第五話 十年ぶりの妹
妹と会ったのは、その日の夕方だった。
場所は、横浜駅近くの小さな喫茶店。
人目につかない場所がいいと遼が頼んだところ、水城がこの店を手配してくれた。
遼は窓際の席に座り、まだ手をつけていないコーヒーを眺めていた。
十年前なら、砂糖を二つ入れていた。
けれど今は、別に欲しいと思わない。
地下では甘い物などほとんど口にしなかったせいか、好みまで変わってしまったらしい。
「神代さん」
向かいに座っていた水城が時計を見る。
「そろそろです」
「はい」
遼も入口へ目を向けた。
少しだけ緊張していた。
魔物を前にした時とは違う。
どうすればいいのか分からない種類の緊張だった。
十年前、妹の美咲は二十九歳だった。
結婚したばかりで、遼は結婚式で酔っ払い、新郎に絡んで母親から散々怒られた。
美咲にも、
『兄ちゃん、ほんと最悪』
そう言われた。
それでも、あの時の美咲は笑っていた。
今は三十九歳。
子供がいるかもしれない。
顔だって変わっているだろう。
自分だって三十二歳から四十二歳になった。
十年という時間が、どれほど人を変えるのか。
遼にはまだよく分からなかった。
店の扉が開いた。
一人の女性が入ってくる。
遼は、その姿を見た瞬間に分かった。
「……美咲」
女性が足を止めた。
十年前より髪は短くなり、少し痩せている。目元には細い皺も増えていた。
それでも。
妹だった。
「兄ちゃん」
声は変わっていなかった。
遼は立ち上がった。
「久しぶり」
ほかに何を言えばいいのか分からなかった。
十年ぶりに会った妹へ最初に出た言葉が、それだった。
美咲は笑わない。
「……久しぶりって」
「うん」
「十年だよ」
「うん」
「死んだと思ってたんだから」
「ごめん」
美咲の眉が寄った。
「なんで謝るの」
「いや……」
「兄ちゃんのせいじゃないでしょ」
「そうだけど」
二人とも、そこで言葉が止まった。
水城が何も言わず席を立ち、少し離れた場所へ移動する。
「座る?」
「うん」
二人は向かい合って座った。
美咲は確かめるように、何度も遼の顔を見る。
「本当に兄ちゃんなんだ」
「たぶん」
「たぶんって何」
「俺もまだ実感なくて」
美咲が少しだけ笑った。
その瞬間、遼の胸に入っていた力が少し抜けた。
十年前と同じ笑い方だった。
「母さんのこと」
遼が言うと、美咲の笑顔が消えた。
「聞いた」
「そっか」
「……最後、どうだった?」
美咲はすぐには答えなかった。
コーヒーカップへ視線を落とし、縁を指でゆっくりとなぞる。
「ずっと待ってたよ」
遼は黙った。
「ニュースとか、調査報告とか、何か出るたびに確認してた。兄ちゃんが死んだって認定されたあとも、ずっと納得してなかった」
「そうか」
「兄ちゃんは帰ってくるって」
遼は何も言えなかった。
美咲が顔を上げる。
「最後まで言ってたよ」
「……ごめん」
「だから謝らないでって」
「うん」
「母さん、怒るよ」
「それは嫌だな」
「でしょ」
今度は二人とも笑った。
少しして、美咲が遼を見る。
「ニュースのこと、聞かないの?」
「兄ちゃんが帰ってきてからの?」
「うん」
黒崎のことも、能力試験のことも、連日報道されている。
美咲は少しだけ考えてから、首を横に振った。
「今日はいい」
「いいの?」
「今日は、兄ちゃんが帰ってきた話だけでいい」
遼は少し黙ってから、頷いた。
「そっか」
「うん」
ほんの少しだけ。
十年という時間が消えたわけじゃない。
失ったものも戻らない。
それでも遼は、その時初めて思った。
少しだけ。
帰ってきた気がした。
店を出たのは、それから二時間ほど経った頃だった。
気づけば外はすっかり暗くなっている。
「また会える?」
遼が聞いた。
「うん」
美咲は頷いた。
「今度、家来る?」
「いいの?」
「旦那にも話したから」
「何て?」
「兄がダンジョンから帰ってきましたって」
「そのままだな」
「そのままだからね」
「子供は?」
「二人いるよ」
遼が目を丸くする。
「俺、叔父さん?」
「十年前から」
「ああ」
「今さら?」
美咲が笑った。
遼も笑う。
「じゃあ、また」
遼が歩き出そうとすると、美咲が呼び止めた。
「兄ちゃん」
「ん?」
美咲は何かを言いかけて、一度口を閉じた。
それから、少しだけ困ったように笑う。
「もう、消えないでね」
遼は美咲を見た。
その言葉だけは、迷う必要がなかった。
「大丈夫」
今度こそ。
帰ってきたのだから。




