3'-1 黄金の毒
蒲生氏郷にとって大坂城は、呼吸を拒む場所であった。
登城の道すがら、嫌でも視界に飛び込んでくる眩暈のするような装飾の数々。聚楽第から続くあの「黄金の茶室」に象徴される、悪趣味なほどに塗り潰された輝き。それらは氏郷にとって「美」などでは到底なく、ただの、権力の死骸に見えた。
信長公という、天を衝くような苛烈な美を知る者からすれば、秀吉のそれはあまりに生臭く、粘り気のある欲望の塊でしかない。
(……目に余るな。光が強すぎて、物の輪郭をぼやかしている)
金銀で隙間なく埋め尽くされた空間には、空気が通る「余白」がない。壁という壁、柱という柱に施された過剰な彫刻と金箔は、そこにあるべき静謐を食い破り、見る者の網膜に直接突き刺さってくる。それは人の魂を少しずつ麻痺させ、思考を奪い、家臣たちを卑屈な飼い犬へと変えてゆく毒だ。
城内の至る所からは、澱んだ熱気と共に諸将の濁った笑い声が漏れ聞こえてくる。関白殿下の機嫌を伺い、黄金の欠片を拾おうと目を血走らせる者たちの気配。その生理的な嫌悪に耐えかね、氏郷はふと、自身の喉の奥が砂を噛んだように乾いていることに気づいた。
「この城には、風が通らぬ」
独りごちた氏郷は、供を連れることさえ厭い、独り歩き出す。煌びやかな中心部を離れ、静寂だけを求めて城内の閑散とした回廊へと足を進めた。
中心部の熱狂が遠ざかるにつれ、廊下の灯火は疎らになり、代わりに夜の冷気が足元から這い上がってくる。ようやく辿り着いた、誰もいない暗がり。そこは黄金の毒が届かぬ、冬枯れのような静寂が支配する場所だった。氏郷は冷えた石床の空気を深く吸い込み、網膜に焼き付いた不快な残光を洗うように、ゆっくりと瞼を閉じた。
その時である。
前方から、闇を切り裂くような激しく、かつ統制された足音が近づいてくるのを感じた。一歩一歩が重く、それでいて驚くほど速い。それは、迷いなき破壊の意志を宿した足音だった。
「――っ」
曲がり角から飛び込んできたのは、一筋の烈しい影であった。
周囲の状況を一切顧みない、自壊すら厭わぬ狂気じみた速度。氏郷の感覚が、ぶつかる直前にその「異質」を捉える。衝突する寸前、氏郷は反射的に左へ半身を翻し、間一髪でその勢いをかわした。
かわされた男は、止まることもできぬまま数歩よろめき、その場に立ちすくんだ。
肩で荒い呼吸を繰り返し、乱れた髪の間から覗く瞳には、今にも血を吐きそうなほどの苛烈な情念が宿っている。
氏郷はその姿に、一瞬で目を奪われた。
男が纏う「朱」は、城内の黄金を一切跳ね返し、むしろ周囲の闇よりも深く、重く沈んでいるように見えた。それは澄んだ朱ではなく、憤怒と拒絶に煮詰まった、暗く昏い「暗朱」の色であった。
(なんと……凄絶な目だ。まるで、己を焼く炎を必死に押し殺しているような)
その瞳は、大坂城に満ちる黄金の輝きを一切受け付けていなかった。闇よりも深い赤の中で、その光だけが異常なまでに純粋に、自らを焼き尽くさんばかりに燃えている。それは、潔癖すぎるがゆえに世界を敵に回してでも止まることを知らない、危うい刃の光だ。
氏郷はその異様な形相と、遥か奥の茶室から漏れ聞こえてくる秀吉の甲高い残響を耳にした瞬間、すべてを察した。
(徳川の使者、井伊兵部少輔……。なるほど、あの『太陽』に焼かれ、拒絶の末にこれほどまでに暗く、濁った赤となったか)
男が纏う苛烈さは、逃げ場のない熱に晒され、変質してしまった苦味そのものに見えた。その硬く、今にも折れそうな背中を眺めていると、氏郷の脳裏にある男の影がよぎる。自らの正義で周囲を切り裂きかねない、あの偏執的なまでに潔癖な男……。
黄金の毒に倦んでいた氏郷の心に、この男が持ち込んだ冷たい殺気は、驚くほど心地よく響いた。
毒を消してくれた礼として。あるいは、その危うき刃が自らの熱で溶けてしまう前に、一時の静寂という楔を打ち込むために。
「殿下の茶は少々苦味が強すぎたようですな」
氏郷は身をかわした姿勢のまま、苦悶に立ち尽くす暗朱の背中に向かって、回廊を渡る風のような声を投げかけた。
「……口直しに私の茶はいかがかな?」
氏郷は、この猛る風を一度、茶室という極小の空間に閉じ込めてみたいという、抗いがたい誘惑に駆られていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、時代考察の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。
日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。
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