Ⅶ
楽器店を閉めた後、東山さんの奥さんが作ったバナナパウンドケーキをご馳走になりながら、僕と英太はのんびりと談笑を楽しんだ。
東山夫妻は、二人ともまだ二十代であるのに、それぞれの夢を叶えている。奥さんの夢さんは、近所でカフェを営んでいるそうだ。砕いたくるみとチョコチップが入ったケーキは、バナナの優しい甘さが口いっぱいに広がって、幸せな笑みを頬に綻ばせた。
そんな彼等が、正直羨ましいと思ってしまう。ピアニストになるという夢を持って一直線に突き進む英太はともかく、僕は英語で赤点を取らないという、取るに足らないような目標しか持っていない。東山夫妻と同じ年齢になった時のビジョンというものが、さっぱり描けない。
ただ、二人のように自分のやりたいことが明確に定まった人生である可能性は限りなく低い。誇ることもなく、蔑むこともなく、ただ坦々と流れて行くだけの日々であろう。
すばるさんのことだって、いつか知らない間に記憶から抜け落ちてしまうはずだ。大丈夫だ、何も問題ない。彼のことを思い出す度に、心の内で小さく呟いた。いつか、彼を忘れたことすら忘れてしまうのだから、今だけは彼のことを想っていたかった。
店を出て、雨で湿ったコンクリートの街路を英太と並んで歩き、駅に着く頃には九時を過ぎていた。駅の壁際に据えられた券売機の前では、人々が入れ代わり立ち代り、甲高く響く電子音と共に切符を取り出している。整然と横一列に並ぶ自動改札機へ、スーツを着たサラリーマンや、僕らと同じ制服を着た学生たちが次々と吸い込まれていく。
駅には溢れるほどの人がいる。俯きながら通り過ぎる者、路線図を見上げて切符を買う者、友達とのおしゃべりに夢中になる者、腕時計をしきりに確認しながら誰かを待つ者。それぞれの人間が、それぞれの行動をとる様子が、動く景色として僕の視界を覆う。その頭上に独特の声色をした駅員のアナウンスが流れて行った。
たくさんの人で混み合う構内で、押し流されるようにして足を進めようとした瞬間、僕の両眼は一点を捕らえてしまった。それに視線を釘付けにされた瞬間、時が停止したかと思った。
流れを塞き止めた僕の肩に誰かがぶつかって、身体が大きく傾いだ。舌打ちと共に鋭く睨まれたことすら、痛みに感じなかった。
自動券売機の前に、すばるさんがいた。学校帰りなのか、スーツ姿で嬉しそうな表情を浮かべながら、壁に貼られた路線図を指差しながら見上げて、横にいる誰かに話しかけている。
それは、僕が見たことない表情だった。楽器屋で会った子供たちと同じ、無邪気な喜びが彼の笑顔の中にはあった。彼の瞳の先にいる人は、人波に邪魔されてしまい、僕からは見ることが出来なかった。首を伸ばしたり、軽く踵を上げてみるが何も変わらなかった。
人混みの中に見え隠れする彼の顔に眼鏡はなかった。久しぶりに、僕の知っているすばるさんに会った気がした。家庭教師をお願いしていた時、大学院生だったすばるさんは眼鏡をかけてなかった。「どう頑張っても視力は悪くならなかった」と眼鏡に憧れていた時期を笑い話として話してくれたこともあった。だから、入学式で見かけた時、僕の知っているはずの彼が、全然知らない人みたいだと思った。
高校の教室で、初対面の彼に僕は「初めまして、錦先生」と挨拶をしたことを覚えている。発した言葉に、違和感を何一つ覚えることが出来なかった。ある意味、それで正しかったのだろう。僕にとっては、「錦先生」と会話をするのは、初めてだったから。
肩にかけた鞄の紐を、いつのまにか、ぎゅっときつく握り締めていた。心が苦しくて仕方ない。耳の中で、ざわざわと駅の喧騒が渦巻く。馴れたはずの人混みが、僕を飲み込んで、呼吸を奪った。
目を瞑りたい。何も見たくないのに、彼の笑顔が見たくて、溢れる人混みの中を視線がさまよってしまう。
耳を塞ぎたい。何も聞きたくないのに、彼の声が聞きたくて、駅に響き渡る雑音に耳をそばだててしまう。
ここにいたくない。ここにしゃがみ込んでしまいたい。でも、僕はここであなたの笑顔を見ていたい。声を聞いていたい。それなのに、逃げ出してしまいたい。
矛盾した想いを抱えたまま、どうすることも出来なくて、僕はただただ立ち尽くしていた。
「――優?」
横から肩を抱き寄せられながら、名前を呼ばれる。ぽすっと、力無くした自分の身体が彼に受け止められる。表情がうまく作れないまま戸惑いの視線を向けると、英太の心配そうな表情があった。肩を握る彼の手のひらに、力が入るのが伝わってきた。
急いで無理やり笑顔を作ろうとするが、見事に仕損じる。こういう時、笑って「平気」だと言える自分になりたいと思うのに、嘘が下手な僕がそれをやっても、相手に余計な心配をかけるくらいの無様な笑みを浮かべることしか出来なかった。
そんな情けない自分を見せたくなくて、動揺を隠すように、無理にでも口元へ笑みを描く。それから、何でもなかったように、一旦止めた足を再び動かし始める。英太の傷付いた瞳をこれ以上見ていたくなかった。
こんな所で立ち止まってはいけない、と心を奮い立たせ、鞄の紐を握った手のひらの力を強くして、彼の腕からそっと離れた。とめどなく流れる人の波に身体を再び没入させる。
制服のポケットから定期を取り出す際、意識することなく自然な流れで後ろを振り返ってしまう。もう一度、券売機の近くに視線を向けたが、すばるさんの姿は雑踏に紛れてしまい、見つけることが出来なかった。見間違いかもしれないと思うのに、鮮明過ぎる記憶がそれを否定する。あれは、確かにすばるさんだった。
あの笑顔が、瞳に焼き付いて離れない。視線の先には、誰がいたんだろう。あの笑顔を向けられているのは、誰なんだろう。
ぐるぐると心の中に渦巻く疑問が、僕に言葉を失わせる。数歩進んで、もう一度後ろを振り向いた。そこにあるのは、知らない人々が流れて行く様だけだった。
沈黙が僕と英太との間に降りてくる。人混みに流されながら遅れ気味に歩く僕が情けない表情を浮かべていることを、きっと英太は知らない。いつもみたいに、ちょっと僕がぼんやりしているだけだと思っているはずだ。
そうやって、僕に思わせておいてくれる優しさを、僕は知っている。それなのに、時折、それが苦しく感じられてしまうことがある。信用してないから、頼りたくないのではない。どうしていいか解らなくて、頼ることが出来ない。頼り方を知らない。そう伝えたいのに、いつだって脆弱な言葉たちは、外気に触れた途端に霧散してしまう。
「…… あのさぁ、明日、休みじゃん」
改札を通り抜け、足早に進む人波と歩調を合わせながら駅のホームに向かう途中のことだった。立ち止まった英太は、いつもの笑顔で僕の方を振り向きながら、ゆっくりと二人の間で滞る沈黙を破った。
「あ……うん」
階段の一番上の段に立ったまま、後ろを振り向いていた僕は、僅かにずれたテンポで言葉を返してしまう。言葉を受け止め損ねた気まずさから、僕は視線を彼からそらした。意識がすばるさんから離れてくれない。もう一度、沈黙が二人の間に、するすると戻ってきた。
アイスを片手に塾帰りの小学生たちが、競うように階段を駆け下りて行く。身体に似合わない大きくて重そうな鞄を背負った後ろ姿を見つめながら、僕もあんな風に塾に行っていたら、すばるさんに会わずに済んだのかもしれない。そう考えてしまった自分に苦い笑みが漏れる。想いはいつだって、あの人のもとに帰ってしまう。
「遊びに行こうぜ。その…… 話、あるんだよ」
数段下の階段に立ち、萎縮した僕の頭をくしゃくしゃと勢い良く掻き回しながら、英太にしては珍しいことだが、歯切れの悪い言葉を口にした。その様子を訝しげに思いながら、僕は軽く小首を傾げて訊ねた。
「今、話さないの?」
「やー……、今じゃ、ちょっと……」
僕の頭に置いた手をぎこちなく離して、視線をさまよわせながら言葉を繋げていく英太に、僕はからかうような悪戯っぽい笑顔を返した。
「もしかして……恋の相談? なーんて、じょー」
「えっ……!」
雑踏の中を颯爽と歩いていた彼の動きが止まる。ビデオの一時停止ボタンを押したように、綺麗にピタッと止まった。つられて、僕も階段を下りる途中の足を止める。やけに軽快なメロディがホームに響いて、轟音と共にホームに滑り込んだ電車から、降車客の一団が階段を上ってくる。立ち尽くす僕等に、スーツを着たサラリーマンが迷惑そうな視線を向ける。
それも一瞬のことで、すぐに人混みに押し流されて、何事もなかったかのように、英太は歩行を再開させるが、階段を一段踏み外し、中腰になって衝撃に耐えていた。一瞬だけ、彼が人混みの中心になったが、すぐ何事もなかったように人々の視線が離れていった。
英太の解りやすい行動に、自然と笑みが浮かぶ。その視線に気付き、彼は気まずそうに視線を横に泳がした。冗談で言ったつもりだったが、どうやら、図星をついてしまったようだ。
さっきまでとは打って変わり、ホームに続く階段を遅れ気味にとぼとぼと下りる英太を、僕は追い越し様に振り向いて、笑顔で言った。
「そっか、それなら明日でも大丈夫だよ。大したアドバイス出来ないけど、英太のこと、応援してる」
彼がいつも僕にやってくれるように、頭をぽんぽんと撫ぜた。綺麗にセットした髪の毛が手のひらに当たる。ぴくっと彼の肩が動いて、俯きがちな顔を僅かに上げられた。
「ありがとな」
肩を竦めながら、口元を上げただけの微笑み。無理して笑う時、本人は気付いていないが、そうやって英太は偽りの笑顔を作る。
人が少なくなった階段で、思わず僕は足を止めた。何事もなかったように、英太が僕を追い越す。彼のポケットから、パンダのストラップがゆらゆらと揺れているのが見えた。
多分、彼が次に口を開く時は、何か場を盛り上げるような楽しい話題を話してくれるだろう。僕が無理して笑うと怒るくせに、英太がそうする時は中々気付かせてくれない。弱さを意地でも見せまいとしている彼に、僕は何も言えなくなってしまう。英太は今、つらい恋をしているのだと思った。
自分の好きな人が、同じように自分を好きでいてくれることは、本当にあり得るのだろうか。もしかしたら、人を好きになること自体が不毛な行為なのかもしれない。
虚構に満たされた物語の世界では、たとえ、たくさん傷付いて、数え切れないほどの涙を流しても、最後はそれが全部報われて、ハッピーエンドで幕を閉じる。現実に存在しないからこそ、そういう世界を人は物語の中で求めてしまうのだろうか。
階段を下りると、タイミング良く電車がホームに滑り込んできた。「白線の内側でお待ち下さい」と決まり切ったアナウンスが混み合ったホームに鳴り響く。ぷしゅーっと溜め息をつくような音と共に扉が開いて、僕らは車内から出てくる人々を見つめていた。
英太が横でついた小さな溜め息を聞こえないふりをして、混雑した車内へと身体を捻じ込ませた。
窓側に並んで立った英太は、目が合えば、きっと何でもないように笑顔を作って、いつものように彼は冗談を口にするだろう。そうすれば、笑顔も話題も尽きない、いつもと同じ帰り道になる。それなのに、なぜだか今日は、彼にそんな強がりをして欲しくなかった。
広小路先生の隠された過去。すばるさんの無邪気な笑顔。英太の報われない片恋。
水底を漂うだけで、今まで見えなかった事たちが、泡のようにぽこぽこと湧き上がり、空気の中でぱちんと音を立てて弾けた。
知ってしまったら、知らなかった頃には戻れない。戻れないのに、どうしたら良いのか、手立てが見つからず、指を咥えて見ているだけで、気持ちばかりが急いてしまう。知らないことを知らないことが、もしかしたら一番幸せなことなのかもしれない。
それでも、彼等の深い気持ちを一部分だけでも知ってしまったから、傲慢かもしれないけど、それが彼等の重荷にならないと良いと思う。涙を隠すための笑顔じゃなくて、幸せを表すための笑顔であって欲しい。
押し潰されそうな電車の中、俯いてつま先に視線を落とす僕の頭へ、不意に優しい感覚が伝わってくる。言葉なく、ぽんぽんといつものように頭を撫ぜる英太の大きな手のひらに、何故だか涙が滲んでしまった。
現実が物語になればいい。物語になって、ハッピーエンドで終わってしまえたら、どんなに良かったんだろう。考えても不毛な愚妄だ。でも、思わずにはいられなかった。
涙をこらえて顔を上げる。ホッとした英太の表情を見て、僕は自分が笑顔になれていることを知った。
心配かけたくないから、負担になりたくないから、笑顔で不安を隠していることは解っている。誰だって、痛みを他人に知られたくないし、他人の痛みなんか見たくない。お互いがお互いの気遣いを知っているから、誰も何も言わない。
それを、悪いことだとは思わない。ただ、それがその人の笑顔を曇らせないで欲しいと願わずにはいられなかった。
明るい声音で口火を切った英太の話に、笑い混じりに相槌をしながら、窓の外を流れて行く景色を見つめる。夜空の星よりも明るい、暗闇を掻き消すように、地上を埋め尽くす人工の灯りの大群。この中に、一体どれだけの喜びと哀しみが詰まっているのだろう、とぼんやり想いを馳せていた。




