2 - 泥酔の宣戦布告
春のうららかな陽気など、冷暖房が完備されたこのオフィスビルには一切届かない。
「昨日提出させた事業計画書だが、収益モデルの前提から破綻しているぞ。この数字の根拠はなんだ」
午前中に突きつけられた上司・薄本不死身の氷のような声が、
釜谷翔平の脳内で何度もリフレインしていた。
「たぶん次の提出で差し戻されたらかなりやばいな、、、」
釜谷は自分のデスクで、エクセルの画面を睨みつけながら深いため息をついた。
数字をどうこねくり回しても、薄本を納得させられるだけの論理が組み上がらない。
「あー……もう駄目だ。全然わからん」
頭を掻きむしった釜谷は、藁にもすがる思いで立ち上がり、フラフラと隣の部署へと向かった。
「田中……ちょっと助けてくれ……」
パーティション越しに声をかけると、PCに向かって猛烈な勢いでキーボードを叩いていた同期の田中一春が、心配そうな顔で振り返った。
「釜谷、また薄本さんにやり直しさせられたの? 私も今月の締め作業で忙しいけど……ちょっと見せてみて」
「頼む、このままだと薄本さんに殺される。少しだけ数字を見てくれないかなって」
田中は自分の作業の手を止め、嫌な顔一つせずに釜谷の持参した資料に目を通し始めた。
彼女は何かと釜谷のトラブルに巻き込まれる苦労人だが、文句を言いつつも常に協力的で、同期の中では群を抜いて優秀だった。
「……釜谷、ここの顧客獲得単価の想定、少し甘いかも。今の市場の相場から言っても非現実的だから、これじゃ薄本さんに指摘されちゃうよ」
「うっ……やっぱりそこか」
「提案商材を修正して単価面の改善すればいいかも。そこまで出来たらまた教えて。
全体の利益率を再計算してあげるから」
「ありがとう田中! お前は女神だ!」
田中の的確で優しいアドバイスをもらい、少しだけ視界が開けた釜谷は、本格的な修正作業に入る前に一息入れようと喫煙所へと向かった。
分厚いガラス扉を開けると、そこには電子タバコを吹かしている女性の姿があった。
会社の受付嬢、九時村子だった。
「あ、九時さん」
「お、釜谷さん!お疲れ様です〜」
釜谷は自販機で買った缶コーヒーを開けながら、ふと自分の現状に対する鬱屈した思いをこぼしそうになった。
「僕ってこの会社で一生、ただの歯車として終わるんですかね……。もっとこう、自分にしかできない何かが無いかなって思ったりするんですけど……」
自分の生身の悩みを打ち明け、少し感傷に浸ろうとした釜谷だったが、九時はそれを容赦なく遮った。
「歯車どころか、使い捨ての潤滑油以下の扱いですよ! っていうか聞いてくださいよ釜谷さん! 今日の派遣元の営業担当、本当にありえなくて!」
「えっ、あ、うん……」
「『契約の範囲外の業務も少しは手伝ってあげてくださいね』とかヘラヘラ笑って言ってきたんですよ!? バカじゃないの!? こっちは時給で動いてるっつーの! 職場の不満とか全部言ってやりましたよ! ほんっと信じられない!」
ツッコミ役気質の九時さん。
怒涛の愚痴マシンガントークが炸裂し、釜谷が悩みを語る隙など1ミリも残されていなかった。
「……それは、大変でしたね」
「大変ですよ! あーもう、ムシャクシャする! 釜谷さん、今日飲みに行きましょう! 一春も誘って! 私の愚痴、朝まで聞いてください!」
「わ、わかった。じゃあ業務終わったら連絡しますね」
圧倒された釜谷は、苦笑いしながら喫煙所を後にした。
しかし、釜谷の受難はここからだった。
デスクに戻り、田中のアドバイスをもとに事業計画書の修正に取り掛かったものの、一つの数字を直せば別の数字の辻褄が合わなくなり、作業は泥沼化していった。
窓の外の景色は夕暮れから完全に夜の闇へと変わり、オフィスの人口もまばらになっていく。
九時さんからは「一次会、駅前の居酒屋で始めてますからね!」とメッセージが入っていたが、とても行ける状況ではない。
時計の針が20時を回り、21時を回る。
そして22時。
ようやく、なんとか形になった修正版の書類をプリントアウトし、釜谷は薄本のデスクへと向かった。
珍しく残業していた薄本はモニターを見つめていた。
「薄本さん……事業計画書の修正、終わりました」
恐る恐る書類を差し出すと、薄本はタイピングの手を止めることなく、冷たい声で一言だけ言い放った。
「遅い。……そこに置いておけ。」
「……はい。失礼します」
労いの言葉など最初から期待していない。
釜谷は重い足取りでオフィスを飛び出し、夜の街へと駆け出した。すごく走った。
だがすでに一次会は終わっており、九時からのメッセージには「二次会、いつものBARに移動してます!」とあった。
釜谷が行きつけにしている、地下の薄暗いBAR「おこさまランチ」
重い扉を開けると、古いロックのBGMと共に紫煙とアルコールの匂いが鼻を突いた。
カウンターの奥でグラスを磨いていた店主の秋山極輔が、釜谷の姿を認めてニヤリと笑った。
「よお、遅かったな社畜くん。随分と搾取されてきた顔してるじゃないか」
生粋のギャンブラーであり、裏社会ともパイプを持つという噂のある秋山は、いつも釜谷の無謀な愚痴や夢物語を面白がって聞いてくれる男だ。
「秋山さん、とりあえずテキーラ。ダブルで」
ボックス席を見ると、すっかり出来上がった九時が最近行った旅行の面白エピソードを話しており、田中がにこにこしながら聞いていると、店に到着した釜谷に気付いた。
釜谷はボックス席ではなくカウンターに向かい運ばれてきたテキーラを一気に煽った。
喉を焼く熱さと共に、一日中溜め込んでいたストレス、薄本への恐怖、そして「こんなところで終わりたくない」という押し殺した野望が、アルコールに混じって一気に爆発し始めた。
「あーっ! もうやってらんねえ!!」
その後、九時と田中がいるボックス席に座った釜谷はハイペースで酒をあおり続けた。
時計の針が0時を回る頃には、完全に泥酔状態だった。
「おいおい釜谷、そろそろ潰れるぞ」
苦笑する秋山を前に、釜谷はカウンターをドンッ!と強く叩いた。
「俺だって……俺だってなァ! いろいろ考えてることがあるんだよ!」
呂律の回らない口で、釜谷は叫んだ。
「一生、他人の作った会社でペコペコ頭下げて終わるつもりなんてねえ! 俺には……俺にだってきっと何か生まれてきた意味があるはずなんだ! いつか見てろ……この世界の覇権を握るような何かを見出してやる!」
「ふっ……世界か.... 大きく出たな」
秋山は楽しそうに目を細めた。
「いいぜ。お前がその大勝負に出る時が来たら、俺にも一口張らせてくれよ。裏からいくらでもサポートしてやるからよ」
力強く宣言したのも束の間、限界を迎えた釜谷の意識は急速に遠のいていった。
「釜谷?寝ないでー 風邪引くよ」
田中の気遣うような声が遠くで聞こえる。
BARのボックス席で突っ伏したまま、深い眠りの底へと落ちていった。
――まさか、次に目覚めた時、自分がタイムスリップしているなどと釜谷は思いもしていなかった。




