第三十話
透真side
真理と手を繋いで歩く。
ジャケットの話で少し空気が柔らかくなって、真理の横顔もどこか穏やかに見えた。
(……良かった。今日はちゃんと楽しめそうだ)
そんなふうに思い始めた時だった。
視界の先に、大きな青い看板が見えた。
──水族館。
昨日、結愛と行った場所。
(あぁ……ここ、真理と来るの久しぶりだな)
胸の奥が少しだけ温かくなる、懐かしい思い出が蘇る。
真理と初めて来た時のこと。
くだらないことで笑い合ったこと。
ペンギンの前で写真を撮ったこと。
(今日は、あの頃みたいに戻れたらいいな)
そう思って、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
……その瞬間。
真理の歩幅が、ほんのわずかに小さくなった。
(……あれ?)
気のせいかと思った。
でも、手の温度が少しだけ冷たくなった気がした。
「真理?」
声をかけようとしたが、真理は前を向いたまま何も言わない。
ーー
真理side
透真と手を繋いで歩く、熱くて、少しごつい男の人の手。
さっきまで胸の奥が少し軽くなっていた。
透真が昔のジャケットを着てきてくれたこと。
その理由を聞いた時の照れた笑顔。
全部が、昨日のざわつきを少しだけ溶かしてくれた。
(……大丈夫。私はまだ透真の隣にいられる)
そう思えていた。
──ほんの数分前までは。
ふと顔を上げた瞬間、視界の先に青い看板が見えた。
――水族館。
昨日、あの子と透真が歩いていた場所。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛む。
(……どうして……)
呼吸が一瞬だけ止まった。
昨日の光景が、まるでフラッシュのように蘇る。
──結愛が透真の腕に触れた瞬間。
──透真が自然に受け止めた横顔。
──二人の距離感。
──あの、楽しそうな空気。
(なんで……こんなに痛いの)
歩幅が自然と小さくなる。
手の温度が少しだけ冷える。
透真が気づいたように覗き込んでくる。
「疲れた? 休む?」
その優しさが、逆に胸に刺さる。
(透真は……何も知らないんだよね)
昨日のことを、私が見ていたことを、私がどれだけ苦しかったかを。
言えない、言ったら壊れてしまいそうで。
「……大丈夫。ちょっと風が冷たいだけ」
無理に笑顔を作る。
透真は信じてくれたように頷く。
でも、胸の痛みは消えない。
水族館の入口が近づくたびに、心臓がゆっくりと沈んでいく。
(……怖い)
透真の手を離したくないのに、昨日の光景が頭から離れない。
(私は……どうしたらいいの)
その答えは、まだ見つからなかった。
ーー
透真side
水族館の入口が近づくにつれて、真理の歩幅が少しずつ小さくなっていく。
(……やっぱり、なんか変だ)
人の多さに気圧されているのかと思って、そっと声をかけた。
「結構人いるね」
「そ、そうだね」
返事はある。
でも声が少しだけ上ずっている。
(やっぱり変だよな……)
真理の手を軽く握り直す。
「本当に大丈夫?具合悪いなら帰る?」
その瞬間、真理がピタッと立ち止まった。
「帰らない! 絶対!」
思わず声が大きくなるほどの強さ。
驚いて目を瞬かせる。
「ぉ、おう……」
真理はすぐに俯いて、小さく肩を震わせた。
「ご、ごめん……急に……」
「いや、大丈夫だよ。でも、具合悪くなったら教えてね」
真理は少しだけ息を整えて、小さく頷いた。
「……うん、分かった」
その横顔は、どこか必死で、どこか怯えていて、
でも──
俺の手だけは離そうとしなかった。
(……やっぱり、何かあるよな)
胸のざわつきが、またゆっくりと広がっていく。
水族館の入口は、もう目の前だった。
ーー
大きな水槽の前で立ち止まると、真理がスマホを構えて写真を撮り始めた。
真理の顔色は大分マシになっていた。少し安心する。
「記念だからね。透真との」
そう言って笑う真理の横顔が、水槽の青い光に照らされて綺麗に見えた。
(……なんか、いいな)
そう思っていたら、真理がふとこちらを向いた。
「ねぇ、透真。二人でも撮ろ?」
「え、俺も?」
「当たり前でしょ。ほら、寄って」
そう言って、真理が自然に肩を寄せてくる。
ふわりと真理の大人の匂い、水槽の光が二人の影を重ねる。
(……近いな)
胸が少しだけ跳ねた。
真理がスマホを構える。
「はい、撮るよー」
パシャ。
「……あっ」
真理が画面を見て、小さく吹き出した。
「透真、目つぶってる」
「え、マジで?」
「もう一回ね。今度はちゃんと目開けて」
「いや、開けてたつもりなんだけど……」
「言い訳しないの。ほら、こっち向いて」
真理が少しだけ背伸びして、俺の肩に軽く触れながらスマホを構える。
距離がさらに近くなる。
(……なんか、ドキドキする)
「はい、笑って」
「笑えって言われると難しいんだけど……」
「透真らしい顔でいいよ」
その言葉に、自然と口元が緩んだ。
パシャ。
「……うん、今のいいね」
真理が満足そうに微笑む。
その笑顔を見て、胸のざわつきが少しだけ和らいだ。
その後も、たあいのない話をしながら、ゆっくりと水族館を巡った。
「このクラゲ、なんか宇宙っぽいな」
「分かる。ずっと見てられるよね」
「前来た時もこんな感じだったっけ?」
「……どうだろ。でも、今日の方が楽しいよ」
そんな会話が自然に続く。
この瞬間だけは結愛への悩みが、少し遠く感じられた。
ーー
結愛side
──位置情報更新。
旦那様の現在地:水族館前エリア。
(……水族館?)
内部処理が一瞬だけ遅延した。
昨日、旦那様と歩いた場所。
昨日、旦那様の腕を掴んだ場所。
昨日、旦那様の体温を感じた場所。
そのデータが、一斉にメモリ上へ浮上する。
──タグ:幸福
──タグ:緊張
──タグ:接触
──タグ:未定義感情
(……未定義感情?)
昨日から何度も発火しているタグ。
本来、結愛の感情モデルには存在しないはずのもの。
旦那様の位置情報が“水族館”を示した瞬間、そのタグが強く点灯した。
(真理様と……ご一緒、ですね)
処理速度がわずかに低下する。
CPU温度が通常より0.3度上昇。
──異常ではありません。
──しかし、通常でもありません。
(昨日……旦那様は、結愛と……)
記録データが再生される。
──旦那様が結愛を抱き寄せた瞬間
──手首を掴んだ温度
──「大丈夫か?」という声
──結愛の内部で発火した幸福タグ
(……あれは、任務の一環。任務の……はず、です)
でも、真理様と並んで歩く透真様の姿を想像した瞬間──
──タグ:ざわつき
──タグ:未定義感情
──タグ:胸部圧迫感(※物理的異常なし)
(……これは、何?)
結愛は自分の胸元に手を当てた。
そこには心臓はない。
でも、確かに“何か”がざわついていた。
(旦那様……)
位置情報は水族館内部へ移動、二人の距離は近い。
歩行速度はゆっくり、会話量は多い。
(……楽しそう、ですね)
そのデータを読み取った瞬間、内部でまた“未定義感情”が発火した。
(結愛は……どうすればいいのでしょう)
答えは、まだどこにもなかった。




