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セツナレンサ  作者: uta
9/20



 ホームに滑り込んだ電車の扉がゆっくりと開いた。忙しなく降りる乗客と共にひんやりとした人工の風が僕の足元へ流れ出す。日が出ている時間帯は、汗ばむほどの陽気で、早い夏の訪れを感じさせた。半袖のTシャツでも着れば良かったと思いながら、チェック柄の七部袖を捲くった。前に立つ老婦人が鞄からハンカチを出して、額に滲む汗を拭った。


 乗客が降りるのを確認してから、クーラーのきき過ぎた車内に足を踏み入れると、汗が一気に冷えていくのを感じた。動き始めた電車の座席に腰をおろし、膝の上にのせた斜めかけのバッグから『こゝろ』を取り出して、栞を挟んだページを開く。父親の本棚の隅に置いてあったものを、この前貰い受けた。ちょうど僕と同じ歳の頃、買ったというそれは、何度も読み返され、柔らかに黄ばんだ文庫だった。


 今から、僕は英太の恋愛相談に出かける。待ち合わせ場所は、学校の最寄り駅の改札前だ。恋愛経験がゼロに等しい僕に、彼は一体どんな答えを求めて相談してきたのだろうか。それでも、僕に悩みを話すことで、彼の重荷が僅かでも軽くなれば良いと思った。


 心の奥底に押し込んだ想いが、ふとしたきっかけに僕をかき乱すことがある。対処の方法が解らずに戸惑うだけの僕は、零れ落ちる感情を両の手のひらで掬おうとする。しかし、指の隙間から想いの欠片はボロボロと落ちてしまい、立ち尽くすことしか出来なくなる。零れ落ちる欠片に反して、手のひらいっぱいの想いは一向に減る様子を見せない。むしろ、膨れ上がるようにして増えていってしまう。


 そんな時に差し出されたが英太の手のひらだった。彼の優しさに寄りかかって、そのまま甘えてしまいたいと思った。誰にも解ってもらえない孤独を、自分一人で抱えなくても良いのだと、心を許してしまいそうになる。


 それでも、彼の幸せそうな笑みに照らし出された瞬間、その想いが単なる甘い逃げだと気付き、口を噤んでしまう。彼の輝くような笑顔を翳らせたくなかった。僕は、矛盾を抱えてばかりだ。


 親友相手に対して抱くのには、少し行き過ぎた感情なのかもしれない。でも、こんなのは恋じゃない。もし、これを恋だと言い切ってしまうのなら、すばるさんと同じ事をしているだけだ。自分の傷を相手に擦り付けて、悲劇の主人公を気取ろうとする。そんなのはごめんだ。英太は優しいから、きっと僕のわがままを許してくれるだろう。そして、酷く傷付いてしまうに違いない。


 今まで英太は何も訊いてこなかった。僕がいきなり泣き出しても、表情を強張らしても、何事もなかったような顔をして、僕の表情から笑顔を引き出してくれる。


 いつだって傍にいてくれて、たくさん迷惑をかけてしまったから、これ以上困らせるような真似をしたくない。大切な人だから、失望されて、嫌われたくない。どんなつらいことが起きても、押し潰れそうな重荷を背負っても、ちゃんと自分一人の力で立てるようになりたい。一方的に僕が寄りかかって、彼に護られるのではなく、対等でいたい。そして、英太にずっと傍にいて欲しい。この願いは、わがままなのだろうか。


「次は東桜学園前ー、東桜学園前ー」


 車内アナウンスが流れると、僕は本を閉じて鞄の中にしまった。捲くった袖を戻しながら立ちあがって、出入口の前に立つと、見なれた風景が窓の外に広がっていた。雲一つない青空が、天高くそびえ立つビル群に隠されてしまっている。ホームに立つ一人一人の顔が解るほどの速度になり電車が止まった。


 頑張って英太の相談にのらなきゃいけないと思う。恋愛経験なんて、殆どゼロに等しいから、全然役に立たないかもしれないけど、話を聞く位なら僕にでも出来る。彼が幸せになってくれたら、僕も嬉しい。


 ずるずると諦めのつかない恋心に苦しむ僕を励ましてくれた英太。彼の恋心が、真っ直ぐその相手に届けばいいと思う。きっと、その人も英太を好きになってくれるだろう。彼の良い所を挙げろと言われたら、彼の未来に出来るだろう恋人は別にして、僕は誰にも負けない。






 駅のホームに降り立った瞬間、シャツの胸ポケットに入れたケータイがメールを受信した。腕にはめた時計を見ると、待ち合わせの時刻の十時ちょうどだった。ケータイを開くと、送信者はやはり『久屋英太』。メールの送り主である彼は、きっと十分前から駅の改札の前で待っているだろう。


 初めて待ち合わせした時なんて、その時刻になった瞬間に「遅い!」と電話が来たが、最近は僕のペースを理解してくれたらしく、だいぶ気持ちを抑えて催促のメールをするだけにしてくれる。相変わらずな文面に目を通して、畳んだケータイをポケットに戻す。苦笑を浮かべながら歩調を速めた。


 階段を降りながら定期を鞄から取り出す。改札前の太い柱に背を預ける英太の姿を見つけた。黒いポロシャツの上に、モノトーンのアーガイル柄が施されたサマーニットのベストを着ており、黒の中折れハットを頭に被っている。裾をロールアップしたデニムをはいた足の片方に重心をかけて、そわそわしている彼が、主人を待つ健気な忠犬のようだと、遠くから見ている僕は思わずクスッと笑みをもらす。


 そんな姿が見たいから、ちょっとだけ遅れてくることを、彼には内緒にしてある。誰でもない、英太が僕を待っていてくれているということが、なぜだかとても嬉しく感じられた。


 改札から降車客の一団が吐き出され始めるのに気付いて、英太はもたれている柱から身体を離して、キョロキョロと周囲を眺め回していた。そんな彼を知らないふりして、何気ない表情で改札を通ろうと歩いていたが、すぐに見つかってしまう。こちらを確認できた瞬間、まだ改札を通ってないのに、英太が駆け寄ってきた。


「遅いぞ!」


「ごめんごめん」


 笑いながら改札に定期を通して、彼の詰問をかわす。うっかり掴まってしまうと、後が厄介だ。先手必勝と言わんばかりに、仏頂面の彼の手を掴んで、足早に歩き出そうとする。要は、彼の長い説教が始まる前に、上手く話題をくるっと転換させてしまえば良いのだ。それが、幾度にも渡る遅刻で、僕が学んだ対処法である。


「早く行こうよ。君とは、もっと楽しいことがしたい」


「え……?」


 英太の表情から渋面から抜け落ちて、鳩が豆鉄砲をくらったような驚きの色に変わった。その場で固まる英太の腕を引っ張ろうとしても僕の力では動かないので、僕も英太と一緒に改札の前で立ち止まることになった。


 改札を抜ける人々の不思議そうな視線が、僕らの上を通り過ぎて行く。休日の昼間に、相当間抜けな表情をした高校生男子が、駅の改札前で手を繋いで見つめ合っているなんて、見たいと思っても早々拝める光景ではないだろう。もはやコントの世界である。知らないおばさんの軽やかな笑い声が、クスクスと後ろから聞こえた。


「た、楽しいこと、って……?」


「それは、い、今から、色んな所行くって!」


 握り返される英太の手のひらは熱かった。その熱が伝わってきて、僕まで妙に恥ずかしくなり、なぜだか顔が火照った。回らない舌に言葉をうまく紡ぐことが出来ず、僕は俯いてしまった。


「あっ……そ、そうだなっ! さっさと行こうぜ!」


 握られた手のひらに力が入ったと思ったら、突然、英太の方へと引き寄せられて、その弾みで僕はこけそうになる。いや、自分の絶望的な反射神経と運動神経をもってすれば、コント並みに派手に扱けてしまうのは必至だった。


 これ以上、公衆の面前で醜態を晒すのか、と余りの情けなさに絶望して、目尻に涙が滲む。ぶつかる痛みを想定しつつ、身体に力を入れて瞳をぎゅっと瞑ったが、予想していた衝撃はなかった。


「あれ……」


 きつく瞑った瞼をそっと開けると、顔面を強かに打ちつける予定だったコンクリートの地面は、予想以上に遠くにあった。現状を把握出来ないまま、大きく瞬きをしていると、頭の真上から英太の声が聞こえた。


「あっぶね! 優、大丈夫かっ?」


 英太の手が咄嗟に僕の肩を引き寄せてくれたおかげで、彼の胸に飛び込むような形で受け止められて無様な姿を人前で晒さずに済んだ。


 緊張で強張ったまま身体のまま、僕は安堵の溜息をひとつついた。こめかみの辺りで、鼓動がドクドクとうるさいくらいに脈打っている。ぶつかるはずだったコンクリートに視線を落とす。先程の恐怖を思い出して、英太のベストを力なく握りながら、口内にたまった唾をごくりと飲み込んだ。


「ど……どっ、どー……にかっ」


 上手く回らない舌を動かしながら、力なく親指を立てて英太に合図した。ホッと英太が緊張を解いたのが、密着した身体から直に伝わる。英太の腕が背に回ると、身長の低い僕はすっぽりと全身を包まれた。


 彼の心臓の位置に、ちょうど僕の手のひらがそっと触れている状態だ。服越しに伝わってきた彼の鼓動は、僕のそれよりも早い気がした。思わず彼の服を握った手のひらに視線をやると、自分の手のひらが震えていることに気付いた。こんなことで動揺している自分が恥ずかしくて、ごまかすように握った手へ力をこめた。


「え……英太の、心臓……すっごい、どきどきしてる……」


 思ったことをそのまま言葉にして、ぽつりと呟いた。顔を上げられずに俯いていると、英太の息を飲む音が頭上から聞こえてくる。


「――優」


 僕を抱きしめる腕に力を込めて、彼は大きく息を吸い込んだ。伝わってくる緊張感に、思わず僕も身体を硬くする。ちょうど電車が着いたようで、ホームの方から駅員のアナウンスと、発車を知らせるメロディが聞こえてきた。僕がさっき抜けてきた改札を、スーツを着たサラリーマンが足早に駆け抜けていく。


「俺さ……」


「――あらあら、優ちゃん、偶然ね?」


 突然、英太の声に被さるようにして聞こえてきた透明感のあるハスキーボイスに、口を開きかけた彼の身体が、ビクッと反応した。視線だけを英太の方にやると、口元が強張った引きつり笑いを浮かべて固まっていた。力の緩んだ英太の腕から身体を離して、声の主の方に視線をやる。


「あっ、酉さん! お久しぶりです!」


 長い黒髪をアップにして、白いドレスシャツに細身の黒いパンツを身に纏った酉さんに声をかけると、彼女は綺麗な微笑みを返してくれた。


 世界を舞台に活躍する女性ピアニストの伏見酉子さんは、英太のピアノの先生である。英太に「酉子先生は、鬼だ、鬼」と言わせる程の厳しいレッスンをしているらしいが、教え子には彼女同様、ピアノの世界の第一線で活躍する人が少なくない。


 カツカツとヒールを響かせながら、背筋を綺麗に伸ばして真っ直ぐに歩いてきた酉さんは、僕の頭をぽんぽんと優しく撫ぜて、申し訳なさそうな笑みを浮かべて言った。ヒールを履いた分を差し引いても、彼女は僕より身長が高く、立ち居振舞いもスマートで格好良い。


「ごめんねー、優ちゃん。うちの英太が」


「とーりーこーせんせー! 何で、こんな時に? 最悪のタイミングじゃないですか! 

『偶然ね』なーんて、白々し過ぎますよ! 散々、着拒しといて!」


 僕の頭に乗せられた酉さんの手のひらをはたいて、英太は僕と彼女の間を割るようにして会話に入ってきた。その瞬間、酉さんの眉間の皺がぎゅっと寄るのが見えた。細長い指で英太の帽子のつばを摘み、「アナタ、邪魔よ」とにこやかな表情を浮かべながら、目元が隠れる程に力いっぱいずらして、英太に負けず劣らずの大声を彼の耳元に注ぎ込んだ。


「英太は黙ってなさいっ! ……で、優ちゃん。お手伝いありがとうね」


「へ……?」


 突然のことに、僕と英太の言葉が重なった。完璧な化粧が施された年齢不祥の笑みを浮かべた酉さんは、右手を頬に当てながら、ゆったりと口にした。


「今日はね、大学の元教え子がやってるカフェで私のプチコンサートするのよ。で、ちょっと人手が足らなさそうだったから、英太に手伝いをお願いしたの」


「いつ……俺が、それを……受けたんですか……」


 酉さんの大声にやられた英太が、帽子を直しながら、引きつった笑顔で問い掛けた。それに間髪入れず、酉さんが返す。


「今」


「い、ま……今って! 俺、断ったはずです! しかも、俺ら喧嘩中のはずですよ! 連絡取れなくなったのは、どこの誰ですか?」


「だって、私、英太みたいにガキじゃないの、大人なの。時と場合に応じて、過ぎたことは綺麗さっぱり水に流せるわよ。ふふーん、そっちが意地張るなら言っちゃうわよ~。ねぇねぇ、優ちゃん、知ってる? 英太がパンダのストラップつけてる理由。英太って今日ねぇー、優ちゃんにぃー、」


「……喜んで、お引き受け致します」


 口にした言葉とは正反対に心底嫌そうな表情を浮かべながら、苦虫を噛み潰したように英太は言った。そんな二人のやりとりを横で聞いていて、僕は思わず小さく吹き出してしまい、英太から恨めしげな視線を送られた。力関係がはっきりしている仲の良い姉弟の他愛もない喧嘩みたいだと思った。本人は断固認めないようだが、多分、英太は一生酉さんに頭が上がらないだろう。


 酉さんは、国内外で演奏活動を続けながら、名門といわれる白川音楽大学でもピアノの教鞭をとっている。英太から聞くところによると、恐ろしいほどのスパルタ練習法だが、一方的な押し付けではなく、英太自身が求めている音楽がどういうものかと方向性をしっかりと定めた上で、それに到達するために厳しい練習をするというものらしい。


 ただ酉さんの言ったことを、操り人形のようにするのではなく、その型にはまった弾き方の中でも、自分の音楽を探す努力をしているのだろう。


 ピアノのコンクールに出ることは、あまり好きではないと英太は言う。それでも、コンクール前になると、そこで演奏する曲を口ずさみながら、知らず知らずのうちに指先が机の上で音を奏でている。そんな風にして日々を過ごしていることを、本人は案外気付いていないのかもしれない。


「ごめん、優。せっかくの……」


 諦めた表情を浮かべた英太が溜め息と共に口を開く。その言葉尻を掬い取って、酉さんはにやにやと意地の悪い笑みを抑えずに言った。


「――デートが、おじゃんになって?」


「だーかーらーぁ! 酉子先生っ!」


「いや、あの、僕は大丈夫です。久しぶりに酉さんのピアノ聴きたいし……」


「あら、嬉しいわ。ありがとうね。さぁ、そうと決まれば、優ちゃん、英太なんてほっといて行きましょ。」


 爽やかに香る酉さんの香水に気をとられていた僕は、呆気なく彼女の長い腕に左腕を絡め取られしまい、そのまま引きずられるように歩くことになった。僕の空いている方の腕を、英太が横から勢いよく掴む。その瞬間、酉さんのルージュに彩られた艶やかな唇の端が、上がるのが見えた。


「俺も、行きますから!」


「うん、よろしい!」


 大きく頷いて、再度、酉さんは僕に腕を絡めたまま歩き出そうとしたが、英太が僕の右手をしっかりと握って、それをくい止めた。


「……で、優に絡めたその太っい腕を離してくれませんか?」


「そっちこそ、その短い腕を離したら?」


「嫌です! 絶対、離しません!」


「じゃあ、私も離さなーい」


 両脇から、当事者である僕をまったく無視した二人の離す離さないという子供っぽいやり取りが聞こえてきて、その声がくわんくわんと耳の中で回り続ける。酉さんの方へ、英太の方へ、順番に引き寄せられる。左右に振られた脳みそが、両耳から溢れ出てきそうだ。


 駅の改札前で、周囲の視線を一切無視した二人の言い争いが僕の頭上で繰り広げられた。結局、僕は護送される犯罪者のように両手をがっちりと捕まえられたまま、通学に使っている出口と逆方向にあるカフェへと向かった。というか、引きずられて連れて行かれた。







 両脇にいる二人の心の中には、他人に注目されて恥ずかしいという感情が抜け落ちているに違いない。あんなに繊細な音色でピアノを演奏する二人の神経は、随分な太さをしていると思われる。しかし、これは国内外数の多くのステージで場数を踏んできたためではなさそうだ。彼等の生まれ持った才能と言うべきだろう。残念ながら、それに恵まれなかった僕は恥ずかしさから終始俯いたままだった。


 休日の開放感に浮き足立ち、初夏の眩しい日差しを受けて、思い思いに連れ立って歩く人々。そんな彼等の好奇な視線と笑い声が僕の肌に突き刺さってきて、俯いた顔を上げられなくなってしまった。歩道を三人並んで歩いているのに、周囲の人が混み合った道を開けてくれたため、僕等は真っ直ぐに歩くことが出来た。


 両脇の二人はまだ、僕の腕を離す離さないの議論を盛大に繰り広げている。音楽をやっているのに、きっと二人共、聴力が絶望的な悪さであるに違いない。しばらくそんな体勢で引きずられながら、人で溢れた大通りを歩いた。横の車道を引っ切りなしに排気ガスを撒き散らしながら、車が流れていった。




 突然、酉さんが進行方向を左に向けて、くいっと角を曲がった。遠心力で英太の歩調が僅かに乱れるのを感じたが、僕の手を握る手の強さは変わらなかった。


 脇の道に入った瞬間、排気ガスで澱んだ空気が一掃されて、黄緑色の風が僕の頬を撫でて行くのを感じた。俯いたままだった顔を上げると、初夏の木漏れ日が瞳に飛び込んできて、まぶしさから思わず目を細めた。


 歩道に生茂ったマロニエの木が、緑のトンネルのようになっていた。道を一本曲がっただけなのに、人で塗れた休日の喧騒が遠ざかる。初夏の爽やかな風を受けて、緑陰がさわさわと内緒話するように揺れ動いた。所々に薄紅色の花がこんもりと咲いている。


 そっと優しい風が僕等の間を通り抜けた。その瞬間、頭上で散々繰り広げられてきた二人の言い争いがピタリと止んだ。僕の腕を掴む力が緩み、やっと二人の拘束から抜け出ることが出来た。


 若葉を揺らす風の音に誘われて、マロニエの緑樹の下に立ち、空を見上げる。透き通るくらい柔らかな黄緑の葉を通して、太陽の白い光が木々の間を泳いでいる。風が吹くたびに、次々と新しい模様を描く木漏れ日が、コンクリートで固められた地面に立つ僕のもとへと届けられる。


「あれが、お店なの。看板ないと気付かなそうでしょ?」


 酉さんの言葉に誘われて、視線を右側に向ける。赤茶けたレンガを積み重ねた塀には、あたたかみのある筆文字で『こゝろ屋』と書かれた木製の看板がかけられていた。手入れされた花木に囲まれた赤焼きのレンガの歩道が、入り口から「昭和の香りを残す」という言葉が似合いそうな古い木造アパートにまで続いている。数年前に行われた駅前の再開発事業から逃れられた遺産のひとつだろう。


「築何十年にもなる空き家を改築してカフェにしたの。一階がカフェで、二階が住居スペースみたい。店の名前の由来は、高校生の二人なら解るでしょ? ここの店主が私の教え子として音大出た後に、また大学に入り直して勉強した分野なのよ」


 敷地の中に一歩足を踏み入れると、そこが都心の中心から、さほど遠くない位置にあることを忘れさせてしまう程の静けさに包み込こまれた。餌を啄ばんでいた雀が数羽、軽やかな鳴き声を残して、ビルに埋もれた青空へと飛び去って行く。


「伏見先生! おひさしぶりですー!」


 カラン。涼やかなベルを鳴らして、色ガラスの嵌められた木製の扉が勢い良く開かれた。白シャツに黒いデニムのパンツという動きやすそうな格好の上に、長いカフェエプロンをつけた小柄の女性が飛び出してきて、酉さんの両手をしっかり握り、力いっぱいのハグをした。その女性は、東山楽器店のオーナーの奥さんである夢さんだった。


「英太君と優ちゃんも来てくれたの? 嬉しいなぁ」


 帽子を脱いで手のひらを差し出した英太と握手をした後、僕の方をじっと見つめ、満面の笑みで僕の右手を掴み握手した。ボブに切り揃えられた茶色の髪が、彼女が動くのに合わせてさらさらと揺れる。身長は僕より少し低いくらいだが、包み込むような手のひらは、想像以上にたっぷりとしたものだった。


「そうそう、優君はこの店で会うの初めてだったね。改めまして、こゝろ屋店主をしています、東山夢です。宜しくね」


「あっ、はい、昨日ご馳走になったパウンドケーキ、美味しかったです」


「いえいえ、美味しく食べてもらえて何よりです。さぁて、準備しなきゃ。せっかくのお休みに、手伝いに来てくれてありがとう!」


 眩しい夢さんの笑顔に招き入れられて店内へと入った瞬間、思わず足が止まった。


 簾が掛けられた大きな窓の隙間から、長い年月を経た深みを持つ木の床へと、木漏れ日がきらきらと映り込んでいる。吹き抜けになっている高い天井からは、夜空に浮かぶ星の輝きを模した橙の明かりが吊り下げられており、あたたかみのある光で店内を照らしていた。店の隅には、丁寧に磨かれたアップライトのピアノがあり、観客を待ち侘びる木製のテーブルと椅子には使いこまれてきた歳月の落ち着きが漂っていた。


「時間の流れが……違う……」


 僕が今まで足を踏み入れたカフェとこゝろ屋は、まったく違うものであった。


 店を選ぶのが下手というのもあるのだろうが、僕にとって、カフェとは行っても落ち着かない場所であるのが常であった。営業スマイルを顔に張り付けて、流れ作業の注文をこなす店員と、空虚な時を埋めるため、ひたすら言葉を連ね、手元にあるケータイや読み物しか見てない人が、カフェという空間に流れる時間をくるくると足早に回して、街中と同等の速度にしていた。


 この場所は、しっかりとした時間の流れを感じる空間だ。踊るような木漏れ日の色彩や、初夏の緑樹を揺らす風の囁きが、そんなに急いで考えることも、何かに追われて足早に歩く必要はないと、優しく諭してくれる。


「ほっと、しますね。お店の中にいると」


「ほんと? そう言ってもらえて良かった。そういう店が、私、ずっと欲しかったから」


 羽根が舞い上がるような微笑みを、ふわりと浮かべて夢さんは言った。


 こゝろ屋は、夢さんをそのまま空間にしてしまった店だと思えた。彼女が笑った瞬間、僕が感じ取れたもの。それは、あたたかくて、優しくて、強い、僕がまだ手にしていない輝きだった。


「また今度、一緒に来るか?」


 隣に立つ英太が僕に訊いた。僕は彼の方をパッと振り向いて、笑顔で大きく頷いた。




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