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第十六話 命令

 遼は走っていた。


 正確には、自分では走っているつもりだった。


 一歩踏み込むたびに道路が後ろへ流れ、街灯や建物、交差点が視界の端へ現れては、次の瞬間には遠くへ消えていく。


 車を避ける。


 人を避ける。


 何より、道路を壊さないように気をつける。


 能力試験の時のようなことにはしたくない。


「……どこだ」


 久我たちがいる場所は分からない。


 それでも探す方法には心当たりがあった。


 第零遺跡で十年間、何度も使ってきた。


 暗闇の向こうに何がいるのか。


 壁の裏に何匹潜んでいるのか。


 どちらへ逃げれば生き延びられるのか。


 遼は走りながら意識を広げた。


 人間。


 魔物。


 魔力。


 地下では、それらを一つずつ感じ分けていた。


 最初は数十メートルしか届かなかった。


 それが数百メートルになり、最後の頃には、自分でもどこまで届いているのか分からなくなっていた。


「少しだけ」


 力を使う。


 何も起きない。


「……もう少し」


 範囲を広げた。


 世界が変わった。


「っ……!」


 遼は思わず速度を落とした。


 多い。


 地下とは比べものにならない。


 家の中。


 車の中。


 駅。


 病院。


 ホテル。


 地下施設。


 何百万という小さな魔力の反応が、一度に頭の中へ流れ込んでくる。


「地上、こんなにいるのかよ」


 当たり前のことだった。


 十年以上前までは、その中で暮らしていた。


 それでも、地下の静けさに慣れきった感覚には多すぎた。


 遼は慌てて範囲を絞る。


 探しているのは三人。


 同じ場所にいる。


 周囲に複数の人間。


 外から隔離された場所。


「……これ」


 走りながら、ポケットから持ち出したスマートフォンを取り出した。


 解放同盟が置いていった端末。


 意識を向ける。


 第零遺跡でも、魔物が残した血や触れた物から、微かな魔力を辿ったことがある。


 端末にも、何かが残っていた。


 人間が触れた時に残った魔力なのか、内部に使われている素材のものなのかは分からない。


 だが。


 同じ感覚が遠くにあった。


「あっちか」


 遼は方向を変えた。


 その時、ポケットの中で自分のスマートフォンが鳴った。


 水城だった。


「はい」


『神代さん! 今どこですか!?』


「分かりません」


『は!?』


「走ってるので」


『止まってください!』


「嫌です」


『神代さん!』


 遼は前を見たまま走り続ける。


「水城さん」


『何ですか!』


「久我さんたち、生きてます」


『分かっています』


「今なら助けられる」


『警察も動画を解析しています!』


「俺の方が早い」


『だからって――』


「前に、俺に言いましたよね」


 電話の向こうが少し静かになった。


『何をですか』


「黒崎さんの時」


「……」


「助けられたのに、助けなかった」


 あの時、水城に言われた。


 責任がないことと、正しいことは同じではない。


 遼は少しだけ速度を上げる。


「今回は助けます」


『同じ話ではありません』


「分かってます」


『相手は魔物じゃない。人間です』


「はい」


『殺さないでください』


 遼はすぐには答えなかった。


『神代さん』


「……分かりました」


『本当に?』


「久我さんたちを助けるだけです」


『約束してください』


 遼は前方へ意識を集中させた。


「殺さない」


 電話の向こうで、水城が息を吐く。


『……分かりました』


「水城さん」


『はい』


 遼は目を細めた。


 反応が近い。


「場所、見つけました」


 山間部にある、使われなくなった物流倉庫だった。


 周囲に民家はほとんどなく、広い敷地を高いフェンスが囲んでいる。


 遼は倉庫から数百メートル離れた場所で足を止めた。


 中に二十七人。


 そのうち三人が、ほぼ同じ場所に固まっている。


「ここだ」


 門には監視カメラ。


 見張りが二人。


 手には銃に似た武器を持っている。


 遼は隠れることもなく、普通に門へ向かった。


「止まれ!」


 男が武器を構える。


 遼は立ち止まった。


「神代遼です」


「……!」


 男の顔色が変わった。


「神代様」


 すぐに武器を下ろす。


「久我さんたち、いますよね」


「はい」


「会わせてください」


「お待ちしておりました」


「待ってた?」


「はい」


 門が開く。


「どうぞ」


 遼は少し拍子抜けした。


「戦わないんですか?」


「まさか」


 男は嬉しそうに笑う。


「我々が神代様へ武器を向けるなど」


「さっき向けてましたよ」


「神代様だと知らなかったので」


「俺じゃなかったら撃ってた?」


「侵入者なら」


「……そう」


 遼は敷地へ入った。


 誰も襲ってこなかった。


 それどころか、倉庫へ向かう道には人が並んでいた。


 一人。


 二人。


 十人。


 全員が遼へ頭を下げる。


「ようこそ」


「神代様」


「お待ちしておりました」


 遼は歩きながら、少しずつ気味が悪くなっていった。


「代表は?」


「奥におります」


「会わせてください」


「もちろんです」


 倉庫の大きな扉が開く。


 中央に、一人の男が立っていた。


 黒い仮面。


 動画に映っていた男と同じだった。


「神代様」


 男が両腕を広げる。


「お会いできて光栄です」


「仮面取って」


「はい」


 男は迷わず仮面を外した。


 三十代くらい。


 特徴の少ない、ごく普通の顔だった。


「名前は?」


「佐伯直人です」


「久我さんたちは?」


「無事です」


「会わせてください」


「もちろん」


 佐伯が片手を上げる。


 奥の扉が開いた。


 三人の人間が姿を見せる。


 久我。


 妻。


 娘。


 遼の表情が少し緩んだ。


「よかった」


 生きている。


 見た限り、大きな怪我もない。


「神代さん……」


 久我が遼を見る。


「すみません」


「謝らなくていいです」


 遼はすぐに返した。


「あなた、何も悪くないでしょう」


 久我の顔が歪んだ。


「帰りましょう」


 遼が三人へ近づく。


 解放同盟の人間は誰も止めなかった。


 遼は少し不思議に思い、佐伯を見る。


「連れて帰りますよ」


「はい」


「いいの?」


「もちろんです」


 佐伯は微笑んだ。


「神代様が望まれるなら」


 遼の足が止まった。


「じゃあ」


 振り返る。


「解散してください」


 佐伯の笑顔が僅かに止まった。


「この組織、いらないです」


「……」


「俺の剣とかもいらない。人を攫うのもやめてください」


「神代様」


 佐伯は落ち着いた声で言った。


「我々は、あなたのために行動しました」


「頼んでません」


「存じております」


「じゃあ何で?」


 佐伯は笑った。


「あなたには命令できないからです」


「……何?」


「政府も、協会も、法律も」


 佐伯はゆっくり遼へ近づいてくる。


「あなたへ命令することはできない」


「だから?」


「ならば、我々も同じです」


 遼の眉が動いた。


「我々も自由に行動しているだけです」


「人を攫って?」


「はい」


「犯罪ですよ」


「法律ですか?」


「そうですよ」


 佐伯は首を傾げた。


「神代様は、法律に従いますか?」


「……」


「国家が明日からあなたを拘束すると決めたら?」


「嫌なら拒否します」


「でしょう」


「それとこれは違う」


「何が違うのです?」


 遼は言葉に詰まった。


「我々には力があります」


 佐伯は続ける。


「国が我々を捕まえようとする。それが嫌なら抵抗する」


「……」


「神代様と同じです」


「違う」


「なぜ?」


「俺は人を攫ってない」


「黒崎剛志を助けませんでした」


 遼の目が変わった。


「それは――」


「助ける義務がなかった」


 佐伯が先に言う。


「ですよね?」


 遼は黙った。


「第三十一迷宮の探索者も同じです」


「やめろ」


「助ける義務がなかった」


「やめろって」


「あなたは悪くない」


 遼の拳がゆっくり握られる。


「あなたは何も間違っていない」


「黙れ」


 空気が揺れた。


 倉庫の窓が一斉に割れ、破片が外へ飛び散った。


 久我の娘が悲鳴を上げる。


「っ」


 遼はすぐに拳を開いた。


「……ごめん」


 佐伯は笑っていた。


「素晴らしい」


「何が」


「それです」


 割れた窓へ目を向ける。


「誰にも止められない力。怒るだけで世界が震える」


「俺はそんなもの――」


「必要です」


「いらない」


「あなたがいらなくても」


 佐伯は笑ったまま言った。


「我々には必要なんです」


 遼は、そこでようやく理解した。


 佐伯は自分を見ていない。


 神代遼という人間を見ているわけではない。


 見ているのは、力だけだった。


「佐伯さん」


「はい」


「俺、あなた嫌いです」


 佐伯の笑顔が止まった。


「俺のこと、何も知らないでしょう」


 遼が一歩近づく。


「十年間、何食ってたか知ってます?」


「……」


「何人で入ったか」


 佐伯の目が僅かに動く。


「何で俺一人になったか」


 久我も遼を見る。


「何人殺したか」


 倉庫が静まり返った。


 佐伯の笑顔が完全に消える。


「……殺した?」


「はい」


 遼は普通に答えた。


「最初は六人いました。一年後には二人。二年後には俺一人です」


「他の方々は」


 久我が掠れた声で聞く。


「魔物に?」


「一人は」


「残りは?」


 遼は少し黙った。


「二人は事故。一人は怪我が原因です」


「……」


「最後の一人は」


 遼の声が止まった。


 地下。


 水。


 食料。


 暗闇。


 眠っている間に、自分の鞄へ伸びた手。


 握られていたナイフ。


「俺が殺しました」


 久我の妻が、娘を抱き寄せた。


 佐伯は遼から目を逸らさない。


「……なぜ?」


「俺を殺そうとしたから」


「正当防衛です」


 佐伯はすぐに答えた。


 遼は佐伯を見る。


「ほら」


「……」


「またそれだ」


「何がです?」


「俺が何言っても、正しいことにする」


「ですが――」


「俺、自分が正しかったか分からないですよ」


 佐伯が止まる。


「殺さなくてもよかったかもしれない」


「……」


「逃げられたかもしれないし、話せたかもしれない」


「……」


「でも、殺した」


 遼は自分の手を見る。


 十年間、考えないようにしていた。


 生きるためだった。


 必要だった。


 仕方がなかった。


 そう何度も自分へ言い聞かせた。


「俺は、自分が正しいなんて一度も言ってない」


 遼は顔を上げた。


 佐伯は何も言わない。


 周囲には二十数人の人間がいる。


 全員が自分を見ていた。


「なのに、お前らが勝手に俺を正しくするな」


 遼の声が僅かに震えた。


「俺が間違ったら、間違ってるって言えよ」


 誰も動かない。


「嫌なら、嫌って言え」


 それでも誰も何も言わなかった。


 遼は本当に分からなかった。


「何で誰も言わないんだよ」


 佐伯が遼を見る。


 そして、小さく笑った。


「言えるわけがないでしょう」


 遼の顔が止まる。


 佐伯は割れた窓を指した。


「あなたに、今、誰が?」


 遼は何も言えなかった。


 その時。


 倉庫の入口から声がした。


「私が言います」


 遼が振り返った。

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