第四話 自由
外へ出て、最初に困ったのは金だった。
「……そういえば」
施設から数百メートル離れたところで、遼は立ち止まった。
十年前に持っていた財布は、もうない。正確には、第零遺跡のどこかに置いてきた。
携帯電話も、家の鍵も、銀行のカードも、身分証もない。
「帰るって言っても、帰る家がないな」
そこまで考えていなかった。
十年間、地上へ戻れさえすれば、それで全部元に戻ると思っていた。
そんなわけはない。
遼は歩道の端へ寄り、周囲を見回した。
道路を走る車は見覚えのない形ばかりで、空には小型の配送ドローンが飛び、建物の壁では巨大な映像広告が流れている。
その中に、自分がいた。
『人類未踏破、第零遺跡から生還――』
「……またか」
遼は顔を背けた。
行き交う人間の何人かがこちらを見ている。最初は一人だった。それが二人になり、やがて足を止める者まで出てきた。
「あれ……」
「神代?」
「え、本人?」
まずい。
遼は歩き出した。
「神代さんですよね!?」
後ろから声が飛んできたが、無視して進む。
「ちょっと待ってください!」
何人かが追ってきた。
走るほどではないと思い、ほんの少しだけ歩幅を広げる。
それだけで距離が開いた。
「はやっ!」
「え、何今」
遼は振り返った。
追ってきた人間たちは、もうかなり後ろにいる。
「……」
別に急いだつもりはなかった。
十年間、魔物から逃げ、魔物を追い、崩れる床から跳び、毒霧が来る前に走った。
そんなことを毎日のように繰り返してきたせいで、地上へ戻った自分の身体がどの程度変わっているのか、遼自身にもまだ分かっていない。
「もう少しゆっくり歩くか」
意識して速度を落とした。
一時間後、遼はコンビニの前に立っていた。
「まだあるんだ」
看板の色は変わっていたし、店名にも見覚えはない。
それでも、どう見てもコンビニだった。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
その声を聞いただけで、少し安心した。
店の中には弁当、おにぎり、パン、飲み物、菓子と、十年前にもあったものが当たり前のように並んでいる。
「すごいな……」
遼は棚の前で立ち止まった。
地下で食べていたのは、魔物の肉や菌類、地下水、たまに見つかる妙に甘い木の実だった。
途中から味などどうでもよくなった。
死ななければいい。
食事とは、それだけのものになっていた。
目の前に鮭のおにぎりがある。
遼は手に取って値段を見た。
「百九十八円」
高くなっている。
もっとも、値段以前の問題だった。
「……金ないんだった」
おにぎりを棚へ戻す。
「神代さん?」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、若い店員が目を大きくして遼を見ている。名札には〈田口〉と書かれていた。
「やっぱり! 昨日の!」
「ああ」
「第零遺跡の!」
「そうです」
「うわ、本物だ……」
田口は慌ててカウンターの方を振り返った。
「店長! 神代さん!」
「呼ばなくていいです」
「え?」
「すぐ出るので」
遼がおにぎりへ視線を戻すと、田口もそちらを見る。
「何かお探しですか?」
「いや」
「お腹空いてません?」
「まあ」
「じゃあ買って――」
「金がないんです」
「……え?」
「十年前の財布しか持ってないので」
正確には、その財布すらここにはない。
田口は数秒固まったあと、思わずというように笑った。
「じゃあ、これ俺が出しますよ」
「何で?」
「何でって……十年間ダンジョンにいた人に、おにぎり一個くらい」
「いいですよ」
「いやいや」
「知らない人に金出してもらうの嫌なので」
「でも」
「大丈夫です。ありがとうございます」
遼は棚から離れ、そのまま店を出ようとした。
「待ってください!」
田口が呼び止める。
「これ」
差し出された小さな袋には、おにぎりと水とパンが入っていた。
「廃棄になるやつなんで」
「嘘ですよね」
「……分かります?」
「時間まだ昼ですけど」
「細かいな、この人」
田口が笑う。
遼も少し笑った。
「じゃあ、もらいます」
袋を受け取る。
「今度返します」
「別にいいですよ」
「返します」
「じゃあ、また来てください」
「はい」
店を出た遼は、近くのベンチへ座った。
袋から鮭のおにぎりを取り出したものの、フィルムの剥がし方が分からない。
「……あれ?」
よく見ると、三角形の包装に番号が書いてある。
まず一番を引き、次に二番、三番。
「おお」
綺麗に海苔が巻かれた。
少し感動しながら口へ運ぶ。
「……うま」
特別な高級料理でもない。
ただのコンビニのおにぎりだった。
でも、十年ぶりの米だった。
遼は急がず、一口ずつゆっくり食べた。
途中で手が止まる。
昔、母が握ったおにぎりを思い出した。
形が悪くて、海苔はいつもしなしなで、鮭を入れすぎるせいでよく崩れた。
遼は口の中のおにぎりを飲み込んだ。
もう母はいない。
その事実が、昨日より少しだけ近くなった。
その頃、日本探索者協会本部では緊急会議が続いていた。
「追跡は?」
「しています」
「本人に気づかれていないだろうな」
「視認距離を取っています。ドローンも民間機に偽装しています」
「絶対に刺激するな」
大型モニターには遼の現在位置が表示されている。
集まっているのは協会だけではない。警察庁、防衛省、内閣危機管理室からも人間が来ていた。
別のモニターには、第零遺跡から回収されたガルムの死体と、その切断面の解析結果が映されている。
「本当に風属性なのか?」
「魔力反応は確認されています。ただし、既存の風属性攻撃とは構造が違います」
「出力は?」
「測定不能です」
室内が静かになった。
「また測定不能か」
「ガルムはA級指定魔物だぞ。黒崎が単独で倒せる相手ではない」
「それを素手で?」
「正確には、手の動作に合わせて何らかの斬撃が発生しています」
「スキル名は?」
「不明です」
「本人に聞け」
「検査を拒否しています」
「強制しろ」
一人の男が言った。
室内の空気が止まった。
発言した本人も、すぐに自分が何を口にしたのか気づいたらしい。
「……いや」
別の男が資料を閉じた。
「誰が?」
答えられる者はいなかった。
食事を終えた遼が次に向かったのは、母の墓だった。
水城が昨夜教えてくれた住所は覚えている。
問題は、十年の間に地理も交通手段も随分変わっていたことだった。
駅へ行っても路線図がよく分からず、切符の買い方まで変わっている。
「スマホがないと面倒だな」
十年前にもスマートフォンはあったが、今は何をするにも必要らしい。
「すみません」
遼は駅員へ声をかけ、墓地の住所を伝えた。
駅員はすぐに行き方を調べてくれたが、途中で尋ねた。
「交通系IDは?」
「ないです」
「カードは?」
「ないです」
「現金は?」
「ないです」
「……」
「すみません」
駅員が困った顔をした。
遼も困っている。
「ちょっと待ってください」
駅員は一度奥へ引っ込み、数分後に戻ってきた。
「神代さんですよね?」
「またですか」
「ニュース見ました」
「そうです」
「事情は聞いてます。今回はこれ使ってください」
一日乗車用の仮カードを差し出される。
「いいんですか?」
「上から許可が出ました」
「上?」
「協会から連絡が来てます」
遼の顔から笑みが消えた。
「……協会?」
「はい」
「俺がここにいるって、何で知ってるんです?」
駅員は答えられなかった。
遼は周囲を見る。
監視カメラ、天井、改札、行き交う人々。
その中で、何人かが不自然に視線を逸らした。
「なるほど」
遼は仮カードを返した。
「いりません」
「でも」
「歩きます」
「ここからだと、かなり遠いですよ」
「大丈夫です」
そう言って駅を出た。
三十分後、遼は川沿いを進んでいた。
本人は歩いているつもりだった。
ただ、普通の人間から見れば、そうは見えない。
一瞬で数メートル進んでいる。
走っているわけでもなく、ただ脚へ少し力を入れるだけで身体が前へ出た。
「これくらいなら」
道路を走る車より、少し遅いくらいだった。
人の少ない道を選び、そのまま進む。
墓地へ着いた時も、息はまったく切れていなかった。
受付で事情を説明すると、管理人は黙って墓の場所を教えてくれた。
神代家之墓。
そこには母の名前が刻まれている。
神代和子。
享年六十五。
「七年前か」
遼は墓の前へ立った。
花は買えなかった。
線香もない。
何も持っていない。
「母さん」
声に出してみる。
当然、返事はなかった。
「帰ってきたよ」
十年間、ずっと言いたかった言葉だった。
地上へ帰ったら、最初に言おうと思っていた。
「遅かったけど」
風が吹いた。
遼はしゃがみ、墓石へ手を触れた。
「ごめん」
その一言だけは、口にするまで少し時間がかかった。
「神代さん」
後ろから声がした。
遼は振り返らなかった。
「水城さん」
「……気づいてました?」
「施設出た時から」
「じゃあ、どうして何も」
「危害ないから」
水城が隣まで来た。
今日はスーツ姿で、手には花を持っている。
「これ」
「母に?」
「はい」
「ありがとうございます」
遼は花を受け取り、墓へ供えた。
「綺麗ですね」
「お花、好きだったんですか?」
「知りません」
「……え?」
「考えたことなかったな」
遼は少し笑った。
「息子なのに」
水城は何も言わなかった。
二人でしばらく墓を眺めたあと、水城が口を開く。
「妹さんから連絡がありました」
遼が振り返った。
「会ってくれる?」
「はい」
ほんの少しだけ、遼の表情が変わった。
「いつ?」
「明日なら」
「分かりました」
「こちらで場所を――」
「水城さん」
「はい」
「一つ聞いていいです?」
「何でしょう」
「俺のこと、ずっと監視するんですか?」
水城は黙った。
「答えにくい?」
「……はい」
「じゃあ質問変えます。俺が嫌だって言ったら、やめます?」
水城はすぐには答えなかった。
「できません」
「そうですか」
「神代さんの力が、まだ何も分かっていません」
「だから?」
「危険かどうかも分からない」
「昨日からそればっかりですね」
「必要なことです」
「俺は危ないことしてないですよ」
「黒崎さんが死んでいます」
「またそれ?」
遼の声から、わずかに温度が消えた。
水城もそれに気づいたらしい。
「黒崎さんの件だけではありません」
「じゃあ何です?」
「あなた自身です」
「俺?」
「はい。あなたは、自分がどれほど強いのか把握していない」
「そうですね」
「その状態で自由に行動している」
「普通でしょう」
「普通じゃありません」
「どうして?」
水城は足元に転がっている石を見た。
「例えば、あなたが腹を立ててこれを蹴ったとします」
「はい」
「どれくらい飛ぶか分かりますか?」
遼も石を見る。
「分かりません」
「人に当たったら?」
「死ぬかもしれない」
「そうです」
「じゃあ蹴りません」
「そういう単純な話じゃないんです」
「俺には単純ですよ」
水城は少し言葉を探した。
「あなたの力は、使おうと思った時だけ問題になるわけではありません。事故だって起こり得ます」
「力があるだけで罪ですか?」
「違います」
「なら使わなければいい」
「事故が起きたら?」
「気をつけます」
「その『気をつける』の基準が、私たちには分からないんです」
遼は少し黙った。
言っている意味は理解できる。
自分自身ですら、地上でどの程度の力なら安全なのか分かっていないのだから。
「じゃあ、どのくらいなら大丈夫か試せばいい?」
「……はい?」
「俺も分からないんですよ」
遼は自分の手を見る。
「地上で、どこまでやったら人が死ぬのか」
水城の顔が強張った。
「ああ、そういう意味じゃなくて」
「……」
「力加減の話です」
「分かっています」
「本当に?」
「一応」
遼は笑った。
「じゃあ測りましょう」
「検査を受けるということですか?」
「拘束しないなら」
「しません」
「全部見せろって言わないなら」
「最低限必要な範囲だけです」
「ならいいですよ」
水城が少し息を吐いた。
「ありがとうございます」
「ただ、終わったら監視やめてください」
水城の表情が止まる。
「それは約束できません」
「じゃあやりません」
「神代さん」
「俺だけ譲るのおかしいでしょう」
遼は水城を見る。
「検査を受ける。協力する。その代わり、俺が何も悪いことをしてない間は放っておく。公平じゃないですか?」
そう言って手を差し出す。
水城はその手を見た。
「私に決定権はありません」
「じゃあ決められる人に聞いてください」
「分かりました」
遼は手を下ろした。
「あと」
「まだあります?」
「スマホ欲しいです」
「……」
「金も」
水城が一瞬だけ笑った。
「それは何とかします」
「助かります」
翌朝、遼は探索者協会の能力試験場にいた。
東京郊外に作られた広大な敷地で、周囲は厚いコンクリート壁に囲まれている。
中央には、巨大な金属製の標的が置かれていた。
水城のほかに協会職員や研究員、自衛隊関係者までいる。さらに、海外から来たらしい人間の姿もあった。
「大袈裟だな」
「昨日、A級魔物を一撃で倒した人が何を言ってるんですか」
水城が答えた。
「俺、A級ってまだよく分かってないです」
「昨日説明しました」
「強いんですよね」
「非常に」
「でも弱かったですよ」
「……その言い方、やめた方がいいですよ」
「何で?」
「敵を作ります」
「敵になったら困るんですか?」
水城は遼を見る。
「普通は困ります」
「なるほど」
遼は覚えておくことにした。
「まず筋力測定です」
研究員が標的を示す。
「この標的へ拳を当ててください」
「殴る?」
「はい。ただし最初は一割程度でお願いします」
「俺の一割が分からないんですけど」
「では、できる限り弱く」
「それなら」
遼は標的の前へ立った。
金属板の厚さは一メートル。背後には巨大な衝撃吸収設備まで設置されている。
「これ、壊していいんですか?」
「国内最高出力のS級探索者でも破壊できません」
「そうなんだ」
「安心してください」
研究員が笑った。
遼も笑う。
「じゃあ」
拳を握った。
十年間の地下生活で、最後の数年は武器すら必要ない場面が増えていた。
それでも、地上でどれほどまでなら安全なのかは分からない。
「このくらいかな」
できる限り弱く。
軽く叩いた。
金属板が消えた。
「……え?」
正確には、消えたのではない。
標的を支えていた設備ごと前方へ吹き飛び、そのまま後方のコンクリート壁へ激突した。
轟音とともに壁が崩れ、そのさらに向こうにある防護壁にまで亀裂が走る。
土煙が上がり、警報が鳴り始めた。
遼は拳を上げたまま固まっていた。
誰も喋らない。
やがて水城が、ゆっくり遼を見る。
「今」
「はい」
「どのくらいですか?」
遼は考えた。
嘘をつく理由はない。
「かなり弱くやりました」
「具体的には?」
地下で最後に戦った深淵王を殴った時と比べてみる。
「十%もないと思います」
研究員の一人がその場へ座り込んだ。
「何で?」
遼が聞いたが、誰も答えなかった。
施設の奥から誰かが走ってくる。
「測定値は!?」
「上限を振り切っています!」
「何ニュートンだ!」
「分かりません! センサーが壊れました!」
「予備は!」
「同じ規格です!」
周囲が一気に騒がしくなる。
遼は壊れた壁を見た。
「すみません」
水城が額を押さえる。
「だから言ったでしょう」
「何を?」
「あなたは普通じゃないって」
「今のは俺も驚きました」
「私たちはもっと驚いてます」
「弁償します」
「金ないでしょう」
「あ」
水城がため息を吐いた。
「次の試験は中止します」
「魔法もやるんじゃ?」
「やりません」
「何で?」
「試験場がなくなります」
「……なるほど」
遼は納得した。
その日の午後、能力試験の映像が流出した。
誰が流したのかは分からない。
ほんの十一秒の映像だった。
神代遼が標的を軽く殴り、標的が吹き飛び、壁が崩れる。
最後に、本人が困った顔で自分の拳を見る。
それだけだった。
投稿から三十分で再生数は一千万を超え、一時間後には三千万。そのまま世界中へ転載された。
《草》
《は?》
《何これ》
《編集だろ》
《S級でも壊せない標的じゃなかった?》
《本人が一番びっくりしてて草》
《これが十年間最深部にいた男》
《世界最強確定》
《黒崎が弱いんじゃなくてコイツがおかしかっただけでは?》
《俺TUEEEEEEEEE》
《こういうのでいいんだよ》
遼は新しく渡されたスマートフォンで、その画面を眺めていた。
「俺TUEEって何です?」
水城が横を見る。
「……知らなくていいです」
「褒められてます?」
「たぶん」
「ならいいか」
遼は画面をスクロールする。
知らない人間が、自分のことを好き勝手に話している。
強い。最強。化け物。英雄。神。
いろんな言葉が並んでいた。
その中で、一つだけ違うコメントが目に入った。
《黒崎さんを見殺しにした人でしょ?》
遼の指が止まる。
その書き込みには大量の返信がついていた。
《黒崎が勝手に突っ込んだんだろ》
《ざまあじゃね?》
《S級イキって死んだだけ》
《主人公に喧嘩売るからw》
《神代さん悪くなくね?》
《助ける義務ないだろ》
《弱い奴が悪い》
遼はしばらく画面を見ていた。
「神代さん?」
「みんな、同じこと言ってますね」
「何をですか?」
「助ける義務はないって」
水城の表情が変わった。
「ネットの意見です」
「でも」
遼は画面へ目を戻した。
大量の文字が流れている。
自分を擁護する言葉。
黒崎を笑う言葉。
それに賛同する言葉。
「俺、間違ってなかったんですね」
「神代さん」
水城がすぐに言った。
「それは違います」
遼が振り返る。
「何が?」
水城は真っ直ぐ遼を見る。
「責任がないことと、正しいことは同じじゃありません」
遼は黙った。
スマートフォンの画面では、まだコメントが流れている。
《黒崎ざまあw》
《スカッとした》
《最強主人公キター》
《次の無双まだ?》
遼は一つずつ読んだ。
そして、少し笑った。
「地上って優しいですね」
「……何がですか?」
遼はスマートフォンを持ち上げた。
「俺が何もしなくても、みんな俺の代わりに正しいって言ってくれる」
水城は何も答えなかった。




