朱に明ける戦場
「……主水、待っていたぞ。木俣も、そのまま聞け」
直政の声は低く、しかし隠しようのない圧力を孕んでいた。彼は机の上に置かれた書状を、守勝と主水の前に突き出した。そこには主君・徳川家康の筆跡で、火急の命が記されていた。
「殿より、大役を拝命した。……関白秀吉が母、大政所が、まもなく岡崎へ入られる。我ら井伊隊は、その饗応と警護の全権を任された」
守勝は思わず息を呑んだ。
小牧・長久手の戦い以来、徳川と豊臣の間で続いていた一触即発の膠着状態。その均衡を破るために秀吉が送り出す、実母という名の「人質」。それは、家康が上洛し、臣従への道を選ぶか否かの、極めて危うい転換点であることを意味していた。
「……関白が、折れたのですな」
傍らの主水が、苦々しく吐き捨てるように呟いた。
天下人としての体面を捨ててまで実母を差し出してきた秀吉の譲歩。それは「これ以上の戦は望まぬ、速やかに上洛して臣従せよ」という強烈な誘いであり、同時に「これほどの手を尽くして拒めば、次は全軍をもって徳川を飲み込む」という、血を流さぬ最後通牒でもあった。
武を誇る忠勝らであれば「上洛など不要、攻め寄らば受けて立つ」と吠えるような局面だが、直政の瞳に宿っているのは、それとは異なる色の殺気だった。
「折れたのではない。あの猿が、我らを試しておるのだ」
直政の言葉は冷徹だった。立ち上がった彼は、窓のない薄暗がりの中で、まるで敵陣を見据えるかのように言葉を継ぐ。
「大政所を丁重にもてなし、かつ万が一の隙も見せぬ。岡崎での饗応が、徳川の武威と誠意を天下に示す場となる。……木俣、川手。直ちに兵を総動員せよ。膳の献立から警護の配置に至るまで、不手際は一切、許されぬぞ」
直政はそう言い切ると、机の端を強く指でなぞった。
槍一本で道を切り拓く忠勝ら譜代の将には、この化かし合いの主役は務まらぬ。新参者として冷徹に時勢を読み、主君・影となって泥を被ることを厭わぬ直政だからこそ、家康はこの徳川の存亡を懸けた大役を託したのだ。彼はその重すぎる荷を、誰と分かち合うこともせず、この暗い部屋で一人背負い込もうとしていた。
「……は。直ちに手配いたします」
主水が深く一礼し、退出のために静かに襖を引き開けた。
そのわずかな隙間から、廊下に満ちていた強烈な西日が室内に流れ込んだ。
長く伸びた陽光は、主が頑なに守り続けていた薄暗がりを容赦なく切り裂き、部屋の隅に置かれた朱い具足を鮮烈に射抜いた。その紅色は、これから始まる「もてなし」という名の戦を予感させるように、一際禍々しく照り映えていた。
守勝は、光の中に浮かび上がった具足の赤が、まるで直政が流す血の色のように見えてならなかった。拭いきれぬ不穏さを胸に抱きながら、彼は主水のあとに続いて、静かに部屋を辞した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、時代考察の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。
日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。
ブックマーク・評価・感想をいただけますと、
今後の執筆の大きな励みになります。




