第三話 正当防衛
第零遺跡を出た時、空はもう暗くなっていた。
入口の前には、遼が入った時より多くの人間が集まっている。
探索者。
協会職員。
警察らしき制服。
報道関係者。
その向こうでは、金属製の柵を挟んで何百人もの人間がスマートフォンを掲げていた。
「出てきたぞ!」
「神代遼だ!」
「黒崎は!?」
「黒崎さんはどこだ!」
ライトが向く。
眩しい。
十年間暗闇で暮らしていた遼には、魔物の攻撃よりこちらの方がよほど鬱陶しかった。
「すみません」
白石が前へ出る。
顔色は悪いままだった。
「道を空けてください」
「黒崎さんは?」
「中で何があったんですか?」
「神代さんが第十階層の魔物を一撃で倒したという情報がありますが!」
「測定不能って本当ですか!?」
質問が飛んでくる。
遼は立ち止まった。
「白石さん」
「……はい」
「これ、全部俺を待ってたんですか?」
「たぶん」
「すごいですね」
白石は答えなかった。
遼は周囲を見る。
地上へ出てから、何もかもが騒がしい。
地下では、自分の足音と魔物の声しかなかった。
十年前も東京へ出れば人は多かったが、これほど一人の人間へ視線が集中する経験はない。
「神代さん」
水城が人混みを掻き分けてやってきた。
「こちらへ」
「母の件、分かりました?」
水城の表情が一瞬止まる。
「……その件も含めて、中でお話しします」
「分かりました」
遼は素直に頷いた。
その横を担架が通る。
白い布がかかっていた。
一つ。
少し離れて、もう一つ。
黒崎と、途中で致命傷を負った探索者だった。
周囲から声が消える。
遼は担架を見る。
それだけだった。
「行きましょう」
水城が言った。
連れていかれたのは、朝とは違う部屋だった。
窓がない。
中央に机が一つ。
椅子が三脚。
壁際には監視カメラ。
遼は椅子へ座った。
「取調室みたいですね」
「実際、似た用途です」
水城の隣には知らない男がいた。
五十歳前後。
濃紺のスーツ。
机の上へ身分証を置く。
「警察庁特別災害対策局の須藤です」
「警察?」
「探索者関連の事件を扱っています」
「事件」
遼はその言葉を繰り返した。
「黒崎さんの件ですか?」
「そうです」
「魔物に殺されましたよ」
須藤は遼を見た。
「白石結衣さんを含め、同行者三名から事情を聞きました」
「はい」
「あなたは、黒崎剛志さんを救助できた」
「できたと思います」
「しかし救助しなかった」
「はい」
須藤の目が少し細くなる。
「なぜですか?」
「さっきも聞かれました」
「もう一度お願いします」
遼は椅子へ背中を預けた。
「本人が進むと言ったからです」
「それだけですか?」
「危ないとは言いましたよ」
「あなたは、あの魔物の能力を知っていた」
「昔戦ったことがありましたから」
「麻痺攻撃を?」
「はい」
「それを黒崎さんへ事前に説明しなかった」
「言おうとしました」
「戦闘が始まってからです」
「聞かれなかったので」
須藤は黙った。
遼は首を傾げる。
「何か問題あります?」
「問題があるかどうかを確認しています」
「そうですか」
「神代さん」
水城が口を開いた。
「黒崎さんは、あなたへ明確に助けを求めています」
「聞きました」
「それでも助けなかった」
「はい」
「どうしてですか?」
遼は少し考えた。
「助けなきゃいけなかったんですか?」
水城の表情が固まる。
「目の前で人が死にかけていたんですよ」
「地下じゃ珍しくなかったです」
「ここは地下じゃありません」
「分かってます」
「なら――」
「水城さん」
須藤が止める。
水城は口を閉じた。
須藤が遼を見る。
「あなたには、他人を救助する法的義務が常にあるわけではありません」
「ですよね」
「ただし、今回あなたは協会の実力検証に参加し、共同でダンジョンへ入っています」
「はい」
「同行者が危険に陥った際、救助可能だったのに意図的に放置した。この点については調査が必要です」
「調べてください」
遼はあっさり答えた。
「別に隠すことないので」
「……あなたは、自分が責められているという認識がありますか?」
「少し」
「少し?」
「白石さんも怒ってましたから」
「あなた自身は?」
「何を?」
「黒崎さんを助けなかったことを、後悔していますか?」
遼は黙った。
質問の意味を考える。
黒崎は死んだ。
助けようと思えば助けられた。
それは事実だ。
では助けるべきだったのか。
地下では、そんなことを考えている余裕はなかった。
助ければ自分が死ぬ。
食料が減る。
足を引っ張る。
音を出す。
怪我をする。
その一つで全員が死ぬ。
だから決めた。
自分が生き残るために必要なら助ける。
必要なければ助けない。
単純だった。
「してないです」
須藤の眉が動く。
「後悔していない?」
「はい」
「人が一人亡くなっています」
「知ってます」
「日本に七人しかいないS級探索者です」
「それ、さっきも聞きました」
「価値が分からない?」
「強さの話ですよね」
「社会的にも重要な人物でした」
「それは知りませんでした」
「知っていれば助けた?」
遼は少し考えた。
「分かりません」
水城が遼を見つめている。
「神代さん」
「はい」
「十年前のあなたも、そういう人だったんですか?」
遼は初めて返事に詰まった。
「……どういう人?」
「目の前で誰かが死んでも、助けられるのに助けない人です」
遼は机を見る。
十年前。
研究室。
発掘現場。
酒を飲んで笑っていた同僚。
母親。
妹。
記憶はある。
でも。
ひどく遠い。
「たぶん」
遼は言った。
「違ったと思います」
水城は何も言わなかった。
「でも」
遼は続ける。
「十年前の俺なら、あの遺跡で一年も生きてないですよ」
部屋が静かになった。
一時間後。
遼は別の部屋へ移された。
監禁ではないらしい。
ただし外へ出ることはできない。
「確認が終わるまで待ってください」
そう言われた。
遼としては構わなかった。
ベッドがある。
シャワーもある。
食事も出る。
地下より遥かに快適だ。
「テレビ……」
壁にある。
十年前より薄い。
リモコンを手に取り、適当にボタンを押す。
画面が点いた。
『本日、第零遺跡から突如現れた男性について――』
「俺だ」
遼はベッドへ座った。
画面には、自分が遺跡から出た瞬間の映像が流れている。
『男性は神代遼さん、四十二歳。十年前の〈大変革〉発生時、第零遺跡の前身となった遺跡で行方不明となっていました』
「四十二か」
言われて初めて実感する。
三十二歳で地下へ入った。
なら四十二だ。
鏡をまともに見る機会など、十年間ほとんどなかった。
『さらに神代さんは、人類最高到達地点である第十二階層より遥か深部から生還した可能性があり――』
映像が切り替わる。
自分が言った言葉。
『十二階って』
画面の中の遼が少し考えている。
『入口じゃないか』
スタジオが騒いでいる。
画面下には大きく、
〈謎の生還者〉
〈世界最強の可能性〉
〈十年間、最深部で何が?〉
文字が並んでいた。
「世界最強」
遼は笑った。
「大袈裟だな」
チャンネルを変える。
また自分。
変える。
自分。
変える。
今度は黒崎だった。
『速報です。S級探索者、黒崎剛志さんの死亡が確認されました』
遼の指が止まった。
『黒崎さんは神代遼さんの能力確認を目的とした第零遺跡探索へ同行しており――』
黒崎の写真が出る。
笑っている。
遼が見た顔とは随分違う。
次に。
若い女の子が映った。
『父は……』
泣いていた。
『父は、絶対に帰ってくるって言ってたので……』
遼は画面を見る。
娘。
黒崎に子供がいたらしい。
『いつも危ない仕事なのは分かってました。でも、S級だから大丈夫だって……』
声が詰まる。
『強いから、大丈夫だって……』
遼は黙って見ていた。
胸の奥に何かがある。
不快。
いや。
少し違う。
昔なら、もっと何か感じただろうか。
申し訳ない。
可哀想。
自分が助ければ。
そういうもの。
遼は自分の胸へ手を当てた。
何もないわけではない。
ただ。
薄い。
「……そうか」
黒崎にも家族がいた。
当たり前だ。
そんなことすら、考えていなかった。
テレビの電源を切った。
静かになった。
扉が開いた。
水城だった。
「神代さん」
「はい」
「ご家族について、確認が取れました」
遼が立ち上がる。
「母は?」
水城は手元のタブレットを見る。
「お母様の神代和子さんは……七年前に亡くなっています」
「……」
遼は動かなかった。
「死因は?」
「心不全です」
「そうですか」
「妹さんはご存命です。現在は神奈川県にお住まいです」
「会えます?」
「連絡を取りました」
「何て?」
水城が少し言いにくそうにする。
「すぐには会えない、と」
「……そうですか」
「十年間、死亡したものと思われていましたから。混乱しているんだと思います」
「まあ、そうですよね」
遼は笑った。
笑えていると思った。
「母の葬式」
「はい」
「俺、出てないんですよね」
「……はい」
「当たり前か」
また笑う。
水城は何も言わない。
「墓、あります?」
「あります」
「場所だけ教えてもらえますか?」
「確認が終われば、ご案内できます」
「お願いします」
遼はベッドへ座った。
十年。
地上では十年が過ぎていた。
当たり前だ。
自分だけ時間が止まっていたわけじゃない。
「母さん、俺が死んだと思ったまま死んだのかな」
水城が答えられずにいる。
「まあ」
遼は天井を見た。
「仕方ないか」
その言葉は。
思った以上に簡単に出た。
翌朝。
遼は再び事情聴取を受けた。
今度は須藤の他に、協会の幹部らしい男が二人いる。
「結論から申し上げます」
須藤が資料を置いた。
「現時点で、あなたを黒崎氏の死亡について刑事責任に問うことは困難です」
「そうですか」
黒崎自身が危険を承知で進行したこと。
遼が事前に通路の危険性を警告していること。
戦闘への参加義務について、契約上明確な規定がなかったこと。
何より。
黒崎を殺したのは魔物だった。
「ただし」
協会の男が続ける。
「今後、あなたには探索者としての活動を一時的に制限させていただきます」
「俺、探索者なんですか?」
「登録していただく必要があります」
「やらないと?」
「……」
男が一瞬止まる。
「ダンジョンへ立ち入ることができません」
「別に入りたくないですよ」
「魔物素材の売買もできません」
「困りません」
「スキルの使用にも、一部法的制限があります」
「それは困るかもしれない」
「街中での攻撃スキル使用は禁止です」
「攻撃しなきゃいいんですよね?」
「基本的には」
「なら大丈夫です」
協会の男が少し安心した。
「それと」
「はい」
「あなたの能力について、詳細な検査を受けていただきたい」
「嫌です」
即答した。
男が止まる。
「……理由を伺っても?」
「面倒だから」
「これは国家安全保障にも関わる問題です」
「俺には関係ないですよね」
「神代さん」
水城が呼ぶ。
「あなたほどの力を持つ人間が、何の情報も開示せず自由に行動するというのは――」
「駄目なんですか?」
「危険です」
遼は首を傾げる。
「誰に?」
誰も答えない。
「俺、何もしてませんよ」
協会の男が口を開く。
「昨日、一名を見殺しにしています」
「でも犯罪じゃないんですよね?」
「そういう問題では――」
「じゃあどういう問題なんです?」
声を荒らげたわけではない。
ただ質問した。
それだけだった。
それでも。
男たちは黙った。
遼には、その沈黙が少し不思議だった。
「俺は十年間、あそこから出たかったんです」
遼は言った。
「やっと出てきた」
誰も口を挟まない。
「それで今度は、地上で閉じ込めるんですか?」
「閉じ込めるわけではありません」
「検査が終わるまで、ここから出ちゃ駄目なんですよね」
「安全が確認されるまでは」
「誰の安全?」
また。
答えがない。
遼は小さく息を吐いた。
「俺は、家に帰りたいだけです」
「お気持ちは理解します」
「してないですよ」
協会の男の顔が強張る。
「十年ですよ」
遼は自分の手を見る。
「十年間、ずっと帰りたかった」
静かな声だった。
「出たら母親は死んでる。妹は会いたくない。知らない人たちには危険だから調べさせろって言われる」
顔を上げる。
「もういいでしょう」
「神代さん」
「帰ります」
立ち上がった。
入口に立っていた二人の武装職員が動く。
「申し訳ありませんが」
一人が手を出した。
「座ってください」
「嫌です」
「命令です」
遼は男を見る。
「誰の?」
「日本探索者協会からの正式な――」
「俺、所属してないですよね」
「神代さん」
水城が立つ。
「少しだけ待ってください。こちらも手続きを――」
「もう待ちました」
遼は扉へ歩く。
職員二人が前へ立つ。
「止まってください」
「退いて」
「できません」
「どうして?」
「指示を受けています」
「俺には関係ないです」
「力ずくでも止めます」
遼が止まった。
男を見る。
十年前なら。
ここで怒っただろうか。
警察を呼ぶ。
弁護士。
抗議。
法律。
そういう方法を考えただろう。
でも今は。
もっと簡単な方法を知っている。
「水城さん」
「……はい」
「この人たち」
遼は二人を指した。
「俺に攻撃します?」
「しません」
水城がすぐに答えた。
「絶対にしません。だから神代さんも、何もしないでください」
「分かりました」
遼は二人を見る。
「じゃあ退いてください」
「それはできない」
「そうですか」
遼は歩いた。
職員の一人が肩を掴む。
その瞬間。
遼の身体が反応した。
腕を取る。
捻る。
床へ落とす。
「ぐっ!」
もう一人が腰の武器へ手を伸ばした。
遼はそちらを見る。
「やめてください!」
水城が叫んだ。
男の手が止まる。
遼も止まった。
数秒。
誰も動かなかった。
「……今」
遼が聞く。
「俺を撃とうとしました?」
「神代さん」
「撃たないでくださいね」
笑った。
「たぶん死ぬので」
冗談のつもりだった。
誰も笑わなかった。
遼は床に倒れた男から手を離す。
「怪我してます?」
「……してない」
「よかった」
扉を開ける。
「神代さん!」
水城の声。
遼は振り返った。
「何です?」
「あなたは今、普通の人じゃないんです」
遼は少し考えた。
「知ってます」
「違います」
水城の声が震えていた。
「分かってない」
遼は彼女を見る。
「あなたが嫌だと言った時」
水城は続けた。
「誰も、あなたに無理やり言うことを聞かせられないんです」
「……」
「昨日の黒崎さんだってそうです」
「何が?」
「あなたが助けないと決めたら、死んだ」
「魔物に殺されたんですよ」
「でも、あなたが助けると決めれば生きていた!」
声が廊下へ響いた。
遼は黙る。
「今だって」
水城が言う。
「あなたが本気で帰ると言ったら、私たちは止められない」
「だったら帰らせてください」
「それが怖いって言ってるんです!」
初めて。
遼は水城の顔をちゃんと見た。
怖がっている。
自分を。
遼はその事実を理解した。
だが。
理解しただけだった。
「俺は」
遼は言った。
「何もしてませんよ」
「……」
「俺を止めようとしてるのは、そっちです」
水城は答えなかった。
遼は背を向ける。
廊下を歩いた。
誰も止めなかった。
施設の外へ出る。
太陽があった。
昨日と同じ空。
人。
車。
道路。
スマートフォン。
十年間夢に見た地上。
遼は大きく息を吸った。
「やっと」
自由になった。
そう思った。
その日の正午。
日本政府は緊急会議を開いた。
議題は一つ。
神代遼を。
誰が止められるのか。
答えを出せた者は。
一人もいなかった。




