていた。
見せ物小屋の騒々しい太鼓の音、商人たちの野卑な呼び声、派手な羽織を翻して闊歩する豊臣の武士たち。
そのすべてが、直政の肌には腐りかけた果実のように不快であった。
秩序よりも活気が、敬意よりも損得が優先されるこの地の空気は、規律こそが生命線である直政にとって、呼吸をするだけで肺を汚されるような毒に等しかった。
(……浅ましい)
直政は内心で吐き捨てた。
関白・秀吉が築き上げたこの繁栄は、泥の上に金粉を撒いたような脆い虚飾に過ぎない。だが、その虚飾に天下が平伏しているという事実が、直政の闘争心に鋭い毒を注いでいた。
やがて、その喧騒の先に、三河の武士たちがこれまで目にしたこともない巨大な影が現れた。
大坂城である。
天を突く五層の天守に、陽光を乱反射させる黄金の瓦。それは、他者に平伏させるためだけに積み上げられた、暴力的なまでの欲望の象徴であった。むせ返るような野望の匂いが立ち込める城下で、黒と朱の装いに身を包んだ井伊の一団は、まるで鏡のような水面に落とされた「一滴の墨」のように、異質に浮き上がっていた。
沿道に並ぶ豊臣の家臣たちが、驚愕を通り越し、ある種の嫌悪を込めてこの潔癖な一団を凝視する。
その視線の礫を浴びながら、直政はふっと表情を消した。
それは、峻厳な武士の貌ではない。
一点の曇りもない微笑を浮かべた、精緻な人形のような「外交官」の貌。
岡崎で大政所を心服させたあの「仮面」を、彼は再び、淀みなく装着したのである。
「守勝。これよりは、一息、一歩にまで作法を尽くせ。……我らはこれより、天下人に『徳川の誇り』という名の毒を喰らわせにゆくのだ」
黄金の深淵へと足を踏み入れるその背中は、もはや一人の男のそれではなく、徳川という巨大な意志そのもののように、冷たく輝いていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、時代考察の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。
日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。
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