Ⅵ
最終下校時刻を知らせる放送が流れる。その放送を合図にして、僕と英太が図書当番を終えて帰り支度を始める頃には、雨はもう止んでいた。昇降口の扉を出た瞬間、湿気を含んだ生温い夜風が僕等の上を通り過ぎて行った。
ピアノの楽譜を買いに行くという英太に連れられて、駅裏にある東山楽器店に立ち寄った。英太は店のご主人と奥さんから、ピアノの腕を気に入られており、このこじんまりとした店に立ち寄るといつだって一番良いピアノで、数曲のリクエストを受ける。
「東山さーん、お金取りますよー」と茶化すように言いつつも、嬉しそうな表情を浮かべながら、英太は流れるような指捌きでピアノを弾く。タイトルは忘れてしまったが、耳馴染みのない細やかな音色のクラシックだった。
その隣で、僕は奏でられる音に耳を委ねる。嫌なこと、哀しいこと、日々の生活の中で心に積もった暗い気持ちを、英太のピアノが春先の雨のように優しく流し去ってくれる。
英太のレパートリーは驚く程に広くて、東山夫妻がリクエストする舌を噛みそうなカタカナのクラシックから、昨日テレビで耳にしたCMのメロディまで弾けてしまう。
音楽をやっている人間は、音を耳にするだけで、それを音符に変換できると英太から聞いた。音楽の苦手な僕からすれば、それだけでも脱帽する程なのに、彼は何ともないような自然さで、それをピアノの音にしてしまう。それも、聴く人の心を丸ごとさらってしまうような深みのある音色で。
楽器店が開いているピアノ教室が終わり、小学校低学年くらいの男の子たちが英太の存在に気付いて、周りに駆け寄ってきた。聞き覚えのある軽快なメロディに顔を見合わせて、破顔する子供たちの様子を見つめていると、彼等と視線が合った。勢いのある大きな笑顔を受け取って、僕も自然と笑顔になる。彼等からのリクエストで、英太は人気アニメのオープニング曲を弾いていた。ピアノを囲むように子供の楽しそうな歌声が起こる。
きっと、英太は日曜の朝に眠い目を擦りながら、アニメを見ていたに違いない。このアニメの曲は、以前「聴いたことないなー」と申し訳なさそうに断っていたものだった。知らない曲がある時は、こっそり子供から情報を引き出して、何ともないように弾けるようにしていた。それは余りにスマートなこと過ぎて、まるで彼が魔法か何かを使ったかのように感じられる。
自己満足で努力をアピールしているうちは、何にも成長していない、と厳しい顔をして言った英太のことを思い出した。
彼が陰でどれほどの努力をしているかは、考えなくても解る。自分のピアノを聴いて、喜んでくれる人たちの顔を見るのは本当に嬉しい、と言う英太の顔が、一番嬉しそうに見えた。
アニメのオープニングテーマだけではなく、エンディングテーマまで弾いていると、親御さんが子供たちを迎えに来た。最初は自分たちの世間話に花を咲かせていたが、英太が紡ぎ出す軽快なメロディに乗せられ、お喋りのため忙しなく動かしていたはずの口が、子供たちと共に小さくメロディを口ずさみ始める。
指先から音を生み出して行く英太の楽しそうな表情を、僕は傍で見つめていた。クラシックどころか音楽自体がさっぱり解らない僕でも、英太の奏でるピアノの音が、心の奥の深くて柔らかい部分を優しく揺さぶるのを感じていた。それは、怒りも、涙も、悩みも、退屈さも全てを笑顔にしてしまうような、あたたかい音色だった。
「じゃあ、ラストは優の好きな『きらきら星』な!」
学校で歌ったー、と子供たちのはしゃぎ声が聞こえる。僕は目を見開いて、英太に気取られないよう身体を硬くしてしまう。自分の動揺をどうにか押し殺して、ぎこちない笑顔を作った。
好きなんか、とんでもない。この曲はむしろ苦手だ。英太の奏でる音色が、鍵をかけて記憶の隅に追いやったはずの箱を開けてしまう。それは、弱い僕の情けない思い出だ。
英太と友達になって、しばらくした頃、確か四月の中頃だったと思う。図書当番の最中、カウンターに英太と横並びになって座り、いつものように『こゝろ』を読んでいたら、すばるさんについての思い出が次々に噴き上がり、感情の処理がつかなくなってしまった。どうしようもなく惨めで仕方なくなって、圧倒的な哀しみを感じる前に、自然と涙が溢れ出した。
余りに突然のことに、涙の止め方を思い出すことが出来なかった。英太に涙の理由を訊かれたくなかった僕は、トイレに行って来る、と泣き顔を隠すように俯きながら席を立とうとした。
その時、気をつけていたはずの声が震えてしまった。後ろから肩をぐっと掴まれて、僕は思わず振り向いた。振り向いた瞬間、ああしまった、と思った。
涙で歪んだ視界の中でもはっきりと解った。映り込んだ彼の表情は、呼吸を止めて驚きに満ちたものだった。肩を掴む手のひらが、戸惑いに緩むのを感じた。それが、どうしようもなく哀しかった。
何も言えずに涙が止まらない僕の濡れた左手を、英太は包み込むようにそっと握って、図書室を出た。耳が痛くなるほどの静寂に包まれた階段を上り、僕は一階上にある音楽室に連れて行かれた。それは、まるであの冬の日のようだった。
五線が書かれた黒板の前に鎮座するグランドピアノの前に座り、蓋を開けた英太の横顔を見つめていると、灰白色のハンカチが差し出される。立ったままそれを受け取ると、堪えていた涙が溢れ出した。右の瞼にハンカチを押さえつけると、濃灰の大きな涙の跡が浮かびあがった。
これ以上ない程、たくさんの涙を流していたはずなのに、それが終わりじゃなかった。静けさに満たされた音楽室の中、僕の嗚咽だけが響いていた。彼に申し訳なくて、何度も「ごめん」と呟いた。
余りにも情けない僕の強がりを、全部話してしまいたくなった。唇を噛んで、喉元にせり上がって来る言葉を胸の内に突き返した。重苦しい感情を押し殺せることは出来たのに、涙は止められなかった。いつもより低い位置にあった彼の瞳を見ることが出来なかった。
俯いて泣き続ける顔を上げると、英太の優しげな笑みに触れた。握り締めた彼のハンカチは、大粒の涙を吸い込んで、熱く濡れていた。泣き続ける僕と、いつもと同じ表情で言葉なく傍にいてくれる英太。その時の僕等に、きっと言葉なんて必要なかった。
明らかにいつもと違う様子の僕に対して、彼は何も訊かずに、うーん……と声を漏らし、腕組みをしたまま少し思考にふけった後、鍵盤に指を滑らして『きらきら星』を弾き始めた。
夜空を彩る星の輝きを、本当に英太は作れるのだと思った。彼の奏でる音色が、僕の頬から涙に濡れた闇を拭い去る。零れ落ちる哀しみが、僕の中に帰って行くのを感じた。
ゆっくりと顔を上げて、涙を流し終えた熱っぽい頬で、僕は英太の音に合わせ、誰もがよく知っている有名なフレーズを口にした。哀しみに掠れた嗚咽まじりの声で、そっと小さく詞に音を乗せる。ゆっくりと笑顔が表情に甦る。ピアノの鍵盤に指を躍らせながら、英太はそんな僕を見て、優しく笑っていた。
僕にとっての『きらきら星』は、恥ずかしくてしょっぱい思い出の曲だ。偶然ふと耳にする度に、胸の奥がちくりと痛んでいた。
「きーらきら ひーかーるー」
英太が弾くピアノを子供たちが囲んで、大合唱が起こる。今度は、店に偶然立ち寄っただけの名前も知らないような人たちも、知らず知らずのうちに歌を口ずさんでいた。店の中を柔らかな布ですっぽりと包み込むように、あたたかな幸せに満ちた音が溢れていた。僕も知らないうちに、唇から歌を紡いでいた。
あの時は、あんなに胸に迫る切なさで聴こえた音が、今はこんなにも優しい音色でささくれだった心に染み渡る。どうしようもない程の冷たく、哀しい思い出が、あたたかで幸せな思い出になっていく。
多分、今度この曲を耳にした時は、今日のことを思い出すのだろう。すばるさんのことで涙したあの時のことじゃなくて、英太が作ってくれたこのあたたかい一時を。
何度も何度もうんざりするほどに、傷は疼くように痛む。その痛みに耐えかねて、弱い僕の心は打ち震え、瞳の奥から涙が溢れ出す。はじまってしまったさよならに、終わりが存在するなんて、信じることが出来ない。
それでも、涙のぶんだけ強くなれる。優しくなれる。痛みを知らない人間の優しさなんて、本当の優しさじゃなく、傲慢な自己満足なのだから。
そうやって前を向けるようになれたのは、英太のおかげだ。都合のいい言い訳を並べて、悲劇のヒーローを気取るだけでは駄目なんだと思う。立ち向かわなければいけない。弱くてずるい自分から逃げ出さずに。
他人のことなら、自己保身に走った高慢な言い訳なんて簡単に見破れるのに、自分のこととなると、つい事実から目をそらせてしまい、気付くことが出来ない。自分自身とちゃんと向き合うって、実は一番難しいことなのかもしれない。
――少しずつだって、笑えるようになるんだよ。自分から、逃げなきゃな。
音楽室のピアノを弾き終わった後、英太がふと呟いた一言が心の中にいつまでも残っている。僕に伝えるのではなく、彼自身に言い聞かすように、一字一字を噛み締めるようにして言葉を紡いでいた。
もし、仮にそれが存在していたとしても、僕は彼の哀しみを知らない。それでも、彼の優しさは、人の痛みを知っている優しさだということを僕は知っている。
ピアノを弾く英太の隣にいると、何も出来ていない自分に対して、焦りを感じる時がしばしばある。まるで、彼が僕を置いて、遥か彼方の世界に行ってしまいそうな錯覚に陥りそうになる。今は隣り合って歩いていても、彼の歩く速度に僕が着いて行けなくなる日が来るかもしれない。
将来のことは解らない。高校卒業後の進路をどうするかと言われても、英太のようにやりたいことや出来ることが見つからないし、これからそれが僕の目の前に突然やってくる可能性は限りなくゼロに近い。それでも、僕は周囲の人々に倣って、疑うことなく普通の行動をするだろう。
現実的に考えると、これから僕は、周りに流されるまま、何の希望もなく大学に進学するだろう。そして、どこかの会社に就職し、誰でも出来るような仕事を人並みにこなして、同じような毎日を積み重ねていくのだろう。もしかしたら、誰かと結婚して子供を作り、家庭を築くかもしれない。遠過ぎる未来に眩暈を覚えそうになる。
若者のくせして向上心がない、と押し付けがましい非難をされ、その場を丸くおさめるために、即席の夢を語って何になるだろう。僕にとっては、そっちの方がよっぽど虚しく思えてしまう。それに、そんな軽い夢を馬鹿みたいに語ることは、本気で夢に向かっている人たちにすごく失礼なことだ。
演奏が終わった英太は、椅子に座ったまま鍵盤から指を離した。ふっと自分の意識がこの場所へ立ちかえる。満足そうな表情を浮かべて、英太は肩を下ろしながら、深く息を吐き出した。
「よし、今日はおしまい! 聴いてくれてありがとな」
勢い良く椅子から立ちあがって、周囲の人々に恭しくお辞儀をしながら英太は言った。店の中いっぱいにあたたかい拍手が鳴り響く。
英太はピアノを使って、笑顔と幸せが紡ぎだす魔法使いのようだと、彼が作り出したこの幸せに満ちた空間にいると、思えてしまう。その幸せな笑みをたたえた人々の表情を見つめながら、僕は思った。君に出逢えて本当に良かった、と。




