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銀の松風、朱の早瀬  作者: 帆波
3.松影と朱炎
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3.5 口直しの茶

凪のような静寂が、茶室を支配していた。

直政は、空になった茶碗をじっと見つめている。喉の奥には、これまで味わったことのない清冽な甘みが残り、腹の底には氏郷の点てた熱が、心地よい重みとなって鎮座していた。

「……なぜ、ここまで某に説く」

直政の問いは、もはや鋭い棘を含んではいなかった。

「貴殿は関白殿下が最も頼りとする『秘蔵の将』、某は徳川の将だ。隙あらば噛み殺そうとする敵に、これほどの知恵を授けるのは、豊臣の利益に反するのではないか」

氏郷は茶杓を懐紙で拭いながら、どこか遠くを見るような目で微笑んだ。

「……先ほど城内の廊下で貴殿とぶつかった際、その瞳に宿る苛烈な憤怒を見て、思い出した男がおりましてな。名は伏せますが、そ奴もまた貴殿に劣らぬほど潔癖で、常に己を研ぎ澄ませていなければ気が済まぬ短気な友です。……ただ、その男は茶の湯の深淵に触れ、その苛烈さを一碗の静寂へと変える術を知っております」

氏郷の手が止まる。

「その男の瞳が、あまりに今の貴殿と重なったゆえ、つい構いたくなった。……ただのお節介ですよ。それに、もう一つ理由がある」

氏郷は少し顔を上げ、皮肉げに唇の端を上げた。

「関白殿下のもてなしは、いわば黄金を煮詰めたようなものだ。受け手の心を強引に豊臣の型に嵌め込もうとする。過去にもあれに腹を立て、憤懣を抱えたまま帰国し、そのまま心を閉ざしてしまった将を私は見てきました。それは、日の本にとっての損失です」

氏郷は静かに直政を見据える。

「殿下の悪趣味なもてなしで毒された心を、そのままに帰すのは、茶人として看過し難い。……これは某なりの『口直し』です。兵部殿、貴殿のような鋭き才能が、怒りに任せて身を滅ぼすのは実につまらぬ」

直政は鼻で笑い、試すように目を細めた。

「……随分な物言いだな。某が今の放言を関白殿下に告げ口すれば、貴殿の立場も危うくなるのではないか」

氏郷は驚いたふうもなく、むしろ愉快そうに口角を上げた。

「おや。……貴殿は、そのような真似をなされるお方かな?」

その微笑には、直政が卑怯な振る舞いなど決してしないという、無礼なほどの確信が満ちていた。

図星を突かれた直政は、毒気が抜かれたように小さく息を吐き、釣られるように苦笑を漏らした。

「……ふん。生憎と、告げ口に使うほど某の舌は安くない」

その表情は、どこか晴れやかだった。

その時、静寂を破るように襖の外から控えめな、しかし急を告げる声が響いた。氏郷の家臣、後藤喜三郎である。

「申し上げます。徳川家家臣・木俣守勝殿が門前にて、兵部少輔様をお探しです。……かなり取り乱したご様子にて、今にも門を蹴破らんとする勢いにございます」

氏郷が声を立てて笑った。

「……ふふ。案じずともよい、兵部殿。貴殿の器を埋める一滴目が、門前で待っておりますぞ」

直政はゆっくりと立ち上がった。その所作には、先ほどまでの刺々しい殺気は消え、代わりに将としての落ち着いた威厳が戻っていた。

「……次にまみえる時は、戦場か、あるいはまた茶室か」

氏郷の問いに、直政は戸口で足を止め、振り返らずに応じた。

「戦場であれば、貴殿の『空白』を我が赤備えが埋めてやってもよいし、あるいはその空白ごと貴殿を叩き割ってくれる。いずれにせよ、再会の折に貴殿の器を試すのは某だ。……そして茶室であれば、次は某が貴殿を黙らせる一碗を点ててみせよう」

「それは楽しみだ」

氏郷は脇に置いてあった竹製の茶筅を手に取ると、それを直政に差し出した。

「持っていかれよ。貴殿が某を黙らせる道具を揃える、その手始めに」

直政は一瞬、戸惑うように茶筅を見つめたが、壊れ物を扱うような慎重さで恭しく受け取ると、胸元の合わせに丁寧に、深く差し込んだ。

門の外に出ると、傾きかけた陽光が巨石を積んだ大坂城の輪郭を赤く染めていた。その光の中、必死の形相で駆け寄ってくる木俣守勝の姿があった。

「兵部様! どちらへ行っておられたのですか! 関白殿下の茶会をあのように中座され、行方知れずになどと……! 某、生きた心地がいたしませなんだぞ! 一歩間違えれば、不敬の咎で徳川と豊臣の再戦を招くところであったのですぞ!」

いつもの直政であれば、「喚くな。その狼狽が軍規の乱れを招き、徳川が侮られる隙となるのが分らぬか」と冷徹に咎めるところだった。

しかし、直政はふと足を止め、守勝の乱れた息と、主を求めて大坂の町を駆けずり回ったであろう土塗れの足袋を、静かに見つめた。

そして、無意識のうちに懐に手をやり、そこにある茶筅の硬い感触を確かめた。

(……この男も、己の風を吹かせていたのだな。俺を生かすために)

「……案じるな。無事に戻った。ゆくぞ、守勝」

短く、しかしそこには守勝の労苦を認めるような穏やかさが混じっていた。守勝は一瞬、鋭い叱責が飛んでこないことに呆然と立ち尽くし、それから弾かれたように「は、はっ!」と応じて、どこか安堵した様子で直政の後に従った。

氏郷の屋敷をあとにし、大坂の通りを歩む。

背後に感じる氏郷の気配。直政の胸中には、先ほどまで交わした対話の数々が、確かな重みを持って鎮座していた。

己の正義という檻を壊し、敵や家臣が抱く異質の風を自らの空白へと受け入れ、猛る憤怒を静かな熱へと変える術を、彼は確かにその手に掴んでいた。

「……兵部様、何か仰いましたか?」

ふと足を緩めた主の背に、守勝が怪訝そうに問いかけた。直政は、夕闇に溶けゆく大坂城の威容を一度だけ視界の端に捉え、すぐに視線を前に戻した。

「……何でもない。急ぐぞ」

吹き抜ける晩秋の澄んだ風が、以前よりも心地よく感じられた。歩みに合わせて、懐の茶筅が微かに鳴る。

井伊直政という器に、今、新しい風が満ちようとしていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、時代考察の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。

日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。

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今後の執筆の大きな励みになります。

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