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銀の松風、朱の早瀬  作者: 帆波
黄金の深淵
6/10

岡崎の薄氷

本作は休日に書き溜めた後、公開していきます。

見てくださっている方がいるかわかりませんが、ペースが遅く、申し訳ありません。

大政所を迎えるその日まで、岡崎城内には一瞬の安らぎもなかった。木俣守勝は、主である直政の背を追いながら、胃の焼けるような日々を過ごしていた。

「……やり直せ。その畳の縁、一分の歪みも許さぬと言ったはずだ」

直政の冷徹な叱咤が、掃き清められた廊下に響く。その視線は、もはや畳の目一つ一つの汚れすら許さぬほどに鋭い。守勝は、震えながら畳を運び出す兵たちに同情しつつ、意を決して直政の傍らに歩み寄った。

「兵部殿、いささか厳しすぎはしませぬか。相手は関白の母とはいえ、所詮は我が方が預かる『人質』にございます。最低限の失礼さえなければ、これほどまでに城内をひっくり返す必要もございますまい。兵たちも、これでは大政所が着く前に力尽きてしまいます」

守勝の現実的な進言を、直政は一瞥もくれずに切り捨てた。

「木俣、貴殿は甘い。関白の母が踏む畳一枚、目にする柱一本に、徳川の隙があってはならぬのだ。もしその一分の歪みを見て、猿の使いが『三河の軍律、この程度か』と侮れば、それが即ち、我が方の弱みとなる。……この饗応は、もてなしではない。城の隅々に至るまで、我らの刃が研ぎ澄まされていることを示す『戦』なのだ」

「戦、でございますか……」

「左様。人質を預かる以上、粗相があれば即座に開戦の火種となる可能性がある。その覚悟なき者は、今すぐこの城を去れ」

直政の瞳には、昏い炎が揺れていた。守勝は、直政がこの「人質預かり」を、徳川の死生を決する外交上の決戦と捉えていることを思い知り、それ以上言葉を続けることができなかった。

しかし、実際に入城した大政所は、守勝が身構え、直政が警戒していたような「天下人の母」とは程遠い姿であった。

彼女は、金箔が施された襖や磨き上げられた廊下に、感嘆するどころか、おびえていた。

慣れぬ城のしきたり、あまりに豪華な調度品に囲まれ、広すぎる座敷の隅でただ小さくなり、一刻も早く消えてしまいたいと言わんばかりに所在なさげな様子であった。

翌日の昼下がり、守勝は直政に随行し、大政所への拝謁に赴いた。

直政は大政所から三間ほど離れた位置で、完璧な形に平伏している。その距離は、主君家康に対するものと同じ、絶対的な不可侵の距離であった。

「大政所様。……いかがなされました。お顔の色が芳しくないようにお見受けいたしますが」

直政の声は、先日、部下に軍律を突きつけていた時の鋭さとは打って変わり、静かで、一点の曇りもない礼節に満ちていた。

だが、傍らに控える守勝には分かっていた。その丁寧さの裏側にあるのは、情愛ではなく、深淵のような冷静さであることを。

大政所は申し訳なさそうに顔を上げた。

「……いや、そんなこたぁにゃあがね。ただ、こんな立派なとこにおると、なんだか落ち着かんでよぉ。わらわみたいな、中村の田んぼにおった婆にゃ、ここにあるもんは全部ピカピカすぎて、なんだか身の置き所がにゃあわ」

困ったように笑う彼女の言葉を、直政は無表情のまま聞き届けた。守勝は、直政が瞬時に「人質の特性」を分析したのを感じた。同情ではない。この老女が萎縮して体調を崩せば、それこそ豊臣に攻め入る口実を与える。彼女を平穏に保つことこそが、完遂すべき「外交上の任務」なのだ。

「……ならば、これよりお部屋の設えを少し変えさせましょう。目を射るような金彩を下げさせ、落ち着いた色合いの設えに改めさせます。お召し物や食事も、手触りの良い紬や郷里に近い、飾らぬながらも滋味溢れるものを用意させましょう。少しは心安らぎましょうか」

「……まぁ。あんた、そんなことまでしてくれるんかね。……すまにゃあ、昨日もお名前を聞いたはずなんだが、何せこの歳で、こんな立派なとこに連れてこられて頭が真っ白になっとってよぉ。もう一度、教えてくれんかね」

「井伊兵部少輔直政にございます」

「井伊殿かね。……あんた、どえりゃあ綺麗な目をしておるがね。あの子の周りにも、あんたみたいに裏表のありゃあせん、澄み切った心の子がおればええのに。あの子、最近はきんきらきんの物ばっか集めて、周りにおるのも知恵の回る利巧な衆ばっかだで、わらわの言うことなんて聞きゃあせんから」

感極まった様子で、大政所は思わず身を乗り出し、畳に手をついて「あんたぁ……」と縋るような視線を直政へ向けた。無意識にその指先が、遠くにいる若武者の手を探すように泳ぐ。

だが、直政は微動だにせず、深々と頭を垂れることで、その無言の「三間」という間合いを維持した。手は決して触れ合わない。直政にとって、彼女はあくまでも「人質」であり、同時に「油断ならぬ外交の最前線」であった。

「……身に余るお言葉。某の努めは、大政所様に心安らかに過ごしていただくことにございます」

その完璧な、しかしどこか人間味を欠いた回答に、守勝は畏怖を覚えた。この男は、目の前の老女の「感謝」すらも、滞りない接待を完遂するための変数として処理してのけたのだ。

後日、大坂に戻った大政所は、秀吉に対し、楽しげに語り聞かせた。

「藤吉郎、よう聞きゃあ。井伊という若ぇ衆は、本当にええ子だったわ。わらわみたいな婆に、それはもう一生懸命に尽くしてくれてよぉ。あんなに清らかな目をした者は、滅多におりゃあせんて」

母として語った、飾らない賞賛。それが秀吉の耳には、どの外交文書よりも重く響いた。

「……ほう。おっ母様がそこまで言うか。井伊兵部とやらは、よほど使い勝手のええ男か、それとも底抜けの馬鹿か……どっちかの」

秀吉の好奇心に火がついた。

後日、大坂城より一通の書状が届く。

『大政所が世話になった。その礼を言いたい、大坂へ参れ』

それは、天下人の気まぐれと打算が混じり合った、直政への「召喚状」であった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、時代考察の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。

日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。

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