第三十一話
透真side
大きなペンギンエリアに着くと、真理の表情がふっと柔らかくなった。
「真理、ペンギン好きだよね」
「だって可愛いじゃない?」
「まぁ、そりゃな」
ガラスの向こうでは、ペンギンたちがそれぞれ違う方向を向いて、まるで“棒立ちの会議”みたいに並んでいる。
真理が首を傾げた。
「なんでみんな棒立ちなんだろうね?いろんな方向見て……海に帰りたいのかな?」
「餌の時間の待機モードとか、みんなで警戒し合ってるんだよ」
真理が驚いたようにこちらを見る。
「詳しいね、ペンギン」
「ま、まぁな」
「誰かに教えてもらったの?」
「い、いや……気になって調べただけだよ」
真理は一瞬だけ目を細めて、小さく笑った。
「そうなんだ……」
その声は優しい。
でも、どこか奥に“かすかな影”があった。
俺は気づかないフリをする。
昨日、結愛に教えてもらった知識だなんて
言えるはずもない。
「写真撮ろうよ」
「そうだな」
そう言って二人で写真を撮る。
真理が笑ってくれたことだけが嬉しかった。
二人で並んでペンギンを眺める。
その距離は近くて、でもどこかぎこちなくて、それでも──
確かに“二人の時間”だった。
ーー
イルカショーのアナウンスが流れて、真理と一緒に会場へ向かった。
通路は人でいっぱいで、何度か押されそうになる。
そのたびに、俺は真理の手を軽く引いて前に出た。
「こっち。人多いから気をつけて」
「……ありがと」
真理が小さく笑う。
その笑顔に胸が少し温かくなる。
会場に着くと、前の方の席が空いていた。
でも──
俺はそっちには向かわなかった。
(……昨日、結愛と前の席で思いっきり濡れたんだよな)
結愛は平然としてたけど、俺はシャツまでびしょ濡れになって、結愛にタオルで拭かれた。
あれは……正直、恥ずかしかった。
(真理が濡れたら困るし……寒くなったらもっと困る)
だから、あえて少し後ろの、水しぶきが届かない位置を選んだ。
「ここ、座ろう」
「え? 前じゃなくて?」
「前は……濡れるからさ。真理、寒くなるとすぐ体調崩すだろ?」
真理が一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
「……覚えてたんだ」
「まぁ、そりゃな」
真理はふっと微笑んで、隣に座った。
肩が少し触れる距離。
でもその距離が、なんだか心地よかった。
イルカが跳ねる音が響く。
「透真、見て! あれすごい!」
「おぉ……あんなに飛ぶんだな」
真理は夢中でスマホを構えている。
その横顔を見て、胸のざわつきが少しだけ消えた。
(……昨日のこと、ちゃんと学んで良かった)
真理が笑ってくれるなら、それだけで十分だった。
ーー
真理side
館内をひと通り回って、出口近くのベンチに腰を下ろした。
自販機で買ったお茶の温かさが、少しだけ指先に戻ってくる。
「結構回ったね」
私は言いながらお茶を飲む。
透真も同じように、ペットボトルを口に運びながら苦笑した。
「そうだね。結構クタクタだ」
「仕事の外回りで鍛えた足は?」
「それとこれとは別だ」
「ふふっ、そうだよね」
軽口を叩き合うこの感じが、昔みたいで少し嬉しかった。
でも──胸の奥のざわつきは、まだ消えない。
「でもさ……透真、なんかここ久々なのに詳しくない?」
「なんで?」
透真の持ってるペットボトルがぺきっと音がして、少し変形した気がした。
「いや、なんとなくね。順路とか、ほぼ一直線だったし」
「順路って書いてあるしな」
「魚とかの説明も博士級だったし」
「言い過ぎだって……」
「そうかなぁ?」
透真は少し歪んだペットボトルのお茶を飲みながら、どこか落ち着かないように視線を逸らした。
(……やっぱり、何かある)
昨日の光景が、また胸の奥でざわつく。
──結愛ちゃんと並んで歩いていた姿。
──透真の自然な横顔。
──二人の距離。
(……透真、昨日……ここに来たんだよね)
言葉に出す勇気はない。
出したら壊れてしまいそうで。
だから、ほんの少しだけ探るように言った。
「真理、なんか言いたいことあるの?」
透真は不安そうにこちらを見る。
私は言わない、言えない。
「……別にないよ」
「そっか」
「そうだよ」
笑ってみせる。
でも胸の奥は、まだ少しだけ痛かった。
ーー
「さっきのラーメン、美味しかったね」
外に出た瞬間、透真が満足そうに言った。
「うん。ああいうシンプルなの、好き」
風が少し強くて、食後の温かさがちょうどよかった。
「でもさ、透真……あれ絶対替え玉いけたでしょ」
「いや、今日は控えめにしたんだよ」
「なんで?」
「真理が食べてるところ見てたかったから」
「……いきなり変な事言わないでもらっていい?」
透真は柄にもない事を言ったみたいに照れ笑い。
私も恥ずかしくて視線を逸らした。
「別に普通だろ」
「普通じゃないよ」
歩きながら、さっきの水族館のことを思い出す。
順路を迷わず進んだ透真。
魚の説明が妙に詳しかった透真。
濡れない席を自然に選んだ透真。
(……やっぱり、なんか変)
でも、それを言葉にする勇気はまだない。
だから、軽く笑ってごまかした。
「ねぇ透真。午後どうする?」
「んー……真理が行きたいとこでいいよ」
「そう言うと思った」
「だって真理、今日楽しそうだし」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。
(……透真といると、やっぱり安心する)
でも同時に、昨日の光景が胸の奥でまだざわついていた。
少し歩いたところで、真理は立ち止まった。
「透真……」
「ん?」
「……このあと、さ。ちょっと……休めるところ、行かない?」
透真が一瞬だけ固まる。
私は無理に笑ってみせた。
震えそうになる声を押し殺して。
「別に変な意味じゃなくて……ほら、歩き疲れたし。ゆっくり話せる場所、あったらいいなって」
(本当は”変な意味”がある。でも、それを言う勇気はない)
透真は少し迷って、それから頷いた。
「……分かった。行こう」
近くにあるホテル、別に決めていたわけじゃない。
完全に勢いだけ、透真が答えてくれたのだって、きっと私の様子を見てそう思ってくれただけ、でも――。
「入るよ……」
「そんな改まらなくても……」
透真は何も知らない、だから今までと同じ、こういう事は何度もあった。
だからなんとも思っていないのだろう。
建物に入った瞬間、空気が変わった気がした。
静かだった。
さっきまで聞こえていた車の音も、エレベーターの電子音も、ドアが閉まった途端、全部遠くなる。
部屋に入る、大きなベッド、間接照明、整いすぎた空間。
「……シャワー、先使っていいよ」
「ああ、分かった」
透真が浴室へ向かう。
扉が閉まって、少しして水音が響き始めた。
その瞬間、真理は深く息を吐いた。
「はぁ……、普通に居酒屋でもよかったじゃない、私のバカ……」
後悔しても遅い、ベッドへ腰を下ろす。
柔らかすぎる感触が、逆に落ち着かなかった。
(……やだな)
胸の奥が重い。
でも、逃げたくなかった。
知らないまま、笑っていたくなかった。
(……でも)
水音が止まる。
少しして、透真が戻ってきた。
濡れた髪、少し赤い首元。
それだけで、妙に距離を意識してしまう。
「あ、ごめん。長かった?」
「……ううん」
透真もどこか落ち着かない様子で、ベッドの端に腰を下ろす。
微妙な距離が空く、近いのに、遠い……そして沈黙が落ちた。
テレビもつけていない部屋は、呼吸の音だけが妙に響く。
「透真」
「ん?」
「……こっち向いて」
透真がゆっくり振り向く。
私は震えそうになる指をぎゅっと握った。
引き返すなら今だった。
でも、ここで逃げたら、きっとずっと後悔する。
私はそっと透真の服を掴んだ。
「ちゃんと知りたい」
透真の表情が揺れた。
「い、いきなりなんだよ?真理も風呂――」
「透真が、誰を見てるのか」
その言葉に、透真の呼吸が止まる。
私はゆっくり目を閉じた。
透真も、ゆっくり近付いてくる。
唇が触れる直前。
透真の肩から、ふっと力が抜けた。
「……ごめん」
かすれた声。
「俺……今、できない」
真理の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「……結愛のせい?」
透真が息を呑む。
その反応が、何より苦しかった。
「昨日……見たんだよ」
透真が動けなくなる。
「透真と結愛。水族館、入っていくところ」
沈黙。
時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえた。
「……そっか」
否定も弁明もない、誤魔化しもしない。
私はゆっくり立ち上がる。
「今日ずっと楽しかったよ。優しかったし、安心したし……」
そこで言葉が詰まる。
「だから余計に、苦しかった」
透真の表情が歪む。
きっとその時の私は泣きそうな、壊れそうな笑顔だっただろう。
だから、このままで終わらせる訳にはいかなかった。
「ねぇ透真。私、結愛に会いに行く」
「え……」
「ちゃんと聞きたい。逃げたまま、終わりたくないから」
透真は何も言えない、言わない。
私はバッグを掴む。
ドアノブに手をかけて、少しだけ止まった。
「……透真も、逃げないでね」
透真の目を見てしっかりと伝える。
もしかしたらこれで全てが終わるかもしれない、でも始まるかもしれない。
だから私は逃げない。誰も逃がさない。




