第十一話 悪くない
その日の夕方、遼は新居の鍵を受け取った。
まだ家具も何も入っていない家の前で、手のひらに乗った鍵を見る。
「これで俺の家?」
「そうです」
隣にいた水城が答えた。
「久しぶりだな」
「家が?」
「自分の場所が」
遼は鍵を差し込み、自分の手で玄関を開けた。
中は何もない。
空っぽのリビング。
家具が届くのは明日だ。
広い家ではない。
それでも窓がある。
外の空が見える。
自分で閉められる扉があり、自分だけが持つ鍵がある。
「いいですね」
水城が室内を見回す。
「うん。かなり」
遼は庭へ出た。
夕日。
風。
木々の揺れる音。
静かだった。
十年間暮らした地下には、何一つなかったものばかりだ。
「ここなら普通に暮らせそうです」
水城は返事をしなかった。
「何で黙るんです?」
「いや」
「何?」
「今のところ、普通の新居祝いみたいだなと思って」
水城が少し笑った。
「普通でいいんですよ」
「そうですね」
「俺は、それがしたいだけです」
遼は空を見上げた。
水城も少しだけ笑った。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「もう誰か来た?」
「家具は明日ですよ」
「じゃあ誰だろ」
二人で玄関へ戻り、モニターを見る。
映っていたのは十代後半くらいの少女だった。
その後ろに四十代ほどの女性もいる。
二人とも知らない顔だった。
「誰?」
遼が聞く。
水城は画面を見たまま黙った。
「知ってます?」
「……たぶん」
「誰?」
「開けない方がいいかもしれません」
遼はもう扉を開けていた。
「はい」
少女が遼を見る。
「……神代さん?」
「そうです」
少女の目に涙が溜まった。
「お願いします!」
突然、深く頭を下げる。
「え?」
「お父さんを助けてください!」
後ろにいた女性も頭を下げた。
「お願いします」
遼は困って二人を見る。
「ちょっと待ってください。誰ですか?」
少女が顔を上げた。
「父が昨日からダンジョンで行方不明なんです」
水城が遼の隣へ出た。
「神代さん」
「知ってたんですか?」
「今朝、情報は来ていました」
「何で言わなかったんです?」
「神代さんに依頼する案件ではないと判断したからです」
「どういうこと?」
水城は少女へ目を向けた。
「現在、協会の救助隊が動いています」
「でも、まだ見つかってない!」
少女の声が大きくなった。
「捜索中です」
「もう十八時間です!」
水城は何も言わなかった。
「お父さん、怪我してるんです」
「通信があったんですか?」
「途中まで!」
少女がスマートフォンを取り出し、録音された音声を再生する。
『……足をやられた』
荒い呼吸が聞こえる。
『多分、動けない』
『救助を呼んだ』
『大丈夫だから』
『母さんには――』
ノイズ。
『心配するなって』
そこで音声は途切れた。
少女がスマートフォンを握り締めたまま、遼を見る。
「お願いします」
もう一度、頭を下げた。
「神代さんなら、助けられますよね」
遼の表情が少し固くなった。
最近、何度も聞いた言葉だった。
強いから。
できるから。
助けられるから。
「ダンジョンは?」
遼が聞く。
「神代さん」
水城が止める。
「場所だけ」
少女がすぐに答えた。
「第三十一迷宮です」
「危険度は?」
「B級指定です」
今度は水城が答えた。
「現在、A級探索者を含む救助班が入っています」
「なら、その人たちに任せた方がいいと思います」
遼は少女を見る。
「俺、そのダンジョン知らないし」
「でも、神代さんなら――」
「その言い方」
遼の声が少しだけ変わった。
少女が止まる。
「嫌なんです」
「……」
「俺なら何でもできるみたいに言われるの」
少女の顔が泣きそうに歪んだ。
「ごめんなさい」
「いや、怒ってるわけじゃ――」
「ごめんなさい……」
母親が少女の肩を抱いた。
「帰りましょう」
「でも!」
「神代さんには、神代さんの生活があるから」
その言葉に遼が止まった。
母親は遼へ深く頭を下げた。
「突然押しかけて、申し訳ありませんでした」
「……」
「失礼します」
少女だけが動かなかった。
「お願い……」
小さな声だった。
「お父さん」
涙が頬を伝う。
「死んじゃう」
遼はその顔を見た。
地下で何度も見た顔だった。
助けて。
お願い。
死にたくない。
頼む。
十年間で、何度も聞いた。
助けたこともある。
助けられなかったこともある。
助けなかったこともあった。
誰か一人を助けたせいで、もっと悪いことになったこともある。
遼は目を逸らした。
「ごめん」
少女の肩が落ちる。
「俺、もうダンジョンには入りたくないんです」
少女は何も言わなかった。
母親がもう一度頭を下げる。
「分かりました」
二人は車へ向かって歩いていった。
遼は玄関に立ったまま、その背中を見送る。
車が走り去ると、辺りはまた静かになった。
「神代さん」
水城が呼ぶ。
「何です?」
「それでいいと思います」
遼は水城を見る。
「救助隊はもう動いています。神代さんに全員を助ける義務はありません」
「昨日と言ってること違いません?」
「違いません」
「黒崎さんの時は助けろって言ったでしょう」
「黒崎さんは目の前にいました」
「今日は?」
「専門の救助隊がすでに動いています。あなたが行く必要はありません」
遼はしばらく水城を見ていた。
「本当に?」
「はい」
遼は玄関の扉を閉めた。
「じゃあ、いいか」
誰かに聞かせるというより、自分へ言い聞かせるような声だった。
「俺は悪くない」
水城の表情が少し変わる。
「神代さん」
「何?」
「今の言葉」
「うん」
「誰に言いました?」
遼は答えなかった。
その夜。
まだ家具の届いていないリビングで、遼は床に座っていた。
夕食はコンビニで買った弁当だった。
目の前にはテレビ。
手にはスマートフォン。
ニュースでは、第三十一迷宮で続いている救助活動が報じられていた。
『現在も探索者一名が行方不明となっており、協会は複数の救助班を投入して捜索を続けています』
画面に男の写真が映る。
四十六歳。
B級探索者。
妻と娘が一人。
夕方、自分の家へ来た二人だった。
遼は弁当を食べながらスマートフォンを開いた。
《神代に頼めば一瞬じゃね?》
《何で行かないの?》
《最強なんだろ》
《家族かわいそう》
《救えるのに救わないのはどうなの》
遼の眉が少し寄った。
さらに画面を滑らせる。
《神代にも生活あるだろ》
《何でも最強に押し付けんな》
《救助は協会の仕事》
《本人が嫌なら行く必要ない》
《また強者に責任押し付けてる》
《神代さんは悪くない》
遼の指が止まった。
「……そうだよな」
さらにコメントを見る。
《神代は自分の人生を生きろ》
《助ける義務ない》
《行かなくて正解》
《こういう乞食みたいな依頼増えたらキリない》
自分と同じことを言っている人間がいる。
しかも一人ではない。
何万人もいる。
それを見ているうちに、胸の奥に残っていたものが少しだけ軽くなった。
「そうだよ」
遼は弁当を口へ運んだ。
テレビの中では雨が降っている。
照明をつけた探索者たちが、次々と第三十一迷宮へ入っていく。
遼はその映像を見ながら、夕食を食べ終えた。
翌朝。
スマートフォンの通知音で目を覚ました。
ニュース速報だった。
【第三十一迷宮・行方不明の探索者を死亡状態で発見】
遼はしばらく画面を見た。
記事を開く。
発見時刻は午前四時十二分。
そして、推定死亡時刻。
午前一時頃。
少女の頼みを断ってから、約六時間後だった。
「……そうか」
それだけ言った。
スマートフォンに、新しい通知が表示された。
昨夜見たコメントだった。
《神代さんは悪くない》
いいね。
二十七万。
遼は、その数字をしばらく見続けていた。




