Ⅷ
あれは、東桜学園の受験前日のことだった。
二月の凍てつく風に押し流されるようにして、日の光はとっくの昔に水平線の向こうへ落ちていた。閉め忘れたカーテンに囲まれた窓の外には、底冷えの寒さを抱える北風が、乾いた砂塵を舞い上げて吹き荒んでいた。暖房をかけた室内との気温差で、窓が泣いているみたいに結露していたことを覚えている。
最後の仕上げテストの結果は上々で、この調子で行けば合格は保証できる、と嬉しそうに笑ったすばるさんは、僕の頭をくしゃくしゃと掻き回すように撫ぜてくれた。ヘアスタイルなんて気にしない僕だが、照れ隠しに手のひらで髪を撫ぜつけながら憎まれ口を叩いたものだ。髪型が崩れる、と。そう文句を言う僕を軽くあしらいながら、すばるさんはいつものように、ニヤニヤと意地悪そうに笑った。
他人に肌や髪を触れられるのは嫌いだった。外国の映画で親しげにキスしたり、ハグしたりするのを見るたびに、僕は自分が日本人で良かったと思っていた。それなのに、誰かの指先が自分の身体を触れることがこんなにも嬉しくて幸せなことだって、僕はすばるさんに教えられた。
あの手のひらの大きさも、あたたかさも、笑顔も、交わした言葉の数々も、僕はまだ鮮明に記憶している。
――すばるさん、最近禁煙しているんですか?
仕上げテストの解説で使った問題集を閉じながら、僕は何となしに聞いてみた。
バイト中に吸うのはまずいと、すばるさんは僕の家に来る前に、駅前のファミレスで一服してから来ていた。だから、春から秋までずっとずっと、彼は煙草の香りがしていた。でも、冬のすばるさんは、いつもつけている香水の香りを身に纏っているだけだった。
――あー、まぁな。今、一緒に住んでいる奴が、煙草止めろって言うから止めたんだよ。
禁煙って、想像以上にキツいから、優は吸わねぇ方がいいぞ、と茶化しながら反面教師の笑みを浮かべる。家庭教師としての仕事時間が終わった気安さが彼の口調を砕けさせていた。窓の外では、夜空彩るちっぽけな星を飲み込む勢いで、北風が吠えていた。
――喫煙者の締め出しを、『社会的抹殺』って怒っていたのに。
――ははっ、あったな、そんなことも。あの頃は結構ヘビースモーカーだったしな。
そう軽く笑いながら椅子から腰を上げて、ハンガーにかけた黒いダウンを手に取った。
――もう、抱いてくれないんですか?
ダウンを羽織ろうとするすばるさんの手がぴたりと止まった。表情のない視線が、ゆっくりと椅子に座ったままの僕に向けられた。
僕の問い掛けに、彼は何も言葉を返さず、一旦止めた腕を動かして、ダウンを着込んだ。フード部分を縁取るフェイクファーの毛先が、暖房の温風に流されてゆらゆらと揺れていた。
一度だけ、すばるさんに抱かれたことがある。僕の部屋で、僕のベッドの上で、たった一度だけ、哀しいくらい優しい口付けを落とされ、壊れ物を扱うかのように抱かれた。それは、蝉の声が鳴り響く、やけに蒸し暑い夏の日のことだった。
行為中、すばるさんは僕に「さん」を付けずに、名前だけで呼んで欲しいと言った。掠れて、消えてしまいそうなほど小さな願いに、僕は躊躇いもなく彼の名を呼んだ。彼が僕の耳元で囁いた言葉は、甘くて、切なくて、優しくて、僕じゃない誰かに向けられていた。余りにも残酷な言葉だった。聞きたくないのに、誰かに囁かれる言葉なんて聞きたくないのに、僕の全身がその言葉を待ち望んでいた。好きだと、愛していると、離したくないと、嘘でも言って欲しかった。
すべてを終えた後、煙草の匂いが染みついたすばるさんの指先が僕の頬にそっと触れた。泣きそうな表情を浮かべた彼に「ごめんな」と言われた。キスもセックスも、それからこんなに弱気なすばるさんも初めてだった。僕は、戸惑いながらも、たどたどしく彼を抱きしめた。そうでもしなければ、彼も僕も、どこかに消えて行ってしまいそうだったから。窓の外では沸き立つ入道雲に急かされるようにして、蝉が競うように鳴いていた。
生徒に手を出した最低の家庭教師だから許してもらえないだろうけど、優の両親に謝罪して今すぐに辞めるし、代わりの奴をすぐに紹介する。今まで受け取った月謝も全部返す、と言った彼を引きとめたのは僕だ。花を咲かすことなく、枯れてしまった初恋を吹っ切るきっかけ。それを僕は微塵の躊躇いもなく手放した
謝るなら、僕を東桜に合格させて下さいと言った。それが許す条件です、と。そう言うしか、彼を引きとめる方法が見つからなかった。あれは単なる事故であって、なかったことにして忘れてしまおうと、口先だけで嘘を紡いだ。本当は、あの時のことを少しも忘れてなんかいなかった。あんな幸せな時間を忘れることが出来るはずがなかった。
何て情けなくて、みっともない考えなんだろう。でも、僕にはそうするしか出来なかった。すばるさんと一緒にいれる理由を自分の手で潰すくらいなら、僕はあってないような自分のプライドを打ち捨てるほうが、よっぽど楽だった。
もう抱いてくれなくていい。キスしてくれなくていい。その代わり、ただ傍にいて、あなたのことを好きでいさせて欲しい。馬鹿げていると嘲笑われたって、それが僕のたった一つの願いであり、わがままだった。
そんな想いと共に選んだすばるさんと一緒にいられる時間。でも、今日ですばるさんを僕の傍に拘束できる理由を失ってしまう。
公立を受けずに私立だけを受験する僕は、明日行われる本命の東桜学園の試験を終えたら、クラスの皆より一足先に受験から解放されることになっていた。高校受験の勉強を教えてもらうために、僕の親はすばるさんに家庭教師を頼んだ。だとすれば、目的の高校受験が終わってしまえば、すばるさんが僕に勉強を教える理由はなくなる。すばるさんと会うのは、今日で最後だった。
僕に一度も触れることなく、彼は帰り支度をする。視線を窓の外にやったまま、ぐるぐると黒のマフラーを首に巻きつけ、荷物をつめた斜め掛けの鞄を肩にかけて、僕の部屋を後にしようとした。真っ黒な彼の後姿に、声をかけるのを一瞬だけ躊躇した。黒は、他人を撥ね付ける色だと思った。
気持ちだけが急いて、どうすれば良いか解らなかった僕は、椅子から立ち上がり、部屋のドアの前へと駆けた。一瞬だけ宙に浮いた椅子の足が、フローリングの床にぶつかる音を耳の端で聞いた。彼が帰るのを妨げるために、力も身長もない僕が出来ることと言ったら、これ位しかなかった。女々しくて最低な人間だと、心の片隅で自嘲が零れ落ちた。
唯一の出入り口であるドアの前で、僕は両手を広げて立ちふさがった。ここから彼が出て行ってしまったら、もう一生、彼は戻ってこないという確証が心の中にあった。視線が重なった瞬間、すばるさんの眉間に僅かに皺が寄った。
――俺は、帰りたいんだが。
――僕は、帰したくないんです。
表情を変えず、しれっと当然のように断りを入れるすばるさんを真っ直ぐに睨む。僕は胸のうちに溜まる気持ちを抑えて、喉奥から搾り出すようにして言葉を紡いだ。
泣いたら、縋り付いたら、彼は僕の元に戻ってくるかもしれない、と邪な自分が耳元で囁いた。だけど、そんなことはぎりぎりの理性が許さなかった。伸ばした手のひらを拒絶されることが、僕の育ち切った想いには辛過ぎた。
彼の口から出てくる言葉を待ち構えた。指先が震え出しそうになるのを、拳を作ることで必死に抑えこんだ。呆れ顔で溜め息をついているすばるさんの方を見つめて、引きつった笑顔を浮かべながら口を開く。今まで、どうやって自然に笑っていたのか思い出したくても思い出せなかった。
――大丈夫、って言ったのは、その口ですよね?
――落ち着け、優。明日は本命の入試だぞ?
――でもっ……!
胸の奥が熱いものでいっぱいになり、瞳から涙が溢れ出して来る。哀れにも、縋るような視線を投げつけてしまった。心の中で僅かに残ったプライドが行動にブレーキをかけようとしたが、もう遅かった。
この別れが、今生の別れになるに決まっている。何となくだけど、それが避けられない運命だということも解っていた。いや、運命なんて大層なものじゃなくて、単なる僕の思いこみだっていうことも嫌というほどに理解していた。僕の恋心が一方的な片想いであることも承知の上だ。
愚か者の無駄な足掻きだという自覚は頭の中にあっても、僕は唇を噛み締めて、部屋を出て行こうとするすばるさんを睨みつけずにはいられなかった。上げたままの両腕の先に、強く拳を作った。部屋の蛍光灯に照らされたすばるさんは、真っ直ぐに僕を見つめ返した。
初めて、人を愛した。初めて、失いたくない人と出逢った。男だから、恋人がいるから、そう考えることを忘れてしまった。プライドなんてものは、脆くも崩れ去った。押し殺していた想いが、僕の心の堰を壊して溢れ出した。
愛を与えることが出来ないというのなら、身体だけの関係でも構わなかった。「すばる」と呼ぶことを許されている誰かの代用品でも構わなかった。ただ、僕の傍に繋ぎとめたかっただけだ。彼を失いたくなかった。
すばるさんがいなくなったら、僕はここに存在する意味をなくしてしまう。彼に会うまで『愛してる』なんて、気持ち知らなかった。知ってしまったのが最後、もう忘れられなくなってしまった。すばるさんという空洞を、僕は埋める術を持たないし、他のもので埋めたくもない。
――これが、最後だなんて、嫌なんです。
――最後って……どうしてだ?
――明日が、受験最終日なんです。すばるさんのバイトは、これで最後だから……もう、会う理由なんて、ないじゃないですか……。
ぽつりと小さな呟きが僕の口から吐き出された。沈黙が二人の間に降りてきて、その重さに居た堪れなくなり、僕は震えそうになる唇をぎゅっと結んで、視線を床に落とした。
磨かれたフローリングの上で、ふわりと埃が舞い上がるのが見えた。すばるさんが、小さく右足を踏み出した。
――俺のケータイの番号、知ってるだろ? 合格したら連絡しろよ。優、約束だ。
優しい声色で発せられたすばるさんの言葉に、ゆっくりと僕は顔を上げて、小さく頷いた。僕を見つめる視線がふっと和らいで、淡い笑みが表情に浮かびあがった。やれやれ、と言いたげな表情を浮かべながら、彼は大きな手のひらをそっと僕の頭にのせて、いつもと変わらないあたたかさで優しく撫ぜる。その包まれるような感覚に、僕は強張った表情をふっと緩めた。
途端に、上げたまま下ろすタイミングを失って引っ込みがつかなくなってしまっている両手が、なぜだか妙に恥ずかしくなってしまい、視線が部屋の中を泳ぎまわった。照れ笑いを朱のさした頬に綻ばせながら、両腕をゆっくりと下ろした。
――……あ、すばるさん、忘れもの。
僕が試験の練習問題を解いている間、彼はずっと一冊の本を読んでいた。ここ最近、ずっと同じ表紙の本を読み続けていたが、何を読んでいるかは、まだ訊いていなかった。今まで一度も見たことがない彼の穏やかな微笑が、僕に訊くのを躊躇わせていた。
その本が僕のベッドの上で、居心地悪そうに取り残されていた。読み古されて黄ばんだ紙の連なりを拾い上げた僕は、これといった装飾のない緋色の表紙を自分の方に向けて、書かれた題名に目を走らせた。
――『こゝろ』って、夏目漱石の?
――え……、あぁ、夏目漱石の後期三部作で卒論書いたやつがいてさ。さーて、後期三部作は何でしょう?
――え、と……『彼岸過迄』と『行人』……?後は『こゝろ』。
――当ったりー。
人差し指をこちらに向けてにこっと笑った瞬間に、肩の力が抜けてしまった。まだ上手く笑えなかったけれど、笑顔が表情へと滲み出た。
僕が本を差し出すと、軽く礼を言った彼は、壊れ物を扱うような手付きで、その本を鞄の中に入れた。その手のひらが目に焼き付いて離れなかった。あの夏を思い出させる、優し過ぎる手のひらだった。
――正解のご褒美。
鞄から取り出した板状のミルクチョコレートを僕の手に握らせて、大きな手のひらで頭をぽんっと撫ぜた。途端に僕の表情は強張り、涙腺が緩んだ。すばるさんの手のひらがが離れて行くのを、涙で滲む視界で追いかけた。彼は優しい指先で、僕の頬に伝う涙を拭い去ってくれた。彼の表情を忘れないでいよう。そう心に誓いながら、僕はずっとずっと彼だけを見つめていた。
合格しよう。絶対に東桜に合格しよう。そして、一番最初にすばるさんのケータイへ合格の報せをして、すばるさんのことが好きだって僕の想いを伝えよう。伝わらなくても、もう一度だけ伝えよう。
――応援してるから。もう、泣くな。
その一言を残して、すばるさんは僕の横を通りすぎて、部屋を出て行った。パタン、と背後で扉の閉まる音がした。その音が、僕一人が取り残された部屋の中に染み渡るようにして響いた。
玄関の扉が閉まる音が、階段を通り抜けて遠く聞こえた。それを合図にして、僕の瞳から涙が溢れ出してきた。すばるさんが拭ってくれた涙の跡をなぞるようにして、止まる事を知らずに零れ落ちて行った。膝に力が抜けて、僕はその場にしゃがみこんだ。
これで、終わりじゃないことが、嬉しい。でも、好きだと伝えたら、もう会ってもらえない。そう思うと、怖くて、怖くて仕方なかった。考えが気持ちに追いつかず、抱えきれない感情が涙となって外へと溢れ出していった。こんなこと、初めてだった。すばるさんに教わったことが、またひとつ増えた。
人を好きになることは、こんなにもつらいことだなんて、すばるさんを好きになるまで知らなかった。それと同じように、すばるさんに出逢ってなかったら、人を愛する幸せは知らないままだった。それは、途方も無く幸せな感情であり、かけがえのない想いだった。忘れるなんて出来るはずがなかった。
翌日、東桜学園の入試が終わった後、駅に向かう途中にあった小さな公園のベンチに腰掛けて、お守りとして持ってきた板チョコを食べた。口の中でほどけるように溶けていくそれは、なぜだか酷く苦く感じられた。




