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第十話 お願い

 記事を読んでから一時間後。


 遼はホテルのロビーで、水城と向かい合っていた。


「本当に、俺は何も言ってないんです」


「分かってます」


「焼きすぎだなって独り言を言っただけです」


「それも聞きました」


「じゃあ、何で料理長がクビになるんです?」


 水城は少し言葉を選んだ。


「ホテル側が、あなたを怒らせる可能性を消しておきたかったんじゃないでしょうか」


 遼は黙った。


 昨夜の店員を思い出す。


 何度も頭を下げていた。


 顔色も悪かった。


 自分は、本当に怒っていなかった。


「料理長に連絡できます?」


「料理長本人に?」


「はい。あとホテルにも」


「何をするんです?」


「戻してもらいます」


「神代さん」


「俺が原因なら、戻すのが普通でしょう」


 水城は少し考えてから頷いた。


「……そうですね」


 二時間後。


 遼の前にはホテルの支配人が座っていた。


 正確には、座っていなかった。


 遼たちの席の前に立ち、深く頭を下げている。


「このたびは、多大なるご不快を――」


「それ、いいです」


 遼が途中で止めた。


「料理長を戻してください」


 支配人の表情が僅かに固まる。


「神代様」


「俺、本当に怒ってません」


「承知しております」


「じゃあ、何でクビにしたんです?」


「今回の件のみが理由ではございません」


「本当ですか?」


「……」


 支配人の目が一瞬だけ揺れた。


 それだけで、遼には十分だった。


「俺が原因なんですね」


「神代様、それは――」


「戻してください」


「ですが」


「お願いします」


 遼は普通に言ったつもりだった。


 命令ではない。


 お願いだった。


「承知いたしました」


 支配人は即答した。


「本日中に復職の手続きを進めます」


 遼が眉を上げる。


「……早いですね」


「はい」


「本人が戻りたくないって言ったら?」


「その場合は、もちろんご本人の意思を尊重いたします」


「ちゃんと聞いてくださいね」


「承知いたしました」


 支配人はまた頭を下げた。


 遼は水城を見る。


「これでいいですよね」


 水城はすぐには答えなかった。


「たぶん」


「たぶん?」


「神代さん」


「はい」


「今の、本当にお願いだったんですよね」


「そうですよ」


「支配人には、お願いに聞こえたと思います?」


 遼は支配人を見る。


 男はまだ立っている。


 背筋を伸ばし、笑顔を崩していない。


「……」


 遼は空いている椅子を指した。


「座っていいですよ」


「いえ、このままで結構です」


 即答だった。


 遼はもう一度、水城を見る。


 水城は何も言わなかった。


 午後。


 遼は新居に必要な家具や生活用品を揃えるため、水城と家電量販店へ来ていた。


 普通に暮らす。


 それだけのことなのに、十年分の分からないことがある。


「冷蔵庫って、こんなに高かったですっけ」


 目の前には大きな冷蔵庫が並んでいる。


「十年前より機能増えてますから」


「これ何です?」


「自動食材管理」


「いらない」


「即答ですね」


「冷えればいいです」


「神代さんらしい」


「どういう意味?」


「原始的」


「失礼だな」


 遼は笑った。


 最近は水城と、こういう会話をすることが増えた。


 彼女だけは遼へ必要以上に合わせない。


 嫌なものは嫌と言う。


 分からないことは分からないと言う。


 それが少し楽だった。


「これでいいです」


「一番安いやつ?」


「はい」


「お金あるでしょう」


「あるのと無駄遣いは別です」


「一億以上持ってる人の発言じゃない」


「一億しか、です」


「感覚おかしいですよ」


「この間までゼロだったので」


「……それはそう」


 二人で話していると、店員が近づいてきた。


「神代様」


「はい」


 妙に丁寧な笑顔だった。


「こちらの商品ですが、特別に無料でご提供させていただきます」


「……何で?」


「当店からの贈答という形で」


「いらないです」


「ですが、ぜひ」


「買います」


「神代様から代金をいただくわけには――」


「何で?」


 店員の言葉が止まる。


「俺、客ですよね」


「はい」


「じゃあ普通に払います」


「ですが」


「払わせてください」


 そこまで言ったところで、遼は気づいた。


 まただ。


 料理長を戻してほしいと言った時と同じ。


 自分は普通に頼んでいるだけなのに、相手の顔には「断る」という選択肢がない。


 店員は笑っている。


 でも、その笑顔はどこか固かった。


「……分かりました」


 店員が頭を下げる。


「では、通常価格でご案内いたします」


「はい」


「ありがとうございます」


 遼は少し変な気分になった。


 金を払うと言っただけなのに、礼を言われた。


 客なのだから普通なのかもしれない。


 でも。


 何かが違う。


 買い物を終え、二人は店を出た。


「水城さん」


「はい」


「あの店員、本当に俺に冷蔵庫あげたかったと思います?」


 水城は少し考えた。


「本心では、絶対に違うと思います」


「ですよね」


「おそらく上から指示されてます」


「どんな?」


「神代遼が来店した場合、最大限の便宜を図れ、とか」


「何でそこまで」


「企業としては普通の判断です」


「普通?」


「今の神代さん相手なら」


 遼はしばらく黙って歩いた。


「俺って、そんなに面倒ですか?」


「面倒というより」


 水城は言葉を選んだ。


「怖いんです」


「またそれか」


「またそれです」


「何もしてないのに」


「できるからです」


 遼は水城を見る。


「ホテルの件で、一つ分かったでしょう」


「何が?」


 水城は足を止めた。


「神代さんが命令しなくても、怒らなくても、誰かを脅さなくても」


 遼も止まる。


「あなたが不満を漏らすだけで」


 水城は真っ直ぐ遼を見た。


「誰かが勝手に動く」


 遼は、何も言えなかった。

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