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銀の松風、朱の早瀬  作者: 帆波
朱の孤独
3/10

適材適所の筆

続いて訪ねた榊原小平太康政の陣屋は、打って変わって静かな秩序に満ちていた。

練兵場の喧騒はなく、聞こえてくるのは風に揺れる木々の音と、時折響く板敷を歩む足音だけである。

守勝は案内されるまま、奥の書斎へと足を運んだ。そこでは、かつての同僚である康政が文机に向かい、淡々と筆を走らせていた。その背筋は微塵も揺るがず、流れるような動作で書状を改めていく。

康政は守勝の気配を察しても、すぐには顔を上げなかった。手元の書状を最後まで読み終えると、満足げに一頷きしてようやく筆を置く。

「木俣か。……逃げてきた者の行方を追ってきたか」

その涼やかな声に、守勝は一礼して歩み寄った。

「……小平太様、お手数を。兵部の不徳、申し訳ございませぬ」

康政は机の上に広げられた一通の報告書を、指先で軽く叩いた。

「謝る必要はない。この算用状を見てみろ。数字の並びに淀みがなく、なかなかに見事な能書家だ。これほどの腕を持つ者を『百姓に劣る不浄』と切り捨てるとは、兵部も贅沢が過ぎるな。……怯えが、筆を狂わせていただけのことだ」

(……適材適所、か)

守勝はその書状を眺めながら、胸の奥が締め付けられるような思いがした。

忠勝が「人は千差万別だ」と個々の特性を認めたのに対し、康政はそれを「環境が整えば機能する」という組織の理として処理していた。

だが、直政は違う。直政にとって、兵の不手際は能力の不足ではなく、常に「家康公への忠義の不足」と直結してしまうのだ。「忠義があるなら、死に物狂いで完璧にこなせ。できぬのは慢心か甘えだ」――。その苛烈なまでの正論こそが、本来あるべき組織の機能を焼き切っている。直政という極限の圧力が、兵たちの能力を育てるどころか、芽を出す前に踏みつぶしている。その歪みを、康政は淡々と機能不全として正してみせたのだ。

「……兵部は、鋭すぎますな。小平太様から見ても、やはり」

守勝が問いかけると、康政はわずかに口角を上げ、自嘲気味な笑みを浮かべた。

「鋭利な刃は、手入れを誤れば自分自身をも切り刻む。木俣、お主も殿より託された身なら、たまにはあいつを無理にでも茶に誘うか、酒でも浴びせて泥酔させてみろ。弓でも槍でも、適度な『遊び』がなければ、強すぎる力に耐えきれず根元から折れるものだ。常に張り詰めたままでいれば、いつか自重で砕けるということを教えねば、あの刃は長くは持たんぞ」

康政らしい、知性的でいて辛辣な忠告。だがその言葉の裏には、同じ徳川の重鎮として、直政という稀代の才能が自壊していくことへの危惧が隠しようもなく滲んでいた。

「……遊び、でございますか。茶、あるいは酒……」

「そうだ。あいつは、自分を『家康公への献上品』だと思い込んでいる。傷一つ、曇り一つあってはならぬと己を追い詰め、その重圧を周囲にも強いているのだ。だが、生身の人間は磨けば磨くほど減っていくものだということに、あいつは気づいていない」

康政は再び筆を執り、次の書状に目を向けた。その姿は、決して折れぬ「静水」のようであった。

「木俣、もう戻るのだろう。赤鬼が戻る前に居らねば、次はお主が『不忠』と言われかねん。……あのような男を繋ぎ止めておけるのは、徳川広しといえどお主ぐらいなものだ。あまり無理をせず、たまには息を抜けよ」

康政の促しと、淡々とした中にある労いに、守勝は苦笑して深く一礼した。

二人の陣には、形は違えど兵たちが息を吸える「隙間」があった。対してこれから戻る井伊隊にあるのは、兵部という絶対的な基準に届かぬことを恐れる「恐怖」のみである。

(兵部……貴殿が求める完璧は、この二人が持つ『ゆとり』の中にこそあるのではないか)

守勝は重い足を運び、再び、あの息の詰まる井伊の居館へと戻っていく。そこには、他家が持つ「ゆとり」を「甘え」と切り捨て、誰の手も借りずに独り、暗がりで自身の魂を削り続ける「赤鬼」が待っているはずであった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、時代考察の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。

日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。

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