第十三話 敵
その日の夕方。
久我真人本人が、一本の動画を投稿した。
場所は自宅らしい。
背景には本棚と白い壁。
いつもテレビで見る時より髪は乱れ、目の下には薄く隈ができていた。
遼は新居のソファに座り、その動画を開いた。
『今回の記事について』
久我はカメラを真っ直ぐ見ていた。
『神代遼氏を攻撃する意図はありませんでした』
遼は黙って続きを見る。
『また、神代氏本人から、私や家族への攻撃をやめるよう発信していただいたことには感謝しています』
久我は一度、深く頭を下げた。
『ですが、記事の内容を撤回するつもりはありません』
遼の指が止まった。
『私は、神代氏が悪人だと言っているのではありません。むしろ逆です』
久我は少し間を置いた。
『神代氏が善人であったとしても危険だ、と言っています』
「……」
『なぜなら、今の社会はすでに、彼が怒る前に彼の敵を消し始めているからです』
遼は画面から目を離さなかった。
『神代氏は私を番組から降ろせとは言っていません。スポンサーへ圧力もかけていない。それどころか、私の家族を攻撃するなとまで言ってくれた』
久我は小さく息を吐いた。
『それでも、私は仕事を失いました』
遼の眉が僅かに寄る。
『これが、私が昨日の記事で書いたことです』
そこで久我は、一度言葉を切った。
『絶対的な力を持つ人間が危険なのではありません。その人間の顔色を窺い、本人が望んでもいないことまで先回りして実行する社会が危険なのです』
遼は、最近の出来事を思い出した。
ホテルの料理長。
無料になりかけた冷蔵庫。
頭を下げた峰岸。
久我の降板。
どれも自分は頼んでいない。
『神代氏本人が善人であり続ける限り大丈夫だ。そう考える方もいるでしょう』
久我は首を横へ振った。
『しかし、それでは駄目なのです』
『一人の人間が善人であることを前提にしなければ成り立たない社会は、すでに健全ではありません』
遼はソファへ背を預けた。
言っていることは分かる。
むしろ、ここ数日で自分も少しずつ感じ始めていたことだった。
久我は自分を悪人とは言っていない。
攻撃もしていない。
それどころか、かなり公平に話している。
分かっている。
分かっているのだが。
胸の奥に、少しだけ引っかかるものが残った。
自分は久我を助けた。
家族への攻撃を止めようとした。
降板させろとも言っていない。
それなのに、まだ自分が「危険」と言われる。
『最後に』
久我がカメラを見る。
『神代氏には、私のような人間を敵だと思わないでいただきたい』
遼の目が少し細くなった。
『私はあなたを排除したいわけではありません。ただ、誰もあなたに逆らえなくなる社会を恐れているだけです』
動画はそこで終わった。
遼はしばらく画面を見ていた。
「……なるほど」
言っている意味は分かる。
久我の考えも理解できる。
でも。
胸の奥に残った引っかかりが消えない。
「俺が何したんだよ」
思わず口から出た。
久我に何か言いたいわけではない。
ただ、さっきから画面に表示されている通知が邪魔だった。
遼はそれを消そうとして、見慣れない表示を何度か押した。
「これか?」
画面が切り替わる。
自分の顔が映った。
右上には赤い文字。
【LIVE】
「……は?」
遼は画面を近づけた。
数字がものすごい勢いで増えている。
どうやら通知を消すつもりで、配信を始めてしまったらしい。
そして。
配信は、少し前から始まっていた。
視聴者数。
二百三十万人。
「ちょっと待って」
「これ、どうやって切るんだ?」
コメント欄が爆発するように流れ始めた。
《神代さん悪くない》
《マジそれ》
《久我しつこすぎ》
《せっかく助けてもらったのに》
《恩知らず》
《まだ神代叩くの?》
《久我の方が危険だろ》
《敵確定》
《こいつ消せよ》
《神代さんが何したんだよ》
《正論》
《久我終わったな》
遼の顔から血の気が引いた。
「違う」
慌てて画面へ向かって言う。
「そういう意味じゃない」
コメントは止まらない。
《神代さん怒ってる》
《初めてキレた?》
《久我やば》
《逃げろw》
《今すぐ謝罪しろ》
《神代に喧嘩売るとか終わったな》
「怒ってないって」
遼は声を強くした。
「俺はただ、何もしてないのに危険だって言われるのが嫌だっただけで――」
《やっぱ怒ってるじゃん》
《敵認定きた》
《久我詰んだ》
《誰かあいつ黙らせろ》
「だから違うって」
遼はスマートフォンを操作する。
どこを押せば終わるのか分からない。
画面を触るたび別の表示が出てくる。
「くそ、何だこれ」
《ガチギレで草》
《久我終わった》
《神代さんの敵は俺たちの敵》
《やれ》
《消せ》
「違う!」
ようやく配信終了の表示を見つけた。
押す。
画面が暗くなった。
遼はしばらくスマートフォンを握ったまま動かなかった。
部屋の中が静かになる。
「……最悪だ」
水城へ電話をかけた。
呼び出し音は一回で切れた。
『神代さん!』
「ごめん」
『今の配信、何ですか!』
「間違えて起動した」
『二百万人以上見てましたよ!』
「知ってる」
『最後の方、コメント見ました?』
「見た」
『久我さんについては何も投稿しないでください。反応もしない。今すぐ全部止めてください』
「もう止めた」
『本当に?』
「うん」
『……』
水城が深く息を吐く音が聞こえた。
「水城さん」
『はい』
「俺、あの人を敵だと思ってないですよ」
『分かってます』
「ちょっと気に入らなかっただけです」
『それも分かってます』
「それだけなんですよ」
『はい』
「なのに」
遼は閉じた配信画面を見る。
「何であんなことになるんだ」
水城はすぐには答えなかった。
『神代さん』
「何?」
『今日はもうスマホを見ないでください』
「……分かった」
『私も久我さんの方を確認します』
「お願いします」
電話を切った。
遼はスマートフォンをテーブルへ伏せて置いた。
その夜は、もう一度も画面を見なかった。
翌朝。
午前七時四十三分。
水城からの電話で目を覚ました。
「……はい」
『神代さん』
声がいつもと違った。
遼はベッドの上で身体を起こす。
「何?」
『家から出ないでください』
「何で?」
沈黙があった。
「水城さん?」
『久我さん一家が、行方不明です』
遼は何も言えなかった。
「……一家?」
『久我真人さん。奥さん。娘さん。三人ともです』
「いつから?」
『昨夜から連絡が取れていません。今朝、警察が自宅を確認しました』
「家には?」
『誰もいません』
「どこか出掛けたとか」
『今のところ、その形跡も確認できていません』
遼はベッドから降りた。
「ちょっと待って」
リビングへ行き、テレビをつける。
すでにニュースになっていた。
【評論家・久我真人氏一家と連絡取れず】
画面には久我の自宅が映っている。
記者。
警察車両。
黄色い規制線。
遼の頭に、昨夜のコメントが蘇る。
《敵確定》
《こいつ消せよ》
《久我終わったな》
「……俺」
声が少し掠れた。
「何もしてないですよ」
『分かってます』
水城はすぐに答えた。
「消せなんて言ってない」
『分かってます』
「敵だとも言ってない」
『はい』
「俺はただ」
昨夜、自分が口にした言葉を思い出す。
俺が何したんだよ。
本当に、それだけだった。
「ちょっとムカついただけで」
『神代さん』
「何?」
『今からそちらへ行きます』
「俺も探した方が――」
『駄目です』
「でも」
『動かないでください』
遼の眉が寄る。
「俺なら探せるかもしれない」
『それでもです』
「何で?」
『今、神代さんが久我さんを探し始めたら、それ自体に意味がつきます』
「意味?」
『犯人探しを始めたと思われるかもしれない。報復だと思う人もいる。久我さんを助けようとしていると受け取る人もいる』
「助けるならいいでしょう」
『その後は?』
「……」
『神代さんが見つけた相手を、周りはどう扱います?』
遼は答えられなかった。
『あなたが何か言えば、誰かが動く』
「……」
『何も言わなくても、勝手に意味をつける人がいる』
水城の声が少し低くなる。
『だから今度は』
遼はスマートフォンを握った。
『何もしないでください』
遼は窓の外を見た。
自宅の前には、今日も人が集まり始めている。
自分を守れと叫ぶ者。
自分を自由にしろと訴える者。
そして久我を許すなと書かれた紙を持つ者までいた。
神代遼は初めて。
何をしても危険で。
何もしなくても危険な人間になった。




