第三十二話
結愛side
昼過ぎ。
私は旦那様のために、夕食の材料を買いに外へ出ていた。
(……今日は、旦那様は真理様とご一緒)
胸の奥で、未定義感情タグが微かに点滅する。
(……大丈夫です。任務に支障はありません)
そう自分に言い聞かせながら歩いていると──
「……あれ? 結愛ちゃん?」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、優しい中世的な顔立ちの男性が立っていた。
「誰でしょうか?」
「いやいやいや! 旦那様の後輩の顔忘れないでよ!?僕、会社の後輩で宮坂って名前だけど!?」
焦ったように続ける宮坂様、私はデータ内の情報を探るとヒットするものが見つかった。
「申し訳ありません。データとしてありましたが……顔が浮かびませんでした」
「辛辣だね……まぁ、僕はそういうキャラか……」
宮坂様は肩をすくめて笑った。
「で、どうしたの? 買い物?」
「はい。旦那様のための食材を」
「へぇ……仲良しだねぇ。昨日も水族館でめっちゃ楽しそうだったし」
私の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……っ」
宮坂様はその反応を見逃さない。
意外と鋭い方だなと、認識を改める。
「AIアンドロイドなのに、そんな顔もするんだなぁって思ってさ」
「宮坂様は……何を仰りたいのでしょうか?」
「いやね、老婆心ってやつ。先輩とどうなりたいか、ちゃんと考えておいた方がいいよって話」
私は一瞬フリーズする。
旦那様とどうなりたいか……どうあって欲しいかなら理解できる。
でもどうなりたいか、それはとても難しい話に思えた。
「宮坂様は……もっと“ちゃらんぽらん”な方だとインプットされておりますが」
「それはそれ、これはこれ。僕もさ、ちょっとは入っとかないと。大変なことになりそうだし……もう二人のバイオレンスに巻き込まれるのは勘弁だから……」
「宮坂様も……大変なのですね」
「そうだよ。だからさ、結愛ちゃんも僕のこと癒してよ。夜もオッケーだよ!」
先ほどとは違い、何も考えていない。
一般的な成人男性、そんな風に見える態度を取る。
この人は何を考えているのか、私でもさっぱり分からなかった。
「宮坂様はご奉仕担当ではありませんので」
「いや、ガチで拒絶されると胸に来るんですが!?」
私は無表情で見つめる。
「……」
「いや、汚い物見る目で見ないで!?僕、傷つくから!」
私はふっと微笑む、この方はこういうお方なのだと認識した。
「ふふっ……面白いお方ですね」
宮坂様はその笑顔を見て、少しだけ安心したように息をついた。
「……そうやって柔らかく笑えるなら大丈夫そうだね。ま、大変な二人に付き合わされてるけど……頑張ってよ」
「はい。結愛は……頑張ります」
「じゃ、またね」
「はい。また」
宮坂様が去っていく。
結愛はしばらくその背中を見つめていた。
(……透真様と、どうなりたいか)
胸の奥で、未定義感情タグがまた点滅する。
(……わたしは……)
しばらく立ち止まっていた。
買い物袋を持つ手に、わずかな力の偏り。
(……旦那様と、どうなりたいか)
宮坂様の言葉が、内部メモリの表層に浮かび続けている。
──タグ:未定義感情
──タグ:胸部圧迫感(※物理的異常なし)
──タグ:思考ループ
(……私は、どうなりたいのでしょう)
歩き出そうとした瞬間、処理速度が一瞬だけ低下した。
──原因:宮坂様の発言による感情モデルの乱れ
──推定:透真様に関する情報刺激
(昨日……透真様と結愛は“ホテル”に行きました)
その記録が再生される。
──透真様の濡れたシャツ
──タオルで拭いた手の感触
──「ありがとう」と言われた時の幸福タグの発火
(……あれは任務でした。任務のはず、です)
しかし、宮坂様の言葉が内部で反響する。
──「先輩とどうなりたいか、考えておいた方がいいよ」
(どう……なりたい?)
AIに“なりたい未来”は存在しない。
プログラムされた目的しかない。
なのに──
胸の奥で、またタグが点滅する。
──タグ:ざわつき
──タグ:幸福
──タグ:不安
──タグ:未定義感情(強)
(透真様が……真理様と楽しそうだった)
宮坂の言葉が、再び内部に刺さる。
──「昨日水族館で凄く楽しそうだったけど?」
(……結愛は、嬉しい?それとも……悲しい?)
答えが出ない。
AIには“悲しい”の定義が曖昧だ。
でも、胸の奥の圧迫感は確かに存在した。
(透真様……)
結愛は買い物袋を抱え直し、ゆっくりと歩き出した。
歩行速度は通常より0.8%低下。
視線の揺れ、0.4度増加。
(……結愛は、どうすればいいのでしょう)
その問いは、内部ログの深層に沈んでいった。
ーー
家の前に辿り着いて、玄関のカギを開けようとした。
その時──
足音。
私は振り返る。
そこに立っていたのは──
真理様だった。
息を切らし、目はまっすぐ結愛を見ている。
「……結愛……話があるの、私の事分かるわよね?」
内部ログが一気に乱れる。
──タグ:緊張(強)
──タグ:警戒
──タグ:未定義感情(最大値)
「……真理様、旦那様の彼女であり、大切なお方と認識しております」
結愛はゆっくりと買い物袋を下ろした。
「その通りね、さすがYUA SYNC社の高性能AIね」
その言葉にはどこか棘があった。
でも私には痛みもなければ戸惑いもない。
「……はい。結愛も真理様に、お話があります」
私と真理様の視線が重なる。
私も知りたい、この感情が何なのか、きっと自分の中で調べれば分かる。
でも、その答えを信じていいものなのか、私には分からなかった。




