Ⅴ
今から僕は、担任である広小路先生と個人面談をしなければならない。中間テストの成績表を返却しがてら、放課後にマンツーマンで自分の成績について言葉を交わさなければならないのである。番号順の後ろから始めると言われたので、僕が一番最初ということになる。
自分としてはよく出来た方に思える英語の成績であるが、全体として考えると、余り芳しくない点数だ。そこを突っこまれることは確実であり、考えただけで胃が痛くなりそうだ。
広小路先生が声を荒げて生徒を怒鳴ったり、罵ったりする姿を見たことがない。僕が苦手とする根性論だとか、友情論を一方的に押しつけず、高校生の僕等を一人の人間として扱い、ドライな口調で正論を的確に突く。あくまでも「他人は他人」だし「正当な理由があれば聞かないこともない」を旨とする良い意味で放任主義の教師だ。
だから、余計に恐ろしい。自由とは、際限無く空中にふよふよと浮いて、空気のように何の苦労なく摂取できるものではなく、実に得がたく、責任の伴う厳しいものだと、僕等は彼に身をもって教えられている。
正当な理由がない過ちを犯し、無様にも言い訳を並べ立ててしまった瞬間、彼の眉間には深い皺が寄る。眼鏡の奥の瞳が静かに細められると、その場の空気は氷点下を記録する。温暖な気候に恵まれた地域、しかも季節は春であるのにも関わらず、凍死してしまいそうになる。地球温暖化どころか、氷河期の突入だ。
僕はまだ畏れ多くて、名字に「先生」と敬称を付けた呼び名しか、口に出したことがない。頑張っても「み」の一文字で止まってしまう。「ず」と口にする勇気がまだ持てない。
それもそのはず、喫煙がバレたのにも関わらず、言い訳を並べ立てて、自分の非を認めない生徒に対して「……で?」とあの冷たい声で、ばっさり切ったのを横で聞いたことがあるのだ。偶然、その場に居合わせてしまった僕は、自分が怒られている訳ではないのに、縮み上がって頭を下げそうになった。その時、この人を決して怒らせてはならない、と深く心に刻み付けたのだ。
そのせいか、男であるのにも関わらず、裏では「氷の女王」と呼ばれているらしい。「ハマり過ぎて笑えないよなー」と英太に教えてもらった時に、引きつった笑いを浮かべながら、無言で首をゆっくりと縦に振ってしまった。睨まれただけで身体が凍り付いて、一ミリも動けなくなってしまいそうだ。おとぎ話に出てくる、どんな女王様よりも、恐ろしい国語教師だ。
他の教師よりも年齢が自分たちに近く、凛と芯のある美人を思わせる顔立ちから、広小路先生は下の名前で「瑞希先生」や「瑞希ちゃん」と親しみを込めて、呼ばれている。
「去年までは決して下の名前で呼ばせてくれなかった」と先輩が言っていた、と同じクラスの奴が口にしていたのを思い出す。どうやら、今みたいに冗談も言わなかったし、笑顔も浮かべず、坦々とお手本のような完璧な授業をしていたようだ。しかし、なまじ顔の作りが整っているため、感情の浮き出ない顔立ちは、血の通わない精巧に作られた人形みたいだったらしい。
噂の噂、そのまた噂なので、どこまでが真実かは解らないが、今の広小路先生からは、どうにも想像し難いことである。大学を卒業して、すぐに教師の職についた彼は、仕事を始めて二年目、つまり去年の秋から少しずつ表情を取り戻していき、今のような冗談を口にする人になったらしい。しかし、そんなに短い期間で人はそれほどに変わるのだろうか。
触れるのに躊躇する程、冷たい表情の上に、あたたかい笑顔がほころんだ時は、思わず目が離せなくなってしまう。手のひらに舞い降りた雪の華が、すっと解けてしまうような一瞬の儚さに、その笑顔は酷く似ていた。
もしかしたら、それが彼の素顔なのかもしれない。いつもは、氷の女王と称されるくらい凛とした高潔な姿だが、気を許せた人間の前で冷たい氷が溶けた瞬間、きっとこんなあたたかな表情をしているのだろうと思えた。噂に聞いた笑顔も冗談も出さない広小路先生の姿が、僕には想像出来なかった。
誰もいなくなった放課後の教室の中、『若宮優』と明朝体で印字された成績表を机の上に広げ、広小路先生と向かい合っての面談が開始された。
ご丁寧に成績表は数字だけではなく、円グラフにされたものも用意されており、英語の部分だけが異様なまでに凹んでいた。彼の前でそんなことをする度胸を僕は持ち合わせていないが、グラフ内に点を一つつけたら、口をぱっくり開けた丸くて可愛いキャラクターが出来そうだ。
僕の視線は右往左往にさまよって、まだ一度も広小路先生の顔が直視できない。腕を組んだまま軽く息をついて、左の人差し指で、とんとんっと英語の窪地叩きながら、僕に言った。
「優は、英語以外は出来るんだなぁ。……英語、以外、は」
「……そんなに強調しないでも解ってますよ。英語って、苦手なんです。はは……」
何せ、あれだけ努力したのにも関わらず、赤点スレスレというまったくもって宜しくない点数であった。彼の声色は当然、氷の女王のそれで、僕は心にしもやけが出来るのを感じた。円グラフの窪地部分に、彼の視線が注がれていることは、言われずとも痛いほどによく解る。先程のしもやけという発言は訂正しよう。このままだと凍傷になる。
「私が教える古典と現文は満点に近いんだけどな。理数科目もトップクラスだし。ただ、文理どっちのコースに行っても、英語出来ないと受験で相当、足引っ張られるぞ。内部推薦っていっても、ここの大学は結構ハードル高いしな。」
陸上部の集団が掛け声と共に、校舎沿いに走っている。姿は見えないのだが、ファイトー! ファイトー! という太い声が、静寂に満たされた空っぽの校舎に虚しく響いた。窓の外に広がる初夏の空は、グレイッシュな雨雲に被されながらも、きらきらと眩しさを感じさせて、凍傷になりそうな僕の心をじんわりと癒してくれる。
随分、日が長くなったものだ。ついこの間までこの時間は、茜色の太陽が西の空へと大きく傾いて、長い影法師を地面に描き出していたはずなのに、まだ高い位置に居座る太陽は、雲の隙間を縫うようにして白い日差しをさんさんと地上へ送っている。爽やかな空気の中を、高い鳴き声を上げた鳥が一羽、飛んで行った。この鳥のように、果てしない大空へと飛び立ってしまいたいと思った。これを人は『現実逃避』と呼ぶのだろう。
「……は、誰なんだ?」
「へ……?」
遠い空の彼方へと心を馳せていた僕は、広小路先生の問い掛けに対して、何とも間の抜けた声を返してしまった。僕の恍けた反応を前にして、広小路先生の瞳がすっと細められる。腕だけではなく、両足も組みながら椅子の背もたれに身体を預け、面倒臭さを最大限に醸し出した声色で、もう一度同じことを口にした。
「英語担当は、誰って聞いたんだけど? いまいち、把握してないんだよな」
いやいや、それは担任としてどうですか……とツッコミを入れたい気持ちは、広小路先生と目が合った瞬間、血の気と共に吹き飛んだ。眉間にはくっきりと皺が寄せられており、今、結構怒っていますよ、というサインだ。僕は地雷原を歩いている最中に、うっかり地雷を踏み抜いてしまったうつけ者である。
「すっ、すいませんっ! え、えーっと、英語は、あの、その……すばるさんです!」
「……『すばるさん』?」
「あっ、えっ……そう! そう、錦先生です!」
喋ろうとするのに、舌が追いつかず、縺れながらもすばるさんの名前を口にした。その瞬間、広小路先生から眉間の皺が消える。驚いたように瞳が見開かれ、くっきりとした二重の瞼が緩やかに弧を描き、瞳は柔らかな光を湛えていた。彼にしては珍しく、教師としての表情をふっと解いて、はにかむように言葉を続けた。
「すばる、かぁ。他人の口から聞くのは、久しぶりだな」
一人ごちるような口調で広小路先生は、過去を懐かしむように目を細める。一瞬だけ見せた、その表情は、なぜだか泣きたくなるほどに儚くて、酷く綺麗だった。
「『すばる』って下の名前で、誰かが呼ぶのを、最近聞かなくて」
「あ、それは……家庭教師してもらっていた時、そう呼んでいたんで」
広小路先生の表情がぴたりと停止し、僅かな空白が、するすると僕らの間を縫うようにして降りて来る。窓の外の緑樹が湿った風に吹かれて、小さくざわめいた。
「……先生、どうかしたんですか?」
「あ、いや、何でも。そっか……すばるは院の時、塾講師とカテキョの掛け持ちをやってたっけ」
「アパートの家賃が高いとか、学費を自分で稼ぐとか、色々大変だったみたいですね」
「……みたい、だな。若宮、ごめんな」
申し訳なさそうに眉毛を下げて、彼は呟いた。その言葉に、僕は軽く首を傾げる。
「何がですか?」
「あー、うん、すばるの授業、評判はいいんだけど、スパルタで課題の量が半端ないって聞いてたから。……英語ノイローゼになったお前みたいにな」
「なっ……! すばるさん、そんなこともっ……?」
思わず身を乗り出して、大声で問い質してしまう。普段は口数の少ない僕の突飛な言動に、広小路先生は喉奥でくつくつと笑い声を上げた。
一頻り笑い終わり、懐かしむように瞳を細めながら、視線を遠くにやる広小路先生の表情や口調から、氷のような冷たさは完全に溶けていた。
初めて見る彼の表情と、柔らかな空気に触れた僕は、驚きをそっと心の中に押し戻す。なぜだが、そうしなければならない気がしてしまった。何でも無いようなふりをして首を捻りながら、僕は小さな疑問を口にした。
「……錦先生のこと、知ってるんですか?」
「知ってるっていうか、地元一緒だし、年齢同じだし、中学からの腐れ縁ってやつかな。結局、大学まで一緒だったんだ。あっちは英文で、僕は国文だけどな」
「へぇ……。あ、そういえば、広小路先生、国語の授業の時に言っていましたよね。卒論は夏目漱石だったって」
「あぁ、ちょうど教授が漱石研究の権威だったんだ。元々、漱石の作品には興味があったし」
その一言に、ある種の引っ掛かりを感じてしまう。喉の奥に刺さった魚の小骨のようだ。軽い引っかかりなのに、やけに気になる。そのままにしておけば自然に消えてしまうのに、僕は彼の話に相槌を打ちながら、その答えを探すべく考えをめぐらせた。
ぱちん、と記憶のスイッチが入れられる。古い映写機が回るように、カタカタと音を立てて記憶が心の中に投影されて行く。僕が忘れたふりをしていた箇所まで、すべてを映し出される。それは、東桜学園の入試を明日に控えた冬の日のことだった。
――え……あ、あぁ、夏目漱石の後期三部作で卒論書いたやつがいてさ。
すばるさんが家庭教師として僕の家に来た最後の日、壊れ物を扱うようにして鞄の中にしまった一冊の本が、彼の紡いだ言葉と共によみがえってくる。
その時のすばるさんは、恥ずかしそうに言い澱みながらも、はにかむような笑顔を浮かべていた。いつもは、格好良く見せようと、ツンとすました自分を作って、偉そうな態度を取っているのに、そんな斜に構えた様子は、幸せそうな表情の下に隠れていた。
見てはいけないものを見てしまった気がした。だから、僕は知らないふりをした。真実から目を逸らせることで、自分を保つより他なかった。
「……もしかして、すばるさんの持ってた『こゝろ』って、広小路先生のだったんですか?」
僕のベッドの上に置いてきぼりをくらいそうになった一冊の『こゝろ』。それは、帰ろうとしたすばるさんの手によって大切に持ってかれた。きっと、その本のあるべき場所である、持ち主の家に帰っているのだろう。置いてかれたのは、一冊の本ではない。それは、僕自身だった。
高校の合格発表の報せと共に、ずっと抑えていた恋心を伝えた瞬間、僕は僕の知っていたすばるさんを失った。降りしきる雪の中に忘れてきたから、凍えて息絶えてしまったのかもしれない。その亡霊が、僕にとりついたのだろう。愛することの幸せな甘やかさを忘れ、爛れるような執念だけを胸に燃やして。
「えっ……?すばるが『こゝろ』を、読んでた?」
「あ、はい。家庭教師に来てくれた時に。夏目漱石で卒論書いた人がいるみたいで」
「へぇ、あのすばるがねぇ。漱石の後期三部作なんて、手にしただけで鬱病になりそうだって言ってたのに」
クスクスっと左手で口元を隠しながら、肩を小さく震わせて、広小路先生は軽やかな笑い声をあげた。その表情は、僕が学校で見知った『氷の女王』ではなかった。悪戯を考え付いたような子供の表情、あるいはそんな記憶に想いを馳せる時のような、甘くてやわらかい表情であった。
僕の知らないすばるさんを、広小路先生は知っていた。それは、僕の心をちりちりと焦がして、古傷を酷く疼かせる。彼から、僕の知らないすばるさんの話を問い質して、すべてを記憶したいと焼けつくような衝動が僕を駆り立てた。おそらく、この感情は『嫉妬』と呼ばれるものなのだろう。
「まぁ、そんなことは置いといて。……さぁて、可愛い優ちゃんは、次回のテストで英語をいくつ取り返すかな?」
唇に笑いを乗せて綺麗な弧を描きながら、英語の得点欄に印字されている惨状の上に、とんっと彼の人差し指が置かれた。気持ちを心の奥に取られていた僕は、その音に肩を跳ねさせる。ふっと肩が軽くなり、憑き物が取れたようにして、気持ちが現実に立ち帰った。
「うっ……。がっ、頑張りますっ!」
いきなり現実に引き戻された僕は、成績表にゆっくりと目を落とした。伺うように顔を上げると、広小路先生と目が合った。柔らかな儚い空気なんてものは、錯覚だったと思えるほどに微塵も残っていなかった。心底楽しいと言うように、悪魔の如く、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべているその表情は、腐れ縁だというすばるさんを思い出させるものであった。類は友を呼ぶとは、よく言ったものだ。
「まぁ、お前も色々大変だとは思うが、次回のテスト、期待してるからな? ……はい、成績表。」
そう言いながら手渡された成績表を受け取って、鞄と共に席を立つ。軽く会釈して教室を出ようとした瞬間のことだ。広小路先生が、ふっと遠くを見つめる表情を、僕は見てしまった。唇がきゅっと結ばれて、寂しそうに眉根が寄せられる。途方に暮れた迷子の幼子に、それはとてもよく似ていた。
広い教室の中、一人残る広小路先生の姿が、淡雪みたいに消えてしまいそうだった。すばるさんの名前を僕が口にした時、一瞬だけ見せた、あの表情が焼き付いて、心から離れない。単純に、心の中で美化された過去を懐かしむという感情だけじゃない。彼の表情は、もっと苦くて、もっと甘い、ある種の行き過ぎた感情が複雑に織り交ざっていた。
広小路先生は、もしかして僕とすばるさんの間にあったことを知っているのかもしれない。腐れ縁って言っていたし、僕とすばるさんとの間に起こったことについて、相談を持ちかけられていた可能性もある。
もしも、もしもの話、だ。すばるさんが僕のことを話したとなると、僕は二人に嫉妬を感じてしまう。頼れる相手がいたすばるさんと、頼られた相手である広小路先生のことを想うと、焦げ付くような痛みが心に走る。あの時、あなたは一人ぼっちじゃなかった、と痛みにひり付く心が、聞くに耐えないくらいの醜い嘆きを漏らした。
邪推は良くないと思う。でも、僕がすばるさんの名を出した時の広小路先生の反応は明らかに「何か」を知っている表情だった。その「何か」について確証はないのだが、隠し切れなかった視線がすべてを物語っていた。あぁ、お前が「あの時」の「あの子」なのか、と納得するように。
悶々とした気持ちを抱えて教室の扉を開けると、次の番である英太が廊下の壁にもたれながらケータイを弄っていた。
僕が扉を開ける音に気付いて、ケータイの画面から視線を上げた彼は、にこっと表情に笑みを咲かせた。その屈託のない表情に、緊張と猜疑で凝り固まった心がゆるゆると優しく解きほぐれていくのを感じた。
「優、おつかれー! どうだった?」
「うん、ギリギリセーフだって。期末は、英語集中特訓コースでお願いします」
「オッケー、若宮君。久屋大先生にすべて任せなさいっ!」
「あははっ、ありがとうございます、久屋大先生。……さてと、先に図書当番行ってるね」
廊下に出た僕と入れ代わるようにして、英太が教室の中に入っていった。
通り過ぎざまに、じっと横顔を見つめられ、軽く首を捻りながら見つめ返すと、「優って、横顔が瑞希ちゃんにそっくりなんだな」と内緒話をするように、耳元へこっそりと告げられた。悪戯っぽい密やかな声色は、いつも彼が口にするものと少し違っており、耳奥に残った声に誘われるように、足を止めて振り向いた。
「広小路先生、早く終わらせましょー。先生だって早く帰りたいでしょー。外も雨が降りそうですよー。俺も優と早く一緒に図書当番をしたいんですー。次に弾くピアノの楽譜だって、楽器屋に取りに行かなきゃならないんですー。うちのピアノの先生、怒ると怖いんですー。知ってますよねー」
先程の口調とは打って変わって、口を動かすのも億劫そうな棒読みで、言葉を連ねる英太の姿がそこにあった。
「可愛い可愛い久屋のためだ。じぃーっくり二人で、話そうか。優、先に帰って構わないからな。むしろこんな風にキモく語尾を延ばす奴なんて、置いて帰ってやれ」
足を組んで座ったまま、からかうような口調で返す広小路先生の声が聞こえた。それに対して、即座に「二人で帰るんだよ!」と英太がムキになって声を荒げる。その素早い反応に広小路先生の口角が意地悪く上がった。
「なるほど、放課後デー」
「せっ、先生! デー、って何だよ? デー!」
「え? デート」
「バッ……、優とはそんなんじゃ! デートするとか!」
「広小路先生は、生徒思いの先生だからねー。久屋君の思っていることを何でも解るんだよー」
「瑞希ちゃん、棒読みだし、すっげぇ無表情」
「黙っとけ。それよりバッて何だ、バッて」
何てことはない、いつも通りの二人のやり取りだ。ぽっかり開いた入り口の長四角に切り取られた光景を、静まりかえった廊下から眺める。睨み合う二人を見つめて、クスッと小さく笑いが漏れた。
英太は、よく冗談を口にして、ふざけてばかりいるから、高校生とは思えないほど、子供っぽく見える。明るくて人当たりが良いし、頭の回転が速く、社交に長けた彼だから、僕は何の気兼ねなく一緒にいることが出来る。
でも、ふとした瞬間に見せる大人びた表情や、深い言葉の響きに触れてしまった時、逆の意味で僕は彼のことを高校生だとは思えなくなってしまう。僕はその度に、僕の知っている英太を見失ってしまう。彼が誰なのか、解らなくなってしまいそうになる。
広小路先生が何か小声で言った瞬間、中庭に生える木が風で大きくざわめいて、呟きを掻き消してしまった。いつのまにか、空から青色が消え去っており、重苦しい雨雲が空全体を覆っていた。
しん、と突然降りてきた静寂の中、口を噤み佇む英太は、遥か遠くの世界の人みたいで、僕は置いてきぼりをくらった気持ちになる。言いたい言葉が、ほろほろと心の中で崩れていく。胸の奥が、ぎゅっと絞めつけられてしまうような寂しさを感じた。
行かないで、とわがままを言いたくなる。どこへ、というのは、僕自身よく解らないのだが、ただ僕の右手が彼を引きとめたいと思ってしまう。ずっとずっと傍にいて、と願ってしまう。それは、叶わない事だと知っているのに。
肩にかけた鞄の紐を握る手のひらに、自然と力がこもる。そんな時、広小路先生と視線が合ってしまい、彼の表情を見る間もなく急いで目をそらせた。開いた扉を閉めようと取っ手に指をかける。
「ほら久屋、早く終わらせて欲しいんだろ? そんな所に突っ立ってないで、さっさと始めるぞ」
広小路先生が英太の成績表を机に並べながら、言葉で静寂を薄めた。それを合図にして、教室の中の時が、動きを取り戻す。英太が気の抜けたような返事を返して、頭を軽く掻いた。その姿を見つめながら、広小路先生の細い指がパラパラと紙を捲る音が教室に響いた。
誰もいない廊下に立ち、僕は引き手に添えた指先へと力を加えた。立て付けが悪いのだろうか、扉とレールの間に擦れるような、か細い音が漏れた。
最後に見えたのは、英太の後ろ姿だった。ズボンの後ろポケットから可愛らしいパンダのぬいぐるみストラップがぴょこんと出て、彼の歩くリズムに合わせて揺れていた。「進路も成績も問題ありません! 早く終わりましょう!」と言いながら、椅子を引いて先生と向き合うように座った。それは、僕のよく知っている英太の姿であった。
パンダのストラップを見つけた瞬間、クスッと小さな笑いがもれる。いつだってカッコつけて、僕が焦ってしまうくらい大人びているのに、子供みたいな冗談を飛ばして場の雰囲気をパッと明るくしてくれる英太。そんな彼から、僕はいつだって幸せな笑顔をもらってしまう。完全に閉じられた扉の前で、英太に聞こえないようにクスクスと笑みを零した。
英語の部分だけが異様に凹んだ円グラフの印刷してある成績表を二つ折りにして、鞄に入れる。くるっと右に足を向けて、校舎棟から特別棟に繋がる渡り廊下へと足を進めた。今日も僕は、いつものように図書室の貸出カウンターで、彼の隣に座り、『こゝろ』を読むつもりだ。




