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銀の松風、朱の早瀬  作者: 帆波
3.松影と朱炎
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3.4 凪の器

氏郷は、まだ手をつけていない茶碗を静かに指し示した。その茶碗は、ただそこにあるだけで、ひとつの完成された世界を形作っているように見えた。

「兵部殿。この茶碗がなぜ『器』として成り立つか、お考えになったことはあるか?」

唐突な問いに、直政はわずかに眉を寄せた。先ほど突きつけられた「配下の心を枯らしてきた」という言葉の衝撃が、まだ胸の奥で疼いている。

「……形を成し、茶を漏らさぬゆえでは」

「否。中が『から』だからです。空であるからこそ、こうして茶を注ぎ、人をもてなすことができる」

氏郷の視線が、直政の瞳の奥深くまで入り込んでくる。

「人の上に立つ者の器量も同じです。己が万能であろうとし、己の正義で器を溢れさせてしまえば、そこには配下の才や想いを注ぎ込む余地など一滴も残らぬ。貴殿は一人で百や千の働きをしようとするが、それは配下の居場所を奪い、彼らの心を枯らしているに等しい。……己をあえて不完全なままに置き、他者の力を受け入れる『空白』を抱えること。それこそが、人を束ねる者の器というものだ」

直政の心の中に、冷たい怒りが再燃した。完璧であることを求め、死に物狂いで先陣を担ってきた自負を、真っ向から否定されたと感じたからだ。

「空白、だと……。戯言を!」

直政は畳を拳で叩いた。その拳は微かに震えている。

「戦場は一瞬の油断が全軍の死を招く場所だ。貴殿は、某がどれほどの思いで赤備えを率いているかご存知か! 徳川の旗印を汚さぬため、そして、一度は潰えかけた井伊の名を我が代で完全に再興させるため……某は誰よりも早く走り、誰よりも強くあらねばならなかった。某が歩みを止めれば、完璧でなければ、その瞬間に背後の兵たちは泥を啜り、井伊の誇りは再び土に塗れるのだ!」

直政の言葉には、悲痛な叫びが混じっていた。亡き養母・直虎から託されたもの、かつて故郷を追われた屈辱、それらすべてを跳ね返すためには、一分の隙も許されない。

「己を不完全なままに置くなど、配下に対する、そして先祖に対する最悪の不義理ではないか。某が全てを背負わねば、誰が彼らを守り、この家を支えるというのだ! 貴殿とて同じはずだ。戦場では常に先陣を切り、誰よりも武功を挙げようとしていると聞いている。それは、配下に場所を与えず、己一人で手柄を独占する『不信』の現れではないのか! 貴殿の言、矛盾に満ちている!」

直政の鋭い切っ先のような反論。それは、彼がこれまで背負ってきた孤独な責任感の裏返しでもあった。しかし、氏郷はわずかに目を細め、満足げに微笑んだ。その反論こそが、直政が真剣に己の「将としての在り方」を模索し、必死に兵たちと家名を守ろうともがいている証拠だと受け止めたかのように。

氏郷は背筋を伸ばし、一国の主としての威厳を纏って告げた。

「兵部殿。『信用』と『信頼』……この二つを混同されては困る」

「……何が違うというのだ」

「私が先陣を切り、突破という役割を果たす。それは、蒲生氏郷という個の武勇に対する、軍としての『信用(計算)』だ。私が道を拓けば、勝機が生まれる。それは盤面を動かすための駒の働きに過ぎない。……だが」

氏郷の言葉が、一段と重みを増す。

「その背後を、殿しんがりを、軍の補給を……私の命のすべてを、私は配下に預けきっている。私が突出すれば、当然背後は疎かになる。だが、彼らが必ずそこを埋め、私を生かしてくれると確信している。……これが私の思う『信頼』だ」

直政の息が止まる。

「貴殿がやっているのは『信頼』ではない。ただの『支配』だ。貴殿は配下を、自分と同じように動く人形として監視しているに過ぎない。彼らを死なせまいとし、家を興さんとする一念は尊いが、そのやり方では、彼らは貴殿の駒にはなれても、背中を預け合う『軍』にはなれぬ。貴殿が倒れれば、その瞬間にその軍は瓦解するだろう。それは、彼らの可能性を貴殿が殺しているからだ」

直政は絶句した。

「支配」と「信頼」。自分がこれまで井伊の赤備えに課してきた苛烈な軍規は、彼らを強くするためではなく、自分が「誰も信じていない」という恐怖から逃れるための、逃げ場のない檻だったのではないか。自分が一人で背負おうとすればするほど、再興を誓い集った兵たちは「主君に頼りにされていない」という寂寥の中で、心を枯らしていったのではないか。

氏郷はそれ以上何も語らず、静かな手つきで茶碗を直政の方へと押し出した。

直政は、震える手でその茶碗を手に取った。

重い。これほどまでに一碗の茶を重く感じたことはなかった。目の前の茶は、氏郷が言う「配下の才」そのもののようであり、同時に、自分がこれまで突き放してきた者たちの沈黙の叫びのようにも見えた。

ゆっくりと、それを口に含む。

茶の熱さは感じなかった。ただ、極限まで研ぎ澄まされたその味わいが、己の傲慢さを凍りつかせる冷徹な鏡となって、直政の魂の最深部を射抜いていた。

しかし、その冷たさの後に、微かな変化が訪れた。

飲み干したあとの、空になった器を見つめる。

そこには、先ほどまでの重苦しい沈黙ではなく、何かが削ぎ落とされたような不思議な静寂があった。鼻腔を抜ける茶の香りは、凝り固まった直政の胸の支えを、ほんの少しだけ解きほぐしていくようだった。

(……空、か)

ふと、茶室の外を抜ける風の音が聞こえた。

それは、これまで直政が聞き流してきた、あるいは自分の風でかき消してきた、自然のままの風の音だった。

井伊の赤備えという、無敵を誇るはずの軍。それが、実は自分一人の「狭い正義」という枠の中に押し込められた、ひび割れだらけの器だったのだという気づきは、確かに辛い。

だが、空になったこの器には、これから新しい何かが注がれる余地がある。

氏郷の点てた茶が、直政の体温と混じり合い、じわりと腹の底から温かさを広げ始めた。それは、絶望の淵で差し出された、唯一の救いのような温もりだった。

直政は深く、長く息を吐いた。

茶室には、氏郷の静かな呼吸と、直政の落ち着きを取り戻した吐息が、新緑の匂いを孕んだ風と共に、静かに響き合っていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、時代考察の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。

日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。

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今後の執筆の大きな励みになります。

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